石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

キリストの愛 (Ⅰヨハネ3章)

2015-11-25 15:30:51 | Weblog



岩を打って水を出すことよりも、岩に命じて水を出すことの方が信仰が必要である。
自分の行いに満足することには信仰は要らない。しかしキリストの行いに安息することには信仰が必要である。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。(Ⅰヨハネ3:2~3)


イエス様の十字架のあがないの血によって、自分の罪汚れを洗うことは完全な清さである。人の清さはただキリストにかくまわれ神様の義に与ることにある。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。(黙示録7:14)

キリストの内にいる者は罪を犯すことができない。罪を犯す者は、ユダのように自分から闇の中に出て行って罪を犯すのである。
惑わされてはいけない。「罪を犯したから、清くなるまで主から身を避けよう・・」などと騙されてはならない。
ただ、直ちにその罪をキリストの血で洗うこと。

私たちの願いは、神様の命令を守りたい、清くありたい、愛したいのである。その願いは神様から出ていることであり、みこころであるから神様は必ず叶えてくださることである。此処に私たちには安息する。

愛は時に叱責として現れ、時に鞭をも振るわれる。
イエス様は宗教者に対して、偽りに厳しい言葉を語ることで愛された。しかし、彼らを無視されることはなかった。
招かれれば食事を共にし、彼らの集まりの中で真実を暴いて悔い改めを迫られた。それがご自身への憎しみを掻き立てることであるとしても、主の愛はご自身を惜しむことも恐れもなかった。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。(Ⅰヨハネ4:18)
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神の愛(Ⅰヨハネ4章)

2015-11-24 19:23:57 | Weblog



わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(Ⅰヨハネ4:10)
エデンの園で、禁じられていた善悪の知識の木の実を食べて以来、人は自他を責め訴える者となり愛を損なってしまった。神様が愛されたのはそのような私たちである。

人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)新改訳
アダムは「あなたが、私の側に女を置いたからだ・・」と神様を責め、「食べたのは女がくれたからだ」と女を訴えた。
此処で神様に対する人の愛は壊れ、アダムとエバの愛も不完全なものとなってしまった。

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:4~5)
それ以来人は善悪を自分の都合で作り替え、すり替えて、神様をも人をも支配しようとし、神の愛と人を引き裂いたことで、今は蛇(サタン)の目的は成功しているかに見える。

園を追放された人に対して神様は、「わたしの愛する子」であるイエス様をもって購い、御許に子として迎え入れることを計画してくださった。
このことは、人を神の形に造ってくださった創造主の愛の深さによることである。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。(Ⅰヨハネ4:9)

イエス様がご自身を捧げてくださったことを信じる者は、神様との関係が回復され、もう、訴えることも訴えられることもなく、神様の子として愛の中に安息することが赦さた。
そうして、神の霊によって守り導かれる者となった。

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(Ⅰヨハネ4:13~15)

この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ローマ8:16)
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口下手

2015-11-24 00:38:16 | Weblog



 三連休で次男が帰ってきてお風呂場の工事をしてくれた。彼は気が付いたことは何でもてきぱきと修理してくれる。
インターネットで調べて半日がかりで器具を買いに行き、帰って来るなり取り付けてくれたが、何しろ四十年近く経つ古屋なので今の製品がそう簡単に合わない。何時もの事ながら細かな加工をしたり、発想の転換を必要とする難工事となる。

「いい加減なことをしてあるなぁ」器具を外して、工事がずさんだとぼやいている。「これだから人に任せるのが嫌なんだ。」偉そうに言っているけれど、彼の仕事は良く計算をして丁寧にやり遂げる。一応電子工学を学んでいるので、何の工事になろうと彼を信頼し安心して任せている。

 証明写真も撮ってもらった。免許証用とマイナンバー用、これほどすんなりと事を進めようと思うのは主人が亡くなった時の面倒な経験に因ること。カードがあることで手続きの簡略化になるだろうと思うからである。
どうせ私にはそれくらいの価値しかないだろう・・、消費税の払い戻し?あれはなぜかあまり当てにする気になれない。

息子は写真を切断しながら、「本当にこれで良いのかなぁ」としきりに気にしている。
「これで良いよ。これが良いよ」私が懸命に押し通そうとするのは表情が気に行ったからである。息子が引っかかるのもそこにあるのだ。
でも、私は手配書みたいなのやデスマスクみたいなのがどうも嫌なのだ。
「でも、これ笑っているよ」
「いや、いや。笑ってないよ、口開けてないでしょ。」ということで押し通したけれど、警察でも同じように言えるかなぁ・・たぶん一言もいえないけれど、駄目もとということで・・。


 彼はとても親切だけれど、時々かなり激しい言い合いをすることがある。
「お母さんは説明が下手がなんだよ。」
それには一言もない。そのことは自覚がある。
企業などに問い合わせた時も相手の苛立ちが感じられたり、真意が伝わらずに苦情でもないのに「係の者が商品を引き取りに行きます」なんてことになって焦ったりする経験があるから。

口下手なのだ。特に焦っているときの状況の説明が苦手。思いを伝えるのも苦手で、一口には言えない・・なんてもごもご言っているうちに、思わぬ事を口走ってしまうからコワイ。
「頭が悪いものでね」息子が聞こえないのを承知で言い返した。まったくこのことでこの歳まで苦労して来たのだ。
書き言葉は何度でも推敲することができるけれど、頭の回転のゆっくりな私には言葉のやりとりは苦手だ。話しが思っても見ない方向に行くのは毎度のことだから・・。

 でも、気心の知れた姉妹と聖書のことを話している時は、次々とみことばが出て来て、思いのままに交わることができる。それはきっと姉妹のために聖霊が助けてくださるのだろうと思う。このことが思わぬ方向に行ってしまっては大変だから・・。

それにみことばは説得するものでもないし、教えるものでもなく、ただ知ったこと、発見したこと、経験したこと、感動したことをなどを、みことばを用いてそのまま話したり聞いたりするだけだから楽なのだ・・。
何よりも安心なのはイエス様が真ん中に居てくださること。誤解も六回もとりなしてくださるという平安があるから。

息子は手作り弁当を持って「では、行ってくるよ」と、戦場のようでもある職場へ戻って行った。
今日は朝からヨハネの手紙を一緒に読んで会社のことなどお祈りをした。本当ならとても不安な状況であるはずだけれど、心からイエス様に感謝である。
送り出して玄関の戸を閉めた時、すべてをお委ねすることができる主に胸が一杯になって・・、しばらく祈りの中に佇んだ。
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神の子(Ⅰヨハネ3章)

2015-11-20 00:01:42 | Weblog



 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(Ⅰヨハネ3:1~2)


 人は誰も完成された神の子としての自分を知らず、想像することすらできない。
まったく・・そのことで迷ってしまうのだ。今のさまを見るとき、どうしてこのような者が神の子であろうかと・・。
どれほど思い上がっているのかと・・そんなふうに、みことばを否んでしまうのだ。

しかし、このことははっきりと繰り返し聖書に書いてあり、神様の約束である。
そもそも、人の本来は今のようなものではなく、御子に似て完成された姿こそが本来ではないのか・・、初めに神様が創造された人である。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創世記1:26)新改訳


 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント5:16~17)


今の不自由な人は過ぎ去るものであって、キリストにあって新しく生じた人は神の創造のときのようなのだ。
それは、あまりにも及びもつかないものだから、人の介入などあり得ようはずもない。完全に主の新しい創造によるである。


 今朝玄関を開けると、ハイビスカスがほころび赤い花びらを覗かせていた。暖かいとは言え晩秋に・・と健気な姿に胸を突かれた。
でもそれは、備えられたいのちのままに咲いているのであって、喜んでいるように見え、みことばのままだなぁ・・と思った。

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
(Ⅰテサロニケ5:16~18)


神様の大きな御わざが、普通な日常の中にあって成って行く。それこそ奇しいことである。それもただ、キリストに身を避けただけの者にあって・・。
だからそのような日々に、少し健気にその日を待ちたいと思わされた。この花のように・・。
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霊と水と血 (Ⅰヨハネ5章)

2015-11-18 11:32:37 | Weblog



だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(Ⅰヨハネ5:5~6)


水は命と死であり、血は十字架のあがないである。
イエス様は、生と死の支配者として造り主なる神様を紹介するだけではなく、神様の愛から出た十字架を実現してくださり、死と裁きから解放してくださった。

このことにより、水と血は永遠のいのちの保証となった。その事実を私たちに教えてくださるのは聖霊である。
だから聖霊を否定する者には、それは事実とはならないのである。

父なる神様の愛を、イエス様は十字架を通して人類に実現してくださった。行いによることではなく、ただ神様の備えによることであり信仰によって受ける事である。
子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(Ⅰヨハネ5:21)新改訳
偶像に気を付けなさいと言われる。この偶像とは自分の中にある行いである。

神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。(Ⅰヨハネ5:13)
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弁護者 (Ⅰヨハネ2章)

2015-11-15 15:00:24 | Weblog



「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。(Ⅰヨハネ9~10)


 罪なきイエス様が全人類の罪を負って十字架で死刑となり、神様に対して人の罪は完全に処理されている。
この歴史的事実を信じている者がキリスト者である。
その私たちを、キリストである弁護者が、「この者の罪は、十字架でわたしが処理してあります。」と宣言して下さり、神様は「では、あなたは清い。私の子として光の中にいなさい。わたしのものはみなお前のものだ。」とすべてに加えて、助け主である聖霊をくださる。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤ5:22~23)

聖霊の実を受けると、それまで知らなかった種類の愛を自分の中に経験するようになる。
キリスト者の交わりは、神様の光の中にあって裏表がなく、自由であり、神の戒めにも安息してくつろぐことができる。
それは、互いにいつも弁護していて下さるイエス様を知って居るので、自分の正しさを言い立てる必要がなく、気楽に愛し合うことが出来るからである。


 先日ふっとしたきっかけで「嗤われた」ことを思い出した。「何がおかしいのだろう。なにを知って嗤うのだろう?」程度のことだけれど・・、それでも記憶として残って居たものが出てきたのだ。
その時主が、「お前は嗤わなかった」と言われた。「確かに・・」と思った瞬間、「感謝せよ!」その言葉にハッとした。

気付いていなかったけれど、私はあの時イエス様の守りの中にあったのだ。私が人を嗤うことに思いの及ばない者であることで、「思い」が守られていたのだと・・。
また、じきに忘れてしまう清めも、光の中にあって備えられてたのだ。そうして今思い出した時、平安を与え主への信頼を増してくださった。

人が愛し合う関係は、神様の愛の現れである十字架の救いを受け、イエス様によって常に弁護して頂いて、光の中でくつろいで居るからこそ可能なのだ。
頑張りや努力ではなく、ただ光の中にある神の子であれば、清い霊の実を結ばせてくださる。それは主のご真実によることであった。

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。(1ヨハネ5:1)
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孤児の涙

2015-11-14 00:36:55 | Weblog



三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)
十字架上のイエス様を御父が捨てられたのは、人の罪を負って罪人となってくださったことによるのだけれど、それだけではなく、もうひとつの意味があることに気付いたと姉妹が話してくださった。

それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(マタイ19:5)
それは結婚の奥義によることであり、キリストの花嫁を迎える準備のためであると・・。
私は「ああ、良く分かる。」と言った。十字架は、キリスト者(教会)をキリストの花嫁として迎える入り口なのだから。


 私も一つのことが開かれた。
人の孤独がどれほどであっても、御父を離れてひとり世に下って来られたイエス様ほど孤独ではない。私たちはこの世に生まれた者なのだから・・。けれども人もその孤独を味わっている。どれほど賑やかな交わりにいても、それらが風のように過ぎ去るような孤独感がある。

人もまた、造り主である御父から離れた孤児であり、淋しさに幾らかの違いはあっても、皆世で満たすことのできない心の空洞を抱えている。
イエス様の約束の日まで、孤独の涙を心の底に溜めて生きて行くのだ。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネ14:18)新改訳

キリスト者が天に召された時、御父が拭ってくださる涙とは、孤児の涙であることに気付いた。
しかし、イエス様も経験してくださったことなので、私たちの悲しみを知って居てくださる。だから再び来てくださる日まで、みことばによって力づけていてくださる。

玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(黙示録7:17)
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あざむかないで(Ⅰヨハネ1章)

2015-11-13 00:27:12 | Weblog



 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。(Ⅰヨハネ8~10)


「罪は無い」と言うことは自分を騙しているのだと主は言われる。自分を騙す者には真理がないと・・。
人はまず自分に対して嘘を吐く。取り繕うときも、誤魔化すときも、隠し事をするときも、まず自分に対してこれは悪ではないと、理屈をつけなければならないからである。

その時最も心を痛めているのは自分自身であって、自分の中に真実なものがないことを知って苦しむのだ。
しかし、何時しか何に置いても真実なんか無いのだと、そんなふうに自分を慰めるようになってしまう。
その人は真理であるお方、完全である神様の存在を信じることはできない。

 救いの条件は「罪を言い表すなら・・」それだけである。
罪を「光の中に持って来なさい」ということ、そうするならすべて清めてくださるとある。
愛する御子に、私たちの罪を負わせて十字架であがない、赦しを準備して主は待っおられる。子として迎え、永遠のいのちを楽しませるために・・。
私たちは光の中で罪を精算されないかぎり、自分を欺いて生きることになるのだ。

神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(Ⅰヨハネ5:18)新改訳
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光の中に (Ⅰヨハネ1章)

2015-11-12 00:01:25 | Weblog



 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言(ことば)について。
この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです(Ⅰヨハネ1:1~2)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:1~3)

恐れることなく「イエスが愛された弟子」と公言し、イエス様の一番近くで愛を信じて疑わなかったヨハネならこその証言である。
「初め」とはすべてのものが造られる以前のこと、「命の言」である御子イエス様は、言葉によって御父と宇宙を創造された。

ヨハネは自分で経験したこと、目で見てそれもいつもじっと見て、手で触れて来たイエス様を「命の言」と証言した。
永遠のいのちとはイエス・キリストのことであり、十字架によって罪を購ってくださったと信じる者は永遠のいのちを賜る。それは聖書の証しである。だからこそ今も私たちは、みことばによって生きて働くキリストを経験することができるのである。

 神は光であり、神には闇が全くない。
わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。(Ⅰヨハネ1:5~6)


世にある光には必ず陰がある。神様の光は真上から注がれ陰はない。しかし人は、アダム以来罪が暴露されることを恐れ、光に来ようとはしない。
人が光の中に留まるためには、絶対的な赦しが前提条件である。すでに赦されていることを知ることによってのみ、光の中に留まることができるのだ。

罪とは造り主なる神に叛逆することである。人は、創造主から離れて自分の思うままに生きようとし、偶像の神々を自分の願いを叶えるために作り仕えさせるのである。

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(Ⅰヨハネ1:7)

完全な罪の清めを受け入れて影のない光の中に住む時、私たちは安心して受け入れ合うことができる。
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(使徒10:15)
相手に対しても自分に対しても、すでにイエス様によって罪が清められているということは、罪が無いということではなく、それはすでに処理されており、そのために互いに訴え合ったり責め合ったりする必要はなく、それが光の中の平和である。
神様の光の中に安息する者は光の子である。それはみことばと十字架の事実によることである。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)新改訳

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ひとり暮らし

2015-11-10 14:30:31 | Weblog



 ひとり暮らしの 落とし穴
ぽっかりと時が止まることがある。
そんな日に、あるアドレスをクリックして、
マーラーの「復活」と出会った。

クラシックは何でも、理屈も知らずに好きだけれど、
どっぷりと浸かるに戸惑いもある。
揺さぶられる感情の掘り起こすものが恐くて・・。

自己憐憫に堕ちることを恐れて、
鎧を纏って仁王立ちで生きて来たから。
でも、鎧の中で心は勝手に涙を流しもするものだ。

 激しい旋律が続く中、小舟のようにもみくちゃにされた時、
自己憐憫も後悔も、血も涙もすべてを持ってこいと命じられた。
「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。

たとい、あなた方の罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)


五楽章の合唱は、力強く主を賛美する言葉が染みた
「信じなさい。お前は何も失ってはいないことを・・」
「復活するために私は死ぬのだ」

アーメン

慰めの主は、すべてを用いて受け止めてくださる。
耳の不自由な息子が、pcに素晴らしいスピーカーを備えてくれたことにも、
改めて気付いた昨日、今日。
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