石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

私を占めるもの

2016-01-29 11:55:24 | Weblog



 世の中思うようになどならない。自分自身でさえもどうにもならないのである。
愛の無さや思いやりの足り無さなどが事細かに後悔という形で思い起こされ、じわじわと責められたり苦しめられることがある。それは、歳を取って暇があればなおさらである。

しかし、ある時気付かされた。それらは不信仰に根ざした敵の火矢であることに・・。
後悔、心配、疑い、苛立ち、否定・・ネガティブな思いが心を占める時、その一つひとつを祈りによって主に持って行くなら、それらはご真実な主に拠って救いの実を結ぶものに変わるのだ。それは祈りのチャンスでもあった。

ある時は十字架の赦しを感謝する時となり、ある時は執り成し祝福を祈る時であり、また信仰告白によって希望を改めて確認することになる。
そうして、「あなたがたに平安があるように」よみがえりのイエスさまのご命令がこの身に成就する。

 そのことに気付いて、信仰によって十字架の胸当てを付け、御霊によるみことばの剣を持って祈るようになったら火矢はぐんと減ってしまった。それでも、祈りの課題は幾らでもあるから大丈夫。
祈りによってキリストの広さ、長さ、高さ、深さを知ることにより、私の内に聖霊の占める場はどんどん広がってゆく。祈りに繋がることはすべて良しだ。


また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。(エペソ3:19~21)口語訳
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良い行ない (エペソ2:10)

2016-01-22 20:16:00 | Weblog



私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)

 この歳まで色々な問題に出会った。それは何時も突然にやってくるやっかい事であって、私はその問題から逃げられる立場でもあった。つまり言い訳も逃げ道もあった。理屈を言って逃げようと思うならそれもあり・・、いつも少々理不尽な要求であったから。

最近では主人が召されてひとり暮らしになって間もなく、義妹から電話かあって「おばあさんの転院が迫っていて、姉さんの近くの病院で受け入れてくれることがわかったので保証人をしてくれませんか。」ということだった。私は「分かった。いいよ。」と答えた。

それが、「おばあさんの今後を引き受けろ」ということだと思ったけれど、即座に腹をくくってokした。
「車もないのにどうするのか・・」なんて悩みはしない。実に無責任みたいだけれど、イエスさまに在っての事は自分で責任を取ることではなく、ただその時に出来る事をするだけだと思っている。
必要のすべてはイエスさまが備えてくださって、私に持ち込まれたのだと思って居るから。

しかし、実際にはおばあさんの病状悪化で転院はなくなり、その後娘達に見守られて88歳で静かに亡くなった。
私は試されただけ・・。いや、信仰の証しのチャンスが与えられたのだと思っている。

 クリスチャンになって30年以上、親戚の頼まれ事は黙って引き受けてきた。「あなたの子供たちに頼みなさい。」とも、「なぜ私が・・」とも言わなかったのは、その問題はイエスさまと私の問題であると思ったからであった。

子供に一番お金の掛かるときにも、往復2000円かけて遠くの病院の付き添いにも通った。彼らの子供が直ぐ近くに住んでいても「嫁は働いているから来られない」という理由に私は何も言わなかった。
決して豊かではない生活であっても、「こんなことお前に頼むことは筋違いやけど・・」と言いつつ、度々お金を借りに来られた時も可哀想に思えて嫌な顔はしなかった。一度だけ少々値切ったことがあったけれど・・アハハ・・。

 病院で検査や治療を嫌って主人は取り乱し人格が変わってしまった。それはせん妄という状態らしいけれど、その様子を見たとき何時何が起こるかわからない主人であっても、即座に連れて帰ろうと決断できたのはイエスさまを知って居たからである。いや、イエスさまに知られているからであった。
事実、その時医師に言われたような「お母さんが倒れますよ」なんて事は何も無く、主人と穏やかな20日間を過ごすことが出来た。

主は、毎日通ってくださるお医者さんと訪問看護師さんを備えてくださった。主人は苦しむこともなく、最期まで一々「ありがとう。ありがとう」と喜んでくれて、とても味わい深い静かな時間を共に過ごすことができて心から感謝であった。

御旨に叶うことの責任は主が取ってくださる。その行いは主から出ているものだから、例え無謀に見えることであっても無理はなく何の歪みも問題も残らず、むしろ満足と感謝が残ることになる。
「平安があなたがたにあるように。」というみことばは嵐の中ででも実現する。それは、主はご真実だからである。
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神の恵みを無にはしません (ガラテヤ章)

2016-01-20 19:12:48 | Weblog



私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ2:21)新改訳

 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。(ガラテヤ5:9)
神の恵みの中に律法が忍び込むとき、御霊と肉の対立によって人は不自由になってしまう。共に主を喜ぶことも互いを愛する自由も失って行くのは、律法による束縛を受けているからである。

律法はどう行っても人の頑張りであり、律法によって救いを完成させるには「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」を完全に行わなければならず、それは人には出来ないことでその結果は滅びであると書かれている。

律法を完成させるのはキリストだけである。それ故キリストに救いを求める信仰によって、律法の束縛から解放され、私たちは御霊による愛によって働くのである。
律法はイエス・キリストの救いを求めるための養育係である。もし、いつまでも此処に留まるならキリストの十字架は無意味となる。

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:17)
キリスト者に不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術は無いにしても、
敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみなどは肉には身近なものである。

それは御霊に逆らうものであり、見張っていないとパン種のように広がって福音を破壊してしまうのである。律法には肉の働きが付きまとうからであり、それは良い行いを求めていても欲望に勝つことはできないからである。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)


 新しく創造された御霊による福音は、弱さを覆う愛、互いを喜ぶ神の心、揺るがぬ平安、赦しによる寛容、助ける親切、心遣う善意、変わることのない誠実であり、その関係は常にキリストの柔和と自制の利いたものである。
これらのすべては神からの賜り物であり、そこには神の国の前味が満ちている。

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

私たちの完全は主から来る。此処に律法が入り込む余地はなく、私たちの見張るべきは交わりに律法を持ち込ませないことである。パウロの苦しみも此処にある。
私たちもパウロのように、教会や家族、友人のためにその役割を負っているのである。

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4:19)

しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(Ⅰペテロ5:10)新共同訳
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無視するべき言葉 (Ⅰサムエル17章)

2016-01-11 18:46:29 | Weblog

 

 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」(Ⅰサムエル17:28)新改訳

ダビデは兄の恫喝するような言葉を受け入れなかった。主に在って耳を貸してはいけない言葉がある。侮りや責め言葉に自身を任せるべきではない時がある。
主にある者は神様の評価のみを受けいれ、ほめ言葉も侮りの言葉にも動かされるべきではない。

 園では蛇はエバに寄り添うように話しかける。しかしエバは蛇の言葉を無視するべきであった。
それが出来なかったのは、彼女が神様を正確に知らなかったからである。敵はある時は恫喝を持って、ある時は擦り寄るような優しい言葉をかけてくる。身を守って神の栄光を現すのは、ダビデのように主に在って生きた経験である。

このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。(Ⅰサムエル17:36)

ダビデは羊の世話をしていないと責められた。世の物に優先して父の言葉に従うことは正しい。何に従うべきかということが、主に在る者には最も重要なのである。
何でも聞き誰の言葉にでも心を動かしたり、同意して反省してはならないのである。

彼は、今日まで守られた主のみこころをもって「神の民をなぶっている」巨人ゴリヤテに対して怒った。怒るべき時に反省していてはならない。自分の働きを覗いて引き下がってはならない。

神の民は世の巨人を恐れてはならないのである。
絶えず主と居る者は戦われるのは主であることを知って居る。人は主の勝利の時を準備する必要がある。

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戦いの武器 (Ⅱコリント10章)

2016-01-08 16:24:53 | Weblog


わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、
神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、
また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。(Ⅱコリント10:4~6)


キリスト者の完全な従順こそが宣教の力である。
完全な従順とは、すべての事柄に対して単純に「アーメン」とみことばを受け取り、そこに愚かに留まり続けること。

酔っ払って裸で寝ていたノアを覆った者は祝福され、ノアの姿を暴露した者は呪われた。神が祝福する者を祝福し、その弱さを覆って仕えることは主への従順である。
私たちはそこで自分の肉性に誘惑されるが、打ちたたいても従わせるべきである。主が準備してくださっている祝福を受け損なってはならない。それは神様を悲しませることである。

何処ででも主の権威を認めることはすべてに勝ることであり、何事にも示されたみことばに「アーメン」と言うなら、その事柄は完了したのだ。
みことばに対して、どんな理屈も付け加えないことこそ聖さである。
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2016年に備えて

2016-01-04 15:55:43 | Weblog



年頭に備えられたみことばは、主が戦いの前に準備してくださったご馳走のよう。
「いただきます」

真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、
また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
(Ⅱコリント6:7~8)


みことばに留まってぶれることのない右手と、世で神の力によって働く左手。どちらも主のご計画を成し遂げるものである。
それによって、ほめられたりそしられたり・・、悪評も好評も、すべては神様のご計画による義の武器である。

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ2:20)

キリスト者は世に持ち上げられる者ではなく、地に叩き落とされることもない。キリストという礎石の上に建て上げられており、どんな時もその堅い基礎に釘づけられて生きているからである。

主に在って永遠の計画の中に備えられてあり、すべての必要はその時その時に準備される事を知って居る。
主を今日味わうなら、世で何が起ころうともこの身に何があろうとも、今日に続く明日であり、永遠まで主と居らせて頂くことに変わりのない者である。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(詩編23:5)
「ごちそうさま」
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