石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

良きお年を・・

2015-12-31 21:32:14 | Weblog



今年も一年間ありがとうございました。
私はおせちの準備もほどほどに、息子たち家族に囲まれて、
まったりと過ごさせていただいてます。

皆様には、良き新年をお過ごしくださいますように。
新しい年もどうぞよろしくお願いいたします。
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雫の木

2015-12-23 19:23:33 | Weblog



クリスマスの喜びと、人の悲しみに疲れて門口に出ると
暮色が迫る中にきらりと きらきらと光る木が浮かび上がった。

外灯の明かりを受けて 
枝の先にきらきら 小枝に並んできらきら・・
幾つもいくつもの雫が 光の玉となって輝いていた

センリョウ、マンリョウの赤い実と
小さな水晶玉のような輝きが
墨絵の中に解けて行く・・

何の飾りもない我が家に 雫のクリスマス・ツリー
天からやってきた 水滴のイルミネーション

いつも喜んでいなさい
たえず祈りなさい
すべてのことに感謝しなさい

アーメン
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狭量な神

2015-12-22 15:14:33 | Weblog




「キリスト教の神はずいぶん狭量・・、」
罪に対して曖昧に処理できない故に、そうだと思います。

だから、「これは私の愛する子」と言われたひとり子イエスに、
人間の罪を全部背負わせて死刑にすることになってしまったのです。

しかも、人類の罪をすべて負わせたひとり子を、その罪の故に完全に見捨てました。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
これはイエスの十字架上の叫びです。

狭量な神が人を受け入れるには、罪の完全な解決が必要だったのです。
罪が赦されるには、その罪の代償が必要です。
汚れが清められるために、汚れが処理されることが必要です。
狭量な神は、それをご自分の愛するひとり子に負わせました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
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2015-12-21 11:19:42 | Weblog


鍵を外して戸を開けると、橋の向こうは雨にけぶっていた
薄紫のひやりとした空気の中で、今日のストーリーがささやかれるから
赤い椿からすべり落ちる滴に耳を傾け・・立ち尽くす

ひとつの朝がページを開き
ひとつの物語を雨音が語り続ける。
あなたの声を聞きわけることができたなら
見たことも聞いたこともない世界が開けるだろうに
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「赦し」

2015-12-19 11:07:08 | Weblog



イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイ18:22)

「赦せない」と言うことは主への叛逆である。
しかし、主の祈りでは私たちが無条件の赦しを求め、次に私たちも赦しますと教えられた。
それは、私たちがどの様な者であるかをご存じで、私たちの秤で私たちを計ることをされず、恵みによる赦しが準備されているからである。
主は御真実だから出来ないことを条件にはされない。

あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。(ヘブル12:4)

「頼りない人の心を知っているのに、完全な赦しの約束など出来ない。」と言う・・それはとてももっともらしい言い分だけれど、主へのいきなりの拒絶である。
直ちに「アーメン」と言えないのは、主を見ず、自分を見るからである。主が命じられる時、そのための準備をしていてくださらないことがあろうか・・。

私たちの告白を事実にしてくださるのは主の真実であり主の信仰であって、私たちの真実ではない。私たちの成すことは不信仰と戦うことである。主の軍団が付いていてくださるのだから、直ちに自分を捨てて信頼によって「アーメン」と言うべきである。
そのときに、人は聖霊の働きを妨げるものから解放されるのである。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(ローマ5:20)

赦せない思いが襲う度に、「赦しました」と10回も、50回も、100回も告白すればよい。すべてが御前への捧げ物となるからである。
心にとぐろを巻く憎しみも、赦す祈りによってすべては神様への捧げ物となり、すべての虐めや圧迫も赦しの祈りによって香ばしい捧げ物となる。

だから、イエスさまは7の70倍までも・・つまり無限に赦せと命じられる。その時、御父と御子と聖霊の交わりに入れられ、その甘さを味わい清められ永遠への祝福となるからである。
イエスさまが十字架で祈られた祈りによって、すべての赦しは備えられた。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカ23:34)
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クリスマスは十字架によって完成する

2015-12-17 11:21:47 | Weblog



 クリスマスの喜びに対する違和感があった。今朝その根拠がなにであったかイザヤ53章を読んでいて気付かされた。
救いはクリスマスから始まって十字架に至ることで完成する。クリスマスを、キリストの来臨と喜んで終わっている事に苛立っていたのだ。それでは救いは未完成である。
サタンはクリスマスを妨げることはない。盛り上げることさえある。此処で終わっていることに彼にとってはなんの問題もないからである。

 でも、クリスマスと合わせて十字架を語ることは妨げられる。人の感情に訴えて顔を背けさせるものがある。しかし、イエスさまの誕生は十字架に至るためである。
クリスマスは人の罪のための生け贄の誕生である。このことの知識と信仰の必要がクリスマスで宣伝されることはない。

イエスさまの誕生を知って、礼拝するために来た東方の博士たちが捧げたのは、黄金と乳香と没薬であった。没薬は死者に塗るものである。生まれる前から準備されていた十字架の死であった。

イエスさまの十字架のあがないによって、彼の子孫としてキリスト者が生まれる。それがクリスマスの計画である。
イエスの喜びは誕生ではなく十字架にある。
今私たちも共に十字架を通って大いなる喜びに与っている。
メリー・クリスマス!

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。(イザヤ53:9~11)

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ヘルシオ遊び

2015-12-16 14:47:18 | Weblog



 ヘルシオをなんとか使いこなそうと、マニュアルを何度も繰りつつ・・楽しんでいる。時々、適当に扱って失敗もする。
まず基礎には忠実でなければならないのだと、重いマニュアルを読み・・しかしこれが扱い難い。一冊に収めないで分けてあれば良いのに・・年寄りには重いのだ。年寄りだって使うのだから。

すべてが指示通りというわけにも行かず、量や切り方や材料の変更などは当然あって、どれくらい融通の利くものか試すことになり、これは経験してゆくしかない。

初めて作った料理?は、手元にあったサツマイモで蒸かし芋。
買って設置もしてくれた息子が、終始心配そうにのぞき込んで「大丈夫か、すごい湯気でボトボトになっているよ。」「そりゃ蒸しているのだから当たり前。大丈夫、外の空気に触れたら一気に乾くから。」そんなことを言いつつ、代わる代わるのぞき込んだ出来上がりは、ふんわりととても甘くて上々だった。
主人は蒸かし芋が好きだった。食べさせて上げたいと思ったけれど、もっと甘いいのちの実を食べているだろう・・。

上段でこんがり手羽元、下段で茶碗蒸しが同時刻に出来上がったのには感激した。
夕食に熱々を出すことができるのは主婦として感激である。出来上がり時刻がわかるので、サラダなども合わせて準備できてとても便利。
茶碗蒸しはとてもなめらかで、悔しいけれど私より上手だった。手羽元は余分な油が落ちて、油っぽい鳥の皮が食べられなかった息子も、気付かず食べるほど香ばしくできていた。

白ネギとカボチャの焼き野菜は、葱は中がとろりと甘くて美味しかったが表面が堅くなってしまった。マニュアルには無い取り合わせなので、カボチャと葱の時間差の問題だと思う。水も油も使わず料理できることはヘルシー。後で好みの味を付けて食べられるのが嬉しい。

今日は粉ソース付きの焼きそばをマニュアル通りに作った。イカの足があったので入れてみたけれど、ぷりっとして堅くならずイカの旨味が出てこれは見事だった。麺がパラリとして豚肉もべたつかず、キャベツも人参も甘くて野菜の旨味を味わえた。少し薄味に仕上がるけれどそれぞれの味が出て香ばしさもあった。

でも、簡単な温めのときに失敗することがある。それは機能が多くて面倒臭く、つい以前のレンジ通りに用いようとして失敗するのだ。どうしてもヘルシオのマニュアルをマスターする必要があるみたいだ。此処に少し忍耐・・いや、遊びがある。
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誕生日

2015-12-14 17:22:27 | Weblog



 若い頃はずっとクリスマスはクルシミマスだった。何も持たないことがひとしお身に染みて淋しい季節だった。
プレゼントも家族も居場所さえなくて、クリスマスソングもショウウインドウーの煌めきも私には無関係であった。
両親も祖父母も亡くして、空虚さの中に生きる意味がわからない時だった。

 結婚によって家族を得たことは、自分の命を得たように大切な嬉しいことであった。だから夫は配偶者でもなく連れ合いでもなく、私の主なる人であった。たとえ喧嘩して言いあっていても、私を必要とする人がいる事は幸せであった。
長男が結婚記念日に産まれ、次男は私と同じ12月に産まれ、長男が結婚して嫁さんにも孫にも恵まれた。


 今朝、祈りの後「キリストさんが粛々と・・」ある方から頂いた言葉に思いを巡らせていた。
その時、一つの事実に気付かされた。クリスチャンの母が私を産んだ時、クリスマスイブの誕生をただ素直に喜んだであろうことに・・
「雪が降っていたから、雪子って名付けよう」と、そんな母の思いを聞いたことがあった。
安易すぎて却下されムベになったけれど、そこには父の思いも感じられた。

心臓弁膜症の母にとって命がけのお産だったかもしれない。病院で産んだと聞いたが窓に降る雪に目を留め、幸せを祈ってくれていたのかもしれない・・。
今私は両親の倍生きて、ようやく自分の命の価値に気付くことができた。

 イエスさまは、私の愚かさを負って苦境には脱出の道を備えてくださり、私にとってクルシミマスであった時も、主の良き計画は粛々と進んでいて、祖父母や父母の祈りは聞かれていたのだろう。
生きるための手段を何も持たなかった私を、神様がこの日まで生かしてくださったから・・。

主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました。(哀歌3:58)
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優しい人

2015-12-10 15:02:40 | Weblog



 結婚した当初、主人に誘われて大川で鮎釣りをして遊んだ。川底まで差し込む光がキラキラと光り、小石の一つひとつが白く見える奇麗な川だった。
友鮎を付けて貰って示された流れに棹さすと、鮎の動きが手に伝わって来てそれだけでも楽しかった。

釣り名人の主人が教えてくれる場所に持っていくと、鮎はすぐに引っかかってくれた。私が大騒ぎをしながらズルズルと河原に引き上げると、主人は酷い釣りだと笑った。
霞む山並みを「あれは黄砂や」と教えられ、そのとき初めて「黄砂」という言葉を知った。
遙か他国から飛んで来た黄色い砂によって霞む山を奇麗だと思った。
今は酷い正体を知ってしまったけれど、川底がもう光らなくなったように人がすべてを変えてしまった。

私たちが結婚した頃は、嫁が夫と人目のある川遊びをすることなどとんでもないことだった。嫁は畑や家事に精出す姿を村人に見て貰って、認めてもらうべきだったから・・。
わざわざ忠告しに来る人もあったけれど、主人の親は何も言わないでいてくれた。それでも、人目が気になると興ざめしてやめてしまった。

 ある夜大喧嘩をしたことがあった。原因なんて覚えていないけれど、主人は「出て行け」と怒鳴って寝室に入った。私は玄関の間に積んだ座布団の側で眠り込んでしまった。
夜が明けると「帰る所がないのに悪かった。もう二度とあんなことは言わへん。」と主人は約束をした。

それ以来、喧嘩は何度も何度もした。癇癪を起こして怒鳴っても灰皿が飛んできても、絶対に「出て行け」とは言われなかった。
物を投げつけるときも、絶妙のコントロールで私には当たらなかった。

息子に一度だけ手を上げたことがあって、それを思い出してはとても後悔していた。
「覚えて居ない」って言っていたよと伝えた時の、主人のほっとした様子を思い出す。誰だって許されなければ親なんてやっていられない。

 年を取ってから初めて「別れよう。お前は此処で暮らせ」などと言い出したことがあった。「あんたはどうするの」と訊くと「里へ帰る」と言ったので、私は必死に笑いを堪えた。
でも、今なを「出て行け」とは言えず、「お前は此処で暮らせ」という優しさが嬉しかった。
理由は「お前が分からんようになった。」というものだった。今更だったけれど同情もしてしまった。「そら、・・分からんやろうナァ」って、自分でも「よう分からん」のだから・・。
あの時は夕食に何か美味しいものを作って、それとなくご機嫌をとって終りだった。

主人の可愛がっていた観音竹を、私も大事に世話をして元気に沢山の葉が出てきた。これは見せたいなぁ・・何と言うだろう。
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冬晴れに

2015-12-07 21:10:06 | Weblog



 ゆっくりデボーションの後で、冬晴れの真っ青な空の下に洗濯物を干し、時々吹きつける風に弄ばれながら玄関回りの落ち葉を掃き集めた。
コーヒーをゆっくり飲んで、先日来どうにも気になって仕方のない台所の大掃除にやっと腰を上げた。
勝手口の玉暖簾を洗うに「今日しなければ何時するの」ということで、手をつけてみると以外にあっさりと奇麗になったので、葉の落ちた紅葉の枝に引っかけて干した。

蜘蛛の巣が天井の角にも張っていて、埃も払わないと・・、息子の踏み台を二階から注意深く下ろしてきて、換気扇を取り外す。気を付けて・・怪我をしても助けはないのだからと、最近はこういうときは十分気を付けている。
しかし以前息子が言っていなぁ・・、怪我はこういう時ではなくてもっと何でもないときにするものだと・・かもね。

外した換気扇に洗剤を吹き付けて置き、シャッターにも洗剤を吹き付けて油落として、レンジ周りに張ってあるステンレスを磨いた。
プロ仕様とかいう洗剤を買ってあったので、今回は簡単に落ちるだろうと高をくくっていたのだが、これがとんだ食わせ物で手間取ってしまった。
臭いも強くて、これなら昔から使って居た洗剤の方がよほど効果があった。かといって今更混ぜることも出来ず、安易に飛びついた自分の愚かさが腹立たしかった。

ガスレンジで、極薄い重曹と食器洗剤でアッという間にピカピカになることを知って居たのに・・。ちょっとした好奇心でもあったのだけれど・・、いや、一番危ないのがこの好奇心。まあ、これも授業料とあきらめよう。しかしこの洗剤どうしよう・・見たくもないけれど捨ても成らず、仕舞い込むと邪魔になる。


 掃除が終わった午後になって来客があった。彼女のお宅に誘われた時、お台所に通して頂いたので私も台所にお迎えした。
主婦が台所に通すのは気を許している証拠である。だから、台所に通されたときが一番落ち着くのだ。
掃除を済ませた直後にお迎えすることができて嬉しかった。主のタイミングに感謝。

彼女はお話し好き。でも彼女の話しは楽しかった。人様の噂話などではなく、昔の事や老後のこと(すでに老後だけれど・・彼女もかなり年上)私も「そう、そう・・」とおしゃべりを楽しんだ。

本が好き、それから眼鏡の話しへ・・良い読書用を作ったほうがいいですよとか・・。眼鏡も歯も同じね、良い所で作らないと結局高く付くなど・・、
主人を亡くしたときのこと・・彼女は若い頃に亡くしておられる寡婦先輩、「自由」と「淋しさ」は一対だとか・・。

秋の日の傾くのは早くて、外の薄暗い様子に気付いて慌てて腰をあげられた。
「玄関先で失礼するつもりだったのに・・」と言われた時、「どうせ一人でしょ」と誘ったのだけれどとんだ長話になってしまった。

彼女は「少しで返ってご面倒をかけます・・」と言いつつ献金を置いて行かれた。「尊い捧げものを感謝します。覚えてくださっていることが嬉しい」とお預かりした。
牧師先生が何度か尋ねてくださっていたので嬉しかったのだ。

イエス様に捧げた彼女には、それがどういう理由であっても主が必ず報いてくださることを知って居るから心から嬉しい。
何度も「ありがとう」と言いつつ、少し日が傾いて肌寒くなったなかを帰って行かれる彼女に、友達のように手を振って見送った。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10:42)
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