石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

距離 (ルカ22章)

2015-10-30 15:02:11 | Weblog



 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:31~34)


彼はイエス様の予言を否定した。彼は自分を知らなかった。彼の立つべき所はみことばの他はなかったのだが・・。しかし、イエス様はすでにペトロの弱さを受け入れてくださっている。
シモンではなくペトロ(岩)という名で呼ばれたのは、彼の上に教会を建てるという神様の良い計画であったから・・。
このことは、人の不完全さ弱さの中で建て上げられるのが教会であることを現している。


 「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。(ルカ22:53~54)


この時までペトロは、思っても見なかった恐怖を経験したのだ。それでも彼の目はイエスさまを追っていた。
彼は人混みに紛れようとしつつも火の側に行った。灯りがあればイエス様からも彼が見えるのであった。彼は人への恐怖と、主を慕う思いの間で激しく戦っていたのだろう。

するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。
だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。(ルカ22:56~60)


彼は人の言葉に怯えて右往左往しつつも、長い時をその場に留まっていた。それが出来たのはペトロがイエス様を近しく経験していたからなのだ。
足を洗っていただいたこと、ほめられたこと、叱られたこと、湖からイエス様の手にすがって引き上げられたこと・・。

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
そして外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:61~62)


彼はイエスさまから遠く離れていたけれど、彼の目はイエス様を追っていた。だから振り向かれたイエス様と目が合ったのだ。
その時、彼はみことばをはっきりと思い出すことができた。すべてを赦して祈り備えられていたことを思い出したのだ。
彼は外に出て行って泣いた。みことばが自分のものになったとき、みことばそのものがキリストであり、みことばを抱いて生きるなら主は共に居てくださるのだ。

ペトロの号泣は後悔ではなかった。深い感謝の涙だったのだ。だから彼は裏切った行為に縛られることも絶望することもなく、約束のみことばに望みを持って主を待つことができたのだ。

 示されたみことばに人生を賭けるとき、イエス様の眼差しを感じる。戸惑いや恐れと激しく交錯するのは、ペトロが出会った主の深い眼差しである。その時、みことばの約束を確信して力と平安を得ることができるのだ。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

試練の時こそ目を離さずに主にとどまっているべきである。
主はペトロの弱さの真ん中で良い計画を告げてくださった。主は弱さを責めるお方ではないが、目を離すとき私たちの良心が自分の弱さを責めるからである。

だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16
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二振りの剣 (ルカ22章)

2015-10-28 11:23:43 | Weblog



すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26:51~52)

そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。
彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。
イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか。」と言った。(ルカ22:52)



 主はなぜ剣を買うように言われたのか、剣を取る者は剣で滅びると言われている。
しかしそれは剣を人を殺す道具とするとき、その剣によって自分も裁かれて滅びるということである。

イエス様が買うように言われた剣は、人殺しの道具ではなくみことばの剣であり生かすことばである。
二蓋振りの剣は、ロゴスとしてのみことばであり、レーマとして生きて働くことばである。

 主は「それで十分」と言われた。他に何も頼るべきではないからである。
イエス様が世から去って行かれるとき、弟子を守るものはイエス様の残された約束のみことばだけである。だから、今まで身を守っていた着物を売ってでも、手に入れて自分を守りなさいといわれる。

それは代価を支払って手に入れるものである。犠牲を払って手に入れるものである。弟子は二振りの剣を持っていた。
彼らは人生のすべてを差し出して、それを買い取っていたのである。

救いは信仰によることであり人の犠牲に拠るのではないけれど、唯一私たちが払うべきものはみことばを求める努力である。
それは生活の中でイエス様を一番に選び取る行いの元となり、唯一私たちのいのちを保証するものだからである。

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブル4:12)

 みことばの剣は切れ味鋭く、人の考えや思いを暴露するものである。それは他人に向けるものではなく自分に適用するべきものであるが、その剣に裂かれて流れる血はイエス様の血であり、罪をあがなう血である。

それを語るとき自他に傷を付けることがある。私たちは間違いを犯す者だが、それを恐れるあまり導かれたみことばを埋めて沈黙するべきではない。
それが純粋なみことばであるなら主は癒しの御手を伸べてくださるから、思い煩うべきではなく、ただ覆ってくださるように御前に伏して祈るのみ。

そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。(ルカ22:50~51)
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霊によって「アッバ、父よ」と呼ぶ

2015-10-27 14:12:20 | Weblog



神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ローマ8:14~16)

それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。(ガラテヤ4:6~7)


 子は乳を与えられていることで母を知ることができる。
しかし父は「父ちゃんですよ~」と、教えられなければ知ることができない。知らなければ強い力が恐ろしいだけの存在、一緒にいることさえ苦痛となりかねない。その関係を教えられて受け入れ、安らいで愛を味わう時それは父子の喜びとなるのだ。


 霊の父なる神様も、聖霊に教えられて私たちは「アバ、父(父ちゃん)」と呼ぶことができるのだ。そうして御父の愛に恐れなく浸ることができるのである。
聖霊によって私たちは御父を悟り、その愛に依存する者となり、神様の権威は恐ろしいものではなく、子である私たちの避け所であることを経験して行くことになる。

 聖霊に逆らい冒涜する者が救われないのは、御父もみことばも、聖霊によらなければ受け入れることが出来ないからである。
どれほど聖書を読んでいても、聖霊によって御父と御子と自分自身の関係を真に知ることがなければ、御父の愛に触れる事ができないのである。

そういう人の「神を恐れる」ということは、自分の行いに縛られて主の顔色を伺い、サタンの訴えによって労苦する日々となり、父なる神様に「あなたは恐ろしい方」と言うことになる。
愛するひとり子をたまわるほどに愛してくださっている御父にとって、それはどれほどの悲しみであろうか。
それは、なんと的を外してしまっていることか。


 御父を知るものはその愛を喜びに溢れて語る。安息し信頼しているからである。父の自慢をしている子を憎む親があるだろうか・・。それは正確であるか・・という問題ではなく、愛の問題である。
そのような子が間違いを犯したとき、父は手を取り足を取って教えないだろうか。父は愛の鞭も、導きの杖も持って居られる。

たとえ間違えても失敗しても、変わることのない御父の愛に信頼しており、決して捨てられることがないと知って居るから、喜びに溢れて自由に語るのである。期待に満ちて主を語る言葉は実現する。
「あなたは計算の細かい厳しい方、恐ろしい」と評価した者からはすべてを取り上げられた。
主は私たちの評価に応えられる方だからである。


従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ローマ8:1~2)
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2015年10月25日(日曜日)

2015-10-25 21:23:10 | Weblog



 楽しい礼拝が終わって、今日は美味しいグァテマラコーヒーを男性の方が入れてくださってご馳走になった。ほっこりと香ばしいかおりで美味しかった。
先日からなぜか疲労が激しくて、今日の礼拝出席を迷うほど参っていたのだけれど一変に元気を頂いた。

 帰ろうとバイクを止めてある道のフエンス寄りに回り込んだとき、フエンスに小さくキラッと光るものと黒い糸が目に止まった。何気に目をやった時息を飲んだ。それこそ私の見慣れたもの、わずかに黒い糸の付いた鍵だった。
探し回っていた家の鍵、フエンスのわずかな出っ張りに引っかけてあった。どなたかのご親切がちょうど目に止まったのだ。主の備えにフリーズする時がある。そう、このような時。

あの日教会のお掃除に来ていた。先生にも電話をして探して頂いていたので戻って「鍵ありました!」って、10枚のうち無くした1枚の銀貨が見つかった女のように、そこに居られた方々にも共に喜んで頂いた。

 しかし、後でじわりとこのことは主の忍耐だって気付かされた。鍵をコピーすれば良しと治めたことは、「信仰の薄い人だな」ってイエス様をがっかりさせただろう・・。胸が痛む。
信仰の薄い者を忍耐して育ててくださる主だから、憐れみの内に鍵は戻ってきた。
切ないけれど深い安心感は、主は御真実でありご自身を否むことがお出来にならないと知って居るから。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)


 家に帰って少し横になっていたけれど、これは違う・・と、思い切って何時ものウォーキングコースに出て行った。歩ける所まででも歩こうと思った。年寄りはちょっと油断をすると激しく後退してしまうのだ。

柿の実がたわわに実り、茶畑に白く可愛いお茶の花が沢山咲いていた。風が少し強くひやりとしたけれど、歩いているうちに寒さを感じなくなった。
イノシシのヌタ場だな・・なんて、ドングリがいっぱい落ちている山沿いのなだらかな坂道をサッサと登ることが出来た。

そう、何かが解決すると体の方も解決する。これは経験から知って居る。体調の悪いときそれは何か解決しなければならない事があるのだ。だから病院や薬では治らないけれど、主に拠り頼む時すべてが解かれる。
霊も魂も体も解かれて行く・・そうして昨日より主を知る恵みに与ることとなる。

今日のみことば
こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(コロサイ1:9~12)
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天地は滅びる (ルカ21章)

2015-10-24 19:36:41 | Weblog



「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ21:33)
終末のことが書かれているルカ21章を何日も読んでいる。
世の終わりのことを考える時、まず創造主なる神様のみこころを噛みしめる。それは、神様がこれほどに愛された人の滅びなのである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3:16~18)


 終末の徴はあらゆる天変地異が起こり、戦争や疫病、キリスト者の迫害が起こる。世はやがて恐怖の中で再臨の主を見ることになる。しかしその時では遅すぎるのだ。
信仰は神が与えた厳粛な自由であるが、「(キリスト)信仰は聞くことから始まる」とあるから知って欲しいと切に願っている。
イエス様が十字架で流してくださった血潮は、すべての人の罪の贖いのためであった。
わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。(ホセア13:14)新改訳

 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。(ルカ21:26~28)


恐怖の時は、主を待ち望む者には死からの解放の時なのである。そのことを感じ取って世は迫害するのだろう。
世の噂に惑わされず、
「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:36)

それは日々主に依存して生きている者にはすでに日常であり、何が起ころうともどんな時代になろうとも変わることのない日々なのである。
主を唯一のいのちの望みとして待ち望む者は、主の訪れに誰よりも早く気付くだろう。
それは主が呼んでくださる名を聞きわけ、その瞬間すべてを振り捨てて身を起こして頭を上げるのである。


 主を待ち望む日々の中で、捕らえられて証しをすることになったとき、あらかじめ何を語ろうかと準備をしないとあった。
どのように話せば通じるか、感情を害しないように語るにはどのような言い方がよいだろうとか、あらかじめ考える言葉は人のやり繰りである。

自分の宝物倉にみことばを蓄えて、いつでも自由に取り出せるようにしていれば、聖霊の導きのままに証しすることが出来る。
イエス様のおことばはいかなる宗教者の罠をも退けた。
完全な主の備えの中にあるいのちはすでに永遠に繋がっているのだ。

だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。(ルカ21:14~15)

知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。(コロサイ2:3)


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「安心してください」

2015-10-22 16:47:04 | Weblog



 昨日は家の鍵を無くした。
そうして、今日は恐ろしいことに後期高齢者講習の終了証明書が無いことに気付いた。
あれほど、「再発行はしませんので大切保管しておいてください」と言われたもの。
いや、いや自動車学校の封筒に入れていたはずだ・・と、どんなに丁寧に調べても、どうでもよい本はちゃんと入って居るのに肝心の書類は消えて居た。

そういえば・・「大切な物だから」と余計なことを考えたかすかな記憶がある。あの時に何処かに仕舞い込んだのか・・。
「まず、祈る」今まで主に願って最悪になったことは一度もないから・・。それから落ち着いてすべての引き出し、書類入れをかき回して探したけれど見つからなかった。

 年寄りの失敗はたいがい余計なことを思いつく事から始まる。なぜ余計なことを思いつくかといえば暇だからである。
若くて忙しいときは、初めに決めたことから変更することはあまりない。それは忙しくていつまでもそれに関わっていられないからである。

それに自分の決めたことに自信が無いからあれこれと迷うのである。封筒に入れたままにしておけば良かった・・。などとどんなに後悔しても、何度封筒の中を覗いても無い物はなかった。

もう一度静まって祈る。大変なことだけれど最悪はないと知って居るので、心の底には平安があり腰を据えて探すことにする。
でも、いよいよ覚悟を決めなければならないと思った。もう一度取りに行くのか・・お金も問題だけれど恥ずかしい。折角駅まで送ってくださった教習所の方に笑われるだろうなぁ・・と、でも恥を忍ぼうとあきらめた。

 もう一度と封筒を立ててある本立ての本を、一冊ずつ除けながら丁寧に見て行ったとき、講習通知書の葉書が本の間から出てきた。なぜ?・・やがて便せん2枚ほどの証明書も本の間にから現れた。
思わず「お前はどうやって封筒から脱出したの?」世の中には分からんことが起こるものだ。

主にゆっくりと感謝のお祈り。私が迂闊なことをしているときも主のお目はちゃんとそれを見ておられ、必要な時に導いてくださる。
最も感謝なことはどんな時も主と一緒という確信。このようなことが起こる度に、確信をバージョンアップしてくださる。
主の賢さ主の知恵があるからどんなときも落ち着いていられる。失敗を恐れることなく年を取って行く幸い。みことばが胸に広がった。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(詩編46:4)新改訳


 昨日無くした家の鍵、家を出るときから警告があったのだ。息子にくくり付けておけって言われいてのに、紐付きの方を取りに行くのが面倒臭かったのだ。そう、年寄りの失敗のもうひとつは「面倒臭い・・」から始まる。そうして不要に慌てるから・・。
出掛けに鍵を鞄(たぶん)に放り込んで家を出た。

以前無くしたときは農協で保管してくださっていたので、今度もCD機に立ち寄ったことからたぶんあるだろう・・なんて軽く考えていたけれど、今回はそうはいかなかった。主の憐れみをパターン化する愚かさだ。これでスペアキーを無くした。

一つで行けないことはないけれど・・しかもそれはちゃんと長い紐付きで安全だけれど・・スペアキーがないのは不自由だろうと思って、合い鍵を作ってくれる所を調べていたら免許センターの近くにあった。
免許センターへ行った時に立ち寄って作って貰おうってことで、二つの失敗から解放された。

これで何も思い煩うことはなくなった。いつも何時もそうだ。いつもこのように主に身を寄せて、心配も煩いも取り除いて頂いている。
だからみことばに集中して味わうことができる。一方的な主の恵み。

年を取ってどんどん衰えてなにもかも曖昧になっても、主の背に負われて居るならな~んも怖くはないのだ。
主を見失うことさえなければ備えは万全。それさえキリストの信仰に拠ることなのだから。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)新改訳

秋の桜一輪 
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礎の石 (ルカ20章)

2015-10-20 18:00:00 | Weblog



イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:17~18)新改訳


親石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、礎の石に落ちる者のすべては粉々に砕ける。それは「誰でも」とあるので、落ちるなら砕かれるということである。自分を砕くことができないから主に拠るのだ。

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。(詩編51:19)


砕かれて、その粉の中に主を愛する細かな愛を見つけて頂けたなら、なんと幸せなことだろう。それはすべてを犠牲にしてあまりある光栄だから。
主に飛び込むように自分を捨てるのは信仰に拠ること。でも信仰とは「神の憐れみの中に居る」ことだと思うから、落ち行くときも平安があるのだ。


 ニコデモは、夜そっとイエス様の家に来て砕かれ主に落ちた。主に落ちるのはひとりであることが必要である。ニコデモがファリサイ派の人々と相談したならそれで終わりだ。マリヤがひとりでイエス様を受け入れたように、飛び込むのである。

主を捨てた者には自ら落ちることは選べず、主がその人の上に裁きをもって落ちることになる。それはその人を「押しつぶし」(新共同訳)「粉みじんに飛び散らせてしまう」(新改訳)とある。
救い主から散らされることは裁きであり滅びである。

創造主なる神によって造られた命は神のもの。私たちは御子の相続財産なのだ。主に霊、魂、体、そうして、命のように大切な計画もお委ねするものである。
今、私たち一人ひとりに言われている。

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(ルカ20:25)新改訳

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2015年10月19日

2015-10-19 14:19:16 | Weblog



悲鳴のような鹿の鳴き声が山里に響き
白いカーテンがふわりと揺れる。

主人の碧いマグカップに放り込んだ白百合、
名残の香りはやわらかい。


扇風機は拭いて片づけたし、カーテンや網戸も洗って窓ガラスも磨いた。
今日は庭の雑草を取って、これで夏の始末は終わり。

夏の思い出・・あまりない。
毎日が盛り沢山で、毎日夢中になっていたけど・・。


秋晴れを惜しんで押し入れに風を通し、
布団のカバーをフリースに取り替えて青空の下に掛ける。

今夜はお日様の香りに抱かれる贅沢が待っていて、
「ああ、もう他になんも欲しい物はない!」ってうっとりするだろう。
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夢中になって(ルカ20章)

2015-10-18 17:09:58 | Weblog



民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。(ルカ19:48)
ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、
言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」(ルカ20:1~4)

神の御子に「誰の権威か」と聞くのも恐ろしいことだけれど、聞き入っていた民衆はイエス様のお言葉の権威に気付いていたから夢中になって聞き入っていたのだろう。
イエス様の質問に、人の権威による宗教者は人に相談している。まずは座ってメッセージを聴くべきであった。
キリスト者にとって最も大切なことはそれが天からのものか、人からのものであるのかを聖霊によって見抜くことである。

 礼拝の帰り、真っ青な空の下を大川沿いに原付で走った。風がとっても心地よくてそれは楽しかった。
心の中では「ペテロのように水の上を歩きたいものだ」そんなことを考えていた。
残り少ないこの世の日々を、この世でしか味わえない主を多く知りたいと欲深く考えている。

ペテロは湖を歩いてこられたイエス様を幽霊と間違えて彼の信仰は暴露された。また沈みそうになったとき信仰の薄いことも暴露されたけれど、そのことによって水の上を歩く経験とイエス様の御手によって水から引き上げられる経験をした。
(マタイ14章)

その経験によってペテロは、「本当にあなたは神の子です」と新しく主を知り礼拝することができたのである。
日々新しく主を知ることはこの世にいる間だけのことだから、命のある間に主を経験をして、日々新たに礼拝したいのである。そのような主との歴史を持って私は御国に行きたい。
神殿で夢中になって聞き入っていた民衆のように、もっともっと知りたい。

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みことばが成る (ルカ19章)

2015-10-17 11:36:20 | Weblog


この記事のみことばの理解に誤りがありました。
マルコ11章では「すぐにここにお返しになります」とあり私のまちがいです。
ご注意ください。読んでくださった方には申し訳ありません。


「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」(ルカ19:30~31)


 イエス様のエルサレム入城のために、乗ってゆく子ロバを引いてくるようにと弟子が使わされた。とがめられたときに「主がお入り用なのです」と、みことばをそのままに語って引いて来た。「後で必ず返しますから」などと付け加えることはなかった。主がそのようには言われなかったからである。

彼らは純粋なみことばを語りみことばが成って、預言の主であることを証するロバが備えられた。

 人柄や言葉遣いによるのではなく、説得力でもなく、みことばを語るとき主がその言葉を実現されるのである。
だからサタンは純粋なみことばを語らせまいと私たちの感性に働きかける。「あなたは死にません」エバに好む言葉をささやいてみことばを打ち消し、私たちの賢さに働いてみことばに人の言葉を付け加えさせるのである。

主のご計画のために妥協してはならないことは、純粋なみことばに留まるり続けることである。ある人には愚かに見えても、みことばは救いを得させる神の力なのだから。主の備えを越えて賢くなろうなどとするべきではない。

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。(黙示録22:18~19)

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