石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

花火 2016年7月31日

2016-07-31 16:33:46 | Weblog



 ド~ンと地を振るわすような花火の音に誘われて、「しんどいし・・」って躊躇していたけれど家を出た。音だけの花火は自然に歩を急かせる。
見たいなら初めから行けばよいのに・・、息子はサッサとカメラ機材を持って出掛けた。

轟音と共に夜空を彩ってはバラバラと闇に消えてて行く火の華・・ 川面に沈んで行くオレンジ色の欠片・・。闇に描くつかの間のお花畑。
美しいとわき起こる素直な拍手と歓声。募金を集めていた商工会の人々と、花火を上げている職人と、見物人が一つと成って感動を作っている。

 長男が幼稚園の頃に越して来た。家族で初めての花火見物は嬉しかったなぁ・・。彼は花火が上がる度に小さな両手で頭を覆って、主人と大笑いをしたことを思い出す。
花火は闇に消えて跡形もなくなるけれど、思い出は心に留まっている。

鉄橋で電車は停止して花火見物をしていた。
ドローンが青い光を放ちつつ上空を回っていた。もう・・昔とは違うのだ。帰り道の商店街はほとんど駐車場になってしまった。




  悪はどんな悪でも避けなさい。(Ⅰテサロニケ5:22)
今朝は次男とテサロニケ5章を読んだ。「クリスチャンにとって、最も深刻な悪とは何だと思う」と尋ねてみた。
彼はしばらく考えた後、「アナニヤとサッピラの罪じゃないか」と答えた。
「ああ、本当にそうだね。彼らのように聖霊をあざむくことは最悪だね。聖霊によらないとイエスを主と告白することは出来ないものね。」
「知って居たのか・・」と嬉しかった。

みことばに対しては、どんなときも「アーメン」と同意するべきことを話そうと思っていた。無理と思えてもみことばだから同意する。
どれほど聖書を読んでも、実際に服せないことばなら信仰はない。否定することなく「アーメン」と言うべきであると伝えたかった。

私たちが同意することは聖霊による。聖霊はこの現実に働いて、私たちをみこころに生かす力なのだから・・。みことばに従順する意志を現すなら、後は主ご自身が力をくださる。

「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅰテサロニケ5:24

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日替わり 2016年7月29日

2016-07-29 15:21:56 | Weblog


 
 昨日は異様にしんどくて昼間にエアコン掛けて寝てしまった。こんなことは初めて・・晴れたり降ったり曇ったりの変な天候で血圧が下がった所為かも知れないけれど、体が鉛のように重くて起きていられず・・降参してのこと。

午前中にイエスさまにお祈りをして、体に「元気を出せ」と命じたとき、異常なしんどさが取れたことを感じた。その時にサッと起きるべきだったけれど昨日は動きたくなかった。しゃがみ込んだような姿勢なのに立つ気力が無かった。

後で「そう言うことか」と思った。癒しを受ける力がないときもあるのだ・・。それは、キリストに応答する信仰を持てない時。
イエスさまは霊も魂も体もすべてのお医者様なのだけれど、癒しを受けて直ぐに布団を畳んで歩き出せない弱さが・・、「癒してください」と願っておきながら、「でも・・立ちたくない」なんて言うことがあるのだ。
イエスさまは何時も同じだけれど、人は絶えず揺れ動き、体が霊にも魂にも弱さを持ち込むことがあるのだろう。


 一昨日はとても元気だった。朝から美容院に行き、午後はチャイムと同時に「居るけ~」と元気な声で飛び込んで来たお客さんと長話しを楽しんだ。
彼はじゃがいもだ玉葱だキュウリだと・・ドサドサと玄関に放り込んで「遅うなって悪かったなぁ~」って日焼けした黒い顔で入って来た。「なぜ誤るのか・・」と思うけれどそういう人なのだ。

「毎日、どうしてるんや」「生きているで・・」
「出掛けたりしているんか」「いや、私は閉じこもりや。単車で走るのは好きやけど」
「そらええわ」「単車はもう20年も持っているけど調子ええねん、よう走るで。」
「そらええけど。今度は老人車やな・・あはは」「あはは・・あれは嫌やで。歩いた方が早いやろ」

「ミツバチ飼うてんねん。来年取れるから持って来たるわ」彼の約束はいつも一方的に真実で、何の義理もないのに「悪かったな、遅うなって・・」と言う言葉になるのだ。
「ミツバチは面白いで、巣の回りでブラブラしているだけの『なまけ蜂』がおるねん。飛んで行っても何も持たんとすぐに帰って来よる。」「何処にでも居るなそういうの・・あはは・・あはは・・」

「戻ってきたとき巣に入ることもでけんほど疲れ果てて、地面に墜落してまう奴も居って、それをスズメバチが噛みついて持って行くんや腹立つで・・、網でスズメバチは取ってるけど。」「気いつけてや、刺されるで・・」
「いや、大丈夫や。そのスズメバチはな、もう餌を取ることしか考えとらん。」「あはは・・あはは・・」

「この間ハビ(まむし)に噛みつかれてん。」「え~!大丈夫か。」
「ズボンに噛みつかれて危機一髪や。飛びかかってきたんや、腰のとこにハビがぶら下がってた。枝で思いっきり叩いたら飛んでいってしもた。殺し損ねた・・」

「ああ、お父さんもハビは必ず殺すって言うてたわ。もうそこには行ったらアカンで」
「後でズボン見たら、歯の穴が空いて染みが出来てた。まあ、仕事でまた行かんならんけど・・」と、さすがにちょっと浮かない顔をしていた。

彼が持って来てくれる物も嬉しいけれど、久しぶりに大笑いしながらのおしゃべりが楽しいのだ。
主人の車検の世話をしてくれていた。亡くなる直前に車を買い取ってくれたのも彼。あのとき車の処分ができたことは本当に助けとなった。今しみじみとその有り難さが分かるのだ。

主人が病院に履いて行った靴や、お気に入りで自分で洗ってはきれいに履いていた靴の処分ができなくて、目にすると胸が詰まるので下駄箱の奥に入れっぱなしになっているのだ。未だに靴でさえそうなのだ。

主人が亡くなった後に車が残されたらどれほどにか辛く、処分が困難だったろうと思う。あまりにも主人自身が詰まっていて、あまりにも一緒の思い出がありすぎるから・・。
彼には常に助けて貰った。血のつながりもないのに・・人の関係とは不思議なものだと思う。

「今日、取った分はみな持って来た」というキュウリを、昨夜少し体調が戻ったので嫁さんの好きなきゅうちゃん漬けを作った。傷めては申し訳ないから・・。
夜、布団の中で「明日は元気に過ごせますように。」イエスさまにお祈りをして眠りに就いた。

今日は元気回復で朝の内にバイクでスーパーまでひとっ走り・・風が気持ち良かった。
まったく日替わり体調に振り回されることもあるけれど・・、まあ、良いか。一晩で治るのなら。

ああ、それから・・
ブログ初めて10年目何気に通過していた。
見てくださっていた方にありがとう!
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幼子

2016-07-26 14:28:59 | Weblog



幼子は幼いほどその探求心が強くて、知りたいものは掴んで放さず、小さな指も唇も舌まで全身を使って知ろうとする。何度も何度も繰り返して誰に教えられても止めず、自分自身で納得できるまで知ろうとする。
また「どうして・・どうして・・」と自分の頭で理解できるまで尋ね続け、うるさがられてもしつこいと叱られても、飽きらめることなく誰彼に質問してやめない。

幼子は可愛いだけの者ではない。うるさいのだ。いつも渇いているのだ。しかし、大人はそれを自分と同じように、ほどほどに、適当に生きることを教えてしまうのだけれど・・。

 主は、そんなふうにうるさがられることはない。イエスさまは求めて止めないうるさい者に対してとても親切であった。癒しを求める盲人の声に、群がる幼子に・・。
「叩きなさい。」「求めなさい。」とうるさく求める者を歓迎してくださる。

「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(黙示録3:15~16)

 十字架のことばに対してはおさなごの求めと探求心、渇きを持っているのがキリスト者である。「主を知りたい」その欲求が完全に満たされることはない。だから求めて叩き続ける。
今日、主に出会うことがなければ今日賛美できない。今日、主の喜びを味わうことがなければ今日感謝出来ない。だから何時も渇いて主に叫んでいる。
オギャア・・オギャア・・と可愛くもない年寄りが幼子のようにうるさく。

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(ルカ10:21
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ただ主に拠って (使徒9章)

2016-07-23 14:09:14 | Weblog



 パウロは主の弟子への殺意に燃えて・・とある。彼はイエスの弟子への迫害を強めようと権威をもらってダマスコに向かっていた。

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒9:3~5)


彼は目が見えなくなり自分では何も出来なくなって、人々にダマスコに連れて行ってもらった。
その、迫害者パウロの所へ来て目を開いたのが主の弟子アナニヤであった。彼は主に命じられたとおりにパウロを癒したのだった。

このパウロは弟子たちの誰でもが知っている敵であった。多くの弟子が彼によって迫害されて来た。
アナニヤは主の命令の故に、それらの事実と、それに伴う感情、恐れのすべてを捨てた。この時彼は自分の判断を一切差し挟むことをしなかったのだ。これが「従順」である。

するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。(使徒9:18~20)

 パウロはキリストを知った時、それまで、良いと思っていたすべてを塵芥と捨てた。彼は自分の生まれのことをピリピ3:5で述べているが、それは事実を言っているだけであって、彼が依り頼み続けているものではない。なせなら、この時まったく新しくされたからである。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
これが「悔い改め」、これが悔い改めの実である。

 エルサレムで主の弟子たちは、当然のことながらパウロを恐れて受け入れなかった。この時バルナバが彼を紹介して執り成し、それによってパウロは自由な宣教活動ができるようになった。パウロの力が発揮できたのはこの「執り成し」あってのことである。兄弟たちの助けも彼には必要であった。

ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。(使徒9:27~28)


先人達の従順、悔い改め、執り成しそのどれがなくても、今私がキリストを知ることがなかったのだと思う・・。
その時、アナニヤもパウロもバルナバも、組織や兄弟に相談することはなく、ただひとりで主に従ってくださったのだ。
信仰はひとり一人の「私」が主に在って選び取ることであって、その結果が主のご計画を実現して行くのだ。先人の真摯な信仰によって御救いに与った者として、近しく感じさせて頂き深く感謝した。
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「悠々自適」 2016年7月19日 

2016-07-20 15:49:17 | Weblog



 日が射す前に、梅雨の間に伸びた庭の雑草取りをする。涼しい風があって朝はとても気持ちがいい。早々に終えて、お茶を一杯飲んでから何時ものように座った。
主との御交わり。聖書を開いてゆっくり思いを巡らせつつ、心に響いた箇所を日記にメモして味わう。平和な時間を心から感謝。

ネットでメッセージを聴いて新しく主を知ることは喜び。知って居たことの確認ができるのも嬉しいこと。
「う~ん・・そうかな?」と思う時もあるけれど、それはそれで、聖書を読み進む内にはっきりと知ることになるから、後のお楽しみである。

 お昼、ズボンを履き替えて居る時左膝に激痛が走った。何でもないことなのに・・、変な格好のまま身動きが取れなくなってしまった。痛みを堪えつつどうにか側のソファに掛けることが出来て、「イエスさま。癒してください。」と祈り、膝に手を当てて「イエスさまの御名によって癒されなさい。元に戻りなさい。」と命じた。

少し静かにして様子を見ようと思ったが、「癒されたペテロのしゅうとめは、直ぐにイエスをもてなした」聖書を思い出し立つとちゃんと立てた。
私はもうあまり驚かない。あちらこちらがガタガタしているのは毎度のことだから・・。でも、みこころのままに癒してくださる方を知って居るから悩みとはならない。

 陽が傾いて来た頃、収穫の終わったキュウリやインゲンのプランターや鉢の土を、ぶっちゃけて底石をより分け、大きなスコップで黒いポリ袋に入れ水を掛けて密封する。
これで太陽熱による病原菌の消毒が出来るのだ。土を一回で捨てるわけにも行かないので再利用のための作業。

フウフウ言いながらスコップを振り回して一汗かき、アイスクリームを食べて居るとき膝が痛かったことを思い出した。アハハ・・
したいことが出来るって事は大きな祝福で、しんどくても楽しいのだ。無農薬のキュウリやインゲンを結構食べさせてもらった。毎朝、キュウリが大きくなっているのを見るのは楽しかった。

 若い頃は好きなことなど何一つ出来なかった。このような日々がどれほど主の憐れみにあることか・・、今は好きなことばかりさせて頂いている。
私が失ってきた「時」を、主があがなってくださっていると思えて感謝は尽きない。

 両親をはやくに亡くした私は、中学を卒業すると直ぐに自分で食べて、一人で生きて行かなければならなかった。
中学卒業記念のサイン帳に、教頭先生が太々と「悠々自適」と書かれた。その字を見た時のうめきを何十年も抱え続けていた。それは叶わぬ望みだったから・・。他の物は何も望まなかった。ただそれが欲しかったのに・・。

 今賜っている「悠々自適」、60年経って叶った願い。私の悲しみを、主が知って居てくださったことの喜びを今噛みしめている。
何度か死をくぐり抜け・・いや、生されていたから生きているのだ。けれどその時私は主を知らなかった。

主は、私がどうにもならなくなって降参るすのを待っていてくださった。ずっと忍耐して待っていてくださったのだ。
昨夜は、みことばに思いを巡らせている夢を見た。目覚めて夢か現かと一瞬戸惑った・・。そう、寝ても覚めても愛してる。寝ても覚めても愛されている。

真っ青な空。かしましくミンミンゼミが鳴き出した。朝夕はヒグラシの蝉時雨。夏休みだなぁ・・。来月には孫娘たちも帰って来る。メニューを考えておかなければ・・。
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驟雨

2016-07-18 15:31:41 | Weblog



 買い物を終えてスーパーの外に出ると、今にも土砂降りになりそうな空模様だった。行く手は夜のように暗かった。
こんな気がしたから、行こうか止めようかと迷いに迷っていたのだ・・。

荷物を満載して走りつつ主に訴えた。「どうか・・、お守りください。」祈りつつも不安な思いのわき上げる心に、一つの言葉が芽生えた。
「主に賜る分を受けるのだ。」
雨を賜れば雨を受け、晴れを賜れば晴れを受けるだけ・・。
その瞬間、なんて涼しくて心地のだろう・・、肌になんとさわやかなのだろう・・この気持ちよさになぜ気づかなかったのだろうと思った。

走るほどに道路には水が溜まっていて、前の車のとばしりが嫌でスピードを落とした。きっと雨が止んだばかりなのだろう・・空気の中にミストのようになって雨が残って居た。「雨の中に突っ込んで行くのかな・・」と思ったけれど、もうちっとも心配ではなく、ミストに洗われる心地良さを満喫して走り続けた。

 家の前まで来た時息子が外で待っていた。「タオル要るか?」「いらないよ。濡れなかったから」「土砂降りだったのだよ、つい今まで・・・。本当に凄い降りだったんだよ。祈っていたんだよ」心配させてしまったこと気づいた。確かにバイクで大雨は恐いけれど・・。

買い物を片付けてから、二人で感謝のお祈りをした後で、
「今後どんなことがあるか知れないけれど、お祈りをしたらそれ以上に心配しなで落ち着いていてね。後はすべてイエスさまにお任せして・・。最悪も私たちには悪いことではないから。
私もあなたの事をイエスさまにお任せして、会社のことなどニュースで見ても心配しないことにしているから。」彼は了解してくれた。

伝える機会があって良かった。年寄りなので今後何があるかわからない。無用な心配はさせたくないのだ。まあ、「これで心配が無くなった」というわけには行かない事もわかるけれど・・。
人にとっては死は最悪であるけれど、キリスト者には永遠への目出度いゴール。それは何時かわからない。その日までにどんな経路を辿るのかもわからないけれど、その時も主に賜る分を受けよう。

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。(イザヤ49:15)

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福音の恵み

2016-07-14 19:15:52 | Weblog



福音は病む老いぼれにも、望み得ないときに望みをもたらせる神の言葉。
「体中に癌が点々とある。」突然、主人に告げられた医師の言葉。
翌日から始まった、情けも事情も聞く耳を持たない検査漬けの日々・・

病院通いの車窓に、日毎にほころびゆく桜が準備されていた。
二人で美しい花を喜び楽しみ、いつも、いつも今日までの幸いを語り続けた。
永遠の望みがあったから・・

主人が天に召されて迎えた冬、閉ざされてひとりふるえる心の内に、
みことばが厳しく私を立たせ、愛が満たされた。
「あなたの夫はあなたを造った者。その名は万軍の主。」と・・

福音はイエスさまにたまわったもの。ただで与えられた神さまからの恵み。
私たちは福音に身を避けただけ。
そこに主の栄光があると聴いた。嬉しかった・・。

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福音を聴く喜び

2016-07-12 20:04:31 | Weblog



 私は今夢中になって、中川健一師のメッセージを聴いている。パソコンの前に座って文字に起こし、文章をみことばと照らして初めて聞いたみたいに味わっている。
疲れては部屋中を歩き回り、ラジオ体操をはじめたり、お菓子をつまんだりして・・気分転換してはまたパソコンに戻る・・。

実は行き詰まりを感じていた。クリスチャンの脱出の道はみことばしかないので、行き詰まったら1から出直すしかないとは思っていた。
自分で「知っている」と思う部分にも、あいまいさや確信のなさがあることに気づいていたが、ひとりで解決するには行き詰まってしまっていた。

 主が脱出の道を備えてくださった。それは、たまたまpcで見つけた中川師のメッセージに聴き入ったことから始まった。聖霊の働きに素直な喜びを感じ、みことばに照らして確信をもって語られていたので安心もした。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)


 私は、出直すために何かを失うことは良い事だと思っている。古いものを崩さないと新しいものを建てることはできないから・・。
ブログにbachan-no-1というアドレスを選んだ理由は、何度もやり直すだろうから2~3と変える準備だった。
10年も(何度も「もう止める」とは言ってきたけれど・・)続いたことは奇跡。どんな時も主が共に居てくださったので今日まで残してくださったのだと思う。

今はひとり暮らしで時間はたっぷりあり、関節を痛めていた指もなめらかにキーボードを打てるようになった。pcのトラブルがあれば息子に連絡して修理もしてもらえる。
主が、すべてを備えてくださっていることを見せられて深く感謝している。

「主を知りたい」と求めたたらすべてを備えてくださっていた。私はやりたいことを自由にさせて貰っている。みことばを「アーメン。アーメン」と聴くことはとても嬉しい。
主はまことに優しいお方である。

信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)
このことは繰り返し必要なのだろうなぁと思った。主は多くの人にたまものを分け与えられたのだから。
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2016年7月8日

2016-07-08 15:00:56 | Weblog



 テレビを見るよりもpcでゲームをする方が多いけれど、先ほどの番組で熱中症の症状について話されるのを見ていて、自分が熱中症だったことに遅まきながら気づかされた。
先日以来の猛暑の午後に連日経験していたこと。ふくらはぎが攣るような感覚と頭痛がぴったり当てはまった。

私は熱中症のことは良く知っているつもりでいた。馬鹿だね危なかったのだ・・。
お茶も飲むし食事で塩分も取っていた。それに家の中はせいぜい32度くらいであり、窓は開け放して、扇風機もあまり好きではないが回っていた。
息子には「エアコンの部屋に入っとけ」と言われているけれど、お昼寝も出来ない質でそこは退屈なのだ。

 今日はずいぶんましなので、曇り空の下を久しぶりにウォーキング。生温い空気はお風呂屋さんの脱衣場みたいだ・・。おお、その感覚に自分でちょっと驚いた。
お風呂屋さんなんてもう50年も昔の事なのに・・、それでもあの足の裏のザラザラした敷物の感触まで思い出す。

桜並木を通りがかった時突然ジ~イって耳鳴りのようなセミの声。ああ、もう鳴いていたんだ・・。この間から遠くにヒグラシゼミの声は聞いていたけれど・・。
緑がきれいな栗の木は小さな小さな実を一杯付けている。稲はいつの間にか逞しく茂って田を覆っていた。

 今朝、お隣のご主人がイノシシにカボチャを荒らされたとがっかりしておられた。せっかく丹精込めて作っている作物が荒らされることの無念は察してあまりある。主人もよくがっかりしていた。
それは銭金のことではなく可愛い子を奪われるような怒りである。日に日に大きく成るのを楽しみにして、雑草を取り、肥料をやり、水をやって育てて来たのだから・・。

我が家の野菜はそれなり・・であっても、キュウリのぬか漬けは自家で賄え・・いや、頂き物もあったけれど。
茄子は元気だけれど難しくてまだ2個しか採れない。インゲンは沢山食べたてあっという間に終わった。やはり蔓なしでは限りがあるけれど面白かった。まだ種があるのでまた蒔けそうだけれど・・暑くて土の準備をする気になれないでいる。
今は朝顔が伸びてきているので蕾の出来る日が楽しみ!

今も部屋の空気はむっと重く肌にまとわりつくようだけれど、30度はないので今日の熱中症は大丈夫だろう。それにしても・・足の攣ることと熱中症が関係あるなんて知らなかったなぁ。
本当にそういえば頭がかなり痛かった・・さすが後期高齢者反応が鈍いね。気を付けよう。

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デ某さんコメント、ありがとうございます。

2016-07-07 13:35:49 | Weblog


長文になってしまいましたので、こちらでお返事させていただきます。
多くのことを考えさせられました。

 サボテンに鋭い棘と、苛酷な環境に耐える命を与えられた神様からのメッセージ・・。
私はこのように思いを巡らせます。「生きよ」ではないかと・・。
聖書で棘は良いものではありません。もともとエデンの園には棘やイバラは無かったのです。
アダムが罪を犯して、エデンの園を追い出された後の労苦の一つとして生えてきたものです。

十字架のイエスの額に鋭く刺さる冠も茨で作られ、イエスさまを苦しめました。それは苦痛の象徴のようです。
でも、イエスさまの十字架は、私たちに滅びることのないいのちを与えるという、罪人をきよめて取り戻す過程として、神様の目的でもありました。

彼(イエス)は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ53:11)
また、神様はそのイバラにさえ美しい花を添えて、「生きよ」と時を与えて待っていてくださるのだと思います。

 臨死体験・・、美しい光景を見せられるのは素晴らしい希望ですね。
このことから私が教えられたことは、デ某さんが今生きて居られることの重さです。
どうぞ、生かされている命の時間を、神様の願いが叶う時としてくださいませ。

私は朝毎に「ああ、昨夜も命を守ってくださっていた。元気に生かされている。」と気づいて、「イエスさま。元気を感謝します。」って申し上げます。
「眠りは小さな死」と聞いたことがあります。本当にイエスに守られていることを、手足が自由に動くことにさえ発見し、歳を取るほどに感謝することが多くなりました。

 人は何のために造られたのか、「この脆い命によって造り主の栄光を現すため」と信じています。単に自分や家族のためではなく、その小さな命に神様の遠大な祝福の計画があることを感じます。
人間として立派なことなど出来なくても、造り主が私を導いてくださるという希望がいつもあります。

その脆さ故に救い主キリストを求めるように、神様は人をロボットのようには造られず、体や心の弱さにあって、救い主キリストの元に来ることを願ってくださっています。

長文を読んでくださって感謝します。
「サボテンの花」ありがとうございます。聞きながら書きました。
お礼に聖書のことばを・・

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
この方(イエス)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
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