石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

ヨブ記に思う

2016-10-31 13:40:08 | Weblog



 ヨブ記は色々な思い出がある。厳しく取り扱われた箇所だから・・。でも、確かな望みを与えられた箇所でもある。

 ヨブ記を読み始めてまずヨブに「変だなぁ」と思った。
これほどに神様の祝福を受けているのに、神様から子供達を守ろうとしているように思えたからであった。
もう立派な大人である子供達が「あるいは神を心の中で呪ったかも知れない」と代わりに捧げ物をして罪を購おうとした。

その動機が「神様は罰する方」として認識しているように感じたから・・。彼は見えることにおいても非常に愛されていたのにである。
神様を信頼しているなら、子供たちを安心して御手に委ねて導かれ育てられ、自分自身で捧げ物をするようになるのを待つべきである。

 ヨブの3人の友人は素晴らしい。それはヨブがそういう人であったのだろう。とても出来ない忍耐と犠牲を持って側にいて、一緒に苦しんでくれた。
彼らの言葉に誤りや勘違いがあっても、そのような事に出会ったら私も彼らのように話すかもしれないと思う。人は自分の理解できないことが愛する人に起こるとき、自分の考えの中でなんとか解決しようとするものだから・・。

でも、こういうことにもし出会ったら黙って友の言葉に耳を貸し、祈りつつ主を待つべきなのだと教わった。聞いてあげることしかできないのだ・・でも、忍耐が必要だろうなぁ。
しかしそのようにできたら、一緒に神様を味わい喜ぶことが出来るだろう。

 エリフにはなりたくないと思った。彼は年長者を立てているようでも直後に否定している。此処で「物言わぬは腹ふくるるわざ」と同じ言葉が書かれてあるのに驚いた。
私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。
今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。
私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。(ヨブ記32:18~20)


言って気分をはらすというこの霊はなんだろうと思った。そうして彼は「私に聞け」と正しい言葉を語り出す。神様のことばを話すことで自分の腹がすっきりすることはない。自分の言葉を話すから自分の腹がすっきりするのだ。

神様に聞いた言葉を話す時は、腹の奥から絞り出すような痛みと、いたたまれない恥ずかしさが伴う。当たり前である。人が神の言葉を話すのはそもそも無理がある。
それでも・・蓄えてしまった言葉は話し出さない限り次に聴くことができないので、もっと聴きたくて・・仕方なく話してしまうのである。

わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(マタイ10:27)

 神様はヨブに親しく話してくださった。納得の言葉なんかいらない。ただ、神様が話し出される言葉を聴いていることが、うっとりと幸せなのである。それだけで充分なのである。
主は、友人を叱りつつも関係を回復してくださった。私は無視されるよりは叱られる方がはるかに嬉しい。そのように私も何度も叱られたけれど無視されたことは一度もない。
エリフを神様は無視された。勝手に正しいのは空しい。
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賢い娘のように (マタイ25章)

2016-10-29 20:14:45 | Weblog


そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。(マタイ25:1~3)


油は人が支配できるものではなく、自分の分を主から賜る聖霊である。それは絶えず主に在って満たされていなければならない。
救いの希望であるともし火は持っていても、油が尽きては信仰は曖昧なものになり、消えかけたともし火ではみことばも見えなくなってしまう。

愚かな娘も賢い娘も眠ることは同じであっても、聖霊に満たされているなら、起きていても眠っていても、霊は絶えることなく主を待ち望みつつ時を見張っている。
だから安心してぐっすり眠ることも、生活することもできるのだ。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(黙示録3:18)

今は恵みの時、備えのための日である。ゴールが何処か分からない走り方をしないために、残されている日に充分な備えをする時である。
愚かな娘も灯火を持っていたが、花婿である主を迎える日に油を切らせては、望みのないものとなってしまう。

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイ25:10~13)


霊の目を何時も覚ましているために出来ることは、主を知ろうとするすべてである。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)
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鹿鳴く

2016-10-28 19:18:25 | Weblog


鹿鳴きて
悲鳴のごとく
ひとりなり

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永遠のいのちを得るために (マタイ19章)

2016-10-24 13:03:08 | Weblog


ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

彼は「永遠のいのち」を良い行いで得ようとして質問した。行いには自信があったのだろう。イエスさまが並べられた律法はすでに全部守っていると答え、「隣人をあなた自身のように愛せよ。」も・・。

イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

彼の隣人とは誰のことであったのか・・、ルカ10章には、見ず知らずの外国人を介抱した人が隣人だと書かれている。神の言われる隣人は向こう三軒両隣ではない。

神様レベルの「隣人を自身のように愛する」とは、すべてのものにおいて他人に権利を与えることである。だから彼の言葉の実現のために、イエスさまは「全財産を貧しい人に与えよ」と言われた。
去って行った金持ちの彼には、「永遠のいのち」の価値は世の財産よりも低かったのだ。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
と言われたイエスさまは人をよく知っていてくださる。神のレベルと人のレベルはあまりに違う。
イエスさまが、私たちの永遠のいのちのために支払われたのはご自身のいのちである。

イエス・キリストの十字架のあがないを受ける者は、その価値を知ることが必要である。
また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

財産のみならず、愛する家族でさえ捨てて入るところが、天の御国であり永遠のいのちである。
しかし恐れることはない。主は御真実である。私たちが主の前で捨てたものは主のものである。だから祝福し返してくださる。
その時、真に神の祝福にある家族を得ることになるのだ。それは永遠の家族である。

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「からし種(ルカ17章)2015.10.5」の一部を、此処に訂正します。

2016-10-22 13:55:04 | Weblog



イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

「からし種」で「信仰は小さなもので良い」と書いていたのですが、今朝、通読でマタイから同じようなたとえの箇所を読みました。
そこで、信仰は大小ではなく、有るか無いかなのだと教えられました。
「辛子種ほどあれば・・、どんなことでもできる」と書かれてあったからです。

でも、人にはそのような信仰はないとわかります。
しかし、「主の御名はほむべきかな」助け主なる聖霊が導いてくださいます。聖霊は主を知ることを導いてくださいます。そうして、いつしかキリストの信仰に導き入れられて行くのです。
それは、ただ聖霊の助けによることです。

信仰生活は、日々に主のいのちの中で成長して、昨日と今日は違うことを発見します。知らないことがいっぱいなので、礼拝の内に御国に行くまで親しく教え続けてくださるでしょう。
不思議ですがだんだんに分かってくることは、自分が何も出来ない者だということです。
その弱さのうちに主の力が完全に働いてくださるので、弱い者にはどんなことでもできるのです。それが山をも移す信仰なのでしょう。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

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主の豊かさはあふれる (マタイ15章)

2016-10-20 12:48:05 | Weblog



「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。


カナン人の女の叫びをイエスさまは無視された。愛のキリスト・イエスがこのように言われるときは、必ずご計画を持っておられる。長血の女の時も彼女を追い込んで癒された。

しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
厳しいお言葉を受け入れて、イエスさまに女はひれ伏した。そうして動じることなく救いを求めた。

すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」


ここでも女は、「何の権利もない」と言われるイエスさまのお言葉をそのまま受け入れた。
そうして、「主の御救いはテーブルにあふれて、こぼれ落ちるほどに豊かです」と告白したのだ。

そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。


イエスさまは彼女の信仰の告白を、お弟子と私たちに聞かせたかったのである。
この後、再びパンの奇跡が行われる。以前の経験を忘れた弟子たちは「足りない」と言う。

聖書を読んでいて、なぜ悟らないのかと思ってしまうけれど、実際に暮らしの中で幾度も主の豊かさを経験しながら「足りなくなるかも・・」と将来を思い煩うのを見た。
たった5つのパンと2匹の魚で、5000人以上の人が満腹をして12籠もパンが残ったのだ。思い煩うのは聖書を信じていないからである。

「ああ、あなたの信仰は立派です。」とイエスさまはお言葉を準備して導いてくださっている。
祝福をもって溢れる恵みを体験させたいと、「信仰による告白」を待っていてくださる。
その告白とは、私たちがどの様な者かではなく「主はどのようなお方であるか」という告白である。
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成功も失敗も礼拝を深める (マタイ14章)

2016-10-19 12:54:22 | Weblog



「弱さ」
夜中の3時ごろ、湖で弟子達は向かい風と波に悩まされて舟を漕いでいた。その時、湖の上を歩いて来られるイエスさま見て「幽霊だ」と恐れ叫んだ。
屈強な漁師が・・、しかし思いの及ばないことは恐いのだ。人とはそういうもの。

「信頼」
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
その御声を聞いたとたんにペテロの恐れは吹っ飛んでしまった。

「勇気」
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
私は此処が大好きで、ペテロに自分を重ねてしまう。世の波風に苦労している時、また人を恐れていた時も、みことばによって解放されると一気に勇気百倍。
その単純さがとてもよく分かるから・・。

イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
イエスさまもその単純さを愛してくださっていると感じる。みことばに出会って一歩踏み出すことを願ったとき、必ず目の前の状況が開かれたから・・。

「失敗」
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」


「経験」
踏み出したから失敗をする。挑戦したから失敗をする。その時、イエスさまがしっかりと掴んでくださる経験するのだ。
失敗をしなかったら「主の救いは決して遅れることはない」という知識だけ。それは知って居ることではない。
この時の御手の感触を知って居るのは、願って踏み出したペテロだけである。

「礼拝」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。

ペテロの一部始終を見た弟子達も共有して、「確かにあなたは神の子です」と共に礼拝することができた。

礼拝とは、実際にキリスト・イエスを経験して御前に伏すこと。
大小の問題の中で失敗にも成功にも、みことばが生きて働く神の力であることを経験するとき、日々の礼拝は感謝にあふれて信頼は深まり、喜びは尽きることのない賛美となる。
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天の御国 (マタイ13章)

2016-10-18 17:35:42 | Weblog



 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイ13:44)

天の御国という宝を見つけた者は、財産や、世の評判、家族の平和など・・、世のすべての宝と引き替えにしても、まずそれを買い取る。
しかも、大喜びをしてそれを行うのは、それが永遠のいのちに至る福音であることを知っているからである。
しかし、その宝を自分のものとするまでは、それらのことを誰にも隠して行動する。人に話してもその価値はわからないからである。

 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。(マタイ13:45~46)


天の御国は、素晴らしい一つの真珠のためにイエス・キリストのいのちを支払われた。
素晴らしい一つの真珠とは、畑の宝と例えられた福音を選び取ったひとり一人である。ただその行いの故に、神様は「素晴らしい値打ちの真珠」と評価されたのだ。御子のいのちが支払われた高価な真珠なのである。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6~8)

 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ13:47~50)


正しい者とは救い主であるイエス・キリストを信じ救われた者である。悪い者とは救い主を拒否する者である。
神の国に入るには期限がある。今は恵みの日ぎりぎりまだ間に合う。網が引き上げられたあとには裁き待っている。

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気を使わせているのかも

2016-10-17 12:54:01 | Weblog



この夏は、一時食べ物が喉を通らなくなることがあった。かってないことである。
これも年のせいか・・と思ったけれど、一気に気温が下がるとそれに反比例するように食欲が上昇してきた。
食欲を無くした時から、好きなものを作る癖がついたし・・困ったものだ。

昨夜お風呂あがりにそっと体重計に乗ると、なんと・・恐ろしく増えていた。いやいや、昨日と比べてもそれはあり得ないと意気消沈。狂うには買って間もない体重計だ。
しかし・・いくらなんでもそれはないだろうと、計り直すと1㎏以上減っており、体内年齢も1歳下がっていた。

そのとき、孫がカラスを取りなした言葉が出て来た。
「悪いと思ったんじゃない。」
ひとりで爆笑した。
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主イエスよ。来てください。

2016-10-15 22:13:09 | Weblog



感謝の源は十字架 
キリストの血潮に洗われて
「見よ。すべてが新しくなりました。」と聞いた時から・・

喜びは感謝からあふれ出て
朝も 昼も 夜も・・喜びを主に伝え続ける

白い衣を着せられて 天の望みを見続けているから
昨日も今日も ひとり喜んでいる

誰よりも多く赦された者
主は誰よりも多く忍耐してくださったから・・

だから どんな時も人の弱音など語れない
それを口にすることはできない
主にある望みのひとつ覚え

それは不自由?
ええ 世ではどんどん狭量になってしまって
身の置き所が無くなって仕舞ったら
雲に乗って来られる方を見るでしょう

「キリストは・・
彼を待ち望んでいる人々のために来られるのです。」

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