石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

カインとアベル

2017-01-31 18:28:02 | Weblog



 今日はどうしても知りたいことがあって、時間をかけてでも主に聴こうと尋ねながらの創世記4章。

 神様はアベルに目を止められたけれども対話もなく、カインに殺されて後も特に記述にない。完全な捧げものを捧げて、神様の「お気に入り」をねたまれて殺されたアベルに、この素っ気なさは何だろう・・と思った時、十字架のイエスさまに対する神様の素っ気なさと重なった。

 カインは自分から神様に捧げものを持って来た。彼は人として初めて神様を礼拝しよう思い立った人。しかし、彼が神を神としてあがめるには、あまりにも神様を知らなさすぎて、その礼拝は悲惨に挫折した。
彼は神様の愛を知らなかった。だから限りある人の愛で神様の心を量って、自分が選ばれなかったことに怒り妬みに燃えて兄弟を殺してしまった。

しかし神様は殺人者カインを生かされた。彼の願いを聞き入れて、生きて行くための備えを与えてくださった。
カインは嫉妬する必要はなかったのである。神様は一人ひとりを100パーセント愛することができるお方である。
神は愛だから、最上の子羊を捧げられなくても、そんなことでカインへの愛が去るお方ではない。そもそも神様には、アベルもカインも同じように大切なのである。

 ただ、カインは神様の選びに従順するべきであった。そのことに置いて彼は自分を治めることが必要なのである。
神を神とするとはそういうことである。何を選ぶかは神様の勝手である。カインが「アーメン」とそこで謙って礼拝するなら、自分をも愛してくださっている神様を経験するのである。

神様の愛をいつも味わっている者は、神様の喜ばれることを喜ぶ。最上のアベルの小羊を神様と喜び、神様に顧みられたアベルと喜びを一緒にすることができる。主の愛に満たされているならそうなる。

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。

神様はアベルに目を止められたけれども対話もなく、カインに殺されて後も特に記述になかったけれども、神様はアベルを顧みておられる。
アベルの代わりにセツを生かし、その子エノシュに弱さを備え、弱さのうちに完全に現れる神の力によって神様を礼拝する子孫としてくださった。

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ひとりとして滅びることなく

2017-01-30 21:32:29 | Weblog



  youtubeでニニ・ロッソの懐かしい優雅なトランペットを聞きながら・・、私は台所にしゃがみ込んで味噌玉を握っている。
しばらく集中していたけれど、ふっと我に返った時笑いだしてしまった。ミスマッチやなぁって・・。
まさかニニ・ロッソも婆さんがひとり味噌玉握りながら聞くなんて・・思いもしなかっただろう。

これが、なかなかの大仕事で堅くて握り込むのは手が疲れるし、桶にきちんと詰めるのも力仕事。
美しく流れるメロディで気分を盛り上げつつ、まあ短時間に桶一杯の仕込みは終わった。
麹はメロディを聞くと良い仕上がりになると聞きかじったけれど・・「気分はどう?」

3ヶ月ほど置いて天地返しする頃には、いくらか扱い易いやわらかさになって、後は放って置いて出来上る。私はコクの濃いほうが好きなので、ゆっくり年末くらいまで待ってから開ける。開封一番に差し上げる方は決まっていて、半分はそのために作っている。

 音楽は確かに仕事を助けてくれる。集中して堅くなる心の逃げ道となってくれるから・・。私はこの手をよく使う。
音楽でも本でも世に出したら、誰がどのように使うかは本人の与り知らぬ事となる。言葉は作者の思いもしない所で人を生かすことがあるだろうし、心を縛ってしまうことや、偏見を助長することもあるかもしれない。

塵のようなブログでも、言葉というものにとても不安を覚えることがある。まして大きな愛のキリストを、狭量な私の言葉を通して流すことは恐ろしくもある。
その恐れには、「どのような手段を使っても、みこころを行わせてください。」と主に下駄を預けてしのいでいる。

 私はブログに来てくださっている方々を、ご近所さんのように親しく感じている。でも、私の知って居る方々はクリスチャンではない方がほとんど・・。なのに、永遠のいのちと永遠の滅びを語るなんて・・まったく・・これはミスマッチだと心が揺れるときがある。もっと他に賢い言葉はないのかとも思う。

それでも祈りつつ書き続けているのは、主に在る望みによることである。今日はクリスチャンでなくても、明日はイエスさまに来られるかもしれない。
何時か主を思い出してくださるかも知れないと信じてのこと。ミスマッチかも知れないけれど、私は主に教わった言葉しか知らない。

 永遠のいのちを分かち合いたい。イエスさまが十字架で流された救いの血潮は、すべての人のいのちのためであり、先に受けた私には,返さなければならない借りがあるのだ。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
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「あなたの決めておられるように、私を生かしてください」 

2017-01-28 18:09:12 | Weblog

  

 以前主人が悪性リンパ腫の宣告を受けて、病気の検査や治療が続いた時から私はよく眠れなくなっていた。
昔、私自身が膵臓癌の検査で入院した時は、早朝に病院の屋上で涙を流したことはあったけれど、これほど揺れることも心に葛藤もなく、信仰によって検査途中でさっさと退院してしまったが・・。

当然のことに主人のことは私の信仰によって・・というわけには行かず、いつかお酒で無理やり眠るようになって行った。
主人が召されてもその習慣が残った。また、医院で睡眠薬をもらうようにもなった。
もはや自然な眠りはなくなり、それらに支配されている自分自身に忸怩たる思いでいた。

 昨年末、主にひれ伏した。「どうにかしてこれらから解放してください。私にはどうすることも出来ないのです。」
自分で自分を躾けることも、責めることにも疲れ果ててギブアップした。
それから・・、ふと気づくといつの間にかお酒という手段を忘れてしまっていた。そうしてお酒は一切不要になった。

 お正月を過ぎに睡眠薬が無くなった。そのとき、以前お医者さんが
「眠れへんかったら起きときなはれ。寝られんで死んだ人は無いよ」その言葉があざやかに思い出された。
「今日は、眠れなくてもいいから・・薬を貰いに行くのは止めよう。」そんな日が続いた。

2~3時間しか寝られなかった翌日はよく眠れることを知った。布団の中で寝返りを繰り返し、1時になり2時になりはしたけれど・・朝方は眠っていた。そこで、眠くなるまで起きていることにした。

今までの常識を捨てて此処はひとり身の気楽さ、徹底的に自分の体に合わせてみようと思った。
2時頃に眠って朝9時前に起きることも許しているうちに、少しずつ眠る苦痛から解放され、今ではコトンと寝付くこともある。

 お日様を浴びて一時間ほど歩くから、体が適当に疲れるのも良い事なのだろう。目に入る太陽の光が睡眠に良いとか聞いたことがあるけれど、青い空は心も晴れる。キリッとした風にさらされることもそれはそれで気持ちいい。

目の前で突然小鳥に出くわすことも、オオイノヌフグリが空の色を映して咲いていたことも心を弾ませる。
時々すれ違う人とだんだん親しくなって、自然に言葉が増えて行く事もちょっと楽しく、通りの家の方に声を掛けられてお話しすることも、自分の世界が少しずつ広がって行くようで楽しい。

あなたの恵みによって、私の声を聞いてください。
主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。(詩編119:149)
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弟子の条件

2017-01-26 23:01:49 | Weblog

 

 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。(マルコ1:16~20)


イエスさまの招きに対する、彼らの潔さにはいつも胸を打たれる。これこそ、初めから神に選ばれていた人なのだと思った。
彼らは特別優れた人ではなく普通の人だけれど、世の何も惜しまず一瞬で応答して、生涯イエスさまを愛して付いて行った人たちである。
イエスさまは、すべてを捨てて付いてきた彼らに感謝の言葉をかけておられる。

あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。(ルカ22:28)

 聖さはシンプルで子どもでも選び取ることができる。主が求められたとき、何だってすぐに差し出してしまう素直な心の清らかさ。それは主に愛される極意。
アブラハムがイサクを捧げる箇所と重なる。アブラハムがイサクを神から守っていたら、イサクもその子孫に至るまで祝福を得られなくなってしまった。

 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」


「父が亡くなったら従います。」という意味だと以前教わったことがあるが。しかし、主は今必要なのである。「まず」自分から主を選び取ることがなければみな滅びるのだ。時を知って居られるのは主だけであるから・・。

別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:59~62)


主が備えてくださったチャンスを逃したら、滅びは家族ぐるみである。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

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限界の中に主を迎える マルコ16章

2017-01-24 23:14:12 | Weblog



御父は御子のためには一度もみわざを成さらなかった。イエス・キリストを神と証しされたのは十字架で息を引き取られ、救いのためのすべてが完了した後であった。

そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。(マタイ27:50~54)


 十字架の初めから、イエスさまから目を背けずに見ていたのは弱いはずの女たちであった。彼女たちは良いときも悪いときも一緒に居て、葬りまでも「よく見ていた」。

また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。
イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。(マルコ15:40~41、47)


彼女たちに絶望は見られない。彼女たちには愛する方に対してまだ出来ることがあったからである。
イエスさまの墓を塞ぐ石をどける算段があったわけではないが、イエスさまの体を保存するための香料と香油を用意して、石を転がしてくれる助け手の現れることに望みをつないでやって来た。

それまでの彼女たちの行動はとても冷静で現実的で、すべてを慣わし通りに行おうとしていた。これらは今までも、身近に見聞きし経験してきたことであったのだろう。
しかし墓は開いており、そこにイエスさまの体はなく、見たのは天使であり、よみがえられたと伝えられた時、彼女たちはすべてが理解できずに動転してしまった。

女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:8)

彼女たちこそ、イエスさまが死なれたことの証人である。はっきりとその目で見たのだ。
それゆえこのような非現実的なことに出会った時、それまで十字架も恐れず、死も葬りも恐れず、立ち塞ぐ石の壁にも望みをもって出て来たのだが、未知の事に会っては弱さが暴露された。


 しかし、マタイの福音書にはこう書かれている。
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。(マタイ28:5~8)


記述が違うのは、4福音書が人の手によって摺り合わされていないからである。聖書は一見不都合と思えることがそのままにされている。人の手にあればもっと賢く取り繕うであろうが・・。しかし、それぞれの違いにあるメッセージを読み取ることもできる。

此処では彼女たちが、天使に伝えられたことを理解した様子が書かれている。そうして喜びに満ちて知らせに走ったのである。
このことから、私たちが力を得るためには、分かるまで主に留まって聴くことが大切であると分かる。知ることで喜びに満ちて、勇気を持って行動することが出来るからである。

 弟子たちの限界においても、イエスさまは人が塵に過ぎないことを知って居られ、そのような不信仰の真ん中に来てご自身を証ししてくださった。
それから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。(マルコ16:14)

信仰によって生きているはずでも、不信仰を暴露されることがある。しかし、不信仰が暴かれ、恥をかき、時に逃げ出してしまうけれど、イエスさまはすべてを祈りの内にあらかじめ備えて覆っていてくださる。今、助け主である聖霊が共に居てくださり、聴く者にはみことばをみことばによって解き明かし、確信を与えて導いてくださる。
それゆえ弱さの暴露されることも恐れず、主に信頼してみことばを語り、みわざを証しして一歩一歩み足跡を行くのである。

「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。(マルコ16:16~18、20)

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キリスト者の死

2017-01-23 17:46:25 | Weblog

 

 サッシ窓を一瞬かすめる小さな影、小鳥の狙いはたわわに付いた千両や万両の赤い実。影を追って目を向けると庭は真っ白な雪景色。
天気予報では何度も聞いていてけれど、実際に積もったのは初めて・・。
雪間の赤い実はすっかり少なくなっていた。小鳥は私の姿を察すると常は慌てて逃げるのだけれど、今日は雪の枝を揺らしながら夢中になって食べていた。
そう、早く食べないとあっという間に無くなってしまうよ。雪が来たらすぐに無くなるから・・。


 真っ白な雪景色はいつも深い感謝を思い出させる。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。(イザヤ43:25~26)


天地創造の神様が、一人の人にさえ真っ正面に向き合い語り聞かせ、御子を十字架にかけて罪をあがない、すべての人にご自身の愛を歴史の上に記して見せてくださったのだ。

 
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(使徒7章)
聖霊に満ちて真っ直ぐに語ったステパノは、石打によって殉教した。

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」(使徒7章)


ステパノは、イエスさまのように自分を殺す者を取りなし天に凱旋した。
殉教のどこに悲惨があろう。人の罪から入り込んだ死の中で、キリスト者の死は主によって選ばれた者の希望に満ちている。彼は神様の栄光を見てそこに逝った。

ボロボロになった肉をさらりと脱いで、着替えた永遠の霊のからだは完璧であり喜びに満ちている。
なぜキリスト者の死を、目出度くゴールした勇士として喜べないのか。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16)


神様が私たちに望んでおられるとおりに、生きて死ぬことはできないのだろうか。罪を洗われて神の子とされ、父なる神の愛、御子のいのちをたまわった者。これらのすべての実現を見るの時に!
主に在る者は、迫害の中の殉教であっても、病による死であってもいかなる死も、晴れやかな神の国の実現を見ることである。
キリスト者にとっては絶えず罪に曝され、重荷であり弱さであった肉からの解放は救いであり、すべては過ぎ去ったのである。

 ただ、主にある健やかな死のために、明らかに聖書に禁じられている偶像を許すことは災いである。人の中にある偶像の数だけサタンの足台があり、それはこの世の苦しみを増すことになる。だから、主は禁じておられる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)

主以上に愛するなら家族でも偶像となり、互いに余計な重荷を負うことになる。それがサタンの足台にならないために、主は「相応しくない」と言われる。
お互いを、神の愛に委ねて健全であれといわれるのである。無駄な苦しみを負うことはみこころではない。

それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20~21)

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神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた マルコ15章(Ⅱ)

2017-01-19 23:17:17 | Weblog



それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。(マルコ15:37~38)


 受洗の学びでこのみことばが幕屋の図を通して語られ、先生が驚かれたほどに深い感動を覚えた。
イエスさまが十字架ですべてを完了して息を引き取られたとき、アダムの罪以来の神様と人を隔絶してきた幕が上から裂かれた。交わりを隔ててきた至聖所の幕が天から裂かれたのだ。

イエスさまのあがないによって、十字架を信じる人は何時でも神様に近付くことができるようになったのだ。
この時私は、十字架上のイエスさまが息を引き取られる瞬間と、至聖所の幕が激しく上から裂けて行くさまが重なって・・、まるで見ていたようにリアルに感じられた。


 聖霊のバプテスマを11月に経験して心に大きな喜びがあり、それまで自分に許せなかった洗礼を願って、年が変わってから準備が始まり、実際に洗礼を受けたのは3月だった。

暗唱聖句が10以上示された。覚えるのは大変だったけれど、信仰の初めにみことばを刻み込むチャンスだった。
今暗唱することは無理でも、日々みことばを心や頭に染みこませる作業は続いている。今は、聖霊の解いてくださることが楽しいからだけれど、ただ教わったことに忠実な長い年月があった。

キリスト者の土台はみことば。聖霊はみことばを思い出させて導いてくださるから、みことばが内になくては信仰も世にある身も守れない。信仰のゴールが何処であるのかもわからないだろう。
御救いの喜びも甘い交わりもみことばにある。活字は心が揺れる時も変わることなく身近に居てくれる。白けて忘れていた感動がよみがえるのもみことばを読み返している時・・。

「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」そのことによって、キリスト者にたまわったものは御父、御子、聖霊の臨在。十字架で完了されたみわざによって、どのような状況でも恐れることなく御名を呼び、主は近しく応えてくださる者としてくださった。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩編23:6)

神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。(Ⅰヨハネ3:24)

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十字架から降りて来たら信じる マタイ15章(Ⅰ)

2017-01-17 17:11:11 | Weblog

 

 ピラトはイエスさまを無実と知っていながら、群衆の機嫌をとるために十字架刑を宣告した。
ヘロデはバプテスマのヨハネの正しいことを知っていながら、満座で恥をかく事を恐れて首をはねさせた。
彼らはそのことによって、自らとその周囲に滅びを招きこそすれ何も守れなかった。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

キリストの救いを得るためには、今のわずかな平穏無事を捨てる勇気が必要である。御救いはただ信じるだけで与えられる。
しかし、行いのない信仰はない。行いは時に家族を捨て、友人を捨て、世の評判を捨てる恥の中でイエスさまを選び取る。
ただ、ご安心を!すべては主のご真実によって主の家族として回復される。イサクのように・・。

 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。 キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」


確かにその通りである。イエスさまは唯一ご自身は救われなかった。命を世の手に任せら、サタンはキリストを殺すという勝利を得た。
人々はキリストに、「自分を救って、十字架を降りて来たら信じる」と言った。しかし十字架を砕いて無傷で降り立ったら、その方は神であっても救い主ではない。キリストではないのだ。

イエスさまは十字架で死ぬことによって、キリストとして人の罪をあがなって滅びから救うわざを完成してくださった。すべては愛と憐れみに拠ることである。
サタンはキリストを殺して、神様による人の救いを妨げようとしたが、彼には愛も憐れみも無いものだから、神様のこのような計画は思いも付かないことだったのである。

世は勝利者にあこがれて喝采し、成功者を喜んでリーダーにしようとし、金持ちに集まっておこぼれに与ろうとする。
しかし、金持ちはすべてを自分にかき集めるから金持ちなのである。人に与えたなら貧しく、人に勝たせたら敗者となり、人の成功に尽力する者は影に居る。人は求めるものを間違えている。騙されている。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(Ⅱコリント8:9)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6~8)
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十字架への言葉 マルコ14章(Ⅱ)

2017-01-15 21:10:54 | Weblog



大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」
すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。(マルコ14:61~64)


 十字架刑はイエスさまのひと言で決まった。ご自身を神のキリストと語られたことで、神を冒涜する罪人と定められたのである。
それまでの無実の訴えにはひと言も弁解されず、ご自身をはっきりと語られたひと言で死刑と決まったのである。

 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(ヨハネ14:11)

イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(ヨハネ21:25)

わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。(マルコ14:49)


書ききれないほどのわざを見ており、直接に語られるメッセージを聞いても、人は信じないことを選択することができるのである。
それは神様が人を創造された時、自由意志を与えられていたからである。もし、神を否むことがない者として造られたのなら、愛するひとり子を十字架にかける計画をされた神の悲しみと、御父に捨てられる御子イエスの苦しみは必要なかったであろう。

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ53:10~11)


イエスさまの満足は、自分の意志によって十字架のあがないを信じた者が、罪から解放された平安のなかで、永遠のいのちを得て末永く生きることにある。
だから、この十字架の恵みを無駄にしないで・・と願いつつ、人にはおろかと思える十字架の言葉を、聖霊に信頼してそのままに語るのである。十字架の刑を帯びて語るのである。

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)
無実のイエスさまがそうされたように、裁きを世に任せてはっきりと聖書を語るのである。

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屋根の穴

2017-01-14 20:07:23 | Weblog



 若い頃唯一の楽しみは、スカラ座で早朝割引の映画を見ることだった。色々な映画を見たと思うが当然のことながら覚えてはいない。
しかし、一つだけ心の中に重く重く沈んでいたのがイタリア映画の「屋根」である。それは地味な映画だったが、自分の置かれた境遇と重なって痛みと感動が消えず、60年近くも・・時々思い出し続けていた。

私の人生は、昔の映画を覚えているほど平穏ではなかった。幼くして父を亡くし、中学生の時に母を亡くし、祖父母も亡くして未成年の内に保護者はいなくなったのだ。世の嵐の中、木の葉一枚のような存在であったから・・。

 この映画は戦後の住宅難のローマが舞台で、新婚の夫婦には住む所がなくプライバシーもない生活に苦労し、荷物を持って彷徨ったりする姿があった。それがまったく自分の姿と重なったのだった。

そこで彼らは、不法建築だが一夜にして屋根付きの家を建てると、居住権が認められることにすべてをかける。
思うように進まず時間が経って行く中で、新妻の頼みを聞いて駆けつけた兄の助けによって仕事は進むが、屋根が完成する前に夜は明け見回りの警官がやってくる。
囲ったばかりで屋根に穴の空いた家に入る新妻。そのとき差し出された赤ちゃんを彼女は抱き取る。警官は赤ちゃんを抱いた姿にほだされて去る。

 今日は小雪混じりの強い風が吹いていた。それでも一枚多く着て、主人が買ってくれた革手袋をはめて風の中に出て行った。
歩きたくて溜まらなくなるときがあるのだ。それは頭の中を整理したい時。心の中を整理したいとき。ひとつのことを思いめぐらせたい時など・・。

強い風に向かって坂道を登っている間も、なぜか映画のことが次々と思い出され今に重なって行った。そうして60年の時を経て、今日まで記憶に焼き付けられていた意味がスルスルと解けて行った。

 新妻が抱いて助けを得た赤ちゃんは自分の子どもではなかった。彼女はその赤ちゃんによって、得られないはずの安住の場所を得た。それはまったくの恩恵であった。

私は御子イエスさまを抱かせて頂いた。そうして永遠に安住する場所を得た。それは私の何かから出たことではなく、まったくの神の恩恵である。
新妻が得た場所が不正から得たものであるように、私も天国に相応しくない不正の者であるが、恩恵によってイエスさまという救いを頂いて義とされた。

ずっと心に沈んでいた「屋根」が、今日神様への深い感謝となって完成したように感じた。明日からの映像は、屋根に空いた穴は天国へと登って行く階段になっているだろう・・。

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