石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

愛の言葉

2017-03-29 18:17:53 | Weblog



 愛する人を亡くされた方や、病気を抱えて居られる方に向かって「真の神を信じないと滅びます。」と語るのは心が痛いことであり、聖霊の助けがなければできない・・。
それでも、「死ぬといけないから・・」と、エバのようにぼかして語ることはサタンの喜び。
滅びから救われるためには、十字架で死んでくださったイエスさまの愛の言葉を、割り引かずに明瞭に「滅びる」と事実を伝えなければ、その人には十字架の救いが無駄になってしまうのだ。

「ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」(ルカ16:23)

永遠に続く炎の中で、彼は「此処に来ないように、ラザロを使わして家族に伝えてくれ」と願ったがその願いは叶わなかった。
亡くなられた方の叫びを、伝えることができるのは聖書を知って居る私たちしかいない。愛する者に一番伝えたがって居られる言葉を、私たちが直裁に伝えることは、神様の愛を運ぶことなのである。

相手を選ばず、時を選ばず、言葉を選ばずに聖書のことばを明確に届けなければならない。語る者も聞く者も生きている間に・・、今しかない恵みの日に。
それは心を痛めつつ、自分の十字架を負ってキリストの御足跡を行く事である。

神様は、信仰によって誰でも直ちに救ってくださる。備えはすべて整ってあり、犠牲のいけにえはイエスさまだけである。私たちには何も要求してはおられない。
イサクをいけにえに求められた時、捧げるための山上には身代わりの山羊が備えられてあった。

アブラハムがその礼拝を通して賜ったものは、子孫への祝福の約束であった。
神様は私たちを祝福したいのだ。滅びることのないいのちを与えたいのである。御子の血が支払われたいのちであから・・。

いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。
わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。(50:8~9詩編)
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キリストの律法

2017-03-26 16:54:40 | Weblog



 ずっとパウロの書簡を読み続けていた。その中で「キリストの律法」という言葉が心に残った。
「私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、・・」(1コリント9:21)

それは、完全に行えない人に呪いである「律法」に対して、十字架のあがないによって与えられた恵みの「キリストの律法」である。
律法は肉よる良い行いであり、キリストの律法は御霊に拠る行いである。

 パウロはイエスさまによって倒され、御霊による「キリストの律法」によって生きる者となった。
彼は生まれながらの血統も、教育も、健常な体も捨てて・・いや、これは彼が望んだことではなく、恵みによって捨てさせられたことである。
そうして新しい創造が彼に実現し、御霊に拠り頼んで生きる者となったのだ。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)

主は古い革袋に新しいぶどう酒を入れるようなことはされず、彼を新しく造り変えられた。パウロはそのキリストの律法を守ることによって、すべての艱難を御霊に導かれて乗り越え、みこころを成し遂げた。

それが、もし彼の生まれながらの良きものに拠るなら、何もできなかっただろう、それらは決して混じり合うことはないものである。彼は肉の行いによってイエスさまに倒されたのであり、良い行いを願っていながらみこころに逆らってしまっていたのである。

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:17)


 パウロはその身に十字架の焼き印を押された者として、キリストの律法から堕ちた教会に苦しむことになる。
福音から堕ちたニュースは、焼き印を押された彼を痛めつける。

これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。(ガラテヤ6:17)

十字架のキリストの焼き印は福音を喜び続ける印である。その者はキリストの恵みから堕ちることはないが、相反する律法の行いに極度に敏感となって、焼き付けられた十字架は痛むのである。


 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。(ガラテヤ1:6)

教会が、キリストの律法に留まり続けることは簡単なことではない。肉はどこからでも入り込んで来て、生まれながらの部分を誘惑するからである。
ほかの福音があるわけではなく、いつの間にか堕ちて行くのは律法による縛りであり、福音からの離反である。

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6:2)

十字架の恵みから目を離さずに、互いに福音に留まるように聖霊によって見張り、目を覚ましていなければならないのである。
ヤコブ書には、「自由の律法を一心に見つめて離れないように」とある。

ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1:25)

この「実行」とは何を行うことか・・、間違っても肉による善行であってはならない。
新しい創造による御霊の導きに拠ることである。

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賢さ

2017-03-18 16:08:19 | Weblog



園であの木の実を取って食べたことから、御神の寵愛を失ったアダムの末
今、その事実を知らされている者が、
なを、善悪にしがみついているのはなぜだろう
その賢さを必死で守るのはなぜだろう

さらりとそんなものを脱ぎ捨てて、愚かさを被って御前にひれ伏せば
キリストの血潮で洗い清め、すべてを回復してくださるのに・・。
永久までも御許に置いて、弱さも愚かさも愛で包んでくださるのに・・。
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泣き出しそうな空

2017-03-15 16:57:25 | Weblog




 待っていた牧師先生が自転車で尋ねて来てくださった。確かに心待ちにしていた・・。雨催いだったので思わず
「大丈夫ですか」
「大丈夫降っていません」
「どうぞ、どうぞ」と、いつものようにありのままの居間に・・。

それから、いっぱいおしゃべりした。ほとんど主人のこと・・。
亡くなって2年半、最近とくに主人のことを思う・・。今まで閉じていた蓋が、時とともにゆっくりと開いてきたのだ。
もう「思い出しても大丈夫」ということなのだろう。

 教会の兄弟姉妹のことも次々と尋ねて・・、「それほど気になるのなら、礼拝に出ればよいではないか」なんて言われないで、様子を教えてくださるのが感謝。
私は先生も兄弟姉妹も慕わしいのだ。

主は、私に世に対しては自由を与えて、豊かさにも貧しさにも罪定めからも解放してくださった。私はその自由を謳歌している。
ただ、霊に対しては自分でどうすることもできない不自由な身なのである。私はキリストに属する奴隷、それが私自身なのである。

 先生はお昼過ぎまでおしゃべりに付き合ってくださった。帰って行かれるときに献金を託けるのも忘れていた・・おしゃべりに夢中だったから・・。それほど人恋しかったってことなのだろう。
自転車の上で手を振って橋を渡って行かれた。私も大きく手を振った。

今にも降り出しそうな空を仰いで、「まいったなぁ・・。」思わず口から出た。
このように暴発する自分の心の弱さを見たことに・・、そこに在る主の意図されることを感じて・・。

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老人閑居にして・・

2017-03-14 14:35:17 | Weblog



 先日来、こむら返りを繰り返していても鈍感を決め込んで放っていたけれど、ついにバイクに乗っている間も攣ったので、流石にこれはまずいと医院に行った。
ついでに両耳たぶのかゆみを見て貰った。予想通り・・しもやけ。
先生に、「もう治りまっせ」と言われた。「でしょうね、春も近いし・・ 」一応塗り薬とこむら返りの飲み薬も頂いた。

帰ると足の指から攣って来たので早速一服飲む。さすが・・あれから一日経ったけれど攣らなくなった。早く行けば良いのに・・妙に我慢強いというか、ずぼら・・そうそうこの言葉がぴったりくる。

 今年は庭の梅が良く咲いた。剪定がたまたま良かったらしくて、沢山の小枝が出てぎっしりと花が付いた。こんなことは初めてである。
残念なのは、「どや、剪定上手やろう」って主人に自慢できないこと。もっとも主人がいたらやらないけれど・・。

この梅は家を建てた時に頂いたもの。「これは特別な梅やで」って自慢しながら下さったもの。花びらは薄いピンクの八重で、萼から滲むように濃いピンクが広がり裏がとても奇麗なのだ。

一枝手折ってきて挿すと、甘い香りが部屋に充満した。愛想のない事務所のような部屋に早春のお裾分け。
チューリップの芽も日々伸びて来ている、初めて植えたラナンキュラスも、今は葉ばかりだけれど毎日どんな色なのだろう・・どんな形なのだろうと楽しみにしているのだ。

自分の体には面倒くさがりだけれど、ラナンキュラスにはビニルをかけたり外したり・・寒さから守って来た。床の中でラジオの強風予報を聞いた時も、小屋に入れようか・・とか心配してきたのだ。

YouTube でデミス・ルソスを聞きながら書いている。
ばあさんは退屈なのだ。
雨催い・・歩きに行くことも躊躇してしまう。
掃除する?
とても良い考え。そうするか・・。

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のしてんてんさんへ

2017-03-13 14:05:43 | Weblog



 きっと、のしてんてんさんの感動は「造り主のために生きる」を通して、言ってくださったことではないかと思います。
なぜなら、のしてんてんさんのブログにも「仕事の流儀」から書かれていたので共通するものを感じたからです。

私はとても単純な者ですから洞察とかではなく、ただ聖書のことばによることです。
その私の信仰は「宇宙及び、すべてのいのちを造られた父なる神様、御子イエス・キリスト、聖霊」の三位一体の神様を信じる信仰です。

分厚い聖書は「初めに、神が天と地を創造した」から始まります。是非読んでみてください。宇宙のなりたちがわかります。
のしてんてんさんの言われる「宇宙」の造り主を、私は「アバ父」(とうちゃん)と呼び、御子キリストを「主、夫」(クリスチャンはキリストの花嫁)と呼んでいます。聖霊は意識できないほど一体であって、聖書の約束を実際に経験させて信仰を導き守ってくださる方です。

 神様は人の罪を赦すために、愛する御子イエス様を人として世に遣わし、人類の罪のすべてを聖い身に負わせなさいました。人のあがないのために十字架で死刑として、すべての人の罪を完全に処罰してくださいました。
だから、もう人類は神様から罪を問われることはないのです。すでに完全に赦されて誰でも天国に入れるのです。

ただ、一人ひとりその事実を受け入れる必要があります。
キリストのあがないを否定する人は、愛する御子を犠牲にしてまで救おうとしてくださった神様の愛を信じなかったのですから、神様の悲しみとなり怒りが留まります。その人には、十字架の御子の苦しみも何の役にも立たなかったからです。

神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:19~21)


「神の義となる」それは、神様の正しさを継承する者として子とされることです。私たちの何かによるのではなく、すべて神の愛の計画によることです。
どうぞ、和解のことばを受け入れて神様の喜びとなってくださいますように。
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「主の祈り」にある差し替え

2017-03-11 15:23:09 | Weblog



 教会に対する私の痛みは、「主の祈り」が聖書から切り離され、救いの順序が差し替えられて、十字架が否定されている祈りが繰り返し祈られていることにある。
なぜ気づかないのか・・なぜいつまでも覆いがかけられたままなのか・・、実に不思議である。
イエスさまが教えてくださった祈り、マタイ6章

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕


しかし、
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」この箇所がすり替えられて、
「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」
とされ順序が逆転したものを唱えているのである。

すべて赦しは十字架によることであり、私たちが人を赦すことによって赦されるのではない。もし、そうであったらキリストは十字架にかかる必要がないのである。
差し替えた主の祈りは人の行いによっており、福音の否定のような大きな誤りである。
キリストの十字架のあがないによって、人はその信仰によって赦されるのである。

そのように無条件に赦された者が神の恵みのゆえに、人を赦すことが出来るように成ってゆく。
救いは取引ではなく、一方的な神の恵みである。

不思議に思うのは、差し替えられていることにさえ気づかなかったり、気づいても何とも思わないで、聖書から切り出され中身がすり替えられたものを祈り続けていることである。
此処に働いているものは何なのだろう・・。
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造り主のために生きる

2017-03-07 17:43:08 | Weblog



 NHK「仕事の流儀」で、自宅での看取りを支えておられるお医者さんを見た。それは、24時間備えていなければならないハードな医療。
私も主人を家で看取った者なので、胸の詰まる思いをしながら見終え、命の重さが心の底にず~んと溜まったままで、夜が明けてもそのことを思い巡らせていた。

医師は介護者ぐるみ抱えるように真剣な眼差しで話しかけ、言葉にならない思いをも時間をかけて聞き出しておられた。時に厳しく時にユーモアをもって・・。

残りの少なくなった時を捕らえて、患者が人生をかけてきた言葉を語らせて綴り、残された者が何時でも振り返ることができる備えをされていた。それは死に行く人の心残りを取り去り、残された人の慰めとなるだろう。看取りならではの心遣い・・。

限りあるこの世の命の現実の中で医師は葛藤を経て、自分には何も出来ないことをわきまえ知り、
「支えようとしている私こそが、支えを必要としていることを知っている者がプロ」と、最期に流れた言葉は印象的だった。

 何のために生きるのか、何のために存在しているのか。
誰のために生きて死ぬのか。
それはかって造り主を知らず、ひとりぼっちで生きていた日に私の問い続けていたことだった。

しかし今朝知ったことは、「造り主なる神のために存在している」という、とても厳粛な「生」であった。それがたとえ死に行く10分前のことであっても・・。

患者の苦痛と介護者の焦燥が交錯する時、それが「神のために生きている厳粛な時」であり、死はまさに「神の時」であって苦痛からの解放と知るなら、介護者は執着から解放され、もっと残りの時に良い交わりをすることができるだろう。

そうして、残された淋しさは変わらなくても、自分もまた神のために守られている存在として、主に委ねきった命を精一杯生きることができるだろう。

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。
また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(Ⅰコリント8:6)

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