石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「愛されていますか」

2016-08-31 16:24:11 | Weblog



 自分の物ではなく、弟アベルの捧げ物が神様に受け入れられたのを見て、カインはアベル殺した。神様がアベルだけを愛されたと思えたからであろう。人類最初の骨肉の争いは、愛の渇きから始まったのだ。

「神は愛」この中にすべての愛は包含されている。神様の元を離れてから人はすべての愛に飢えている。人の行う良いことも悪いことも、その代償であることが多い。
「これで私を愛してくれますか」また、「愛してくれないから・・」と叫んでいるのだ。無意識だろうけれど・・。

 神様は、ご自身の愛を人の歴史にとても分かり易く現してくださった。御子イエス・キリストの十字架である。人が愛の完全な満足を、そこで得られるように備えてくださったのだ。

御子による十字架のあがないを、個人的に私の救いと確信する時、神に愛されていることが分かるのである。
ただ、クリスチャンであっても個人的な確信には拠らず、単なる知識ならその心はなを飢えており、アベルを殺したくなるのである。

あれこれと理屈をつけて、「愛される資格はない」とささやく敵の声に耳を貸してはならない。イエスの十字架によって、自分の身に何が起こったのかを知ることが必要である。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:38)
イエスさまが十字架で成し遂げてくださった救い。私の十字架さえも完成してくださった主に拠って、今はすべてが充足し満ち足りているのである。その備えの中で主に付いて行くのである。

「あなたは何処にいるのか」と問われた時、
それが眠っているときであっても、起きているときであっても、
働いていても、遊んでいても、
神様に、またサタンにも、

「私は主の愛のうちに居ます」と即答する。
十字架のあがないを受けた者は皆こう言う。
「愛されていますか」
「はい。天地創造の神が御子を十字架にかけるほどに・・。」

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:30)
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善悪と戦う罪

2016-08-29 23:22:44 | Weblog



 今日は台風の余波でちょっと荒れ気味。ウオーキングも行けず閉じこもっていたけれど、おしゃべりがしたくて姉妹にお電話をして御交わり。ひとりにはされない主の恵みに心から感謝。

 自分で善悪をコントロールしょうとすることは傲慢である。善を成そうと頑張ることも、自分の中にある良くない癖に拘ってがんじがらめになることも、善悪の知識の木の実のなせる業ではないかと・・そんなことを話し合った。

私たちの希望は唯一、みことばの約束にある。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)

今や「ようになる」ではなくて、すでに十字架で完成され義とされ私たちは、すべての責めから解放されているている。騙されて戦うのは違うと・・、みことばに堅く立って主に拠り頼むことのみがキリスト者の正しい行い。

自分の善悪をもって自分を裁くことは他人をも裁くこと。それがその人の基準であれば、自他によって変わるというものではない。
主が正しいとされたことが正しいのである。だから十字架の強盗でも救われた。彼の行いや信仰ではない。訂正「この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」この言葉は信仰だ。罪なき方によるあがないを知ったことばだから。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)

善悪は神のものである。それを人のものにしてしまったから、サタンに責める口実を与えることになった。そもそも良い事も悪いことも、サタンには関わりのないことであるはず・・。私たちを責める権利をお持ちの主は、責めではなく恵みによって購ってくださったのだ。
しかし、キリストのあがないによって喜びの中にあるはずが、常に自分の中を見せられて日夜責められ続ける。そのようなことが主のご計画であるはずがない。
パウロは、自他共に人を神の位置に置かなかった。

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。(Ⅰコリント4:3)

善悪の知識の木の実を食べて、がんじがらめになってしまった善悪の重荷から解放される時、善が出来ない人の弱さの中に神の力を経験することができる。
その時こそ、心からの感謝と賛美と信頼が溢れるのである。私たちは肉の弱さをまだ抱えているけれど、それは自力で戦うものではなく、神の栄光を現す材料なのである。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

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道案内 2016年8月26日

2016-08-26 19:15:01 | Weblog



 久しぶりのウオーキング。突然目の前をかすめる影があり、路面すれすれに飛び降りて前を行くのは「あ・・イソヒヨドリ」この鳥は人を恐れない。
それにしても・・からかうように前を行く「此処までおいで」

しばらく行くと次は黒い大きな羽を広げて、またも地面すれすれに飛び降りて来たのはカラス、目の高さをばっさばっさと羽の音がするかと思うほどに近く飛ぶ。
エリヤを養う助けをした聖書記事から、私はカラスに勝手な親しみをもっていている。「以外に大きいなぁ・・」そんなことを思いつつ、面白いので右に行くカラスの後に付いて行った。

道を大きく曲がってカラスが姿を消した瞬間、目の前に現れたのは乱舞するトンボの群れ。取り囲むように上に下に無数に飛び交って・・、「一体今日は何が起こっているのだろう?」あっけに取られて立ち止まってしまった。

その時、眼下に黄色と緑の見事なグラデーションが広がっていた。田毎にそれぞれに稲穂は青海波模様に色を少し変えて波打っている。
「なんてこと!」暑い暑いと閉じこもっている間に、なぁんだ・・秋は来ていた。


 約束の民イスラエルのこと、終末のこと、千年王国のことについて学ぶことから逃げていたと気付いた時、主は知ることを導いてくださっている。
私が信仰に入ったころは出掛けて行って近しく聞くか、本を買って読むくらいしか学ぶチャンスはなかった。その範囲はとても限られていたし、お金もかかることだった。

しかし、今は驚くほどに知ることの手段が備えられている。年寄りであっても家に居ながら学ぶこともできるのだ。同じ箇所を繰り返して聴くことも許される。
昔、何も知らない私がインターネットを非難した時次男に、「インターネットは素晴らしい道具だ。切れ味の良い包丁みたいなもので、それは使う人の問題だ。」と怒られたことがあった。今、自分でそれを使っているのだから・・何が起こるかわからない。

それにしても今私たちが叫ぶ時、こだまのように直ぐに応えられる備えはそれだけ時が迫っているのではないか・・、あまりにもすべての展開が速いと感じる。
何時に変わらぬ豊かな実りと澄んだ空の下の穏やかな風景を見る時、今日も平和だ安全だとつい居眠りをしたくなるのだけれど・・。


 宗教者の妬みによってキリストを十字架でさらし者にして殺したことは、サタンには勝利の様に見えただろう。しかしそれは人の罪をあがなう、主のご計画の成就であった。
今また、異邦人に対するイスラエルの妬みによって、選びの民の救いが完成しようとしている。
妬みという人のネガティブな力さえも、主には良き道具として用いることができるのなら、人が恐れるものは、ただ造り主なる神だけである。「人には出来ないことが神には出来るのです。」ハレルヤ!

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(Ⅰコリント15:19~20)


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主にうながされて・・

2016-08-25 16:08:02 | Weblog



 気遣わしいことが心にずっとあった。そのような時、主から「今」と知らされ祈りに導かれた。後で確認して神のタイミングには「遅れることはない。」と改めて教わった。
祈りの結果についてはまだ知らないけれど、主の命じられたことをするならそれで役割は完成だと思っている。

聖霊の促しを間違えなく聴き取ることができるのか・・それはわからない。いろいろな場合があるだろう。打てば響くように聴く時もあれば、何度も何度も語ってもらっていることもあるかもしれない。
しかし主の平安が残ることで完了した時はわかる。


 少年サムエルに主は3度声を掛けられ、エリの助言を得て預言を受けることを学んだ。
人が主のすべて知ることは無い。けれども、主は人のすべてを知っておられる。塵にすぎないことをご存じで、相応しく備えて導いてくださる。その主に信頼して勇気が与えられるのだと思う。
ただ、マリヤは御声を聞くだろうけれども、マルタが聞き取ることは難しいだろう。私たちの問題はそのことにある。

御声を聴いたなら伝えなければならない。サムエルが恐れて黙ってしまっては役立たずである。恐れは神から出ていない。サムエルが自分を省みてはエリに伝えることはできない。
主の言葉を伝える預言は、語られた主に全幅の信頼を置いて従順する働きであって、預言を求めるとはそういうことだと思う。

 先ほど、祈りの答えとして吉報を頂いた。主に促されて祈る時、その方を主が大事に思っておられるのだと感動する。だから、祈りによって主の祝福に参加させて頂いたことは、光栄であっていつも嬉しいのである。

そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。(Ⅰサムエル3:10)
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ダビデの鎧

2016-08-22 19:12:41 | Weblog



 今日も猛烈に暑かったけれど、「日の暮れるのが早くなって来たね、」と妹が言っていた・・確かに。パソコンに夢中になっていると部屋が真っ暗になっていたりする。
先日の朝、鹿の絹を裂くような鳴き声を聞いた。「絹を裂く」なんて言ったって、今はどれ程の人がその音を知っているだろ。それは歯の浮くような嫌な音で・・、そう言えば鹿の方がましだった。
昨日、裏山で激しく揺れる葛の葉裏の、陽光に白くギラリと光って波打つ様に見とれていたら、葉の間にもう紫色の花が幾つも覗いていた。秋の七草。


 ダビデの鎧は仕事着でもあり寝間着でもあった。
羊飼いダビデは獅子や熊から羊を守った。その戦いによって内に働く神の力を知って居たのだ。彼にとってはゴリヤテも獅子や熊も、神の祝福を奪う同じ敵である。

彼は主が準備してくださった完璧な鎧によって、すべての敵から守られていた。
主はひとり一人に相応しく戦いの武具、オーダーメードの鎧を準備して着せてくださって居る。それによって寝ていても起きいても、戦いの中でも寛いでいるときも守られているのだ。
意識しないほど身に添って重荷でも苦痛でもないものである。それは、神がねたむほどに私たちを知り尽くす聖霊によるものだから・・。

 王の鎧は肉の力による鎧である。人力の備えであって重くて担いきれない要求であり、自由に歩くことさえ出来ない縛りである。着慣れていないとかではなく、すぐに脱ぎたくなるほど苦しいものなのである。
主に在る者が肉の備えによって世のゴリヤテに勝つことはない。霊に肉を被せては身動きができなくなる。鉄だけに金縛り・・、ダビデはその鎧を着たとたんそれを知って脱いだのだ。

 人は、キリストを信じたときに受けた聖霊によって、すでに武具は身に付いている。
ただ、それは目に見えないものなので、信仰による経験によってその完全な威力を知ることが必要なのである。
神の知恵(知る恵み)が必要であり、祝福を奪うものにしっかりと立ち向かって、主の勝利を宣言する経験が必要なのである。

そうでないとダビデの兄たちのように、敵が居ないかのように誤魔化して群れ、誤魔化す者は敵を真正面から告発する者(血肉)に敵対するという愚を犯すのである。兄たちは、ゴリヤテを罵るのではなくダビデを罵った。


悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
(エペソ6:11~13)
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祈りは愛の喜び 2016年8月20日

2016-08-20 10:51:31 | Weblog



 息子と聖書を開いてのひととき・・、その後「良い行いについて」話しあう。
彼はみことばを思い出し、「ちょっと待って此処に・・」と聖書を繰りだした。そのことばはなかなか見つからなかったが、
それで良いと止めた。「イエスさまのおことばを探す」それが正解だと思ったから・・。

彼が「仕事までに完全に癒されますように」と祈った時、私ははっと気付いた。ほとんど癒されてあることが事実なのに、「もっと完全に」と求めるのはちょっと違う・・。

癒しは主の御わざだけれど、それを受けるのは私たちの信仰。「癒されたことを感謝します」と、信仰によって病気のしっぽを切り落とさないと、ずるずると何時までも付いてくるのじゃないかな・・、なぜなら「あなたの信仰のようになる」と書いてあるから。

 癒しは祈りに応えてくださる主の御わざ。ただ、天地創造の主に拠らない祈りでも癒されることはあるらしい。しかし、イエスさまに祈って癒されるのでなければ何の意味もない。それは死を待つ時間が少々延ばされるだけのことだから・・。
それに、イエスさまの癒しにはもっと大きな喜びがある。それはお交わりにある愛の感動、主に愛されていることを経験する喜びである。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:19)
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暑いけれど・・ 2016年8月19日 

2016-08-19 15:51:07 | Weblog

 

ジャズはけだるい夏の午後に、生温い扇風機の風に当たりながら少しボリュームを上げて聞くもの。その時ばかりは暑さも風邪気味も忘れている。
だから夏の気怠い気分は、ある雰囲気を持っていて嫌いじゃないのだが・・
今年の暑さは手強い。

それでもタカサゴユリの涼しげな花が次々と開いてお盆が過ぎて行き、ヤブランの紫色の花はこぼれるように足元で咲き、千両は小さな青い実をどっさり付けている。
どんなに暑くても終わりが来る。ほら・・秋がこちらに向かって出発しようとしている。


昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
(詩編121:6)

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土の器 2016年8月18日

2016-08-18 15:00:42 | Weblog



 職場から風邪を引いて帰宅している次男に、「どや、私は元気やろ」って自慢していたが、昨日から喉に痛みとだるさが・・チラッと回りが鈍いだけなのかも・・と思ったが、病気に敏感である必要なぞない。

昨夜はゆっくり祈って、彼の薬をもらって寝たので今朝は少し楽になった。
先日、医院に付いて行った時「この風邪は今とても流行っていて、治るまでに1ヶ月くらいかかる」と言われていたけれど・・、
先ほどバイクでスーパーまで走っても辛くはなかったので、大したことはないだろう。息子も私よりも重症だったけれどずいぶん楽そうになった。

世では生身の古い体を引きずって生きざるを得ないけれど、それさえも信仰の成長の餌食にはなるものだと思う。
主は癒し主。時に薬も主に在ってよく働き、害を受けることもない。


 パウロ達が破船はしたけれど無事に島に上陸したとき、「島の人々は非常に親切にしてくれた」とある。
しかし、まむしがパウロを噛んだ時彼らはパウロを罪に定めた。

島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ。」と互いに話し合った。(使徒28:4)

それが彼らの善悪の基準なのだ。
パウロがなんの害も受けないとわかったとたん今度は、「神さまだ」と手厚くもてなしたとある。
パウロの内に居られるのはまさしく神さまであり、彼が害を受けなかったのは神さまのわざであるが・・。

人は持ち上げたりたたき落としたり、それぞれの善悪の基準や好みで人を計るものだ。一々反応して良い証しを立てなければ・・などと慌てる必要はない。
主が証しを準備してくださるまで待てばよいのだ。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)
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愛の渇きを満たすのは主

2016-08-17 15:52:21 | Weblog

 

 テレビで「徘徊する子供たち」を見た。彼らの多くが「親はなんとも思っていない」と答えていた。自分の存在に無関心だと思っているその淋しさはどれほどだろう・・。
反抗しているように思える彼らが、テレビ局のアンケートに真面目に答えていたことに驚いた。「知ってほしい」と懸命に訴えているように見える。でも・・きっと親にも愛し方がわからないのだろう。
人は愛を持っていないから、誰かの真似をすることは出来てもどうしたらよいのか分からないのだ。親も子も愛を求めて彷徨っている。

 神は愛。愛の神に拠らずに愛の関係が完成されるわけがないのだ。主に拠らずに完全な満足があったなら、それは神の箱舟ではなく、てんでに自力のボートで航海するようなものなのだ。行き先は皆揃って死の海である。
交わりの後に渇きが残るのは主の警告である。

どんなに楽しい時も喜んで居るときも、イエスさまを真ん中にした喜びならそれはいのちを養うだろう。いのちの主を準備する責任はキリスト者にある。そのことを抜きにしてはマルタのもてなしである。人間的な愛の形によってはどれほど尽くしても愛は完成しない。

またあらゆる良い計画を準備しても、その中でイエスさまに出会わなかったら渇きが残る。すべての渇きを癒す愛は主だけが持っておられるものだから・・。
私には愛がない、私には気遣いがない、私には多くの欠けがある。しかしそのすべてを造り主は知っておられる。
解決は、主を真ん中にお迎えして必要のすべてを満たして頂くことであった。主を抜きにして完成する関係は空しいのだ。


 しかし、先日ルークさんのメッセージを聴いて、心に残っている言葉がある。
「レビヤタンは人を呪わせ関係をねじ曲げるもの。しかし我らのえじきである」
アーメン。海(世)の巨獣の頭を砕き・・、そう、イエスさまは蛇(サタン)の頭を砕かれた。

あなたは、御力をもって海を分け、海の巨獣の頭を砕かれました。
あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、荒野の民のえじきとされました。
あなたは泉と谷を切り開き、絶えず流れる川をからされました。(詩編74:13~15)


その知識を得るとき目の前の問題を恐れることはない。人間関係の中に主はすでに介入してくださっているので、愚かさも不信仰も気遣いの足り無さも、問題を遙かに超える主の良きご計画に拠り頼んで安息する。
人の間に堅く主の祭壇を据えるなら、人間関係のうめきというレビヤタンを餌食として成長するようになるのだ。それが神の備えなのだ。

みことばは家族の救いを約束してくださっている。約束の主はご自身を否むことができない御真実なお方である。
主に信頼する者は、人の考えや手段にはは拠らずに約束のものを賜ることを知って居る。

ただ、人の選びの自由は神が創造の初めに定められたものであり、その結果御子は十字架に付けるほどに重大なことなのである。だからこそ、愛の在りかを知らせることは真の家族愛。
この望みを肉の家族には留まらず、未来の主に在る家族にまで広げることは主のみこころにかなうことだ。

その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。(イザヤ27:1)
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航海中 2016年8月15日

2016-08-15 22:21:36 | Weblog



 ペルセウス流星群を見損ねた昨夜、あるいは1つや2つの流れ星は見られるかもと玄関を出ると、リリリリ・・と虫の音、一度っきりだったけれどうんざりするような暑い日が続いている中で、小さな秋の気配に心が緩んだ。
でも、残念ながら外灯が眩しくて星はよく見えなかった。昔、放射状に流れる無数の星をひとり見入ったことがあるのだけれど・・。

 今日は郵便局まで歩いて、ついでにスーパーまで足を伸ばした。炎天下に出歩くのは久しぶりだった。カボチャに・・冷たい缶ビールをつい買ってしまったのでちょっと重くなってしまった。
往復とも人っ子ひとり出会わなかった「この暑いのに歩かないよ~」帰り着いて動きが止まると、汗がどっと吹き出して来た。それでも運動が出来て満足だけれど・・。


 パウロは囚人としてイタリアに送られるときその航海の危険を警告した。けれど誰も聞く耳を持たなかった。目の前の状況と専門家の言葉によって彼らは進んで行ったのだ。
パウロの忍耐は此処にある。命の危険を警告しても、最悪の事態になるまで世が耳を貸すことはない。わかっていながら、命が危険にさらされる次第を共にすることになるのだ。

クリスチャンの忍耐も此処にある。しかしパウロでなくても主に在る者がそこに居るということは、主が近しく居てくださるということである。
私たちにパウロの信仰が無くても、キリストの十字架の御わざに拠って、主の一方的なご真実に拠ってキリスト者の内には救い主が居てくださる。周りの人にまで救いの及ぶ主が居てくださる。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)

ただ、てんでに自力によって逃げ出さないように、ボートの綱を切り落とし完全に主の御手に委ねる必要がある。共に救いを受けるために、主を知る者はその明確な指示をしなければならないのだ。

ところが、水夫たちは船から逃げ出そうとして、へさきから錨を降ろすように見せかけて、小舟を海に降ろしていたので、
パウロは百人隊長や兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません。」と言った。
そこで兵士たちは、小舟の綱を断ち切って、そのまま流れ去るのに任せた。(使徒27:30~32)


パウロたち276人の髪の毛一筋も失われることはなかった。と書いてある。
キリスト者は、みことばを丸ごと信じて時に家族の命を掛ける者である。そういう意味で今平凡な日々も航海中であり、毎日が聖日である。

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