石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

気になって仕方がないこと (マタイ6章)

2016-09-26 10:41:47 | Weblog



 此処数日は雨の降らない日が無かったから、バイクの私は出掛けることも出来なかった。昨日は、久しぶりの晴れ間に生乾きの洗濯物を干して、「私と洗濯物とバイクをお守りください」とお祈りをして出掛けた。

国道を走りつつ、私は未だ「主の祈り」に思い巡らせていた。それは、私にはとても大切なことなのだ。
マタイ6章にはこのように書かれている。

もし、人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。(マタイ6:14~15)


主の祈りとは順序が違う。
それはなぜ?


 私は、一方的で完全な神の赦しがイエス・キリストの十字架によって成されたことを知った時、この身に罪の重荷から解放されたことを確信した。
そうして、臆することなく「アバ、父」と御名を呼んで祈るようになった。
それは主の祈りの初めのことばでもある。

もう決して責められることのない赦しの中で養われて、恨みや怒りや惨めさや悲しみからも解放され、人をフッと赦すことができるようにされた。もちろん、何度も行きつ戻りつしながらであるけれど・・。
そのような経験があるからこだわってしまう。

 
 信仰に入って、聖書とは違うプリントの「主の祈り」に強い違和感を持っていた。でも、そのような自分の心を抑えて礼拝を保っていたのだけれど、もう正直で居よう決めたのだ。
そうでないと異邦人の祈りになってしまうのではないか・・。

「また、祈る時、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。」(マタイ6:7)

聖書の中に、どうしても成し得ない言葉があるとき、みことばによる脱出の道が備えられてあることを発見する。ただ唱えるだけではなく、それを生きたいと切に願う時・・。

イエスさまは、主の祈りの中で避け所を備えてくださったのだ。まず、一方的な救いを準備してくださって、「わたしに似た者にしてあげよう」と導いてくださる。
みことばを生きようとするなら、その必要は必ず十字架に完成されてあるのだ。

こだわり続けるのは、「私たちが赦すごとく、私たちの罪もお赦し下さい。」なら、私は滅びる他ないからである。


 しかし、正しかろうと時に間違っていようと、みことばが私の心や頭の第一を占領しているかぎり、主は私に語り続けてくださることを知って居いる。それが私の平安の根拠なのだ。
思い続けることは愛していることである。そうして、それは決して片思いではない。なぜなら、歴史にちゃんと十字架を見ることが出来るのだから。

どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しに相応しい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとをまっとうしてくださいますように。(Ⅱテサロニケ1:11)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

訂正します

2016-09-25 19:27:49 | Weblog


「てるてるぼうず」において、エリヤの養いを「からす」と書いたのは間違いでした。お詫びして訂正します。
正しくは「主の使い」でした。とんでもない間違いです。他と混同していました。

恐れて弱気になったエリヤへの、主の備えが身につまされて好きな箇所です。
「起きて食べなさい」という主の養いは、私にも励ましのように感じていましたが、大切なことを間違って覚えていました。
「知って居る・・」と思って確認しなかったことで失敗しました。
(Ⅰ列王記19章)

失敗の恥は毎度のことで、恐れないからこんなことをやっているのですが・・、お陰様で正しく覚えられました。
読まれた方には、主が覆って正してくださいますから感謝です。

彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、
「起きて食べなさい」と言った。
それから、主の使いがもう一度戻ってきて、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。(Ⅰ列王記19:5・7)


コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

捧げものイサク (創世記22章)

2016-09-23 15:34:19 | Weblog



神は仰せられた。
「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしが、あなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。

翌朝早く、アブラハムはロバに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとを一緒に連れて行った。彼は全焼のいけにえのための薪を割った。
あなた方はロバといっしょに、ここに残っていなさい。
私は子どもとあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。


アブラハムは、「私と子どもは戻ってくる。」と言ったが、どのようにしてイサクが戻ってこられるのかは知らなかった。
「主の山には備えがある」ことは経験から知っていたが・・。

アブラハムは全焼のいけにえのための薪を取り、それをそのこイサクに負わせ、火と刀をを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

壮絶な旅である。全焼のための薪を捧げものであるひとり子に負わせ、父は屠るための刀と焼くための火を持っての旅である。

イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
「お父さん」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。
イサクは尋ねた。
「火と薪はありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。


アブラハムは主から聞いた言葉に留まることだけを考えて進み、イサクが約束の子であることに安息していたのだ。
主に聞き従うためには、そのすべてが神から発したものであるという確信はが必要である。

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上の薪の上に置いた。

此処を読む度、いつも思う・・。
イサクは何を思っていたのだろうと・・、遠くの道のりを、全焼にするほどの薪を負って旅ができるのだから、抵抗することもできたであろうに。
父の言葉を信じていても、いけにえの羊は見えず、縛られて薪の上に置かれたのだ。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。(イザヤ53:7)


このイサクの静かさに、十字架のイエスさまを思い出す。
御父のことばのままに捧げ物となってくださった方を・・。

アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
その時、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります」

御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしはあなたが、神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」


イサクは救われたけれど、神は愛するひとり子イエスを人の身代わりに殺された。
私たちの罪はそのようにして購われ、私たちは永遠のいのちを賜った。

あなたを大いに祝福し、あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記22:18)

今アブラハムの信仰によって、信じるすべての者が神の祝福を受けている。
主が「捧げよ」と言われるものには途方もない価値があるのだ。イサクは静かにしていた分の祝福を生涯受けた。御手に委ねられた子どもは幸いである。
しかし、それは時に壮絶な旅を経験するのだろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

てるてるぼうず 2016年9月22日

2016-09-22 13:41:50 | Weblog



 しんどくて・・夜も昼も寝ていた。うとうとうとうと・・ふらつきと脱力感がひどくて立っている力がなかった。
たぶん台風の所為でもあるのだ。昔から台風が反れるか来るかは体でわかった。しょうもないことに敏感で・・。

そもそも最近食べものが不味かった。連休で帰っていた息子に「ごめんね、不味いね」と作り方を間違えたのかと誤ったりしていたが、彼は「いや、別に・・美味しかったよ」とぺろりと平らげていたから、私の味覚が変わっていたのだろう。
それでアイスクリームなどを食べていたら胃が痛みだした。

夜昼なくうとうとと寝て、目覚めると適当に口に入れられるものを少し食べて、直ぐに横になると寝入ってしまって・・、そんなこと1~2昼夜ほど繰り返していた。
エリヤが、カラスが運んで来たものを食べてはまた寝た。聖書の記述を思い出していた。

 昔、膵臓癌の疑いがあると言われ検査の続く中、無理やり退院した後に体重が増えていったことに深い安心を覚えたことがある。
退院は信仰に拠ったけれど癒されるという確信があってではなく、主に委ねた大きな賭だったのだ。

だから私は体重が健康のバロメーターなのだ。この値は世間とはまったく違うが・・。動きにくくなったと感じるとそれなりに減らすけれど、内臓脂肪だって標準値であり、見た目がどうであろうと私が元気に動くためには、このままが大切だと信じて疑わないのだ。


 此処に引っ越して来て得た友とは、お茶碗を持って行って「ごはん一杯入れて」「ソース貸して」「あのソース賞味期限が切れていたよ」なんて互いに言い合える仲だった。毎日行き来して毎日笑っていた。

その彼女があっという間に癌でどんどんやせ衰えて行ったとき、私はお見舞いにも行けなくなってしまった。彼女が亡くなったとき、人目もはばからず声を上げて泣いて仕舞ったけれど、とうとう最後のお別れもできなかった。

ただ、楽しさの中に過ごしてしまって、イエスさまを伝えきれていなかったことが悔やまれた。もちろん一緒にお祈りもしたのだから、主にお任せすることなのだと分かって居るけれど・・、痩せて行く姿とともに痛みとなって残って居るのだ。

 だから体調を崩して体重が減るのは恐いのだ。私は体調を崩すとあっという間に1~2キロは落ちる。たぶんそれは筋肉とか水分が減るからだろうとは思うのだけれど・・、そうなるとふらふらと動けなくなる。

だから体調が悪くても不味くても、一生懸命に目覚める度に食べられるものを口に入れ、飲めるものを飲んで寝た。
先日買った座椅子がゆったりふかふかで、手元でリクライニングの調整ができたから、微妙な調整をしながら眠ると腰も痛まず、いくらでもうつらうつらと眠ることができた。昼の間は此処で寝ていた。


 私はめったに寝込むことなどないので、たまに病むとそれだけで気弱になる。体が普段通りに動かなくなって自由が失われると、やはり歳には逆らえないと普通に不安になる。動けない日が来たのかと考えてしまうのだ。

その時、「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」みことばが浮かんできて一瞬に不安は消えた。
「ああ、まったくそのとおりだ。キリストに在って生き、キリストによって御許に召してくださる。どちらも主の最善、御国は私の喜び」と瞬間に深い平安に包まれた。

いずれその日が来る。いずれ動けなくなる。でも、此処を通過してイエスさまの御顔を見ることになるのだ。
すべては主が最善に備えていてくださる。生きるも死ぬもみこころのままに・・。

 その後はすっかり身を任せて、台風のニュースを流し続けるテレビをうつらうつらと・・、風の音に目覚めたけれど雨の音を聞きつつまた寝落ち・・、お陰で台風を恐れる間はまったくなかった。

食事をして少し元気が出てみことばを読み・・またうつらうつら、少しお菓子をつまんでうつらうつら・・
イエスさまの眠っておられる舟の中で眠っているように・・。


 主人が「癌が全身にちらばっている」とかかりつけ医に突然告げられてから、召されるまでの一年半とても静かに落ち着いて生きたことに、改めて気づいた。
検査検査の通院をしながらも、畑仕事や洗礼の学びに教会へ通った。死を恐れたり、狼狽して取り乱した姿を見たことは一度もなかった。

亡くなった後でご近所さんに、「なぜ、急に・・」とびっくりされるほど、病気であることに誰も気付かなかった。癌が主人を支配することは無かったから、口にするタイミングもなかったのだろう。
私にさえ愚痴を言ったり恐れを口することはなかった。ただ、入院だけは拒んだけれど・・。

入院をして取り乱した主人を見たとき、すぐに「帰ろう」と決断できたのも、それまでの主人の落ち着いた様子を知っていたからでもある。
これはよほどのことなのだと・・病院でがんじがらめになって、一切の自由を失うことは死ぬよりも嫌なのだと察したからであった。

事実帰って来て、「ああ、気持ちええなぁ・・」と畳の上で手足を伸ばしている姿は幸せそうでさえあった。
それから20日間ほど・・何も食べられず点滴のみでだんだん弱ってゆくばかりだったけれど、お医者さんも驚くほど、苦しみはない様子で静かに静かに寝ていた。

顔を拭いたり口をゆすいだり、そんな当たり前のことさえ「ありがとう」「ありがとう」と言いながら、最後まで自分でトイレに行こうとした。
本当はちょっと気を使い過ぎだ。もう少し我が儘も言って欲しかったけれど・・。

 今回、私も主人のように死ねたら幸せだと思った。最後に「もうええ、もうええ。ありがとう。ありがとう」声がでなくなったら手話で言っていた。
主人の時は、友の時に受けた痛みはなかった。最後までなぜか幸せそうでさえあったから・・、私は主人の内に居てくださるキリストを見ていたのだろう。

 孫から手紙が届いた。このタイミングはとても嬉しかった。
ユニークな手作り「ばあちゃんカード」が入っていた。自分のマークの「花丸音符」が書いてあって、おばあちゃんもじぶんのマークを書くと、「これを見せれば、ばあちゃんとわかる」と書いてあった。これは便利と早速自分のマークを作った。

ウサギの小さな人形やてるてるぼうずも入って居たから、ふらつきながらもさっそく窓辺にぶら下げた。
今、天気予報には欠片もなかった太陽が「てるてるぼうず」を照らしている。久しぶりの青空の下生乾きの洗濯物がからりと乾いた。ありがとう!
もう、しゃんと立って深呼吸。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。 (雅歌3章)

2016-09-17 14:22:29 | Weblog



私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。


眠りの中でも主を探して彷徨い、追いつけない夢に焦っていても目覚めて残るのはなぜか甘さ・・、だから夜には、また夢を慕って眠りに着きます。

彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。

見つけ出した方は、日々新しく産み出すように愛を語っていのちに満たしてくださいます。

エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。

私は主のうちにまどろんでいます。此処に何時までも居らせてください。
まどろみの中にも主に拠って運ばれており、城壁をも飛び越えているのです。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

記憶 

2016-09-15 18:40:25 | Weblog



 うっとうしい空の下、手に食い込む買い物袋を下げて頑張って歩いていた。
ちょっと近道をしようと路地を曲がったとき、主人がその家の仕事で怪我をした事を思い出した。

チェンソーで切り倒していた木が、足の甲に落ちて来たのだった。怪我を知ったその家の人が「医師と親しい」と連絡をしてくれた。
一緒に仕事をしていた彼の車で走って下さったが、無傷に見える主人は医師にまともに相手にしてもらえず、けんもほろろの扱いを受けたという・・。

彼は家まで連れて帰ってくれたものの、「もう一度他の病院に行こう」と何度も勧めてくれた。事故を目の当たりにしたのだから、傷は見えなくてもただ事ではないと思ったのだ。

 私はその時「天使の守り」と確信したので「大丈夫です」と答えた。私が落ち着いていたので彼も少し落ち着いて帰って行った。
主人は病院の扱いに怒ってはいたけれど、何よりも自分の失敗を恥じていた。何十年も「山行きさん」をして来て、「こんな怪我をしてしもうた」ことを恥ていた。

「あんな太い木が落ちたんや、もう足が無いと思うたで・・」先ほど彼は興奮して言っていた。
しかし、びっこを引いてはいるけれど動けるし、印のようなわずかな傷が甲にあるだけだった。私は血の滲んだその傷に絆創膏を貼った。

「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。(詩編91:11~12)」

主人にみことばをカードにして渡すとずっと車に付けていた。このような折々の主のみわざによって救われたのだ。


 その事故をまざまざと思い出した時、主人が保険金詐欺か何かのように扱われたと、かっての怒りがこみ上げて来たのだ。
しばらく歩いている内に・・はっとした。
今朝、「私たちも、私たちに負い目のある人たちをみな赦しました。」このように祈ったことを思い出したのだ。

「赦します。みな赦しました。」再び祈った。このような時はいつも笑ってしまう。自分の中のどうしようもないネガティブな記憶、何度でも突然吹き出してくる執拗さに苦笑いをしてしまう。

でも、主は何度でも「赦します」という祈りを聞いて、何度でも受け入れてくださるお方。「7を70倍するまで赦しなさい」とペテロに教えたお方は、十字架で完全なる赦しを実現してくださった。
だから赦しの中に自分自身も入れて平安を頂くと、すぐにそんな自分を晴れやかに笑うことができるのだ。


 主の祈りは、キリスト者の一日中続く祈り。
その祈りを「イエスさまが教えられた祈り」と言いつつ、聖書とは違うものを早口で唱える。私はそのことがあまりに苦しくて教会に出席出来なくなった。
ピリピ2章を読んでいて、
「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志をひとつにしてください」というパウロの言葉に胸を刺されたとき、
間を置かず、「御父と御子と聖霊の交わりに身を避け、公同の教会に在って神の愛に浸って居なさい」という導きを頂いた。今はそこに安息している。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

くすぐるように 2016年9月13日

2016-09-13 11:11:29 | Weblog



 「あいづちロボット」の記事を読んで、ああ、主人が私に求めていたものだ・・と可笑しかった。
主人はあいづちだけを求める時があり、私は理解を深めたくて理屈を言うから衝突することがあった。「『そうやね。』って言え」と言っていたことを、少しの同情と共に思い出して・・。

ロボットには内容はもちろんわからないが、言葉の抑揚などに合わせて「うん」とか「はい」とか答えてくれるという。
でも、ウサギのとこちゃんでさえ「かわいいね。」と話しかけるとスリスリと鼻面を突き出して寄って来ても、「どうしたらいいと思う・・」などと悩みをぶちまけていると、必ずクルッと背中をむけられたのだ。
生きものならおおよその感じが伝わるから、いつでもってあいづちを打ってくれるとは限らない。確かにロボットなら可能な世界なのだろうなぁ とアハハ・・だったのである。

 ひとり暮らしの中で主は時々笑わせてくださる。
クスッとだったり、アハハ・・と爆笑だったり・・。ひとり暮らしで笑っているのを聞いた人はちょっと恐いかも・・。
でも、主が笑わせてくださるときは幼子のようになる。だから嘲笑は決してない。

私がもっとも多くお話するお方は主。何でも話す。打てば響くように答えが返って来た時はそのみことばを抱きしめる。
今日はエペソ16章を読んでいて「天にいるもろもろの悪霊」という言葉に、「嫌だね。もろもろの悪霊のいる天なんて・・」そう思ったので主に尋ねた。

すぐに「みこころが天になるごとく」と示された。
ああ、そうか!って、天はみこころだけが成る所。何が居てもみこころしかならないのだ。それが地との大きな違い。

疑問が解かれることはとても嬉しいのだけれど、もっと満足を得るのは御父、御子、聖霊の御交わりに居らせていただけること。それ以上の喜びは他にない。
ほとんどひとりなので、そういう意味では淋しい時があるけれど、主は時々くすぐるようにフッと笑わせてくださるからそれはとても甘いのだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

律法

2016-09-11 11:01:21 | Weblog



 病弱な人に「完璧な健康」を示しても、それによって完璧な健康を得ることはできない。彼は生まれつき弱さを持っているのだから。彼の体が遺伝によってもそのように出来ているのならなおさらに・・。
そこで、「しかし、あの人よりはずいぶんマシだ」と言う逃げ道を作って生き、あるいは、共にこの苦しみを分かち合いましょうと言う。

律法は「神の義」を人に示した。しかしアダムの血筋にある人には、産まれながらの罪の性質にあって、完全な善を行うことが出来ないのだ。神はなぜできないと分かっていることを示されたのか・・。

 それは、神がやがて子として迎える者のために、養育係として律法を与えご自身の聖さの基準を教えようとされたのである。
子が親を知らないままでは、完全な親子ではないからである。

神様は初めのご計画通りにひとり子イエスを遣わし、十字架に律法を完遂させて人の代表として下さった。
このあがないを信じる人は、イエスに一つとされてその聖さの中に入れられた。
「人にはできないことが神にはできる。」(ルカ18:27)
これはただ信仰によることである。だから信じる者のその聖さは完全なのである。


 しかし、人は、律法という物差しを他人を計るために用いて「あの人よりはまし」とそれを比較するための道具とした。
また、自分に対しては「明日は、今日より良くなろう」という努力目標として祭り上げてしまった。

此処には真摯に罪に向き合うことはなく絶望もない。死ぬまで続く明日という逃げ道があるからである。
神の救いは、自他に頼る希望に在るのではなく、自他への絶望の中にこそ脱出の道が備えられてある。

神の基準である律法は当然良いものである。しかし、人には遠く及びも付かないものなのである。
ただ一つの希望は十字架の死を通して、罪の遺伝子を持たないキリストと共に生まれ変わったという信仰にあるのだ。

その時、すべての罪の重荷から解き放されたことを確信して、聖霊の導きに拠って「アバ、父」と神に向かって呼ぶようになる。
これが創造主なる神が、律法と良心を人に与えられた計画の完成である。

しかし聖霊に拠らなければ人にはわからない。明日に空しい望みをかけいる内に突然の滅びを迎えることになるのだ。
それは、イエス・キリストという名を知っている人にも同じである。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

パラリンピックの開会式

2016-09-08 11:48:36 | Weblog


 今朝はデボーションを少し置いて、パラリンピックの開会式を見ていた。
聖火を運ぶ女性が転んだ。会場はその時「許しと助け」の応援が満ちていた。
それは一分一秒を争う金メダルの応援とはまったく違って、すべての国の人々を一体とする応援だった。

聖火は引き継がれたが、突然の激しい雨が降ってきた。降りしきる雨の中を男性は微笑んで、聖火を掲げた車いすでゆっくりと走った。
そうして車いすは立ち止まった。聖火台は高い階段の上にあった。
此処でも、会場の一体感が画面からも感じられた。どうやってこの階段を登って行くのか・・しかも降りしきる雨の中で。

 この時私は気付かされた。転んでも良いのだ。聖火が消えるようなことが起こっても大丈夫なのだ。皆で許しているから・・、皆で助けるから・・、アクシデントが起こればそれだけ一体となれるのだから。悪いことなんて何も無いということに・・。

困難と思える中で男性の微笑みは少しも変わらなかった。その微笑みが会場を力づけていた。男性を微笑ませたのは、助けるべき備えを知って居たから・・。
どんな人でもどんな困難の中ででも、それがあったら人は微笑むことができるのだ。

階段にはスロープが現れ、彼はそのスロープを力強く登って行った。スリップすることもなくとても安定して力強く・・。
そうして聖火が灯された。
雨はより激しく降って、聖火が雨の中できらめいていた。すべての汚れを洗うかのように・・、
「ああ、祝福されているなぁ・・」そんな感動が残った。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

聖化への日々 (ガラテヤ人への手紙から)

2016-09-06 15:02:38 | Weblog



 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。(ガラテヤ1:6~7)

十字架の恵みによって救われても、律法ののろいのもとに堕ちて行く事があると知った。
福音による救いは肉の目には見えず、普通は体にも覚えがないものである。ただ、霊によって導かれたことであるから・・。
しかし律法の行いは、頭にも体にも忘れられない記憶として残り続ける。パウロも、塵芥と捨てたものを愚かになって語ることができるのだ。

その行いの上に福音を積み上げるなら簡単に誘惑され、その信仰はひっくり返えされるだろう。人はただで受けた恵みよりも、支払った犠牲の方を強く覚えている。

律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。(ガラテヤ5:4~5)


救われたにも関わらず、キリストの恵みから落ちてしまうことがあると書かれてある。
だから御霊による熱心に拠って、義とされている望みに留まり続ける必要がある。それは古い記憶と新生した自分自身の戦いのようだけれど・・、御霊に拠っては簡単な選びである。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:14~15)


日々、新しく創造されてゆくなら、此処に古い記憶の入り込む隙はないのだから。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加