石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「主よ、来てください」 (ルカ17章)

2016-05-31 18:11:47 | Weblog



 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:5~6)


「信仰を増してください。」と言った弟子たちは勘違いをしている。目の前で行われる主のみわざを見て「神の御子」と告白しても、それは信仰ではなく見たままなのである。彼らにはまだ信仰の有無を確かめる時はなかった。

信仰の有無がわかるのは人の目にキリストが見えない時であり、目の前の状況がみことばと一致しない時である。
私に信仰は無いけれども、今は「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」がおられる。それゆえ私は信仰を持っている。「わたしのものは全部おまえのもの」と主は言われた。

 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20~21)


神の国は人の目に認められないとある。事実、目の前で主が話しても、彼らは認めることができなかったのである。主こそ神の国、パリサイ人の目の前にあった。
しかし、それはみことばに伏して初めて知ることであり、みことばに飛び込んで賜る神の国である。

パリサイ人が「いつ」と尋ねて、主は「あなたがたのただ中」と答えられた。時はもう来ているのだ。
人が「いつ」と問うことは、その時を知ってから準備をしようとするからである。しかし、そのような余裕はない、それはいなずまのように一瞬であると書いてあるから。

イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。(ルカ17:22)
いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(ルカ17:24)
主の日再臨はノアの日のようロトの日のように、ありふれた日々の中に一瞬のいなずまのように来るのである。

自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(ルカ17:33)
財産や家系や学歴や権力など・・世には命のように大切に思うものは色々とあるが、パウロはそれらを塵芥と捨てた。
時は来ている今、世を振り返るならロトの妻のようになる。その日には二人のうち一人は残されると書いてあるから。

弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」(ルカ17:37)
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。(黙示録3:1)

死んだ行いの中には死体があるのだ。はげたかの餌になっていてはいけない。
主に在れば常に備えられてあり、「どこ」と問うことも「いつ」と問う必要もない。

しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。(ルカ17:25)
主は何事も前もって備えてくださる真実なお方である。人には十字架による救いをこの日のために備えてくださった。
十字架がなければ人類は全滅だ「義人はいない。ひとりもいない。」から。
今、主のすべての備えの中で「主よ。来てください。」と言う日々。
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ひれ伏す (ルカ17章)

2016-05-30 17:51:35 | Weblog



 イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。
この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(ルカ17:1~2)


つまずきの初めはカインの罪彼は自己中心であった。だから神様の裁きに憤って、八つ当たりをしてアベルを殺してしまったのだ。
アベルが直接彼を怒らせたわけではない。恨みはなくても神様の裁きが気に入らない時、人は神のお気に入りを殺そうとする。

神様の裁きがつまずきを与えるのか・・、いや、人は裁きに服従するべきであると躾けておられるのである。それが人の唯一の聖さだから・・。
主の裁きに憤り、その汚れた思いを拡散して人をつまずかせる者がいる。そのことは忌まわしくそのような者には死を与えたほうがましだと言われている。


 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(ルカ17:3~4)


主に赦された者は感謝のゆえに赦すことができる。赦しを経験することは弟子にとって重要であって、初めに主が七の七十倍赦してくださったのだ。
そのことがわかるのは正直だからであり、誤魔す者には主の赦しは認識できない。人を赦すことは主に対する服従である。


 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:9~10)


主人はしもべをもてなす立場にはない。神様は私たちの主である。
何処から救われたのか十字架を日々覚えておれば、いかなる裁きにもすんなりと従うことができるものなのだ。そうして、笑顔で「なすべきことをしただけです。」と言うだろう。


 ある村にはいると、十人の病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。
イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。(ルカ17:12~16)


十人癒されても感謝をもって戻ってきたのは、孤立していた異邦人の一人だけであった。
人が互いに頼り合う関係で、ひとりで信仰の深みに入って行くことは難しい。大勢の顔色を見ていては不信仰に流れて行く。
真理はひとりで選ぶものであり、ひとりで主に返るべきである。

共に集まって、主を賛美することは楽しく主のお喜びである。けれども、信仰の歩みは後ろを振り返らずにゴールめざして駆け抜けなければならない。時間が何時までもあるわけではない。その真実な信仰に多くのいのちが掛かってもいる。

それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(ルカ17:19)

イエスさまは、彼がしっかり信仰に立つことができるようにとみことばをもって祝福してくださった。
何度癒されても人は一度死ぬ者である。「霊、魂、体」の祝福を受けなければ意味はない。人は神の栄光を現すために造られたのだから。

彼はイエスさまの足元にひれ伏した。人にとっては、主の御前にひれ伏す以上に美しい姿はないと思う。
それは御子の十字架によって救われた者のあるべき姿だから・・。
御国で新しい霊の体を着せられて、主の御前にひれ伏すことを夢見ている。低く低く溶けてゆくほどにひれ伏すことを思い描いている。
その日はなんと素晴らしいだろう・・。
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不正な管理人のたとえ (ルカ16章)

2016-05-28 18:15:46 | Weblog



 ある管理人の横領が主人にばれて首になりそうになった時、彼はその立場を利用して抜け目なく将来の備えをした・・。
これは管理人が主人公の話しではなく、イエスさまが「不正な管理人の話をします」と言われたわけではない。題が付けられたことからややこしくなっている。

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがない者なので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。(ルカ16:8)
ここで「では光の子であるあなたがたは・・」と、16章の最後まで話しが続くのである。

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカ16:9~10)


「不正の富み」とは「この世にある時間」であり、「この世の時間を永遠の備えのために用いなさい。この世にある時間を使って真の友である主を知りなさい。そうすれば終わりの日に永遠に迎えてくださいます。」と勧められている。
この世で売ったり買ったりに忙しい者には、天の備えはとても小さな事なのである。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(ルカ16:11~12)


「今日、主から与っている時間に忠実でなかったら、誰が永遠の命を持たせてくれるでしょう。」である。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ16:13)

与えられている時を世に用いるのか、主に仕えるために用いるのかによってどちらを愛しているのか、どちらを軽んじているのかはっきりしている。

 16章の終わりには金持ちとその門前の乞食ラザロの話しがある。
死んだ金持ちは苦しみの中で、アブラハムに抱かれているラザロを見る。そのとき金持ちの願いは、越えられぬ淵によって叶えられることはなかった。
今こそ、その日のために自分の備えをしなさいと言われているのだ。今与えられて居る時を何に用いるのかがすべてを決めるのだから・・。


 今日はブログも休んでゆっくりしようと思っていた。でも、帰宅していた息子に「聖書読む?」と聞くと即座に「読む」と答え、彼が指定した箇所が16章だった。そのとき「今日の休暇」は主に却下されたと感じた。

交読を終えて、彼は聖書注解書を開いて「書かれていないな・・」という。「書いてないのは間違いを書くといけないからだろう」とつぶやいていた。
しかし人は間違えるけれど主は間違えなさらない。また、その事が人からか主からかは、人に出来るはずのないことが出来たら、それは主から出たことに決まっているのである。

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「キリスト者の財産」 (ルカ15章)

2016-05-27 17:20:18 | Weblog



 15章では、イエスさまが「放蕩息子」のたとえを話された。
弟息子が「財産の分けまえをください。」と要求し、父から与えられた財産をもって旅立った末、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たし飢えて帰って来たというたとえ話。

ここで話されている父とは神様のことであって、飢えることはみことばの飢餓である。
彼がやりたい放題をして、財産を使い尽くしたことは放蕩とすぐに分かる。しかし、知識を持っている行動力もあるということで、意欲に燃えて自分の義を成そうとすることも「自分のやりたいことをする」であり、それが父の家にいて成されるのでないならそれも放蕩。

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)


 彼らは豚を汚れているとして避ける者であった。しかし、その餌さえほしくなるほどに飢えたところで、彼の救いは「我に返った」ことである。
みことばに飢えるとき、信仰にない人の言葉にさえすがりたくなる。その時「我に返る」ことができたのは、待っていてくださる父の熱心にある。

15章の始めには、百匹の羊のうちの1匹が迷子になり、その一匹を見つけ出した喜びが書かれている。
揃った10枚の銀貨の内、失った1枚を見つけ出した喜びが書かれている。
いずれも失われた私たちに対する主の熱心が語られており、人が救われるのは主の熱心に拠ることである。

命を守り養うのは主ご自身であって、主と共に居るなら「わたしのものは全部おまえのもの」(ルカ15:31)と言われた。
主から何を得るかではなく、万物を生み出すみことばを持って居られる方に居ることによって豊かなのであり、主ご自身こそキリスト者の財産なのである。

人はいのちの言葉を離れると死ぬ者であり、主の元に戻ったとき永遠に生きる者、「死んでいたのが生き返って来た」(ルカ15:32)と書いてある。
ただ、兄息子がいつも父と居て「子山羊一頭くださらない」としか告白できなかったのは、彼が父の豊かさを知らなかったからであり、何十年も信仰を持っていても、主の豊かさを経験していないなら悲しいことである。


 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(ルカ15:1~2)


みことばに渇いて求めたのは罪人であり、正しい人たちはみことばに敵対していた。
「長年あなたに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」と言う兄息子も、罪人を裁く正しいパリサイ人律法学者たちも、天に喜びをもたらすことはない。
彼らが神の義に渇くことはなく、いのちの糧を主のみことばに拠り頼むこともないからである。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(ルカ15:10)

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神の国の宴会と地の宴会 (ルカ14章)

2016-05-26 08:27:29 | Weblog



此処には二つの宴会の様子が書かれている。ひとつは地上の宴会、もうひとつは神の国の宴会である。
地上の宴会は互いに招き合い上席を競い合ったりして、大繁盛のようすがイエスさまの言葉から分かる。

招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。
招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:7、10~11)


日本では良くある絵だけれど・・これが演出だったら偽善であって、主は口先ではなく心を見て居られる。

また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。
祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」(ルカ14:12~14)


此処では「貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たち」は、彼らの義の行いのために備えられているようである。

イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言った。
するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。(ルカ14:15~16)

ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』(ルカ14:18~20)

地の宴会と比べるとき、神の国の宴会はなんとみじめなことだろう。招いた客が誰も来ない宴会ほど悲惨なものはない。主の準備された宴席、「神の国」を望む者は誰も居ないことをイエスさまは話された。

しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』
しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』(ルカ14:21~22)


此処では「貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえ」が神の国の必要を満たす者として書かれている。
主はケチなお方ではなく、救いの席を豊かに準備してくださっていることがわかるのである。

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。(詩編139:13~15)


主はすべての人の造り主である。主の関わらない人はひとりもいない。主は誰をも祝福の内に母の胎で組み立ててくださった。
弱さを持って造られた彼らは、地では人の義の行いをなさせるものとして、また神の国では神の恵みを無駄にしないための役割とはなんと光栄な存在であろう。
それは本人の努力とはなんの関係もなく、初めからそのように造られた恵みである。

主人は言った。「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」(ルカ14:23~24)


私も通りすがりを主に引っ張って来て頂いた者、時をかけて追い込んで追い込んで連れてきてくださった。
今、神の国の食卓は末席であろうとテーブルの下であろうと、主と共に食事をするお交わりの中で、御声を聴き続ける恵みのゆえに、もうそんなことはどうでもよいと思えるのである。
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みことばを計算する (ルカ14章)

2016-05-25 14:15:23 | Weblog



塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。


また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。(ルカ14:28~31)

キリスト者が事を行うには、まず主の御前にみことばを受け取るまで座ることから始まり、いかなる時にも完全に必要を満たし完成させるのである。
お金の計算も戦力の計算もすべては、賜ったみことばを正当に計算することに拠って成る。

そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:33)

それは自分発のものには拠らず、要らないから捨てなさいと言われている。みことばという宝の価値を正しく知ることによって、平安の内に塔を築きあげ、敵に勝利して行くことができるのである。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:26~27)


私は以前主をもっともっと知りたくて、教会に来かけたばかりの主人と、聞くことに助けの必要は息子を、御前に放り出したことがある。
私が捨てた家族を拾い上げてくださって、主は平和の内にご自分の家族としてくださった。

私は渇いて行動しただけであったので、ただ、ただ、主の御憐れみだと深く感謝している。
主の再臨に、私たちが家族を抱きかかえて上げられるなどと書かれていない。ひとり一人、主はご自分のものの名を呼んでくださるのである。
私はその時を、日々みことばを計算しつつ待っている。
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神の国はからし種のよう・・ (ルカ13章)

2016-05-24 14:14:28 | Weblog



そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。
それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」
(ルカ13:18~19)


 神の国はからし種のようなものとイエスさまは言われた。からし種はその小ささによって誰の目にも留まらず、取るに足りないもののようである。
しかし、地に蒔けば生長して枝を張る木となり、主の養いにより頼む空の鳥の安住の場所となる。

またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:20~21)

神の国はパン種のようなものと言われた。パン種も人目には付かないものであるが、それは命の糧を大きく豊かに膨らませて、人のいのちを養うものである。
5つのパンのたとえのように、無限の養いが神の国には準備されていることを教えているのである。


 聖書の中の「鳥」には、みことばの種をついばむサタンの働きもあれば、主の養いを豊かに受ける祝福の鳥もある。
「パン種」はパリサイ人やサドカイ人の滅びに至らせるものもあれば、命のパンの豊かさを実現するパン種もある。

聖書には同じ言葉でも真逆の意味が隠されており、どんな時も聖霊によって開かれるものであって、聖書全体が一つの御霊によって開かれるなら、そこには矛盾はないのである。

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「神の国」を求める (ルカ12章)

2016-05-23 18:21:39 | Weblog



 イエスさまの回りは群衆で足の踏み場もないほどになった。しかし、この時イエスさまは弟子に対して話された。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4~5)

主を恐れるとは、みことばを無視しないこと以外に何があるだろう。それは、聖霊によって示されるみことばに従順することである。
押し寄せる群衆に惑わされることなく、「わたしのことばに留まりなさい」と言われている。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカ12:8~9)

弟子がイエスさまを「知らない」ということはありえないが、みことばを軽んじることは御父を否定することである。人を恐れると神を「知らない」と言うことになり、それはペテロの失敗と同じこと。
主を認めるとはみことばを告白することだが、それは聖霊に拠らなければ何を話すべきかわからないし、恐れによって必要なみことを語ることもできないものである。

たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。(ルカ12:10)

人の子イエスは十字架の上で犯罪者として人々にそしられ、不幸事や自分にとって不都合なことが起こる度に、人は神様をそしってきた。もし、それによって赦されないのなら救われる者は誰もいないだろう。
ただ、聖霊の導きに拠ってイエス・キリストを救い主と信じ救われたのだから、その方を否定してけがすなら救に至ることはない。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)

人はこの世でどうように財産を守り、また家族を守ろうかと心配をする。
それがキリスト者も同じだと言うなら、何処で神のみわざや豊かさを経験することができるだろう。その信仰のどこに神様が介入することができるだろう。一分の隙もなく人の力によって守られている所に・・。

何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。(ルカ12:29~31)


神の国を求めるとは、守ってきたものを主に明け渡すリスクを取ることである。私たちには信仰がないから、それはリスクに思えるのであるが・・。
そうすれば、神の国に加えて世の必要を与えると約束されている。

小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。(ルカ12:32~34)


「持ち物を売って施しをしなさい」とあるけれど、それは自力で守って来たもろもろを主の前に差し出すこと。
そのことによって、神様のみわざを見て救われる人々への施しとなるのであり、天に宝として積み上げられる。

「恐れるな」と聖書は繰り返し私たちに命じている。
「喜んで御国をお与えになる」とあるが、深刻な問題は「神の国を一番に求めて居るのか」ということなのであって、そうでないなら聖書はその人にとって無意味であり、主のお悲しみである。
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誰であっても・・ (ルカ11章)

2016-05-21 11:08:44 | Weblog




イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。
しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。(ルカ11:14~15)


イエスさまはご自分からは何もなさらなかった。イエスさまは御父のことばを話し、御父のわざだけをして居られた。しかし、群衆の中には「ベルゼブルによる」と言う者がいた。
賢さは屁理屈を付け加えるものである。それも神様をサタンと決めつけるなら、彼らの救いはもう何処にもないことになる。

もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。(ルカ11:19~20)


賢い者たちは賢い仲間によって、絶えず裁かれ罪定めされて、御国の恵みに落ち着くことができない。

忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。(ルカ11:52)

しかしへりくだって、御子によって行われる神の手のわざを受け入れるなら、「神の国はあなたがたに来ている」と言われる。
もう、互いに責め合い訴え合う所に居なくても良いのだと・・、主に賜る平安な神の国が来ているのだと言われた。

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10:21)

幼子の素直さだけで神の国を知ることはみこころに叶っており、此処には何も要求されていない。
イエスさまのお言葉には限りない優しさが込められている。ベルゼブルと呼ぶ者に向って、このように諭されたのだから・・。

それにしても、人には聖いものと汚れたものの区別ができない。だから聖霊を求めなさいと言われる。誰であっても求める者は受けると約束されてある。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9~13)
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ええ子

2016-05-20 15:22:27 | Weblog



朝はゆ~っくりと賛美、みことば、主に思いの丈をおしゃべり。満ち足りてもう~なんもいらんと杯のあふれるまで・・。
御父と御子のお交わりに居らせていただけるのは、私が幼子だから・・、幼子は何時でも、好きなだけ父にくっついていることが赦されていて、誰も邪魔になんかしない。

終わったら立って、トイレ掃除にメダカさんの水槽掃除。よっこらしょと抱えて地面に下ろしメダカを掬って避難させる。最近はメダカも私も慣れてきて、パックを水槽に沈めるとメダカは水流に乗って入って来る。素直な「ええ子」である。

透明になった水槽でくるくると泳ぎ回っているので、少し餌を入れるとツンツンと突きながら食べている。かなり荒っぽい作業の後なのに、平然と何時も通りなのはすごい!
これが我が家で長生きする秘訣なんだね。

それから、仕込んであったお味噌の天地返し。ヨッコラショと重い桶を抱えてきて、台所で寿司桶にお味噌を移し天地を返すように桶に戻す。言うのは簡単だけれど、まだ発酵していないお味噌は堅くて重くて力仕事なのだ。

「おいしくなれ、おいしくなれ」と麹に聞かせつつ、空気にさらしたものを再びきっちり押さえて「おやすみなさい」
例年どおりの場所に戻し冬になったらできあがり。何時もカビ一つ無くきれいに出来上がってくれる「ええ子」である。

今日は洗濯をしなかったかわりに、昨日庭で摘んだドクダミが竿に並んでいる。もう水分が抜けたのかすっかり脱力して、五月の風にユラユラ・・緑色の風にサヤサヤ揺れる。ふふふ・・うまく乾きそうな「ええ子」だ。

ああ、私も主の「ええ子」でいたいなぁ・・。
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