石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

礼拝メッセージから (2016年2月28日)

2016-02-29 17:34:06 | Weblog



「創造主を知らない報い」と題して、後山牧師がローマ書1:24~32から話してくださった。
 私たちが神様の存在を知って居ながら、知らない振りをするそれが「不義」です。
不義によって暗くなった心は空しさを経験します。その空しさを認めて神様と向き合うことをせず、人は世の楽しみに流されて行きます。その中で、自分に都合のよい神を作りだして行くのです。

彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(ローマ1:21~24)

暗くなった心、見えなくなった目で無理やり作業をするような生き方によって、この世は「なぜこんな事が起こるのだろう」というようになってしまいました。目が見えず正しい選びができなくなったのです。

「此処で実験をします」
奥さんと男性信者さんを前に立たせご自分は目隠をして、「見えていれば妻を選ぶことができますが、見えないから間違えてしまうのです。」と男性信者さんにハグして、笑いを誘いながら説明をされた。

パウロがこのような世の闇を語る中で、
「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」この一節は、むしろない方が文章はつながります。文脈に合わず違和感を感じるのです。
しかし、これはパウロが不義と暗闇を語る中で、わき上がってきた信仰告白をせずには居られなかったのです。私たちもこのように信仰告白をすることは大切です。
闇に対抗できるのは光だけです。イエスさまを信じる意味や意義は大きいです。すり替えられたものを本来の姿に戻すことができるからです。不自然を自然に戻すことが出来るからです。


光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:4)



 今朝、メッセージに思い巡らせていた。
同性愛をそのまま認めてしまう風潮の中で、私がどのように判断して良いのか戸惑いがあったが、誤りが何処から出ているのかが一目で教わった。問題は現象ではなくその起源にあること。造り主の神を神としないから、造られた自然が不自然なものにすり替わってしまったということが・・。

私たちは、世の事だけを話し続けることは苦しくなって行き詰まってしまう。
でも、その時にみことばを語り信仰告白が飛び出してくると、ほとんどの人は違和感を感じるのだ。
パウロの唐突に挟み込まれた信仰告白に違和感を感じたように・・。

「それを言わなければ良い人なのに・・」そんな空気を何度か味わっている。
それでも腹から、心からみことばが吹き出して来てすっかりその場を白けさせてしまったことなどを思い出した。
光を知って居る者としては、闇に耐えられなくなってかざす灯りである。世はその光を知らず、堅く閉ざされた目には見えないので見当外れのような違和感だけ残るのであろう。
みことばの光にいのちの希望を認識できるのは、キリストに目を開かれた者だけであるから。
ただキリスト者同士であっても、世の事に盛り上がっているときにみことばを語ると白けられることがある。光に照らされた時に、闇に迷い込んでいたことに気づいて恥じるからだろう・・。

「闇はこれに打ち勝たなかった。」祈りの希望は此処にある。恐れず、空気を読まず、何処ででも聖霊によってあふれ出るみことばを語っても良いのだ。そのことをメッセージを通して確認することができて感謝だった。
また、何時であってもキリスト者によってみことばが語られたとき、即座に「アーメン」と一緒に主をほめたたえる素直な霊を備えていたい。
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視線

2016-02-26 14:09:54 | Weblog


あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩編119:105)
私はこのみことばを勘違いしていた。人生のもろもろを、その場その場においてみことばによって選び取り生きることだと思っていた。みことばが、闇夜のような世の一歩一歩を照らす提灯のようなイメージであった。

みことばは祈りに応えて賜るけれどそれは足元を照らすものではなく、永遠のいのちに導くものであって、うつむいて見る灯りではなく顔を上げて永遠までを見るイエスの栄光の光であった。
「確信と希望による誇りを終わりまで持ち続ける」(ヘブル3:6)この方向を照らす光である。

もし足元を照らすなら、その足の下に踏んで行くものを見ることになる。世という獅子と毒蛇を見るとき恐れない者が居ようか・・、人はそれほど強くは造られて居ない。
目を上げて、ただイエスの栄光に目を留め、みことばによって平らにされた道を前進して行くのである。

まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。(ヨハネ12:35)
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お日さまと烏骨鶏

2016-02-25 15:53:35 | Weblog



 良いお天気!真っ青な空に白い雲がふわりとあって、五分咲きの白梅は甘い香りを漂わせていた。
ただ、お日さまはポカポカだけれど風は肌を刺す冷たさ。先ほどもじょうろに薄氷が張っていたから山はまだ凍てているのだろう。

風に負けずにどんどん歩いてUターン、お日様シャワーを浴びるように顔を上げて歩くうちに、顔も頭もぽかぽかと温かくなってきた。
心と体の最強ビタミン!心が塞ぐときも体が凍るときも、お日様シャワーを浴びるならたちまち心の中まで温まる。


 この間、此処で真っ白い羽の鳥が現れた。鶏よりも少し小さいけれど毛並みがつやつやと奇麗な立ち姿で、警戒する様子はまったくない。けれど私はびっくり仰天固まってしまった。
「あんた、誰」側によって声を掛けてもおっとりと、私を見るでもなく避けるでもなく・・「怪我しているの」近付いて点検してみる。血を流してはいないかと羽や足を間近に見る。ただ、足の指が多いが血を流しているでもない。
放っておけなくて「どこから来たの。帰った方が良いよ」声を掛け見守っている。

そのとき、ハイカーらしき男性が歩いてこられたので「ちょっと、ちょっと見てください」呼び止めて問題に巻き込んだ。
「ああ、烏骨鶏ですね。」なるほどと「確かに顔が黒いですね」と言うと、「黒いのは皮膚です」と言って去って行ってしまった。
いや、いや、私は顔の肌が・・というつもりだったのだ。ただちょっと慌ててしまっただけなのに・・逃げられた。

烏骨鶏さんは悠然と車道を歩き出す。ほら・・だから心配で離れられないのだ。無事に横断して草をついばみうんちをして、ものすご~く普通にしているけれどこれは普通じゃない。誰かに大切に飼われているいるのだろう。私はおろおろと立ち尽くして眺めているばかり・・。

烏骨鶏お嬢さんは「世界はぜ~んぶ私のお庭」と、悠然と遊んでおられる。
結局幾ら待っても人の姿はなく、私はとうとう運を天に任せることにして帰って来たけれど、夜布団に入っても獣に襲われていないだろうか・・と気になってしかたがなかった。

後でその場所にいって見たが羽のかけらもなく、無事に飼い主に見つけてもらったのだろう。案外、飼い主は近くの人だったのかもしれないとほっとしたのだった。
そんなハプニングを思い出して、今日もちょっと姿を探して見た。
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約束

2016-02-24 14:42:15 | Weblog



私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、闇の中に座っていても、主がわたしの光であるからだ。ミカ書7:8

主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道の何処に置いても守らせてくださる。彼らはあなたをその手に乗せて運び 足が石に当たらないように守る。
あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり 獅子の子と大蛇を踏んで行く。詩編91:11~13(新共同訳)

わたしは、エジプトがこの民をに好意を持つようにする。あなたがたは出て行く時、何も持たずに出て行ってはならない。出エジプト3:21
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2016-02-23 16:22:14 | Weblog



 ウオーキング途中に設えられた作業場から、椎茸の菌入れのドリルの音が聞こえてきた。毎年この音を聞く度息子がこのアルバイトで怪我をしたことを思い出す。
事故を懐かしむのは、椎茸屋さんのとても丁寧な対応もあってのことであり、残る傷がわずかなものであったこともよるのだが、
彼が家族に弱さを見せることは無かったから、わずかに弱さを見た日々を私は懐かしむのだ。

 私の右人差し指にも小さいけれど醜い引き攣れがある。私はこの傷を通して、早くに死に別れた母を思い出してはほっこりと温められて来た。
幼い日に母の手伝いをしていて出来た傷だった。その時の母の取り乱した様子がありありと残っており、痛みはまったく覚えていないけれど、怪我をさせたことを悔やんで悔やんでいた様子に「私は母の宝物なのだ」と知ってとても満足したものだった。


 主は人を土の器に造られた。脆くてひび割れ欠けのあるもの。神様に砕かれ治められる者として造られたのである。
しかし、誰も御子イエスほどの傷は持っていない。
だから、私たちの傷は甘い。私たちの傷の深さ、欠けの深さに御子の血潮が注がれているからである。

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(Ⅱコリント4:7)

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自分のために

2016-02-21 20:53:41 | Weblog



 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。(創世記6:14)新改訳

今日は教会総会。メッセージでは「福音」について語ってくださった。
箱舟の穴をふさぐヤニ、それは私たちにとっては十字架のキリストの血です。私たちはキリストの血を塗って覆っていただく者です。
十字架という折り返しによらなければ、私たちはどれほど良い行いによっても神から離れて行くばかりです。と語られ、私は喜びを持って「アーメン、アーメン」と聴いていた。


 実は、私は聖書を読まれたとき、このみことばに目が点になった。
「自分のために」この言葉に出会って・・新改訳にある言葉が感謝だった。探し求めていたみことばだから・・。
家族のためでもなく、伝道のためでもなく、教会のためでもない。私自身が主を知りたいのだ。私自身に必要なのだ。

レーマなるみことばに巡り会いたいのは、自分の飢えを満たすためであり、神の愛を追求し、自分の霊で自分の魂でこの身をもって確認したいのだ。
大鯛をひとりで食い尽くすようなこと・・、霊的にそれが赦される保証を求めて居た。
神様が「人類のため」とは言わず、ノア個人を指して「あなたのために」箱舟造りを命じられたことが嬉しかった。

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福音

2016-02-20 12:05:45 | Weblog



「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」(コロサイ1:16)
「御子はそのからだである教会のかしらです。」(コロサイ1:18)


この事実に対して「アーメン」と言える人と言えない人に分かれる。それはいのちの分かれ目でもある。しかし、誰に対しても聖書が準備され、求める者には聖霊のお導きが備えられている。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

このことは人の知性には理解が難しいことである。造ったもののために、造り主がいのちを与えることなどあり得ないことであるから・・。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)

神の言葉の理解には生まれながらの賢さは通用しない。しかし、知りたいと求める者には死刑の間際にあっても、パラダイスにおいて生かすいのちとなる。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)

此処は神によって備えられたキリスト者の座である。神の愛に留まり続けるなら福音は完了する。
ただ、それだけのことなのである。他になんの条件もない。
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2016-02-19 16:21:39 | Weblog



 先日チャイムが鳴って、急いで玄関に行くと、ガラスに貼り付くようにして「俺や俺や!」と叫んでいる人が居た。「誰やねん」と思いながら開けると同時に
「どうしたんや!今頃から鍵掛けて」
「いやいや、別にどうもしてないよ。」って、顔が合った瞬間に彼は笑顔になった。何時も親戚のように気を配ってくれる人だった。戸締めだったので心配しのだろう。

「何か入れ物持って来て」
この前ミカンを貰うときに「小さい」と叱られたので、大きなボールを持って飛び出して行くと、軽トラックの荷台に積んでいたクーラーを開けていた。
「えっ!釣に行ってきたん。嬉しい~大好きやねん」
氷の中から大きな鯛の尾を掴みだして「ほら」って放り込んでくれた。「重い!」鯛のしっぽと頭がはみ出している。

「一人やし、こんな大きいのいらん」
「なに、もっと大きいのがええってか」どうしてそう聞こえるのか・・と反論する間もなく氷をかき回して
「ほら。これでどうや」もっと大きくなってしまった。もう、これ以上何を言っても駄目。
「今日は寒かったやろ」
「峠はこれくらい雪が積もってたで・・、これから嫁さん迎えに行かんならん。帰るわ。それ、どうなとして」手を振って慌ただしく帰ってしまった。

寒い中、軽トラックで雪の峠を越えて釣ってきたものを一番に届けてくれたことに胸がジンとした。彼には親戚も多いのになぜ私が貰うのか・・それはいつもよくわからない。ただ受けるばかり。
イエスさまに祈る。「彼に十分に返してあげてください」と・・。

私には水族館の大水槽で泳ぐ魚が「おいしそう」に見えるほど好きだ。でも嬉しいのはそれだけではなく、私にとって丸のままの魚は遊び相手でもあるのだ。
捌くのも好きであり、どうやって喰ってやろうか・・片手では持てない大鯛は、荒々しい海獣気分に掻き立てられて胸躍るのだ。そう、ちょとした冒険。

取りあえず鱗を引くこれが大ごとである。主人も以前大きな鯛を釣ってきてくれたことがあった。あの時は鱗を引いてから渡してくれたけれど、寡婦サンは全部自分でやるのだ。
流しにまな板を置いて、これで少しくらい鱗が飛んでも大丈夫だ。
大根があって本当に良かった。これで直ぐに取りかかれる。ふふふ・・今夜は鯛の刺身だ。「とったぞ~」いやいや、貰ったんだし・・。

ザクザクと大根で鱗を剥いで行く。大根をケチったことで大きな鱗が刺さりそうでちょっと怖い。ここまでの贅沢が降って来たのにと大根ケチる自分に呆れながら・・、
でも、やはり大根をもう少し大きく切って裏側もザクザク・・、しかし・・大きすぎる。
指に怪我しないためには手袋をしたほうが良いかも・・いやいや、手袋に穴が空くのは嫌や・・、その考える方がケチ過ぎるし、手より手袋を惜しむのは間違っているやろ。
そんな言葉を頭の中で弄びながらの鯛との格闘。

自慢じゃないけれど、スルメイカで松かさが作れるほど魚はいじってきている。昔は誰でも大きなハマチを家で刺身にするくらいは普通だった。
しかし・・この大鯛を、それも切れ味の悪い三徳包丁では手こずることは事実だ。主人は包丁の音を聞いただけで研いでくれたけれど。まあ、今更嘆いても・・なので、一応簡単に研いでなんとかする他ない。
出刃包丁が欲しいと思っても、最近は使う頻度がほとんど無いだろうだから買わないのだ。

かまに包丁を入れると案外すっと入った。頭を切り落とすのは不可能を可能にする力仕事で、何度か包丁を叩きつけても薄っぺらな三徳包丁では大した効果もない。それでも一応切り離すことができた。
大きな身をやっとこ二枚に下ろしたら、刃は油で切れ味が落ちた。それにしても、身の堅く締まって腹のきれいなこと。これだからなまくら包丁でもなんとかなるのだ。

三枚に下ろすのは面倒なので止めた。疲れてちょっと嫌になって来たのだ。最近こういうことが間々ある。そんな時はどんなに好きなことであっても、潮が引くようにやる気が失せて行く。年のせいかな・・まあ、そういうときはあっさり放り出すことにしている。

ただ、今は夕食にお刺身を食べたい一心で半身の皮を引いた。これも鯛の幅が広くて簡単ではなく・・腹の方がちょっと残ってしまったがこれは潮汁にすれば皮付きでよい。わかめも入れれば野菜が取れる。鯛素麺が好きだけれど・・。

お刺身と半分はカルッパッチョに潮汁。ご飯代わりに鯛というほど食べた。刺身はコリッとするほど身が締まっていて、もっちりと旨味があり油が乗っていてお醤油を弾いた。
翌日残った潮汁は、とろんとして少し煮こごりになっていた。

さてと次の日はでっかい頭をどうするか考えた。包丁を入れることは不可能だ危険すぎる。そこで、まるごとヘルシオに放り込んでウォーターグリルで焼くことにした。
両面じっくりと焼き上げ、冷ましたら「針に気を付けてや」と言われたことを思い出して、固く閉じている口をこじ開けて針を探すも大丈夫入ってなかった。
エラなどを取り除いた後、2合の米に味を付けて生姜とでっかい頭をど~んと放り込んで炊飯器をスイッチオン。

もう、片身は白味噌と酒粕を味醂と酒で溶いて味噌漬け。骨を外した方が良いのだろうけれど、もう嫌になっていたので骨付きのままぶった切って漬ける。
しかし、後で気づいたが絶対骨を外す方が楽だったろう・・アホやなぁ。私は一度嫌になったことはそこで思考が停止ことに気づいた。一日漬けた後で冷凍しておき、これも冷凍した鯛飯と共に息子に食べさせよう・・。

ただ、貰ったことをメールしたとき、「良かったね。でも残して置かなくても良い」わざわざ返信が来たけれど・・どういう意味だろう?
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思い煩う愛

2016-02-16 16:44:21 | Weblog



わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)

 人は、愛するほどに悩みも思い煩いも増すものである。「思い煩い」それらは過去のこと現在のこと未来のことと怪しげな仲間をぞろぞろと連れて来て脅し、心をがんじがらめに縛り上げようとするものである。
そのような時このみことばの警告を受けて、私は何処で平安を失ったのかが解けた。

煩いの一つひとつを床の中で主の御前に運ぶ。それだけでかの有象無象は消えて行く。それは思いの中で消えるだけではなく、主に在って現実においても消え去るのだ。
その作業の何処までが夢か現かわからない断続的な祈りの内に朝になっていて、たしかに眠ってはいたが夜の祈りが目覚めた時にも続いていた。

 
 ヨブは有り余る豊かな財産を持って繁栄していた。しかし仲良くなんの問題もない子供たちのことをも思い煩い、おびえさえ抱いていたと書いてある。
人は神様にどれほど祝福されても、信頼することができない部分を抱えていたのだ。

「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。(ヨブ記1:5)
私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。(ヨブ記3:25)


 先走る心配は人の賢さからだろう。動物はその時なすべき備えをすることはあっても、明日のことを思い煩うことはないだろう。
人だけがこのように思い煩うのは、人が神に逆らって賢くなったからである。

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:16)
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4~5)


確かにそれ以降人は賢くなって、神のことばではなく自分で判断して行動するようになった。でも、すべての始まりが敵の罠から始まっていることから、自分のしたいことが出来るわけではなく、サタンの脅しに引き回されているのだ。

 しかし、神様は愛するひとり子イエス・キリストを世におくってくださった。御子のいのちと引き替えに、善悪の知識の木の実による失敗をあがなってくださった。
今、御子のいのちで買い与えられたラブレターである聖書を開き、造り主の愛による平安によって暮らしなさいと言われている。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6~7)
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合鴨 (いのちのストーリー)

2016-02-12 15:51:40 | Weblog



 昨日は真っ青な空に誘われて家を飛び出した。思わず「あ~しあわせ」って声に出た。温かなお風呂に身を浸して「あ~しあわせ」、ケーキが美味しくて「しあわせ!」、お日様の香りのお布団に「しあわせ~」幸せはいっぱい転がっている。
世のニュースは底知れぬ闇を垣間見せているけれど、私は身近の幸せを摘んでいよう。

風もなく穏やかなのでと~っても久しぶりに合鴨さんに会いに行こうと、いつもの倍歩くことになった。ずっと会いたくて心に掛かっていたから・・。
あちらの畑もこちらでも大根は伸びきり、白菜は枯れて黄ばんだまま所在なげに立っていてた。田も今は冬枯れの侘びしさ・・柿は小鳥にすっかり食べられてヘタばかり黒っぽく枝に残っていた。

 空を見ながら太陽を受けて歩く、小さな飛行機が音もなくゆっくりと空を横切った。
全身で受ける日差しは強くウインドブレーカーを脱いで腰に巻く。きっと相撲取りの廻しに見えるだろうけれど・・だぁれも見ていないよ~。腕まくりをしたら汗ばんだ体に柔らかな風が心地よい。

首を傾げて見上げる合鴨さんを思い浮かべて、青空の下に広がるなだらかな道をひたすら登り折り返し地点まで来た。少しつま先と腰に違和感を感じたので歩を留めて一息入れる。此処をぐるりと回ると後は下り坂なので楽勝なのである。

 弾む気持ちを抑えていよいよ久しぶりのご対面。
しかし、あれっ・・なんか雰囲気がちがった。小屋の扉は開いていて、そんなときには外で遊んでいる合鴨の姿があるはずなのに見えなかった。小屋の中をじっくりと覗き込んだけれど、えさ箱は外に放り出されていて、以前は置かれていた菜っ葉の影もない。水路にも水を浴びる姿はなく生きものの気配さえ無かった。

どうしたのだろう・・。がらんとした鳥小屋、外に掘り出されたえさ箱、水路の流れさえ溝のようだった。
何処に行ってしまったんだろう、獣に襲われたのだろうか・・、二羽で首をかしげて、じっと見上げてくれるのじゃなかったのかと立ち尽くす。

やっと歩き出した時、「かなしいなぁ」思わず声に出た。下り坂なのに足が重くて嫌になってきた。もう、二度と見られないのだろう・・
「つまらないなぁ」空っぽな心で歩いていると体まで冷え冷えとして来て、上着を羽織ったとき出掛けにポケットに一粒放り込んで来た飴を思い出して口に放り込んだ。

 まるで子供みたいに飴玉で・・それでも少し心が落ち着いた。
生きていたから死んだのだ。作り物じゃないから・・命には終わりがある。
しかし、神様はそんなふうには造られなかった。そんな儚いものに造られなかった。人が神様のお言葉に逆らった時から「死」は入ってきた。

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16~17)


それ以来、被造物のすべては同じ運命を負わされている。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(ローマ8:19~22)


 今主は、「わたしの肉を食べ、血を飲め」それによって永遠に生きよと言われる。
キリスト・イエスが十字架で流してくださったあがないのための血を受け、十字架で裂いてくださった御からだを「私にもください」と素直に受けるとき、滅びることのないいのちを頂くことができるのだ。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:54~56)

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