石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

花嫁

2017-02-28 15:09:39 | Weblog


花嫁は花婿と一緒に居るだけで良いの
そうすれば・・子どもは生まれ出てくるのです
ただ、うっとりと花婿を見上げて
ほれぼれと居ればよいの
なにしろ
私の夫は万軍の主

あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。
あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。
(イザヤ54:5)
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石ころのうた

2017-02-27 18:55:28 | Weblog



あなたに造られたこの唇は 一日中御名をほめたたえて歌っています
あたなに造られたこの手は たまわったくすしい救いを綴ります
あなたに造られたこの目は 御手のわざを見ています

春、夏、秋、冬すべての時を・・
朝靄、光の真昼、夕闇迫る紫、また煌めく星々も
祝福に満ちた御手のわざで 
あなたは 私たちを喜ばせ楽しませてくださいます

あなたに守られているのこの足は 救い主を知らせに行くためのものです
あなたに選ばれた方が 待っておられるところに・・
そのお一人のために・・

あなたに造られた私のすべては、御前にひれ伏す日のためのものです
私はその日を、静かに静かに待ち望んでおります

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「神が私たちを通して懇願しておられる」神の和解を受け入れなさい(2)

2017-02-22 10:55:28 | Weblog



身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(Ⅰペテロ5:8)

外からは責め言葉として、また内からは誘惑となって「十字架の愚かな言葉から出て来い。」と言われ、「現実を見て自分で考えろ」と、みことばの砦から出て来るように誘われます。
でも、私は弱さと愚かさの中で主に拠り頼みます。聖霊の導きに拠ってエバと同じ誘惑は通用しません。

肉の目で見るものは一時的ですから、主に在って霊の目で希望を見つめています。現実に事を成すのは主です。実現する永遠の約束はみことばです。
聖書をそっくりそのまま信じて、今日まで様々な主の御わざを見てきました。主が語られたことばが、その通りに成ることを何度もこの目で見たのです。

みことばを現実の下に置くなら、人を滅びに引き込む敵の喜びとなります。私がみことばの砦から出て戦うことはしません。戦われるのは主です。
エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(Ⅱ列王記6:17)

 聖書は神から人への良き知らせです。裁くためではなく救うための言葉です。だから割り引かずにお言葉通りに伝えなければなりません。
キリストの十字架以外に救いは無く、キリストの救いを受けない者は永遠の滅びに至ると聖書にはっきりと書かれて居ます。

神のキリストが命を捨ててまで、人の救いのために備えてくださった愛のことばですから、人の気に入らない言葉であっても、愚かだと罵られてもそのままに伝えることが、キリストから賜った隣人愛です。
永遠のいのちを頂くことができる時間は、誰にとっても今しかないからです。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(Ⅰコリント1:21)

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キリストの証明

2017-02-19 22:44:21 | Weblog



「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう」(ルカ22:67)

 聖書は人の賢い頭だけで読むと罠に嵌る。キリストの救いは信仰によらなければ得られないからである。
ちぐはぐに見える箇所があり、一致していない記述がある。それらは取り繕うことなく何千年もそのままにされている。それが神様のご計画によることだからである。

それは信仰以外によって救われることのないように、ふるいに掛けるために準備されたものである。
善悪を知る知識の木の実の賢さによって神を知り、救いに至ることのないようにされている。

その時真実な心で、困惑しつつも謙遜にイエスさまに聴くなら、それらは罠とは成らない。今も生きて働くイエス・キリストの助けや祝福を経験させてくださり、幼子でもわかるようにご自身を現してくださるからである。
イエスさまは、私たちが聴くために静まり座ることを待っていてくださる。聖書は学問の道具ではなく、神様との霊のまじわりに導く書である。

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(マタイ11:25~26)


人の賢さは「さあ、この矛盾を説明せよ」と、キリストを否定するために求めるが、心の中で「キリスト(救い主)は居ない。」と言うだけでその人に救い主はいない。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)
キリストの証明は、信じる者に与えられる平和と永遠の望みにある。しかし、それは信じなければ知ることはない。

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ワッフル

2017-02-19 00:22:29 | Weblog



 息子がお土産に買って来てくれたワッフル。珍しいことだけれど紅茶を入れている間にスナップ写真を頼んでみた。
舌にふんわりと優しいイチゴミルク。上品な甘さが心に広がる・・感謝しながら頂いた。ふふふ・・まだ明日の分もある。



 私のペットは大根と人参のヘタ。毎日眺め続けてやっと此処まで育った。赤い人参から緑の芽がのぞき、小さな小さな葉先が広がって来るのは、なんと健気なのだろう・・とちょっと感動する。
大根はもう少し大きくなったら、彩りに使って食べてやろうと毎日舌なめずりして見ているから、なかなか伸びてこない・・。

植物でも虫けらでも、命のあるものは見ていて飽きない。
次男の夏休みの自由研究は私の楽しみでもあった。大嫌いな芋虫が、あげは蝶の観察をする内に冷たい感触を知り、撫でては角を出させ臭いを嗅いで可愛がるようになった。迷惑だったろうなぁ・・。サナギから孵ったばかりの蝶の美しさは高貴だった・・。

それは、手伝うと言うよりも自分が夢中になってしまって、あめんぼうの観察は自然史博物館に子どもと出掛け、研究員さんに夢中になって質問したものだから、異常な教育ママと思われたようだった。
いやいや・・ついつい夢中になってしまっただけ・・、専門家に尋ねたいことがいっぱいあったのだ。大人だって知りたい事があるのだ。



 私はほとんど人と話すこともなく閉じこもっているから、息子が月に二回くらい帰って来るのは嬉しいことである。
でも、ひとり暮らしにすっかり慣れてしまってすぐに疲れもする。そんな様子に「どうしたのだ」と訊かれると、つい「ちょっと疲れただけ」とぶっきらぼうに答えてしまう。
これはちょっとやばいかも・・あまりにひとりに慣れてしまって、対人免疫が極度に落ちているのかも・・。

 しかし、最近の夢にはなぜかいろんな人々が出てくる。主人もよく見る。私が「スリッパが足りない」なんて狼狽えていても、「おくさん、スリッパなんかええで」とどんどん家に上がって行くのだ。
とにかくワイワイと人の押し寄せる夢。私はそんな人の中でまごまごしている。まあ、夢でも不器用には違いなかった。

まるで「淋しいけれど気楽が良いか」「賑やかな中で気を使っている方が良いか」って、昼夜で入れ替えで試しているみたい。それは・・選べない。

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主は私の盾

2017-02-16 12:26:38 | Weblog


主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。(詩編144:2)

私は分をわきまえず、主と主のことばを弁護したりはしません。主が私を弁護してくださるのです。
人が神様を守るのではなく、神様が人を守られるからです。

もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。(Ⅰヨハネ2:1)

サタンは賢い言葉を餌に誘惑します。
しかし、神の救いは愚かなことばにあります。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)
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「神が私たちを通して懇願しておられる」神の和解を受け入れなさい

2017-02-15 13:39:57 | Weblog


 天地創造の神様は、命令に背いて罪を犯したアダムの子孫である人類を滅びから救おうと計画され、神のひとり子イエスさまをキリストとして世に遣わされました。

罪の無いイエス・キリストに人類のすべての罪を負わせ、十字架で死刑とすることを計画されました。
死刑はすべての罪を解決しますから、イエスさまの十字架刑によるあがないによって、人は神様の前に罪の無い者となりました。
このことを信じるのがキリスト信仰です。

信じない人の罪は残ります。神様の愛による御子の犠牲を受け入れないからです。罪の赦しを拒絶している人には神様の怒りと悲しみが残るのです。
愛する御子によるいのちがけの愛が拒絶された神様の怒りによって、その人は天国に行く事はできず滅びることになるのです。

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10:15)

神様にとって、御子の血に拠って救われたキリスト者は「わたしの目にはあなたは高価で尊い」のです。それは神様の喜びだからです。
それは学問や行いによることではなく、ただ、キリストのあがないを信じる信仰によって「正しい者」とされるのです。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:23~24)


ですから、先にキリスト者として救われた私たちは、自分の努力や善行によって救われたのではないので、まだキリストの救いを頂いてない人々に対して申し訳ないと思っているのです。日々、神様からの祝福を知るほどに・・その思いは募ります。

パウロもこう言っています。
私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(ローマ1:14~15)

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菜花

2017-02-14 11:04:52 | Weblog


 生協から菜花が届いた。さっそく下葉を除いて形をちょっと整えて生け花に・・。私は葉っぱものが大好きなので、舌なめずりの心だけど・・菜花だけはいつも春を見るために取り分ける。

さて、何に挿してももうひとつ合わない。その時ピンと来たのは主人のマグカップ。紺色の少し口が広がったカップに放り込んだ途端、菜花は生き生きとして若草色の葉っぱがカップをゆったりと覆った。

 主人が召されてお茶碗が食器棚に残った。
一人になった日に自分のお茶碗にご飯をよそって、ハッと夫婦茶碗であることに気づいた。ご飯を戻しお茶碗を洗って、いつもそうしていたように主人のお茶碗に重ね、「もう、これは使えない。」と仕舞い込んだ。捨てるべきだ何時か・・。
でも、マグカップだけは片付けないで出ていた。きっと菜花を入れるためだったんだ・・それほど似合っている。
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一粒の麦(ペテロとパウロ)

2017-02-12 13:32:55 | Weblog


 弟子の殉教の様子はほとんど聖書には記されていない。これは驚くべき事である。勇敢な信仰の最後が書かれていないことは、彼らの意向に添ったことであり、神のみこころに叶ったことなのだ。

彼らの死の棘は抜かれており、いかなる死も彼らに勝利しないからである。ペテロの信仰の歩みは失敗も成功も詳しく記されている。パウロもそうである。
キリスト者にとって重要な事は、「どのように死んだか」ではなく「如何に主とともに生きたか」である。

日々主と共に喜び、悲しみ、驚き、悩み、感動し、失敗のときの助けと守りを経験するなかで、神の愛に育まれて成長して行く歩みにこそ価値があるのである。
キリスト者は救いの喜びを知り、滅びの恐ろしさを知り、世にあってその両方を見る日々は、時に深い悲しみや悩みがある。

それは、イエスさまの御足跡を自分の十字架を負って行くことであり、死はそれらの苦しみからの脱出でもあるから、その死がどうようなものであっても、主が待ってくださるゴールに達したという喜びは大きいのである。
忠実に生きた者ほどその喜びや感動は、一時の苦痛をはるかに凌ぐものであろうと想像できる。

 この世に死ねない苦痛はいくらでもある。死を前にした苦痛など多種多様にある。キリストを知らなければそれらは、殉教とは比べものにならないほど恐ろしいものであろう。そこには何の希望もないからである。

いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20:22~24)


すべての賢い言葉を捨てて、主への従順さにおいては幼子のようになることを選んだパウロ。彼は時に自慢と受け取られる言葉を語ったが、それは幼子のように直截に事実を述べたのである。彼は謙遜な言葉で自分を粧うことをせず、愚かな言葉で明確に語った。それは彼の聖さである。

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使徒の力

2017-02-07 19:25:44 | Weblog



「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)

見たことも聞いたこともないことが起ころうとしていた時代には、聖霊による細やかな導きと、完全に聞き従う使徒が必要であった。だから神はこのとき饒舌であった。
使徒たちは主の奴隷のように、一切の私心を挟まず聞いたままを行った。自分たちの出自も仲間意識も組織も一切を置いて、完全に神の計画に拠って働いた。

聖霊の顕著な働きは、それがどうしても彼らに必要だったからである。
仲間を迫害したパウロを、アナニヤは主の言葉によって「兄弟」と呼んで目を開き、弟子たちはバルナバの執り成しによって、恐れる心を捨ててパウロを受け入れ命を助けた。

異邦人コルネリオに聖霊を授ける働きをして、ユダヤ人としての律法を犯したペテロに、割礼を受けていた者たちは説明を求めたが、一部始終を聞いて神の臨在を悟った彼らは沈黙した。そうして異邦人をも救う神のわざを賛美したのだ。
神は饒舌に語り導かれる。その時キリスト者はすべての理屈を捨てて御前に沈黙するなら、心の底から主をほめたたえる賛美が溢れてくる。

これらのことはすごいことなのである。彼らが、うらみもねたみも持たなかったのは、聖霊に満たされていたからである。聖霊によって神の愛に満たされている者は、幼子のように素直にな心を持つのである。
聖霊の満たしにはこのような力がある。それが主の働き人にはどうしても必要なのであり、激しい迫害の中でも喜びを持って、命じられたままに働くには明確な導きを悟ることが不可欠なのである。

ペンテコステは御約束によって上から与えられた備え。今、彼らは迫害の中でみことばを恐れずに語るために力を求めて祈った。主を証しするための力である。
すべてはこの祈りから出発した。彼らは戦いのための備えを祈り求め、彼らの祈りはみこころのど真ん中を射貫いた。

「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4:29~31)
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