石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

十字軍

2016-03-30 16:10:07 | Weblog



 最近はクラッシックやデミス・ルソス、池上彰さんや中川建一さんのお話しなどを、終日youtubeで聞いて過ごしていた。
私は歴史に疎く、クリスチャンになっても十字軍のことは何も知らなかった。だから、今頃になって知り、十字架を掲げてなされた悪魔のわざにショックを受けた。
主に「なぜこのようなことが起こったのでしょう」と尋ねた。でも、実は答えを持ってもいたのだけれど確認が必要だったのだ。

先日チラッと「答えが欲しい」とブログに書いたところ、とても久しぶりだったのに油菜さんから電話がかかってきた。私の求めている事が何か話してもないのに、彼女から「みことば読んでみて」と示された箇所に驚いた。問いにピタリと合った内容であった。

そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。
このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。
このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。(ガラテヤ4:22~26)


新約の時代に「なぜそのようなことが起ったのだろう」と思ったけれど、そこはやはり地上のことであり、奴隷ような縛りの中のエルサレムであった。私は以前から、エルサレムという地上にこだわる理由がわからなかった。
キリスト者には主の十字架によって、完成されている天のエルサレムがあるのではないか。自身が神の神殿とされているのに、なぜ地上に執着する必要があるのだろう・・と思っていた。

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
(黙示録3:12)


 実は、クリスマスやイースターのこだわりもよくわからない。人が掻き立てたり盛り上げたりするものは花火のようである。疲れが残るだけで、翌月まで持たないで直ぐに忘れられる。
何時とか何処ではなく、年がら年中その祝福の中に私たちは在るのだ。御父と御子と聖霊との交わりにどっぷりと浸って、日々味わっているではないか・・。
もし、そのことを知って居るなら、戦う相手を取り違えることもないであろうに。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:12~13)



それにしても主は素早く答えをくださった。それは時が煮詰まっており、それほど猶予できないということなのであろう。

しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。(ヘブル12:22)
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土筆

2016-03-28 19:39:55 | Weblog



 今日のウォーキングは土筆摘みになった。ツンツンと突き出した土筆に思わず手が出てしまって、あまりに少しではどうしようもないと、一握りになるまで草むらを探しつつ歩く。穂の堅いきれいなものを探して摘む贅沢さ。

オオイヌノフグリ、スミレ、タンポポが満開。
そうそう、絵手紙に「雑草と呼ばないでね」と書かれていたヒメオドリコソウや、ホトケノザも慎ましく赤紫の花を付けている。

青空をバックに濃いピンクは桃のつぼみ、今にも弾けそうに膨らんで・・、桜は乙女のように開き初め、エニシダは枝を黄色く染めていた。
ユキヤナギは白い手を伸ばし、派手なラッパ水仙を誘う・・。

ウグイスがとても下手くそで「ホ・ケキョ、ホキョ、ホキョ、ケキョ・・」
「まだまだ修行が足りません。」
一握りの土筆を掴んでゆらりと・・ふらりと・・野を徘徊す。無愛想な田を眺め、あちらの土手を漁り、こちらの草むらを覗きつつ曲がり角を大回り。

もう間もなく、竹の子もニョッキリ突き出て来るだろう。猪だって全部は食べきれない。彼らは豪勢な食通で土の中の若いものしか食さない。残り物の竹の子を、主人は「猪また」って言っていた。猪が跨いでいった物なのだって・・。


 今は何もしないで聞いている。お口チャックで聴いている。本当に知らないことばかりだから・・。いつかお腹がいっぱいになったら何か話したくなるかも知れないけれど・・。
ただ、聴けば聴くほど疑問が沸いてきて、なを聴かなければますますわからなくなる。
人に聴いているようでも、主の交わりにいるのだからきっと答えをたまわるだろう。主はご真実なのだから・・。
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存在

2016-03-27 15:58:16 | Weblog



信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近付く者は、神がおられることと、
神に近付く者には報いて下さる方であることを、
信じなければならないのです。(ヘブル11:6)
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解放

2016-03-26 16:33:02 | Weblog


わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書き付ける。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。

また彼らが、おのおのその町の者に、
また、おのおのその兄弟に教えて、
「主を知れ」と言うことは決してない。
小さい者から大きい者に至るまで、
彼らはみな、わたしを知るようになるからである。

なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:10~12)
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神の約束

2016-03-25 09:09:15 | Weblog



「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
(使徒行伝16:31)
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豊かさ

2016-03-22 11:40:45 | Weblog




烏のことを考えてみなさい。
蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。
けれども、神が彼らを養っていてくださいます。
あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。(ルカ12:24)
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初めに、神が天と地を創造した

2016-03-18 15:28:37 | Weblog



 庭の雑草を取ってちょっとすっきりした。クマガイソウやエビネの芽を踏まないように、だから今まで手を附けずにふかふかの苔の間からはっきり芽が見えるまで待っていた。
この巨体で踏まれたら一巻の終わりだろうから・・。
去年は沢山の花が咲いたけれど、今年は芽が少ないなぁ・・まだこれからも出ると良いけれど・・。
主人と一緒に病んでいた梅は思いっきり剪定したからか、あま~く香って数は少ないけれどピンク色の八重が可愛い。乱暴な剪定だったのに咲いてくれてありがとう!


 神様は天地宇宙も、太陽も月も星も、水も、木や草も、魚も鳥も、すべてをことばによって「光よ、あれ」というふうに命じて造られた。
それぞれを種類に従って区別して・・。進化ではなく初めから区別して種類毎に造られた。そのあまりに無数にある種類ゆえに、人の頭には思いも浮かばないことなので否定するのだろう。


ただ人間の創造だけは、それらのものとはまったく違っていた。
人は神のかたちに、神の手によって地の塵から造られ、神の息を吹きこまれて生きるいのちが与えられた。そう、神様に依って生きるように造られているのである。
そうしてすべての創造物を人間の支配に委ねられた。

人が初めから神のかたちとして、神の息(神の霊)を持つ者として造られたことによって、今、イエス・キリストのあがないによる、父なる神、御子イエス、聖霊の交わりにいることができるのである。これはただ信仰による。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人の内におられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)

それは創造の初めから神の定められた通りなのである。
キリストのあがないを着ているなら、私がどんな者であるかなどということによって、コロコロと神のご計画が変わるようは短絡的なものではないのだ。
ただ、神様の計画にある自分の身分や立場を悟らない者にとっては、この事実は絵に描いた餅でしかないのだろう。でも、それは神様の悲しみでしかない。

 草を引きながら、今朝読んだ創世記の初めに思いを巡らせていた。
初めからの備えをしておく必要があるので、重い腰を上げて準備しようとしたけれど、私自身の興味となってしまって結局何の準備もできなかった。
まあ、何を語ろうかと心配する必要はないとも言われているし・・なんとかなるだろう。
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お勉強

2016-03-17 14:37:39 | Weblog


 聖書のお勉強も大切。原語を解説してくださったとき「ああ、そうだったのか!」と納得できることも多くある。
ただ、私は人伝に教わったことで「血湧き、肉躍る」という経験があまりない。
「それ、聖書を読むのに必要か?」といわれそうだけれど、内に炎のような感動があって、初めていのちを賭けるのだと思うけれど・・。

 知識が増すことと力を得ることは違う。
お勉強っぽい解説に出会う時、しら~っと何かが冷めてしまうがある。
知識に置いてはパリサイ人や律法学者に勝る者はないけれど、彼らは最期に律法をやぶってイエスさまを殺させた。知識はころっとひっくり返って裏切ることがある。


ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ23:3)
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世の十字架

2016-03-16 11:18:27 | Weblog


 「自分の十字架を負う」と言うことに置いて主は甘い。
それは世の十字架ではない。自分の不幸や病を負うことではない。そんなものはすでに主が十字架で負っくださったことによって解決済みである。それらは主を証しするためのネタに過ぎない。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53:4)

 それらの悩みが付きまとうのは「信じます。私の不信仰をお赦しください。」と叫ばないからである。
そうするなら主はそれを「あなたの信仰」と言ってくださる。「不信仰さえも赦し、関係を回復してくださるお方である」という信仰を、主が受け取ってくださるからである。

そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。(マタイ9:29~30)

すべては私たちの信仰によって選び取ることである。
イエスさまに付いて行く私たちの十字架は、イエスさまの十字架に似ていのちに満ちているはずである。
目の当たりしている不信仰の中で、なを彼らと共に永遠の希望を掲げて生きることだから・・。
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嘘つき?

2016-03-15 14:53:58 | Weblog



 ヨナは嘘つきという結果になった。
「あと40日もすればこの町は滅びる」と叫んでいたからである。ヨナには初めからこうなることがわかっていたからタルシシュに逃れようとしたのだ。
そうして、ヨナの信仰の通りにニネベに成った。

主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。(ヨナ書4:2)


 イエスさまは神様を父と呼んでおられたことで「嘘つきだ。神を冒涜している」と十字架へ追い詰められて行った。

このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。(ヨハネ5:18)

処女マリヤからイエスさまがお生まれになったこと、再び雲に乗って再臨されること、永遠のいのちの約束、そのどれも人には真実を証明することができない。
しかも、これらこそが救いの根幹を成していることなので、このことを恐れて語らないなら救いには至らない。イエス・キリストからこれらの事実を抜きにして何が残ろう・・。

 主はヨナを選ばれた。ニネベの救いの為にはヨナの信仰が必要であったので、ヨナに執着されたのだ。
死者は傷つくことはなから、「嘘つき」と言われることを恐れる必要はない。だからヨナは海に放り込まれて一度死ななければならなかった。

それにしても、ヨナが魚に飲み込まれて運ばれる・・。このことにも信仰のトラップが仕掛けられている。
十字架のことばは信じない者には愚かである。

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)

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