石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 マルコ13章

2016-12-31 16:12:17 | Weblog



 マルコ13章を読んでいて、すぐに「わかった」と思った。つまりは、「滅びることのないみことばに聴いているなら、それが目を覚ましていることであって備えは出来ている」と・・。
携挙がいつとか、再臨がいつとか、いつ召されるのか・・それはもうすでに約束されていることで格別なことではない。一度はそんなふうに読んだ。しかし

「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。」
「だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。」

「気をつけていなさい」と三度、
「目を覚ましていなさい」と三度、
それは「すべての人に言っているのです。」とあった。

繰り返し読むうちに、ひと言で済ませることなど出来ない事の重大さに・・今は話す言葉もなくなった。13章は、この地に再び主の訪れの日まで聞き続けることであった。
ペンテコステの後、お弟子たちは日々この日のために備えて生きた。みことばに対するその態度が「敬虔」なのだと気づいた。

「話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」
「主よ.。お話しください。しもべは聞いております。」



分かりにくいブログに、今年も最後までお付き合いくださいまして深く感謝致します。
祝福をイエスさまにお祈りしています。
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はなむけ マルコ12章(Ⅲ)

2016-12-25 18:45:04 | Weblog



律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』


心を尽くすこと、思いを尽くすこと、大切な事が繰り返されているように感じた。それがどれほど重要であるかということなのだ。
心の思いのすべてを堅く主に据えること。どんな日もそこに目が釘づけられるほどに・・。そうするなら、知性や力は神様から自ずと流れてくるだろう・・、それは愛の応答である。

次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

自分を愛していない者は隣人をも愛せないということである。神様が愛される愛で自分を愛することはそんなに容易いことではない。
キリストの十字架を通して「ひとり子を賜るほどに神に愛されている」ことを悟る時、自分自身に満足して休らうことが出来るようになり、失敗しても恥をかいてもそんな自分を許して、主と同じ目で自分自身を見ることが出来るようになるのだ。
隣人のために祈るのは、自分自身がイエスさまに取りなして頂いて居るからであり、イエスさまを真似てのことである。

そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。
また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。


彼が繰り返した言葉に「思いを尽くし」が抜けている。それは小さなことではない。
イエスさまが「律法学者に気を付けなさい」と言われたのは、彼らの正しい言葉には思いが抜けて、見栄を飾る言葉になっていたからである。

みことばは賢い理解のためのものではなく、「神の国から遠くない」そんな所にいても意味はない。
みことばをいのちのように心の真ん中に迎え入れて、私たちは神の国に入るのである。
彼は正しい言葉を知っていたけれど、「いのちの言葉」であるイエスさまから何も悟ることはなかった。

「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、
また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。
また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」


 マルコ12章は、宗教者の不毛のような議論が続いてイエスさまを喜ばせるものは何もなかったが、最後に組織もなく、力もなく、彼らのような知識もない一人のやもめが出てくる。

それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

十字架へ向かわれるイエスさまへのはなむけのような捧げ物である。名も無く貧しいやもめのレプタ2枚は、どれほどイエスさまを喜ばせたことだろう。弟子を呼び寄せる弾んだ声が聞こえて来るような箇所である。
全財産を捧げたやもめの光栄は、イエスさまのお喜びであった。

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愛の完成 マルコ12章(Ⅱ)

2016-12-23 10:30:01 | Weblog



イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。


復活を信じていないサドカイ人の屁理屈に、イエスさま彼らの聖書の無知を暴かれたが、無益と思えるような議論であっても、聞く者があるかぎりイエスさまは忍耐と謙遜をもって天にある備えを語ってくださる。

 仲の良い家族であっても、この世にあっては罪の影響を受けている。そこには幾らかの圧迫や支配があり、愛が真っ直ぐに届かないもどかしさが付きまとう。
愛を素直に表現できなくて・・、受け入れたくてもわだかまりが消えなくて・・、力がなくて・・、人はそんな多くの涙を心に抱えて生きている。

彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)

神様に、そのような目の涙をすっかり拭い取って頂いた時、人は完成された愛に出会う。それは天使のような対等な関係の中で、互いに聖い手を伸べて心から抱きしめ、また抱きしめられるのだろう。
関係を妨げるものは何も無いから、すべての悔悟も責めも飢えも渇きもなく、ただ愛を思う存分語り合うだろう。
だから主は家族の救いを計画してくださった。愛の完成のために。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。

すべての創造主なる神様は時間の支配の下にはない。神の時は永遠であり今も同じである。主に在る者も天に住まいを移して生き続けているのである。
御救いに与った者は、天で再会して愛が完成されるのである。

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「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」マルコ12章(Ⅰ)

2016-12-20 20:14:15 | Weblog


 イエスは、たとえを用いて彼ら(祭司長、律法学者、長老たち)に話し始められた。
「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。
ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。

神様は守りの垣を巡らせた地を備え、敵を見張るやぐらを立て、食べ物と飲み物を与えて任せられた。
しかし彼らは、神様が遣わされた預言者たちに対して好き勝手なことをし、みことばを無視して聞き従うことはなかった。

その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。
すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。


「遣わされた神の愛する子を殺し、主権者の権利を奪おうとしている」とイエスさまは明かされた。それは神様に委ねられた所を強盗の巣にしたことである。

あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」


彼らが精通しているはずの旧約聖書を用いてイエスさまは、彼らがどのような役割を果たすことになるのか、気づかせようとされた。
「あなたがたは神の家を建てる特別な選びの民である。なのに、神のひとり子であるキリストを殺す」と・・。
しかし、みことばの導きも彼らの耳に届かず、彼らが神様を恐れることはなかった。

ただ、すべてのことは神様のご計画である。キリストの十字架は救いの基礎として、信じるすべての人に恵みがもたらされることになるのだ。それは本当に不思議なことである。

 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。
彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」


人がどれほど言葉を尽くしてイエスさまをほめても、それはすべて事実であるから持ち上げてたたき落とす罠とはならない。愚かなことである。
ところで・・と「神の選びの民が、ローマによって搾取されている現実を認めるのか、」と彼らは迫ったのだ。

しかし、彼らは神様のものを搾取している。たとえ話しを聞いてもそのことを悟ることはなかったのだ。
彼らは昔から、神様の遣わされた者を侮り、みことばに聞く耳を持たなかったのである。

人は造り主である神様を認めず、みことばに従順することも無く、好き勝手をしておいて責任は問うのだ。「神なら幸せにしろ、この世の不幸を取り除け」と・・。

イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」
彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。するとイエスは言われた。
「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。


「滅び行くこの世のものは世に与えなさい。あなたは神の所有となって、永遠のいのちである創造主の元に帰って来なさい」と、キリストの十字架を備えて待って居てくださる。

十字架を信じて救われた私たちは、今神様に選ばれた民であり、霊の内に在る礼拝の場所を任されている者である。
そこを世に時間が奪い取られる巣にはせず、いつもみことばに静まり、主に交わりと賛美をもって宮の働きを守りたい。
この五日間、ずっと12章のみことばの間を歩き回っていた。
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「天におられる父」の赦し マルコ11章(Ⅱ)

2016-12-15 23:05:40 | Weblog



 聖書は二千年前の記事が、今一人ひとりの必要を満たす不思議な本。時にも場所にも縛られない霊のことば。聞く人を知り尽くしておられる助け主が、私たちを導いていてくださる。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。
彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)


直接教わった言葉は、「真理であって偽りではありません。」とわざわざ書かれている。真理を教えるのは、「キリストから受けた注ぎの油」に依ることであり、聖霊の働きである。

サマリヤの女は、町の人々にも自分を恥じているような女であったけれど、我を忘れてイエスさまに聴き入り、イエスさまは彼女に真理を教えられた。
しかし、パリサイ人や律法学者には「話すまい」と言われた。彼らが聞く耳を持たなかったからである。


 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。


イエスさまが十字架によって天と地を遮っていた至聖所の幕を上から裂いてくださり、今、私たちは至聖所にて御父と御子のお交わりを持っている。
だから、私たちの祈りは主のごく近くにあって真っ直ぐに届く所にある。

ただ、その近しい関係を妨げる罪も人の近くにある。
イエスさまの十字架によって、信じる者のすべての罪はあがなわれ精算された。しかし、赦していないものを残していればその罪が関係を妨げる。

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

先に、無条件で赦された者は無条件で赦す。どのように赦されたかを覚えているなら直ぐに至る結論である。
しかも、賜った赦しは「もう、思い出さない」といわれる完全な赦しである。

わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:12)

私たちは恨みごとを思い出すことがある。しかし、その度に「赦します」と告白するなら「天におられるあなたがたの父(アバ父)」は親しい関係の中で赦してくださる。
その赦しによって完全にされた霊の居場所は天にある。天の父と交わる場所は天である。

主は私たちの罪を完全に忘れてくださるけれども、私たちは何度も罪を思い出す。でも恐れることはない。何度でも赦してくださるから絶えず祈り完全に留まることができるのである。

「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)

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「ホサナ、ホサナ」のクリスマス マルコ11章(Ⅰ)

2016-12-13 17:32:53 | Weblog

 

 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた。
「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」


イエスさまの必要は一から十まで教えられないと人は何も分からない。今日、一から十まで聴かないと今日何も出来ない。人のしていることを真似ることが出来ても、それはイエスさまとは何の関係もないことである。

弟子に「向こうの村に入ってすぐ」と場所を教え、「繋がれたロバの子」と示し、「それをほどいて引いてきなさい。」と命じられた。
また、「なぜそんなことをするのか」と言う言葉を聞くと、「主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。」と答えるべき言葉を教えられた。

弟子は、すべてが聞いたお言葉通りであることを見たので、恐れずに命じられたことが出来、教えられたとおりにみことばが話せるのである。きちんと詳細に聞いていなければ、ろばの子を解く前に言い訳を初めてしまうのだ。そこに神の権威はない。

 季節でもないのにいちじくが実を結び、イエスさまの空腹を満たすことができるのは、聴いたみことばを信仰によって話すことから始まる。
「神を信じなさい」と言われたイエス・キリストの信仰は、御父の御旨のままに十字架を負われた信仰である。

キリストの信仰によって山は動き、役立たずのいちじくは枯れる。
キリスト者が、イエスさまの信仰を受けて聴いたままに語り、いつも必要を神に尋ね求めるなら、遠くから見に来られるイエスさまにグッドタイミングの実を付けるだろう。
弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:31~32)


多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

 
 この光景は私にはクリスマスの盛り上がりと重なる。煌びやかなイルミネーションと音楽・・飾り立てられたツリーにご馳走・・。
でも、イエスさまは今日何を語っておられるのか。私たちは「聞いたお言葉の通りだ!」と、みことばを目にするまで聴いているのだろうか・・。
人は「ホサナ、ホサナ」と喜び迎え、「十字架につけろ」とも叫ぶ。
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猟犬

2016-12-11 20:27:30 | Weblog



 初冬のきっりっとした空気の中に、一枚脱いだ上にパーカーを羽織って飛び出した。
すると、向かって行く先にリードを付けない白犬の群れが・・1、2、3、4、5頭!人の姿は見えない。穏やかな感じだけれどこれは猟犬だ。有害鳥獣駆除を日曜日に時々やっていることを聞いていた。

群れは私の前を行く。近付くと立ち止まり、振り返ってじっと見ている。
「どうしよう・・でも、此処で後ろ姿を見せるほうが怪しまれそう・・、吠えないからたぶん大丈夫。何気ないふりで通り過ぎよう・・。恐くない。恐くない。出来るだけ自然に・・」

でも、近付いて来た・・みな近付いて来る。
そこで気づいた「黒いパーカーにフードをかぶっているから、熊と思われているかも・・」
急いでフードを脱ぐと2頭は目を反らしてくれた。しかし、まだ近付いて来るのが居る。
その時、車が走って来た。
「危ない。轢かれるで!」と怒鳴ってしまったら犬たちはみな去って行った。「え・・私の声が恐かったの?」

「良かった・・」とほっとして少し行くと、近くの山で激しく吠える犬の声と、バーンバーン。バーン。と地響きのような銃声を聞いた。
とても近くで聞こえたので「このまま歩いて居ていても大丈夫かな・・」とは思ったけれど足が止まらなかった。

 近頃は1時間コースを歩いている。足も痛まず疲れもせず、心が晴れて気持ちよいから少しくらいのことでは止まらない。
めったに人に出会わず、広々と舗装されたなだらかな坂道を登り詰め、大きく回って後は緩い下り坂というお気に入りのコースなのだ。

錦に色づいた山に向かって迫って行き・・いや、近頃はずいぶんセピア色になったけれど・・、帰りは、遙か藍色に重なり合う山の峰・・目の上には夕焼け雲を見て、広い道を独り占めして下っているとなんて贅沢なことだろうと感動するのだ。
その頃になると手袋を脱いで腕まくりをしたくなる。肌にじっとりと汗ばむのを感じる。だから一枚脱いで来るのだけれど・・。

 あの時「猟犬君に狙われているのかも・・」とちょっと恐い思いをした、「カカオ70」のチョコレートを口に放り込む。
「お菓子なんてね、絶対に上げてはいけないだろう・・彼らはお仕事中だから。」あの時は、ブラブラしている様に見えたけれど銃声の前後に吠え立てる声には迫力があった。

猟犬君に出会った場所まで戻って来たとき、脇道に止まったトラックの荷台に白い犬が入ったゲージが数個積まれていて、軽トラの荷台にチラッと何かが見えたように思った。
「あるいは・・」と後戻りしてのぞき込むと、イノシシらしきものが見えた。

「わーお、すごい!あの猟犬君やるなぁ、漁師もすごい腕なんだ。」本当は側で見たかったけれど、婆さんだし・・邪魔だろうし・・とあきらめる。
頭の中で「ジビエ」という言葉が広がった。いや、いや・・決して欲しいわけではなく、好きなわけでもなく・・単なる知識。

このことをはっきりしておかないと、近頃頭の中で「欲しい」と思った物が次々と届いてしまうので・・、あまりにそういうことが続くので・・思わないようにしなければならないのだ。
白菜が「美味しそう」とか、喉が渇いて木に成っている蜜柑を「美味しそう」と思っただけでどさっと届いたのだ。万一、イノシシがどさっと・・それは困る。非常に困るから。
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「目が見えるようになることです」 マルコ10章(Ⅲ)

2016-12-09 17:47:38 | Weblog



一行はエルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。
すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。


「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

「捨てなさい」と話されたイエスさまは、ご自身のいのちを与えるために十字架刑に向かって行かれる。これから起こることを詳しく話されたが、彼らはまだ理解することができないでいた。
聞いたみことばは時が来るまで内に蓄えられる。その多くの蓄えの中から、時に相応しく示してくださるのは聖霊である。
日々みことばを蓄え続けることで、より的確な導きを得ることができるのである。

ヤコブとヨハネは、「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」と求めた。
イエスさまの栄光の座は、神様のご計画が成就する十字架であり、その右と左に備えられたのは強盗である。
何を願うのか・・何を求めるべきか・・人は聖霊に拠らなければわからない。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
弟子の選びは、先立つイエス・キリストの跡を行くためである。事実、彼らは聖霊に拠ってそのように生きる者に変えらた。ご真実な主はペテロの告白を完成され彼は殉教した。
「あなたのためには、いのちも捨てます」(ヨハネ13:37)

 イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。


バルテマイは「ダビデの子のイエスさま」と知って叫んだ。大ぜいでたしなめられても叫び続けて止めなかった。
彼は、人にどれほど退けられようとも「イエスさまに声が届けば聞き入れられる」と信じた。イエスさまがそういう方であると信じたのだ。

すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。


バルテマイは、それまで生きてきた乞食の上着を脱ぎ捨ててイエスさまに来た。子どものような瞬時の信仰は、逡巡も駆け引きもなくてきよい。
金持ちは、それまでの善行の上に永遠のいのちを積み上げようとした。彼は「イエスさま」とは最後まで叫ばず、「永遠のいのち」である方を目の前にしつつ、それまでの生き方に戻って行った。

そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
このことはキリストとの甘い交わりである。主が初めから知っておられることを問われるのは、関係を深めるためのコミュニケーションである。その時、私たちも心の内をすべて話すことができる。それは神の家族の会話であるから・・。

イエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
「行きなさい」に対して、「ついて行った」は面白いと思った。
まったく新しくされた人生をイエスさまと過ごしたかったバルテマイは、一緒に居ることを許され聖書にその名が記された。

キリスト者もイエスさまと居ることが許されている。
日々「目が見えるようになることです」と霊の目が開かれ、新しくされることをことを願いつつ・・イエスさまの行列に付いて行く。
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一心同体 マルコ10章(Ⅱ)

2016-12-08 17:37:02 | Weblog



 私が「洗礼を受けたい」と主人に話したとき、「俺を折伏しょうと思うな」ひとこと釘を刺して許してくれた。主人を説き伏せるような、そんな賢いことができる私ではないので素直にうなずいた。

それから30年後のお正月に、主人は仕舞い込んでいた洗礼の申込書を探し出しかしこまって記入していた。
私は一切関与していなかった。いや、暮れにちょっとした喧嘩をしていたのだ。主人の不信仰な一言に私が切れて・・。

 30年間主人の救いを祈りつつ、みことばに信頼して待っていた。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:25)
主がすべての事を通して祝福を見せてくださる中で、いつの間にか主人も偶像を拝むことを嫌うようになり・・、いつの間にか事があれば祈るようになって、いつの間にかいつも祈るようになって、朝ごとに一緒にみことばを読むようになって行った。

 しかし、主人がようやく教会に通うようになった頃に、私は主人を置いて教会を出た。
そのことを、私は主人を捨てた(主に在って)と思っていたけれど、今日みことばから私たちはあの時も一緒に居たのだと気づかされた。一心同体なのだから捨てることなどできないのだ。

主人にも教会を出る理由を話さなかったが、不思議なことに私は一度も責められなかった。そのことを問い詰められることもなかった。
本当なら、「主人が片身の狭いを思いをする」と考えるべきであったが、その時はすべてを主に丸投げして走り出していたから・・。

でも、私はひとりで走っていたのではなく、主人も一緒に居てくれたのだ。一緒だったから主人はつまづくこともなく、私をそのまま受け止めてくれたのだ。
遠くに通っていた私が夜戻ると、「電話したら迎に行ったのに・・。腹減ってやろ、早う食べ」いつも同じことを言ってくれた。時には駅に車を止めて待っていてくれた。


 私は教会を出て7年後に、主に示されるままに元の教会に戻った。通わなくなっていた主人もいつの間にか一緒に通うようになった。その頃の日曜礼拝は、宝物のように楽しい時間だった。往復の時間を一緒に過ごすことはとても楽しい時間だった。

主人は洗礼準備の学びにひとりで教会に通い出した。悪性リンパ腫と肝臓癌の宣告を受けて、医大に通うようになり、体は日毎に弱っていったけれど・・誰もそのことに気づかないほど守られていた。
しかし、学びから帰って「今日は、話しが長ごうなって疲れた・・」と言うこともあり、私は洗礼が先延ばしになっていることに内心ハラハラしながらも、主に信頼して待っていた。

やっと7月に洗礼の日が決まった時、大川での洗礼ということに愕然とした。主人は「今日下見をして来た」と言ったが、河原を歩くことさえ疲れただろうと身の縮む思いだったから・・。
流れの中での洗礼には「もし、何かあったらどうしよう・・」と、思わず主人に言ってしまった。
「介添えしてくれるから大丈夫。」その言葉も心許なく思えた。

ただ、主に「すべてを備えて、安全に導いてください」と祈り続けた。それでも夜も眠れない日が続いていたが、台風が来て大川は増水したことで、主が完全に備えてくださったこと深く感謝した。
洗礼式の日、雨空が一転して雲間から燦々と陽は降り注ぎ、洗礼槽から出た主人を光で包んでくださった。

 それから三ヶ月後、「もうええ。ありがとう。」と何度も繰り返した後、
先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。
主人は先に、イエスさまの御許に召された。
私の手の中で・・その瞬間が何時だったのかわからないほど静かに・・。

創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。
それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。
こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。
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イエスさまに見つめられて マルコ10章(Ⅰ)

2016-12-07 20:03:28 | Weblog



 パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。
彼らがイエスさまを試す動機はいつも否定するためであったが、イエスさまは彼らに御父を語り続けられた。

創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。 それゆえ、人はその父と母を離れて、
ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。


神様が創造された結婚という形に、モーセによって離婚というヒビを割り込ませたのは人の頑なさであった。
パリサイ人もその頑なさによって、キリストのわざを見ても信じようとはせず、教えを聞いても悟ろうとはしなかった。

キリスト者はキリストの花嫁。みことばだけを頼りに生涯キリストに添い遂げる者であり、他の人を頼りにすることは姦淫を犯すことである。


 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」


「子どもたちを来させなさい。罪人を来させなさい。」とイエスさまは言われる。間に割り込んで妨げる者に憤られる。
人の肉性は立派な人を集めようとするが、イエスさまは罪人をあがなうため、病人の医者として来てくださった。イエスさまが求められるのはそのような者であった。

だから弟子たちがイエスさまのお側に居ることが出来るのであり、今、私たちもイエスさまに居ることが出来るのである。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。
弟子に、宗教者に、今私たちに言われる。

 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。


彼は「イエスさま」に来たのだろうか・・、「尊い方」を求めて来たのだろうか。「誰を求めるのか」「誰に聞くのか」「誰に祈るのか」そのことが、いのちの分かれ目である。
誰であっても、「イエス・キリスト」に拠らなければ救いはないのだ。

「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」


彼は良い環境で育ち、立派で礼儀正しく完全な人である。何より彼の優れている所は、「永遠のいのちが自分の行いによって得られた。」とは思っていないことである。

イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

イエスさまは彼の良い行いをいつくしみをもって見られた。今も人の「良い行い」をいつくしみをもって見ておられるだろう。
しかし、十字架をもってしても救えないイエスさまの悲しみが、彼を見つめるひとみの奥に見える。
「欠けたことの一つ」は、どうしても必要なことであった。
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ10:42)

いのちの救い主であるイエスさまのことばを選び取らなければ、どんなに良い行いを持ってしても、「永遠のいのち」と引き替えることは出来ない。
彼は永遠のいのちであるイエスさまのことばを捨てて、必ず滅びる世の財産を守った。

イエスは、彼ら(弟子)をじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

その時まで、すべての正しいことを自分で成し遂げることが出来ても、出来ないみことばに出会ったら、「どんなことでも出来る」主に叫ぶべきである。
イエスさまのいつくしみにすがって「私が財産を捨てて、永遠のいのちを選べるように助けてください」と彼も叫ぶべきであった。

ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。


弟子たちは、いとも簡単にイエスさまを選び取ることができた。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)

とても厳粛なことである。私たちもそのように選ばれ、キリストに依って信仰は守られている。主のお憐れみに深く感謝するばかりである。


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