石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

告白 (マルコ8章)

2016-11-29 13:57:19 | Weblog



ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
ペテロがイエスさまを告白したことで、イエスさまはこれからご自身に起こることを話された。

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
しかも、はっきりとこの事がらを話された。


 ペテロに在ったキリスト像は、人のために病人を癒し、悪霊を追い出し、パンを増やして人々を養い、やがてはローマに占領されている地を解放する王であった。
ましてや、最悪の十字架という刑に処せられ死ぬ・・そうして・・いや、それは彼にはあまりに愚かなことであったのだ。

するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」


イエスさまは「さがれペテロ」とは言われなかった。そこに変わることのない深いご愛を感じる。主はペテロの中に働くサタンの計画を退けられたのた。
サタンが十字架刑を思いとどまらせようとすることはない。ユダを使う手間がはぶけるのだから・・。此処にあるサタンの計画は、人が「神のことを思わないで、人のことを思う」である。

それは、人間中心のヒューマニズムに神が仕えることである。しかし、イエスさまの十字架は御父なる神のご計画によることである。イエスさまは御父のみこころを行うために来られた。人の救いにおいて似ているようでもそれは全く違うことである。

ペテロの考えはすべての人にわかりやすく、人から出たものは人に理解できるが、神のご計画は人の魂に逆らうものである。神は霊であるから、霊のことは霊に拠らなければ理解できないからである。
だからみこころを行うとき、親しい人からいさめられることになる。イエスさまも家族から理解されることはなかった。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」


人の拍手喝采を得て銅像を建てられても、いのちを失ってはそれは空しい。人の命は草の露のようである。
自分の心に逆らっても、みことばをそのままに受け入れ一歩踏み出すことは、「自分の十字架」の重さを実感する事である。でもその時に、先を行かれるイエスさまの十字架を見ることができる。

自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。


みことばをはっきり語れないのはイエスさまを恥じるからである。神の計画を恥じるからである。ペテロと同じように愚かさを感じて恥じるのである。
しかし、イエスさまはペテロの「あなたはキリスト」という告白に、十字架から再臨までをはっきりと教えてくださった。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)
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「そうまでいうのですか」 (マルコ7章)

2016-11-27 11:44:36 | Weblog



娘が悪霊につかれた異邦人の女は、
「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」と、イエスさまのお言葉を願ってあきらめなかった。

そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

主のお言葉を求めて、「そうまでいうのですか」と言わせた女は、願って止めなかったことで悪霊に付かれた娘を救った。イエスさまの言葉を頂いたなら願いは叶う。

 外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。
日々のみことばをこの女のように求めるなら、内側の悪いものを追い出して自分を救うことができる。

日々みことばを求め続けることは、イエスさまの御力を経験し続けることである。キリスト者の守りはみことばに備えられている。

人の言い伝えの混じらない純粋なみことばを主から聴くためには、主が「そうまでいうのですか」と言われるまで食い下がる必要がある。この女の熱心と謙遜が要るのである。

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「しっかりしなさい」(マルコ6章)

2016-11-25 18:53:47 | Weblog



 イエスさまはお弟子に「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われた。男だけで五千人にもなる群衆に弟子たちは戸惑う・・、
イエスさまは「パンはどれくらいありますか、行って見てきなさい」と言われ、お弟子は群衆の中に五つのパンと二匹の魚を見つけた。

主が「しなさい」と命じられる時は、すべてを準備してくださって、ご自身を経験させようとしておられるのである。
弟子たちにパンを見つけさせることは、私たちにみことばを思い出させようとされるようだ・・。今、わずかな手持ちのみことばによって主のわざをせよと言われる。

 お弟子の持って来た五つのパンと二匹の魚で、イエスさまは群衆を満腹にして残りが十二籠にもなった。主の御手を通るならわずかなものも無限な豊かさとなる。
私たちは、その主を内に宿していることを悟るべきである。それは私たちの内に居られる方を「どなたと心得るか」ということである。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)

主に在る五つのパンや二匹の魚は、どんなに時にも必要を満たす神の豊かさであり、人から出るものは、幾らあっても必要を満たし得ない貧しさを持っている。だから、神ではなく人に頼るならキリスト者といえども貧しくなる。

 それでも、主は悟りのない者の困難をもちゃんと見ていてくださる。
イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

なぜ、「通り過ぎるおつもりだったのだろう・・」と思い巡らせていて気づいた。
舟を出すように命じられたのは主である。だから彼らは必ず無事に着く。イエスさまはお弟子がお言葉に信頼して、事を成し遂げ成長するのを期待されたのだ。

それでも主は放って置けなかったので側まで来てくださった。まるで歩きかけの子どもをハラハラと見守る母親のように・・。
キリスト者は、主に信頼するなら水の上さえ歩ける者なのだ。
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戦友Ⅱ

2016-11-24 17:33:31 | Weblog



 月曜日に37年ぶり、聴覚障害のある子の幼稚園児時代を共にした戦友との再会を果たした。
約束の場所に十五分前に無事に到着して、改札口でドキドキしながら・・行きすぎる人を見回して待った。「分かるかな・・少なくとも私が見つけない限り、向こうからは無理だろう・・」私の37年という月日は無残なのだ。

時間ピタリに歩いてくる姿を見つけた!彼女だとすぐに分かり走り寄って、「あ~っ」と声を上げながら体をぶつけて抱き合った。過ぎた年月を一瞬で飛び越え3人揃うとまた若者みたいに抱き合った。

 準備された部屋は掘りごたつのある個室で、二席をゆったりと独占させてくださった。料理を運んでくださる方々もとても感じが良く、ゆったりと和食を頂きながら4時間以上も話し続けた。
帰りの喫茶店も貸しきり状態の中でまたまたおしゃべりは尽きない。
私がコーヒーをお代わりしたとき、「そういえば、昔からコーヒー好きだったね」と言われて、私はすっかり忘れていたので「そうだったのか・・」であり、そんなことも覚えられていたことが嬉しかった。

「今、どうしているの。」から始まり、「あの時は・・実はね」なんて少し涙ぐんだり・・、
私は「長男に負い目がある」と心に掛かっていることを話した。完璧であると思っていた二人が「私もそのことは同じ」と言ったので驚いたけれど、「でも、それで彼らはとてもしっかりしているよ。」には皆爆笑。
彼らは、かまってもらうこと無く自立させられてしまったのだけれど、今はすべてが益になって笑うことができる幸せを分け合った。

子供のこと自分のこと夫のこと・・孫のことまで、ほとんど笑い話にされていたけれど、彼らの成功の話は素直に嬉しくて「ほめてあげたい」が満載だったけれど、子らが中年であるということには一様に愕然とした。
しみじみと「本当に良かった、いい歳のとり方をしたね。そのことが一目でわかったよ」と心の底から喜びあったのだった。

一人が「今度は泊りがけで・・」とふっと言って即座に決まりとなった。春になったらまた戻ってくるという約束を交わし「わ~ぁ楽しみだ。今度は温泉にも入って一晩中しゃべろう」ということになった。
「体に気をつけて、必ずまた春に会おうね。」強くハグして何度もなんども手をふって別れた。

 帰りの車窓は真っ暗で、降り出した雨粒がガラス窓に筋を描いた。明るい駅に降り立った時、タクシーを横目にして心を沈めるために歩くことにした。
傘をさして少し濡れながら暗い道を行くうちに、少しずつ舞い上がっていた心も落ち着いて地を踏みしめて歩いた。世に生きることにも後ろ向きにならないで・・と、春の会う日を静かに思った。
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「恐れないで、ただ信じていなさい」 (マルコ5章)

2016-11-23 15:13:08 | Weblog



 「死にかけている娘を助けてください」という会堂管理者の願いによって、イエスさまは彼の家に向かわれた。しかし、途中で娘は「亡くなった」という知らせが届く。
イエスさまは「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われた。

彼はイエスさまの言葉を聞きつつ黙って家に向かって歩いた。間に合わなくさせたのは押し寄せる群衆であり、途中で割り込んできた女の癒しのためであったが・・。
彼はこのことに何も言っていない。生死を越えて、あらゆる状況を越えて、イエスさまの言葉が彼の中で一番になっていたのだ。信じるとはこういうこと。

彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。


イエスさまのお言葉を笑う者は外に出される。信じるためのわざさえ見られなくなるのだ。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(ヨハネ14:11)

側にいることがゆるされたのは、弟子三人と、ただ信じてイエスさまを案内してきた父と母だけであった。

そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。


少女は、イエスさまのことばの力によって起き上がり歩いた。
イエスさまに救われた者もただ、みことばの力によって信仰生活を生きるようになる。それは全く自分の力ではない。
イエスさまは、見ることを許されなかった者には語ることも禁じられた。変貌の山でもその様子も話すことは禁じられた。ヨハネもパウロも秘密を持っていた。時が来るまで語れない言葉がある。

少女は此処で生きて行く。誰もが彼女を見るが父母は何も説明する必要はない。ただ、食事をさせて・・夜は寝て朝は起きそうこうすればよいのである。主は証し人を仕立て上げることはされない。
彼女はイエスさまに頂いたいのちのままに生きて行けばよい。彼女の内に蒔かれたいのちが神の栄光を証しするからである。主は群衆の歓声ではなく小さないのちを通して栄光を現してくださる。
群衆の歓声は、すぐにも「十字架につけろ」という声に変わるものであることをご存じだから・・。

この時、ペテロとヤコブとヨハネ以外は一緒に行く事を許されなかった。変貌の山(マタイ17章)でも一緒に行く事を許されたのはこの三人だけであった。
「信じるために備えれたわざを見たい。イエスさまに選ばれたい。」と私は切に願う。御国では絶対出来ない経験がこの世にあると思うから・・。
「誰でも」ではないことが聖書の中にとても厳粛な事実として書いてある。だから、「主を求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」と言われる。
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神の国 (マルコ4章)

2016-11-22 17:05:17 | Weblog



 聖書を順序に従って読んでいるときは良く分からないけれど、読み終えて祈りつつ振り返った時に、パラリと開かれることがある。

「神の国は、・・からし種のようなものです。地に蒔かれるときには種の中で一番小さいのですが・・」

「神の国」が「小さい」とは何を指しているのかと、主に問いつつ読んでいた。そうして、4章を読み終えたとき「ああ・・」と気づかされた。
「イエスさま」を知ったばかりの時、私の中でそれはからし種サイズの一縷の望みだったことに・・。

「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」

その望みを抱きしめてみことばと共に暮らす中で、徐々に確信を深め、生ける神の言葉であるという経験を積ませてくださった。
そうしていつの間にか私の心の中に深く根を張り、枝を張っていのちを養うすべてとなっている。

 私の中の「良い地」とは、蒔かれたみことばを抱きしめた心。みことばの真理を求め続け、ただ主を知りたいと根を張って行った場所にあった神の国。
三十倍、六十倍、百倍という数字が何を表しているのかは、まだわからないけれど・・。

聞く耳のある者は聞きなさい。
また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。


みことばをどのように量るかに注意しなければならない。私が量るように神は私を量られる。おろそかに量ればそのように、それなりに量ればそれなりを受ける。
命がけで量ればキリストの十字架に拠るいのちを、今すぐにまるごと量り与えられ、決して暗闇で歯ぎしりするような結末はない。
そうして増し加えられるものは・・今は想像もできないいのちの冠。

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霊に拠る家族 (マルコ3章)

2016-11-20 16:48:23 | Weblog



汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。
イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。


 サタンも悪霊もイエスさまを良く知って居る。しかし神を証しするのは神ご自身である。悪霊どもがどれほど良く知って居ても、神様は彼らにご自身を評価させなさらない。
主を証しすることはキリスト者に与えられた特権なのだ。主は、今内住のキリストに在ってご自身の評価を委ねてくださっている。

 イエスさまはいろいろな悪口を言われた。「気が狂っている」「ベルゼブル」「民衆を惑わしている」「大酒飲み」「私生児」などなど・・。
だからキリスト者が世にあって非難をされたとしても驚くことはないのだ。自己弁護に奔走する必要もない。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

 みことばを丸ごと信じて、家族の人生を神の約束に賭けるようにして進む時、その判断に「私は狂っているのではないか・・」と感じることがある。正常な?古い価値観も残って居るからである。
ただ、私にはそのせめぎ合いは続かなかったけれど・・、キリスト者としてみことばに拠ることで狂うのなら、それも本望だと居直ってのことである。

信仰の深みは、一歩踏み出す毎に経験するもので、その果実はみことばの楽しみや、日々の平安、祈りによる主とのお交わりの喜びである。他にも、すべてのことにおいて備えられているが・・。
家族を道連れにするのは祝福を家族ぐるみで受けたいからであり、良い事も悪いことも家族なら共にそこを過ぎるのは当然だと思う。
「狂っている」ように見えるのは、神の価値観は人の価値観とは真逆だからであり、それまで経験したことのない価値観だからである。

マリヤと兄弟がイエスさまの悪いうわさを聞いてやって来た。心配をしてのことだろう。しかしその時のマリヤたちは、イエスさまを中心とした神の家族の中には入れなかった。
イエスさまの家族に入る者は、世の非難や障害を信仰によって乗り越え新しく産み出されて迎えられるのである。
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神の権威を見る(マルコ2章)

2016-11-17 17:01:47 | Weblog



 先日、何十年ぶりに会う約束をした方から野菜がどっさり送られて来た。退職されたご主人との仲睦まじい家庭菜園作。都会から田舎へ逆送・・ふふふ。
電話を頂いた時、「ひとり暮らしなので送らなくてもいいよ。今度会う時に、サツマイモを1本持って来て」と言っておいたのに・・。

箱の中に人参を見つけて驚いた。
ウオーキングコースには畑が広がっており、元気な人参の葉っぱを見つけて、「自家栽培は美味しいだろうな・・」とつぶやいたことを思い出したからである。5本の泥付き人参が「聞いていたよ。」と微笑んでいる。

 以前にも、コースの途中に積み上げられた椎茸の木を見て、「主人が居たら作ってくれていたのに・・。」とつぶやいた直後に、地域で初めて椎茸木が販売され、家まで配達してくださったことがあった。

それほど椎茸が食べたいわけではい。人参はどこででも売っていて高いと言ってもしれている。
私の喜びは「主に、些細な願いさえも知られている。」という充足感であり、しるしのようにその形を目にする喜びである。


 それでも、願い続けてまだ見ることのないものがある。
日々、細やかにすべてを知って居てくださる主だから、それが今「どうしても叶えられない理由」にあるのだと分かる。些細なことではなく、とても重いことなので神の熟慮の中にあり、あるいは人に委ねられた選びの中にあるのだと、主に信頼して待っている。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:25)


 イエスさまが中風の人を癒されるとき、
「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。律法学者たちは、心の中で言った。
「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」


律法学者の「罪を赦すことができるのは神だけだ」と言う言葉は正しい。
なのに、イエスさまが罪を赦す神の権威を「いやし」という形で教えてくださったとき、みなの者は神を崇めたが、律法学者はその「みな」の中に入っていなかった。
彼らは知識によって神のキリストを裁いたが、理屈によって自分のしていることに気づかなかった。
無学な者や罪人にも、主はわざによって神の権威を知らせてくださる。日々の暮らしの中で教えてくださる。細やかにユーモアを織り交ぜて・・。

 私がにらんだとおり、自家栽培の人参は色鮮やかでカロテン充満、大根と千六本に切ってたっぷり作り置きなます。焼き芋はストーブの上。結局、このような贅沢なものが食べたかったとは・・。
出会った時このことを話すかな・・いや、そのような時間はないだろう。何しろ数十年の積もる話しがあるのだから。


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黙って受ける (マルコ1章)

2016-11-16 20:45:15 | Weblog



 今日からマルコ書を読む。
 ツァラアに冒された病人がイエスさまに願ったとき、イエスさまは深く憐れんで手で触れて癒され、直ぐにツァラトが消えた人にイエスさまは厳しく戒めて、「誰にも何もいわないように」と命じられた。

癒し主のあかしが禁じられるような、不思議な箇所だと思っていた。
聖書の中でイエスさまの癒しは沢山書かれているが、その方法も癒された人の身の振り方もひとり一人に違う。
ある時は付いて行くことをゆるし、ある時は家に戻るように言われる。ある時は証しを用いられ、ある時は禁じられる。
神様が人を同じようには造られなかったように、私たちに持っておられるご計画はそれぞれなのだと思う。

 また、モーセは初めに杖で岩を打って水を出すことを命じられたが、次は言葉で水を出すようにと言われたことを思いだす。彼は経験に頼って再び岩を打て失敗をしている。(出エジプト17:6。民数記20:11)

みことばは経験に拠らず思い込みを捨てて、何時も初めてのように聞く必要がある。「今、私に何を命じておられるのか」と・・。
このように聖書を読むとき、繰り返し繰り返し同じ箇所を読んでいても、その度に新しいいのちにふれることができる。このようなことを聖書以外で経験することはない。

 しかし、癒された男はふれ回り言い広めた。
人が、憐れみを受けたとき何かを差し出したい、何かをしたいと思うのは「ただ受けるだけ」ということに重圧を感じるからでもある。

主は時に、「黙って受ける」ことに人を閉じ込められることがある。長い時をかけて受け続け、自分には主からたまわったもの以外は何も無いことに気づくのだ。
押しつぶされた葡萄がぶどう酒として熟成するのを待つように、人にそれをさせなさることがある。
水を一瞬にぶどう酒に変えることの出来る方が、ゆっくりと待ってくださることがある。
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追悼

2016-11-14 16:15:37 | Weblog



 いのちの恩人である友が天に召された。私よりもずっと若い方なのに・・癌との壮絶な戦いの後であった。それでもご近所の方は笑顔を見たばかりだと言われた。
訃報を聞いて胸の痛みで動けなくなった。主にすがりみことばに励まされて駆けつけた。
しかし、承伏することのできない現実を目の前にした時、場をわきまえることが出来ない呻きが腹の底から溢れ出た。私はクリスチャンとして、すでに彼女がパラダイスにあることを充分承知しているのに・・。

その日のみことばはローマ14章から「主のために生き、主のために死んだ」であった。それは彼女自身に対する神様の賛辞だと思った。キリスト者にとってこれ以上の光栄があるだろうか。
それは肉にあっては別れであっても霊にあっては喜びであり、生きていても死んでいても主に在っては何も変わらないことの確認となった。肉体は過ぎゆく仮の衣にすぎず、天にて滅びることのない霊の体をたまわり、キリスト者の真のいのちは永遠。こちらが真実なのだと・・。

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7~8)

この「だれひとりとして」と言う言葉に、ヘブル書11章の愛の神による先人への評価を思い出した。主は評価して下さる方と感謝があふれた。


 彼女は私を教会に導いてくださった方である。息子が幼稚園のときご一緒して、引っ越して間もない私に声をかけてくださった。その時、何からか「祖父はクリスチャンでした」と話したことでトラクトを入れ続けてくださった。しかし、それらは読むこともなく引き出しに放り込んだままどんどん溜まっていた。いよいよ行き詰まる日まで・・。
主に追い込まれて行き詰まり、助けを求めたとき車に乗せて「最初はこの方が気楽でしょ」と、教会の女性の集まりに連れて行ってくださった。
我が家の救いの始まりであった。

 聖霊のバプテスマを洗礼前に受けた時、私は無知でその言葉さえ知らなかったが、身に起こった出来事を彼女だけには話した。彼女はなんの疑いもなく、「その時、私も何かを感じた。」と言われた。これはとても不思議なことである。それぞれの家に居て突然の出来事だったのだ。

霊の子どもとしての私を彼女は甘やかしてくださった。私が主を甘いと感じるのはその影響もあるのかもしれない。私はよく信仰生活についての疑問や正論をぶつけて、彼女を「ごめんね、それは私が悪かったわ」と謝らせてしまった。
今思えばなぜ彼女が謝らなければならないのか・・と思うことだけれど、彼女の謝り方があまりに素直だったので、私は自分が何をやっているのか気づいていなかったのだろう。

家柄も学歴もすべてに勝っている立場にあって彼女はまったく謙遜だった。私は彼女の前で自分を卑下したことが一度もなかった。いや、なんだか何時も威張っていた。彼女から霊の子どもという立場の心地よさを何時も味わっていた。

私が入院したとき「腎臓病」と聞いて、6月の初めなのに家にスイカを届けてくださった。じつは病名が間違って伝わったのだけれど、彼女の愛の形が心に焼き付けられている。
また、男だけになった家に「熱々のエビフライを、大汗をかいて持って来てくださった」と主人が繰り返し感動して話した。主人の心にも、彼女を通してクリスチャンの愛が刻まれていた。

 しかし、激しい言葉をやりとりしたこともあった。何も相談せず私が突然教会を離れたとき、「残された者の気持ちを少しも考えていない。」と言われ、激しく言い合ったことがあった。
私が、家族を教会に残したまま20年も居た母教会を出た時のことだった。
そのとき、彼女の神経を逆なでするような言葉を言った覚えがある。それは一生懸命に伝えようとしてのことであって、家族にも説明しなかったことを彼女には伝えようとしたのだったが・・。
その時も、何時ものように紅茶を入れてお菓子を準備してくださった。彼女はそういう人だった。
長い年月の中では近くなったり少し離れたりしても、顔を合わせた瞬間に満面の笑みとなって、元の関係に戻り「話したくてたまらなかった」と互いに言い合った。

 お葬式が終わって家に戻り、「残される」ということの意味に思いを巡らせた。
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」イエスさまは言われた。人はあらゆることをする。でもそのすべてが良いという人はいない。主は御旨に叶った一つを評価してくださる。私の一つは何なのだろう・・と。

神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(ローマ14:17~18)


ローマ14章には、飲み食いのことを通して互いに裁くことの戒めが書かれている。肉のことではなく、霊の平和を互いに追求することであると・・。
私たちの格闘は人の血肉に対するものではない。イエスさまの厳しいお言葉は裁くためではなく、いのちを支払って語られた愛のことば、みことばの剣がどれほど鋭くても、祈りを持って語られるそれは愛である。「主のために生きた」と言う言葉を、真に全うしたいと祈った。

 送迎バスの中で、「賛美歌って心が洗われるようね」話しておられるご近所さんの言葉に、姉妹の嬉しそうなお顔が浮かんだ。
「天へのゴールイン!おめでとう。そうして、本当にありがとう。
直にまた会いましょう。今度は永遠に別れることなく、心のすれ違うこともない完成された愛の中で!」

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