石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

罪の処理 (ヨハネ8章)

2016-06-30 15:06:25 | Weblog



姦淫の現場で捕らえ「石打の刑」に定められている女を、宗教者はイエスさまの前に引きずって来て裁きを迫った。

イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)

訴える者が去って行ったとき、イエスさまは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)

「罪を犯すな」とは誰でも言える。
しかし、ご真実なイエスさまは、「わたしに従い来るなら、罪の闇を歩まない」と、罪人の避け所であるご自身に招いてくださる。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

イエスさまは彼女の罪を見て見ぬ振りをされたのではない。後に十字架によるご自身の血によって、きっちり罪の代価は支払われるのである。
神のわざが時間に縛られることはないからである。

これは経験によることだが、時間的に手遅れだと思えることを祈って、実際に間に合わなかったことはなかった。
主は時間を越えることができる。だから私たちは過去のことでも未来のことも、望みを持って祈ることができるのである。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31~32)

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変えられたヨハネ

2016-06-29 15:17:10 | Weblog



 先日息子に「イエスさまの弟子の中に、ヨハネって二人居ないよね。」と訊かれた。一瞬バプテスマのヨハネのことかと思ったが、彼の疑問の出所はヨハネの変わりのようだった。

しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。(ルカ9:53~55)


このヨハネと、愛を語り続けたヨハネの手紙が繋がらなかったのだ。
初め、彼らはイエスさまに「ボアネルゲ(雷の子)」と呼ばれていた。もともと彼らの性質は荒々しいものだったのだろう。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)

 みことばの養いによって人は変えられるのである。「誰でも」とあるのに何時までも変わらない原因は、「キリストのうちにあるなら」という言葉にある。
キリストのうちに居ないから変わらない。その心が世の気遣いの中に、どっぷり浸かってしまっているからである。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(Ⅰヨハネ3:2)

「キリストのありのままの姿」はみことばに見るのである。聖霊の働きの中で絶えずみことばに触れていると、いつの間にかキリストに似た者と変えられて・・そう、みことばを通ってキリスト色に染められるのだ、それは主に拠って新しく生まれることでもある。

生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。(ヨハネ6:57)

 みことばの約束がその人のうちで確かなことばとなり、選び取っていのちとなり、御父を「アバ父」と呼び、「神の子」とされたことに、ただ、ただ深い感謝を持っており、「永遠のいのち」の希望があり、いつも「内住の主」との交わりの中に住んでいる。
そのすべてを通して神に愛されていることの平安があり、世を恐れないのは主の愛の確信によるのである。

新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ3:10)

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裁きからの解放

2016-06-27 10:40:35 | Weblog



まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、
永遠のいのちを持ち、裁きにあうことがなく、
死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)
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平和があるように(ルカ24章)

2016-06-23 13:30:43 | Weblog



 ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。(ルカ23:55)

逃げた弟子たちと違ったのは、彼女たちがよりイエスさまを愛していたからである。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(Ⅰヨハネ4:18)

主は天使を送って、マリヤたちにみことばを思い出させてくださった。
しかしそのことを聞いても、弟子たちは「たわごと」と思って耳を貸すことはなかった。これが女ではなく、権威ある者であったらすぐに信じたであろうに。
ただ、聞いたペテロは走ったとある。彼が主に渇いていたからである。


 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。(ヨハネ4:39)
サマリヤに起こった救いは、夫を5人も取っ替えた女の言葉を信じてイエスさまに来たことにある。
彼らが女の言葉に素直に応答したのは、キリストへの渇きがあったからである。渇いている者は、主の準備してくださったチャンスを掴むことが出来る。
無視してしまうのは、霊において鈍感で渇きがないからである。あるいは恐れが心を占めているからである。


 エマオの途上で論じ合っていたクレオパたち。今までの議論はろくでもない内容が多かったが、此処ではイエスさまが来てくださる内容であった。
みことばを論じ合うことは素晴らしい。そこに必ず主が来てくださるからである。その時、間違いを教えて聖書のことばを解き明かしてくださるから。

それは、
「物わかりが悪く、心が鈍く預言者の言ったすべての言葉を信じられない者たち」(ルカ24:25新共同訳)に対してである。
だから、誰であっても真実なみことばを語っているなら、勘違いがあってもそれを放っては置かれることはない。間違いとわかったら正せばよいことである。


 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)
かってはこのように言われた主が、十字架ですべてを完了された今、

「あなた方に平和があるように」(ルカ24:36 新共同訳)と言われた。
私たちは、すべてを完了してくださった方に拠って成る、平和を賜っているのである。剣を通っても平和に至る者である。だから何も恐れることはない。
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喜びと平安

2016-06-22 10:31:48 | Weblog



造り主なる 神
救い主なる 御子 イエス・キリスト
助け主なる 聖霊

私の主
私の神

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、
その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)

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キリストに求めた言葉 (ルカ23章)

2016-06-20 15:56:54 | Weblog



するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです。」と言われた。(ルカ23:3)

ピラトがイエスさまを知ろうとして質問をしたとき、イエスさまはご自身を教えられた。ピラトはイエスさまの無実を知った上で十字架に渡したのだ。彼が神よりも人を恐れたからである。

ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。(ルカ23:8~9)


主との交わりが成立しないのは、その動機が悪く自分の満足のためであって、主を知ることを求めていないからある。

イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

イエスさまは十字架上でキリストを悟らず、嘲り殺す者のために祈ってくださった。私もそのようにして救われた者である。

指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。


十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。(ルカ23:35~39)

彼らが口々にキリストに罵って言ったのは、同じ言葉「自分を救え」であった。
本当に・・、今も人には神の愛がなにもわかってはいないのだろう・・。


 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:40~42)

此処にひとりだけ救いを求めた者が居た。彼は自分の罪を知っていて、救いが必要なことを悟ったのだ。罪を知る罪人の目には、キリストの光がはっきりと見える。

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

彼は最後に人の子のイエスさまに出会って、最初に福音を受けた。後の者が先になり、キリストの十字架の栄光を現す働きをした。

そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:44~46)


暗黒の中にあるキリストの光は、罪に鈍い人の目にもはっきりと映るだろう・・、この時天地は3時間暗くなった。
イエスさまが御体を裂いて備えてくださったのは、神様と罪人とを隔てていた神殿の幕を裂いて、永遠への道を開いてくださったのだった。

この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。(ルカ23:47~48)


しかしイエスさまは、自分の為に悲しめと言われていた。

しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。(ルカ23:28.31)
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財布と袋と剣 (ルカ22章)

2016-06-17 20:01:09 | Weblog



あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。(ルカ22:29~30)


イエスさまは十字架を前にして、最後の食事の中でこのように評価し、お弟子に天の王権を約束された。
しかし、この直前の弟子の会話は誰が偉いかと論じ合って、イエスさまにたしなめられたのであった。
また、十字架を前にしたイエスさまが、汗を血のように滴らせて祈られる時も彼らは眠っていた。
「わたしの試練の時にもついて来てくれた」と言われたけれど、主のもっとも苦しい十字架の時には逃げ出してしまった弟子であった。

ただ、この時まで彼らは確かに一緒にいたのだ。主はぎりぎりのところで彼らを評価された。
主は、人の一生の何処を切り取って評価してくださるのか・・、この記事からご愛が伝わってくる。人が何をしたかではなく、おことばだけが事実と成るのだから・・。


 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」
「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。
あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」(ルカ22:35~37)

イエスさまが地上に居られたときは、必要を世から受けて生きる者であったが、十字架でいのちをあがなわれた者は、世の養いに拠らず天からの養いによって生きるようになる。彼らの財布には、必要が天から満たされ養われる。
エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅱ列王記17:16)

「着物を売って剣を買いなさい」とある。この日まで身を守ってきた物を、レーマとロゴス二振りのみことばの剣に変えて、それを守りとして生きる者となり、新しい革袋に福音を満たして運ぶのである。

 主の危急のときに眠っていても、弱さ故に逃げ出しても、彼らには思い出すべきみことばの約束があった。また、いつも一緒に居た事実があった。
それゆえに再び主にお会いする時、恐れることなく逃げ隠れする必要もなく、幼子のように喜ぶことができるのである。

イエスさまは御父の言葉を語られた。聖霊はイエスさまのことばを思い出させ、折に叶ったみことばによって平安、力、知恵、慰め、希望・・また、弱さの避け所であることを教えてくださる。
しかし、私たちが常にみことばに親しみ、蓄え備えていなければ、聖霊も教えようがないだろう。
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主の祈り 最終章

2016-06-16 22:40:38 | Weblog



主の祈りはプライドを捨てて、主に拠り頼む祈り。
「私たちの罪をお赦し下さい」それは、無条件の赦しを願う祈りである。
赦され、聖霊の臨在を賜って初めて人を赦す者となるのだ。
赦し愛してくださるキリストの平和を得るからである。
そこで初めて「私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します」と祈れるのである。

しかし生まれながらのプライドはその祈りを阻む。
「我らが赦すごとく・・」と自分発の善行に、順序をすり替えようとする。
みことばに明確に順序が書かれていても、それを受け入れることができないのは肉のプライドである。

主の求められる捧げ物は、そのプライドである。
砕かれて捧げる魂こそ、主が赦しを準備して待っておられる捧げ物である。

捧げ物の後に、主は新しいプライドを私たちにお与えになる。
それは、神の子としての立場、祭司としての立場である。
神から受けたそのプライドこそ聖なる賜り物であり、
終生私たちが拘り続けるべき宝物である。

肉のプライドを捨てた先にあるのは、主の赦しから発する新しいいのちの誕生。
主の祈りにはそのことが隠されている。

肉はそのことに徹底的に叛逆するけれど、その肉を治めて、
主が教えてくださった通りに祈ることが祝福の初めである。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩編51:17)
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2016年6月15日

2016-06-15 16:02:05 | Weblog



 ホトトギスが、テッペンタケタカ、テッペンタケタカ・・って、時々詰まりながらも正確に鳴いている。
植木鉢のキュウリが3本実を付け、茄子も2本たぶん成るだろうという感じ・・「親の小言と茄子の花は万に一つの無駄もないアーコリャコリャ・・」だから。
じつは実に成らなかったこともあったけれど、あれはなにかの間違いだろう。

 今日キュウリのネットを買って来た。もう、背丈ほどになってしっかり金網に巻き付いている蔓を解いて・・もとい!千切って支えをネットに変更。キュウリの葉が細かな金網に押しつけられているのを見て辛そうだと感じたからだ。好意からだけれど迷惑だったかもしれない。

この行き当たりばったりな計画の無さに、自分でもあきれ汗だくになりつつ・・それでも蔓を折ることもなく2本とも無事に終了。お詫びにたっぷりとお水を差し上げた。
無理矢理ネットに括り付けておいたけれど、たぶん明日には自立してくれるだろう・・。うちの野菜はそんなに柔じゃないはず。

 取っ払った金網を玄関前に持って行ってフエンス沿いに張る。朝顔が早く準備しろと、出入りする度に催促して見上げていたから・・。
はびこっているムベを剪定して場所をあけてもらう。朝顔が満開の朝を思い浮かべながら奮闘した。

インゲンはもう食べている。家で取った野菜が柔らかいのはなぜだろう・・。すべて完全無農薬これ最高!春菊も間引いてお汁に入れた。良い香り。
でも、とれたて野菜が食べられるのは実はほとんど頂き物。本当にとても感謝なこと。


 主の必要は主に拠って準備されている。ロバの子も、過ぎ越しの食事の場所も備えられてあった。
私にもみことばにゆっくりと過ごせる時間と、家族の心配事もないように主がすべてのことを整えてくださっている。四方八方に働いて細やかに顧みてくださっていることを身に染みて感じている。

それでもとても落ち込むことがある。まあ、生きものだから感情は揺れ動き、持ち上げたり突き落としたりするもので・・そういうものだけれど・・。
そのような時はみことばに逃げ込む。賛美の力は無くてもみことばを聞き続けることはできるから・・。

みことばを責められたと感じてもほめられたと感じても、いろんなことをしながら何時間も聞き続ける。時には読み時には書き綴る。その内にいつしか心は穏やかに整えられて嵐は去っている。

 後期高齢者の体はあちらが痛いこちらかゆいは毎度のこと。でも、健康の基準をこの辺に置いているから私は健康。
いつ命の耐用年数が切れても惜しくないけれど、主はなぜかこういう使い物にならない者を用いるお方だから、これで主の採用条件を満たしているのなら、最後までとことんやり通したいのだ。
惜しくないからこそ思いっきり生きることができるのかもしれない。揺れる魂と重い体を引きずってくださっているのは主だけれど・・。
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「天地は滅びます」 (ルカ21章)

2016-06-14 17:20:26 | Weblog



イエスさまは17章に続いて再び主の日を話された。宮は崩されなければ主の日は来ない。イエスさまが十字架で御体が裂かれなければ、私たちは至聖所に入れないように・・。
「それは、いつ起こるのか」と、ずっと問い続けられている。なぜそれを問う必要があるのだろう。

すべての解決を主はすでに教えておられる。
「人の言葉に惑わされるな」聖書には何と書いてあるか。
「天からのすさまじい前兆がある。それは終わりではない」まだ間に合う、主に静まれ。
「迫害が起こる。その時、証しのことばが備えられる。肉の知恵で考えるな。」
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。(ルカ21:15)

「家族にも裏切られる。」
しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。(ルカ21:18)
このみことばによって、結局家族は失われないことを知る。何も失わないのだから家族も失わないのだ。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

私は、イエスさまを信じて以来不器用で融通の利かない信仰によって、幾度か主人と衝突したことがある。
息子の信仰も主に投げ出して、自分の信仰を追い求めて来たけれど私は何も失っていない。ひとり主イエスを信じることがすべての祝福の初めである。

「忍耐によって、自分のいのちを勝ち取れ」
此処で、「自分のいのち」と書かれている。後のことは主の憐れみに頼るほかないということ。どうして人のいのちまで手が回るだろう・・それは無理である。
だからいつも主の憐れみの中に居て、思いを主に共有して頂いて居るのである。

人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカ21:26~28)


気を失う人と、からだを真っ直ぐにし頭を上げる人がある。その時、からだを真っ直ぐにして頭を上げるためには、

あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。(ルカ21:34)

キリストを知る者に放蕩や深酒はないだろう。私も飲むことがあるけれど・・。
もっとも危険なのは世の煩いであることがわかる。それは明日のこと、将来への思い煩いに心を縛られることである。

キリスト者が「今」行き詰まることはない。なぜなら、ご真実な主は必要のすべてを備えて下さる方であるから・・。私は主の備えを山のように経験をしている。行き詰まって恥をかいたことは一度もない。
人は明日の事を心配して信仰から堕ちて行く。明日の事を心配して永遠を失うならブラックユーモアである。

しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21:36)

祈り・・それは、御父と御子と聖霊の交わりに留まること。主に耳を澄ませて心を寄せて暮らすこと。
人間的な避け所がない分、主に対する油断のない緊張感を持ち続けることができるのである。そうして、それは主にのみ拠り頼む聖さとなる。

いつでもみことばを聴く備えの中で、名を呼ばれたら体を真っ直ぐにし頭を上げて、一瞬に主に上げられるのだろう・・。
それは災いの時ではなく、待ち焦がれた祝福のゴールである。

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