石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

招き (ルカ14章)

2015-09-30 16:39:31 | Weblog



宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。(ルカ14:17~20)


 彼らは元から主の宴会を楽しむ権利を与えられ選ばれた民である。祝福が初めからの神のご計画であったことは、彼らの豊かさからわかる。
しかし彼らはその富の管理に邁進し、それらをひととき脇に置いて、与え主を重んじることをしなかった。
主の招きを畑や牛や妻以下に扱い、主の面目を施すことさえしなかった。
彼らの日々は主に賜る宴会のようであったのに・・。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。(ルカ14:26)


主の招きの妨げとなるものは、すべて憎むべきものである。憎んで退けないことは主を退ける結果と成るからである。

僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。(ルカ14:21~23)


先に祝福を一杯に受けていた民の裏切りに、主は真逆にある人々を招くように命じられた。彼らは通りがかりの者であり、主の必要を何ひとつ満たしていない者たちである。ただ、恵みの宴を満席にするためにのみ招かれ、彼らにある主の要求はただ一つ、主の御許に来ることだけでありそれは私のことである。
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日毎に新しく謙遜に

2015-09-29 15:27:06 | Weblog

 

 イエス様は度々宗教者の招きに応じて、食事を共にされる。イエス様にとって決して楽しい所ではないであろうに。しかし、このことにイエス様の約束の民への執着が感じられる。主は招かれればその所に行き教え諭される。聴くために招く者は幸いである。

安息日の癒しは続く、主は彼らの安息日の偽りを暴露して考える時を与えようとされた。主が私たちを暴露されるのは恥をかかせるためではなく、諭してくださっているのであり、悔い改めのチャンスを備えてくださっているのである。
それは主の私たちへの執着である。真実なお方は無視することができないからである。

イエス様は時に命じて癒し、触れて癒し、抱き寄せて癒し、流れ出る力によって癒される。その方法はいつも同じではない。主は人を同じには造られないように、癒しも後のケアも期待し下さる計画もそれぞれである。それは一人ひとりをそれだけ細やかに知っていてくださるからである。

 私たちも日々、色々なことを計画し実行する。主に拠り頼んで生きる者が、過去の成功にそのまま倣うことは罪を犯すことである。
それは主により頼まず経験によっているからである。そこに主はおられない。たとえどんなに小さな事であっても、私たちが日毎に新しく聴かず自分により頼むなら主のみわざを見ることはない。

「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。(出エジプト17:6)

「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」(民数20:8)

主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数20:12)


このことはただ、モーセが過去の成功に一度倣っただけである。しかし、主は「わたしを信ぜず」と言われた。
自分の経験により頼むことは主を抜きにしていることであり、重大な結果となる。

私たちが聴くなら、イエス様は何時も細やかに新しい言葉を語ってくださる。その計画は完全である。それは主の緻密なご計画だから、些細なことから不信仰が入ることがないように注意して、日々御前に座るべきである。
新しい言葉を聴かなければ、私たちは安全に祝福の中を歩むことは出来ないのである。


わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。(エレミヤ29:11~12)
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狭い門 (ルカ13章)

2015-09-28 16:45:53 | Weblog



 言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。(ルカ13:5)
イエス様ははっきりと警告された。人類の救いはキリスト・イエスに頼む以外はないのである。

ぶどう園のいちじくは3年待っても実を付けなかった。もう一年肥料を施し実を結ぶ時をイエス様は執り成し待っていてくださる。
しかし、なを実を付けないなら切り倒される日は決っているとある。

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(ルカ13:34)


 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた
そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(ルカ13:10~13)

イエス様は、わざをもって神の御子であることを見せて居られる。
負いきれない律法に縛られ、責め続けられている者を御側に呼び寄せ、癒しを宣言して解き放ち、御手を置いて清められた。主に触れられた者だけが聖くなるのだ。

不自由から解放され癒された者は神を賛美し、それを見た者も共に喜ぶ、そのために癒されたのであるから。
律法にあぐらをかく偽善者が神の国を共に喜ぶことはなく、その闇は深い。共に神を賛美できないことはどれほど神から遠いことだろう。


 喜ぶ人々にイエス様は話される。
そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」(ルカ13:18)


空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。(マタイ6:26)

辛子種を身近な庭に蒔くなら、このような豊かないのちに溢れる神の国がその人に到来する。

また言われた。「神の国を何にたとえようか。
パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。(ルカ13:21)


わずかなパン種は、その豊かさを持って養ういのちは隅々にまで及ぶ。
神の国は律法にはよらず、神の備えられた福音である。

「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。(ルカ13:24)新改訳

辛子種もパン種も狭い門も生まれながらの人の目にはつかない。
広い門は誰の目に煌びやかであり、賑やかにワイワイと目指すことができる。そこに入るための備えは世に溢れている。

狭い門は「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」イエス様のようであるから、目を止める者はなくただ聖霊によって目を開かれた者だけが見つけることができるもの。努力はそれを求めることであり、捜すこと、たたくことである。

「見いだす者はまれです」(マタイ7:14)新改訳 と書いてある。
稀にしか見つける人がいない門には、それぞれがすべてを捨てて一人で入って行く他ない。
神の国に入れるのは、主に聴いた神の国の祝福を信じたからであり、入れなくなる時があることをわきまえたからである。

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誰を恐れるべきか(ルカ12章)

2015-09-26 14:10:14 | Weblog



友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。(ルカ12:4~5)


あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。(ルカ12:26)

永遠のいのちを準備していてくださる主は、死さえも「ごく小さな事」と言われる。真実な神様が「悩むな」といわれるときは、悩まなくてもよい保証が必ずある。世で生きるための必要でさえも・・。

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ12:29~32)


主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。(ルカ12:37)
主の下されるもてなしは御父と御子と聖霊の交わりであり、そこで準備されてあるものはみことばの宴会である。「さあ、豊かに飲んで、満腹になるまで食べなさい」と言われる。

しかし、
主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。(ルカ12:47)

だから、今日
あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。(ルカ12:57)
何が正しいのかを教えるのは聖霊であるから、それを無視することこそ冒涜。
人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。(ルカ12:10)

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聖霊を求めなさい(ルカ11章)

2015-09-25 19:35:38 | Weblog



また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』(ルカ11:5~6)


 断られてもしつように頼むと与えてくれると話されたが、普通はこんなことはあり得ない。
しかし友人がイエス様なら、真夜中に来られることになんの不思議もなく、自分に無ければ熱心に探し求めて当然だと思う。
私たちはそうするべきで者であるから。その時には、夜中であろうと時を選ばず人の迷惑も考えるべきでない。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
(ルカ11:9~10)


私たちがこれほどに熱心に求めるものはただ一つ、それはイエス様の必要を満たすためのもの。
天から下ってきてくださった友なるイエス様。わが花婿。我が主。
イエス様が求められるものは私たちとの交わり。私たちも主を求めるなら、真夜中に走り回っても必要を満たすだろう。私たちのうちに留まって頂くために。

あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ11:13)

聖霊の求めは、ただ、ただキリストなるイエスを知りたいと、花婿との愛を深めたいという動機から発するものである。
その関係は、イエス様を産んだマリヤ以上であると書いてある。

聖霊によらずにイエス様のみこころを知ることは無く、私たちから出る良い考えはすべて的外れであるから、聖霊は通訳のように聖書を解き明かして私たちにみこころを教えてくださる。甘い愛の言葉を聞かせてくださる。

学校で学んだ知識や能力でどれほど読みこなしても、聖霊の助けがなければ単なる人の知識に過ぎず、主の必要は満たせない。その実は秋のイチジクであっても、主が求められる春のイチジクではないのだから。


翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコ11:12~13)
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主のいのり (2)

2015-09-24 09:55:19 | Weblog




聖書に書かれている祈り
父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。(ルカ11:2~4)新改訳


教会で、そうして私も祈ってきた「主の祈り」

天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らを試みにあわせず悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン


その違いに愕然とした。以前から違和感を覚えたことはあったけれど、権威あるいのりでもあり・・となんとなく過ごしてしまっていた。
しかし、「我らに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」
人の赦しによって罪が赦される此処には十字架がない!なぜこのような入れ替わりが行われたのだろう。

くどくても罪の赦しは、罪なきイエス・キリストの十字架上のあがないによることである。それを受け入れる信仰によってのみ人は赦されるのである。それのことには欠片も混ぜものがされてはならない。それは主のわざを汚すことであり、十字架を否定する悪魔のわざである。


イエス様を知ることによってすべてが新しく変えられ、赦しを自分のものとして受けたとき、神の与える平安によって赦す者とされゆくのだから。
「皆、赦します。」この宣言によって、「赦している」ことを明確に確信するのである。

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主の祈り (ルカ11章)

2015-09-21 13:16:59 | Weblog



イエス様の教えてくださった祈り

父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。(ルカ11:2~4)


 造り主の御名を崇め、みこころが成ることこそが人の幸いである。すべて造られたものは造り主の栄光を現すために存在するのだ。
しかしこのことは、聖霊に拠らなければ素直に「アーメン」とは言えない。
霊と肉の必要を毎日主から与えられ、主によって養われ生きていることを悟らなければ同意する事ができないのだ。
人は養われているものを礼拝するから、世に養われていると思う者は世に仕える。自分の力、自分の知恵に拠る者は自分のために生きるからである。

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(Ⅱコリント12:3)

主が私たちの罪のために死刑となってくださり、すべての罪を赦してくださった。初めに主が赦してくださったのであり、私たちが赦すことが交換条件とはならない。どれほど心を尽くそうとも、人の赦し程度の赦しでは私たちは救われない。
罪のないイエス様の血によってのみ赦され救われたのである。それは信仰によることである。

そのような私たちの赦しでさえもイエス様が認めてくださるのは、人の成り立ちをご存じで脱出の道を備えてくださったのである。
残らず皆赦さないことは主に逆らうことであり、赦すことはそれを命じられた主の勝利である。
しかし赦すことは聖霊による。聖霊によってイエス様の御愛を知るなら、何よりも主に従順することの喜びが勝るからである。

 主に試みられているように感じるときがある。しかし、それは新しく主に出会うチャンスであったと後にわかる。
成長にはテストもある。しかし、ご真実な教師のイエス様はそのときぴったりと側にいて導いていてくださる。

誘惑はエバに語る蛇を思い出す。
「主よ、私たちをお守りください。私たちはいつもあなたが必要です。」



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大切なことは一つ (ルカ10章)

2015-09-18 11:01:50 | Weblog



 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。(ルカ10:1~4)


 彼らは自分発のものを何も持たなかった。人の備えは必要なく、狼の中の小羊のように無防備な状態で遣わされる、それが神の働き手に対する備えである。
人の顔色を見て愛想良く挨拶をする者でもなく、ただ主に命じられたことを語り、授けられた権威によって働くのである。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)新改訳

蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。(ルカ10:19)



 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(ルカ10:25)

彼はイエスを試そうとして、永遠のいのちについて質問したのである。だから彼が求めていることは永遠のいのちでなく、イエス様を黙らせることにあった。
善きサマリヤ人で在り続けることの実現は不可能なのである。それは、試す者に対する答えであるから・・。

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。(ルカ10:41~42)

救いを得るべきマルタに対してイエス様は教えてくださった。大切なことはただ一つ、主の御前に座って聞くことであると・・。


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終わりの日のために (ルカ9章)

2015-09-17 15:06:16 | Weblog



イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:20~22)

「神からのメシア」になぜこのようなことが起ころうか・・、弟子が信じられなかった。病を癒し死者さえも蘇らせる方が、なぜおめおめと苦しみ殺されるのか・・、あまりに現実的でないことゆえに、そのような死が前提での復活に、その時の弟子の信仰は及ばなかった。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(ルカ9:23~24)


「わたしに付いて来たい者は・・」それは自由意志によって、「自分を捨て・・」自分を捨てることは自分に付随するすべてを含むことである。弟子達は職業も家族も捨ててイエス様に付いて来た人たちであった。

「日々、自分の十字架を背負って」十字架は死である。一日一日自分の死を背負ってイエス様の足跡を踏んで行く。
此処に弟子達のもうひとつの捨てるべきもの、自分の計画、自分の夢、イエス様に対する計画が残されていた。
人は自分の良い計画を捨てなければ、神の計画が成ることはないのだ。それは両立はしない。

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。(ルカ9:28~29)

イエス様は「神からのメシア」としてのご自身の御姿を彼らに見せてくださった。確信を与えるためである。

すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。(ルカ9:35)
また、御父も彼らに御声をかけて御子に「聞け」と命じられた。

主は御真実であるから私たちの弱さをご存じで、ご自身を現し確信を与えてくださる。
イエス様は二度繰り返し十字架のことを話されたけれど、弟子達は真正面から受け取ることをせず、尋ねて知ろうとはしなかった。
神様の「聞け」と命じる御声を聞いていたのに・・。

知ろうとしないから、自分たちの捨てるべきものがわからず「誰が偉いか」などと、自分の計画を握りしめて悟れずにいるのである。恐れずに「お話し下さい」と、その日のために備えるべきであった。
それでも、主の良いご計画が人の上に成就することは深い感謝である。主の忍耐によることである。

「思い」は毎日姿を変えてやってくるから、その思いの死をいつも身近に置いているならそれが身の避け所となる。
主の御足跡を日々主に尋ね求めながらたどる時、みことばを解き明かし御わざをもって、今踏む道を一歩ずつ「これに歩め」と言う声を聞き続けるようになる。
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植木屋さん

2015-09-16 13:27:37 | Weblog



 昨日は、長男が送ってくれた外反母趾用のサポーターをつけると痛みはなくなった。嬉しくて早速気になっていた庭に出て草を引いたり、伸び放題になっていた枝を切ったり・・、自分のしたい事が出来る幸せを味わった。

しかし、庭木がドンドン生長して枝葉が茂って虫が付いている。私にはどうすることも出来なくて頭痛の種。その時、ご近所に植木屋さんが入って居られるのを見つけた。
チャンスだけれど・・声をかけるには躊躇してしまう。

植木やさんの相場もわからないし、どういう方かも知らないから・・、そんな時目が合った、不思議はない私がそちらばかり気にしていたのだ。
このチャンスを逃せないと、「すみません。庭木を3本ほど先を飛ばしてほしいのですが、見積もって頂けませんか」「ああ、後で見に行きますわ」って気軽に言ってくださった。ホッ、私はこういうことが苦手なのだ。どんなに苦手でも、我が家の外交官であった主人のいない今は自分でなんとかするしかない。

 夕方に寄ってくださったので、「この松を2本と椿を2本お願いします。あの・・お幾らぐらいになりますか。あまり高いと出来ないのです。」「いや、わざわざ来たわけでないし○○○円で・・」「本当にそれでしてくださるのですか。助かります。」
ということで交渉は大成功。

暑かったので、水分を取って貰おうと冷たいコーヒーを出してちょっとおしゃべりをした。「もう、この頃はこんな注文ばっかりです。庭木を抜いてくれとか、先を切ってくれとか、子供さん達は庭まで面倒を見る気がないのでしょう。」「庭って、慰められる時もあるのですが、狭くても結構面倒なことも多くて・・。木が茂ってくると自分ではどうすることもできないし、放って置いたら虫や風通しも悪くなって気になります。」「ほんまに、そうですなあ」

植木屋さんも庭造りなら楽しみもあるだろうけれど、後始末みたいな仕事ではつまらないだろうな・・。
それだけ余裕がなくなったと言うことかも知れない。家の中には昔は無かったものが溢れているのだけれど・・。

「格好はどうでもよいですよ。思いきって切って置いてください。」「いや、植木屋ですから・・あんまりなことは」そりゃそうだろうと反省。
私が良くても彼にはいやだろう・・。お陰でさすがプロ、あまり気にならないようにしかも願い通りにばっさり切ってくださって感謝。

切った木を手際よく車に積み、、シートに包んで片付けてゆかれる。それにしても、木というものは平面に下ろすと驚くほどの嵩になるものだ。「すごいですね。」と言うと「そうですやろ。簡単に先を切ってくれと言われるけれど、後がけっこう大変で・・」軽トラックに満載になってしまった。

イエス様に「正当な報酬で、危険もなく仕事がなされますように。」とお祈りしていたから、お礼は約束よりも多くお支払いした。
主人も頼まれて木を切っていたからおよそはわかる。まして、切った木の始末をしてくださるのだからこれでもとても有り難いのだ。
どちらも「ありがとうございます」を繰り返して帰って行かれた。本当に心から感謝。

 風通しの良くなった庭に秋雨が降って来た。今日は嬉しくて庭ばかり見ている。
昨夜は、ひとりの部屋には虫の音があまりにうるさく聞こえて窓を閉めた。秋は確実に深くなり・・ある日残された金木犀の香りにハッとするのだろう。
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