石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

大人の塗り絵

2016-04-30 20:56:32 | Weblog



 最近の遊びは塗り絵。ひとりぽっちの夜、ポール・モーリアなどを聞きながらの色遊び・・。
思いつきで注文して、孫でも遊ぶだろうと仕舞ってあったのだけれど、「なんだかしんどいなぁ」って日に「ああ・・あれがあった。」と気を紛らわせるために手にしたのが始まり。

配色を楽しんでいると西陣で唐織りをしていた日を思い出した。色の種類は決められていたけれど唐草模様の配色を任された時は、心弾ませながら織り続けたものだった。あの時ばかりは仕事が趣味のように楽しかった。

本来は厳格に色が決めら、柄のサイズも数㎜の狂いも許されないほどで緊張が続く。それというのも紋がほとんどであり、それは少し伸びても縮んでも形が変わってしまうからであった。それでも私はその仕事が好きだった。人に気遣う必要もなく、一人で集中できる職人仕事は私に合っていた。


 やっと一人前に認められて来て、織るだけではなく縦糸の扱い方から織機の扱いまで教わり始めた頃、皮膚結核という思いもよらない病気に罹っていることがわかって、日赤通いをするようになり仕事を続けられなくなってしまった。
土間を掘って織機を埋め込むように置かれた場所で、朝から晩まで仕事を続けていたからだろうと思う。

土の中に埋め込まれているのは仕上がりまでに1ヶ月はかかり、絹糸には乾燥が禁物だからじゃないかと思っている。
糸の繊細さ故に私は織り以外の仕事はいっさい出来なかった。手を荒らすことは仕事ができなくなることだったから。

奥さんは大切にしてくださった。夜食を屋台のぜんざい屋さんに取ってもらって、薄暗い京町家の台所で二人で食べた独特な甘さを思い出す。
一人前にならないと給料なんてほとんどなかったので、お風呂の入浴券から休日の映画館の入場券まで支給されたものを使っていた。

自由もお金もまったく無かったようなものだったが、仕事が好きで苦になることはなかった。
まあ、一人前の職人さんと混じって織っていたのだから、いいように使われていたではないかと、5~60年も経った今頃になって気づいたのだけれど・・。
今、主はすべてをあがなってくださっていることに、色鉛筆を選びながらふと気づいた。
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「真理であって偽りではない」

2016-04-29 16:43:46 | Weblog



 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」(ヨハネ7:14~15)


 今朝このみことばを読んだとき「あっ、イエスさまと一緒だった!」と嬉しくなった。
まったく正規には習っていなくても、みことばは日々教わっているし、それによって理解することも話すことも出来るではないか・・このことが語られているのだと嬉しかったのだ。

人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。(マタイ10:19)

人から受ける学問は乳としての働きはあるが、パリサイ人や律法学者が多くの学問を積んでいたにも関わらず、ニコデモでさえイエスさまの言葉を理解することはなかったのだ。
みことばは人の学問で悟ることではないのだ。


 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)


生ける水、私たちの内におられる聖霊によって解き明かされるみことばだけが、天の知識を与えることができる。
聖霊は私たちの内に蓄えたみことばを解き明かし、イエスさまを教えて御父のみこころに導いてくださるからである。
だから今私たちは内住の聖霊に拠って、イエスさまのようにみことばを話すことができるのだ。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

「真理であって偽りではありません」とわざわ付け足されている。開かれる言葉を信仰によって受け、いのちを預けるようにして語るのである。

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネ7:18

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いのちのパンを求めよ  (ヨハネ6章)

2016-04-28 13:31:39 | Weblog



 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(ヨハネ6:5~9)


ともに現状を伝えた弟子にはこの時信仰はなかった。私たちもイエス様に、必要をありのまま訴えることは正しい。
しかしこの時、弟子が集まって満たす方法を論じ合ったとしたら、また、群衆に向かって足りないことを訴えたとしたら・・、そこにはイエス様は居られない。
主ご自身に求めないところでは欠乏は解決されず、神の栄光を見ることはない。何時までも、世の習わし通りに互いに訴えあうことになるだろう。

イエス様に足りないことを申し上げたとき、主は有り余るほどに満たされた。パンが与えられたのは男だけで5000人と書かれてあり、女子どもを入れると1万人以上と言われるけれど、主にとって数は問題ではない。
主は無限に満たすお方であり、一人を満たすことも万人を満たすことも主には同じである。


 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:26~29)

日毎に天から降って来たマナを食べても人々は死んだ。私たちを満たすものは唯一「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る」主イエスである。
食べれば無くなるパンを毎日追いかけても、欠乏が私たちから去ることはない。それは追いかけているものが「無くなる」ものだからである。


 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」


そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:32~35)


 主はすべてを満たすお方である。
それはご自身を「いのちのパン」と言われたからである。いのちは食べものだけで保つものではなく、心の充足感も、世で生きるための力も、愛し愛される喜びも、いのちの望みも必要だからである。


 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。(ヨハネ6:51)


 みことばのパンを食べるとき、主はその日のすべての必要をあらかじめ備え、私たちの霊の倉に永遠への備蓄をしてくださる。
十字架の血は日毎に私たちをきよめて、今日を真っ新な出発としてくださる。だから、いつも新しく主を知ることができるのだ。
いのちに至る働きはただ一つ。人ではなく主にのみ欠乏を訴え、永遠のいのちに至る主ご自身を求めることである。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(ヨハネ6:51~54)

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晴れのち曇りのち晴れ

2016-04-26 14:12:32 | Weblog



 メッセージの後に大岩がど~んと落ちて来たように感じられることがあって、私は気落ちして早々に帰路についたのだけれど、バイクで走りながらメッセージを思い返している内に、まさに語られたことが起こったのだと気づかされた。すべて話された通りであったのだった。

でも、エピソードとして語られた「ど根性大根」のことから望みに導かれて行った。
種は神様が仕込まれたいのちが満ちているものであり、たとえアスファルトで塞がれても、岩に邪魔されても、実を結ぶことが出来るものなのだと。

種がアスファルトの上に落ちたのではなく、上を塞がれたのであるなら、種は乾きによって地下に根を張ることはできる。どんどん深く根を張って行くだろう。
それはもろもろの障壁の中にあって、心にみことばが残っている時のよう・・。

夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4:27)

種は命に満ちると光を求めて岩を少しずつ割り、アスファルトを少しずつ削って伸びて行くことが出来るのだ。その内に成長する力が蓄えられているから・・。
たとえそれが稀であっても・・いや稀だからこそ、備えられてあるいのちの力に驚き、見た者の喜びは大きい。

それが人の頑張りや根性ではなく、種に込められている神のいのちと知るなら、それは世の基の置かれる前から、神様によって選ばれた者にある遠大なる計画の成就であると知るなら、石割桜以上の美しいいのちの誕生である。
それがまったく神様によることだから美しいのだ。塞ぐものが大きければ大きいほど、感謝も感動も深いのだと・・。


 それでも心の疲れを覚えて外に出た。気持ちが重いときは体を使うことが一番の薬なのだ。膝を痛めていたので歩を緩めつつ何時ものコースを行った。瑞々しい若緑が頭上ら足元から押し寄せて来るようで、毎年この季節はその勢いに気圧されて「お手柔らかに・・」と思ってしまう。
すると、道の真ん中で大きな蛇が死んでいるのを見た。

あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。(詩編91:13)
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祈り (天と地のために)

2016-04-22 18:53:52 | Weblog




小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。(黙示録5:7~8)


金の鉢いっぱいに満たされた香は聖徒の祈りとある。それは鉢一杯に溢れるほどに満ちていなければならない。
私の戦いの日に、主は私の杯を溢れさせてくださったから・・。
その祈りは天の必要を満たすものであって、地の必要のためではない。それは祈りを賜ったゆえに、知性や感情の預かり知らない所で、ただ従順によって捧げる賛美と祈りである。


御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ)

地のための祈りはそのほとんどがうめきとなる。御父と御子の交わりに在って、聖徒の必要はすでに備えられてあるから、それに加えて祈る時、注意をしなければ不信仰な祈りとなるので、実はどう祈って良いのかわかならないのだ。

家族の危急の時は、御父と御子の交わりに入れていただいてどうして欲しいのかを申し上げる。それは私が平安を頂くためのようなもので、御父は御子イエスさまを与えるほどに私の家族を愛してくださっているので、「みこころがなりますように」が彼らにとって最善であると知って居る。


御父と御子にある交わりは慰めに満ちていて甘い。今日まで必ずそこにある御父の最善を経験させて頂いた。
主人は病んで召されたけれど、ずっと主の最善を疑ったことはない。死の淵にあった時も、私たちの人格守って下さったという深い感謝が残っている。真に主は脱出の道を天に開いてくださった。

また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」(黙示録14:13)


世にはもろもろの辛いこと悲しいことが起こる。思わず主に細々と助けを求めて祈ることもあり、胸が詰まって言葉を失うこともあるけれど、世に御子を賜ったほどの御父の御愛は事実である。
生きていれば、明日の朝も天の必要のための祈りをするだろう・・。主が祈りのためのすべてを守っていてくださるから。

とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。(黙示録
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畑作ったよ~

2016-04-19 15:48:28 | Weblog



 手のひらサイズの畑、いや、いや、そこまで小さくは無いけれどれど・・、ブロックで囲ってプランターサイズの畑を作った。好きなインゲン豆の種を蒔くため。
カフサンになって車もなく、プランター1つ買うにも不自由なのだ。

通販で注文をすると、2個のプランターを1個ずつ特大のダンボールに詰め物をして送って来た。巨大な荷物に「嫌がらせか・・」と思わず被害妄想してしまった。
嫌がらせではなく、超丁寧に真面目なお仕事をしておられるのだと理解したら、まずます注文しにくくなってしまった。
嫌がらせというものは効果が無いと分かると止むけれど、真面目にやっているのだから変わっていないだろうし、大きなダンボールの後始末がうっとしくて注文する気になれなかった。

そうして、思いついたのが庭で遊んでいるブロックで畑を作ること。グットアイデアと日当たりもまあまあな場所に隙間を作ってやってみた。
庭に敷き詰めていた小石を底に入れ、植木鉢の土や培養土、苦土石灰や肥料を混ぜ込んでみるとふかふかの畑が出来上がった。古い土からミミズが出て来たのでそっと混ぜ込む。しっかり働いてくれ!

土をならしてちょっと穴を開けて、インゲンの種を3粒ずつ置いて土をかけたっぷり水をやって終わり。
これからは毎日、毎日のぞき込むことになる。「そんなに見ていたら恥ずかしがって出てこらへん」って、前にからかわれてたことがあったなぁ・・。


 プランターでは、先に植えた春菊の本葉が伸びてきている。しかし、ちょっと問題があるのだ。種を蒔いたあと待てど暮らせど芽が出てこないので、「もう、あきらめた」と思って、そこにインゲンの種を蒔いたのだ。そうしたら両方とも出て来てしまった。これからどうなるのか知らん・・。

主人が「畑は面白い」と言た。私も「わかる!面白いね。」と言おう。
どうなるか分からんとこが面白い。
イエスさまが遊び場を準備して置いて下さった。

今朝は主に、「自由な賛美と祈りの場所を守ってくださると約束してください。」と願った。すべてを賜る主は願わないものまで加えてくださる気前の良いお方だもの。これで万全の備えだ。
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「わたしが示す地へ行きなさい」

2016-04-18 16:11:27 | Weblog



 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)


神様の命令は暮らしの中でいつも突然であり、いきなりである。行き詰まっているときもあるけれど平凡な日にもあり、良い行いを止められることもある。
アブラハムに命じられたのは彼が75歳の時であった。彼は自分の年を顧みることはなかった。

アブラハムは、それが何であろうと「アーメン」と即座に行った。父の古里を捨てるときも、イサクを捧げる時もそうであった。
彼は、神様の命令に対して人的判断を一切差し挟まない。自分で判断することも人に相談することもない。

マリヤがキリストを胎に受け入れた時も、許婚ヨセフに相談することはしなかった。それはあり得ないほどの聖さである。
主の御前にひとりで出て従うことは唯一聖いことである。信仰はリスクを一人で引き受ける。


 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。(創世記12:5)

彼は故郷に何ひとつ残して置かなかった。このことは其処にはもう暮らせないことを現している。暮らせる手段をひとつでも残すことは二心である。信仰は神に従うか、逆らうかしかない。その間を行き来することは汚れである。

彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」(黙示録12:11~13)


主に信頼して始めたことであるから、従って行く中に起るもろもろの問題や人の弱さに対しては主ご自身が責任を持って下さる。
そもそも主は人が塵に過ぎないことをご存じであり、「手段が正しいか」ということではない。「何を願っているか」である。

妻であるサラを王に差し出すという思いつきは驚きではあるが、神様はそれを祝福で解決してくださった。「妹でもある」という言葉は言い逃れのようにも聞こえるが、それも出自に置いては事実であることに、弱さの中で従うアブラハムへの神様の憐れみを感じる。

問われるのは人としての規範ではなく神への熱心である。アブラハムは手段を問わないほどに、主にあって前進しようとした。主が行いを祝福される時はすべてを守られる。
サラを守るのはアブラハムではなく主である。
イサクを守るのはアブラハムではなく主である。
人は主に従順し主に身を避けることによって、すべての守りと祝福を得る。私たちのもっとも安全な場所は此処である。

アブラハムは決して強い人ではなく弱さをもっていた。
強い人なら信仰がなくても出来る事が、弱い人は信仰によらないと何もできない。神が良い方であることを信じていないと、一歩も踏み出すことができない。だから、人の弱さの中に完全に働いてくださるのである。

 アブラハムはもう一度、アビメレク王に対してサラを妹と言うが、その時も神様の完全な守りによってサラは守られ、アブラハムは多くのものを王から受けた。
人の弱さなんて簡単に変わらないけれど、造り主はそれらを完全にカバーしてくださる。アブラハムがアビメレクの祝福を祈った後、イサクが生まれた。

アブラハムに、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」(黙示録21:5~6)


イサクが与えられた後のサラの言葉には、恥じらを含んだ初々しさを感じる。
神様の祝福にある者にも召される時は準備されているが、老いはない。

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。(詩編92:13~14)
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園は「交わり」に完成した

2016-04-14 14:18:18 | Weblog



しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)

御父と御子の交わりに置かれてあるとき、イエスの血は日々の交わりの中に流れてきよめ続けてくださる。
それは私たちの日常において、聖霊が絶えず思い出させてくださるみことばによる。だから豊かにみことばを蓄えることは必須である。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:3)

神にある私たちの義とはなにか。キリスト者の愛の在りかはどこか。
それは御父と御子の交わりであり、そこにある愛である。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。(Ⅰヨハネ2:28~29


私たちに愛はない。自分自身を愛することさえ不自由な者である。家族をどれほど愛おしんでいても、無条件にすべてを受け入れる者ではなく、条件によってコロコロと移り変わる感情の支配下にある。
まして、他人を愛する愛はあまりに貧しくて使い物にはならない。それのこと一番知って居られるのは神様である。

だから、戒めを守られない私たちを憐れみ、十字架という脱出口を与えてくださった。
ただ、信仰によって御父と御子のまじわりに来なさいと招いてくださった。そこには、すべての必要が備えられているからである。

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、(Ⅰヨハネ3:21)
このことは信仰によることである。罪のあがない主を信じる信仰に拠って、私たちはすでに権利を得ているのである。なを責めるものは、汚れた良心であり否定するべきものである。

また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。(Ⅰヨハネ3:22~24)


聖霊によらなければ、聖書の全文を暗記しても真理である方を知ることは絶対にない。みことばが人を養い、霊と魂と体のすべての必要を満たすいのちであることを知ることは無い。
だた時と共に朽ちて行く言葉の一つ、また、自分の知識をひけらかすための道具、自己主張を補強ための材料となり、それは殺す文字となる。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:7.10)


愛は主の中にある。主に内包されてそれを世に実現してくださるとき、私たちはどんなことでもできる愛の力を得るのである。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。(Ⅰヨハネ4:13~17)


自分を見て御父と御子の交わりを躊躇する時、それは偽りのわなである。自身を神の子と告白できないのは騙されているのである。聖霊の導きの中で聖書を調べ、知識を得ることで平安を得る。
信仰によって自分の居場所を明確に告白できないなら、サタンはそこを足台として住み続けるから危険である。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(Ⅰヨハネ3:1)

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:18~19)



 アダムとエバが持っていた神様との交わりと、今御父、御子の交わりに在る私たちとではどちらがより多く主を知って居るのだろう。
どちらがより多くの愛を味わったのだろう。
今私たちは、アダムさえ持っていなかった永遠の平和の中に置かれている。今私たちは朽ちないいのちを得ている。

造り主の愛の証拠である十字架を私たちは歴史に置いて見ている。罪の嵩だけ御子の血潮が流されたことを知っている。

ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。(ローマ5:15)

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2)

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さんぽの庭

2016-04-13 11:13:00 | Weblog



 最近は、何度も庭に出てさんぽする。三歩で行き止まりだからこれが本当のさんぽ。
それでも、盆栽の八重桜が濃いピンクの花を付け、ムベは真っ白な花をたわわにつけて盛り上がっているし、主人が植えたシャクナゲは今年初めて花を付け、真っ赤な花がふたつほころび始めた。

クマガイソウはあちこち自由奔放に芽を出して、独特な蕾をぶら下げている。「この庭をクマガイソウ園にしょうか・」とつぶやいてみて直ぐにその間違いに気づいた。「クマガイソウ園になるのかな」であった。彼らは私の支配下にはなく、何処に芽を出すか何処で咲くかは彼らが選んでいるから「ご自由にどうぞ」であった。

同じように百合も沢山芽を出して、そこにも彼処にも気の向くままに伸び出した。どうやら・・クマガイソウに習っているらしい。
まったく我が家の庭では、センリョウもマンリョウもエビネもヤブラン達もハーブも好きなようにやっていて管理は無理。でも、「こんなとこに出て来たの」なんてハプニングも楽しいからこれでいいのだ。

 死んだようだった木蓮がいつの間にか赤紫に咲いていて、死んだようだった鉢に岩千鳥の小さな芽を見つけて「ああ、元気だったの」ってほっこりしたり・・。
さんぽの庭にも復活の春が満ちているから、じっと彼らを眺めているのは命の楽しみなのだ。

主人が失敗して葉が無残に枯れかけた観音竹を、箱入り娘のように見守っていると、次々と新しい葉を茂らせて奇麗な姿になって来た。
実は、「観音竹が元気になったよ」って主人に自慢をしたくて、再臨の出会いをうずうずして待っているのだ。主人はそういうとき素直な反応をする人だから、「おう、そうか」って嬉しそうな顔をするだろう・・。
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荒野にて

2016-04-12 11:03:59 | Weblog



「荒野にはイエスさまが居られる。しかし、サタンも居る。」
昔、痛い目にあったときに聞いた言葉・・。

主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。
わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。
ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。
主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、(申命記32:10~13)


荒野でないと聞けないことばがある。
あらかじめ知らされていた言葉を、空腹の中で思い出し反芻する時、もっと近しく知るから、「私の主。私の神」とひれ伏す。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(詩編23:5)

主の備えてくださる食べ物は時に叶った特別メニュー、だから・・私の杯はあふれています。
「イエスさま。愛しています。」
告白の度に・・注がれて溢れ出すみことば。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
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