石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「これに聞け」 (マルコ9章)

2015-07-31 19:21:43 | Weblog



六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。(マルコ9;2)

「ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて」と言う言葉は重い。私たちは選ばれることを求めるべきである。それは主を知りたいということだから・・。
イエス様が高い山に彼らを伴われたのは御父と御子の交わりの座を経験させるためであった。

私たちがこの世で何を聞こうと、どのような事が起ころうと、どうすれば良いのか分からなくなった時も、此処がキリスト者のホームポジションである。
主は、このように必ず愛深く語り教えてくださる。彼らのように、たとえすぐにはわからなくても後でわかるようになる。

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)

神様が御子に「聞け」と言われたことは、彼らが理解できないでいる「死と復活」のことである。
御父が愛する御子に計画されたことを、安心して聞き取るようにということである。そのことは全能の主から出たことであると・・。

愛する御子の命と引き替えに、神様が準備してくださった永遠のいのち。それを受けるために、たとえこの世の命と引き替えになろうとも・・とイエス様は説得される。

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。(マルコ9:43.47)


 つまづきを与えるものとは、世の名誉やほめ言葉、目に美しいものだったり、手を伸ばせば届くものだったりするのだろう・・。この世で自己を達成して満足する者ではなく、何と引き替えることになろうとも、永遠を手にいれなさいと勧められる。

イエス様に従うことは世で栄えることではない。主は侮られ嘲られ無実の罪によって十字架で処刑された。世はエリヤを自分たちの好きなようにあしらったように、私たちにもそうするだろう・・何処までも主を選ぼうとするならば。
しかし永遠の価値を知る者なら何を選ぶかは明らかである。永遠の価値を知らない者にそれが与えられるとは思えない。豚に真珠は与えられない。

キリスト者の選択は世に大きな影響を与えるものである。それが小さな者を躓かせることになる。私たちは世には光であるからである。どんなに小さな灯りでもよく知られるのである。


 地獄の火は消えることがない。生きている間にその火で吟味され塩気を付けられるなら、私たちは正しい選択に至るだろう。
そのような者の交わりに誰が偉いかなどという議論が起ころうはずはなく、主に救われた者の平和があるだろう。

塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:50)

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自分の十字架(マルコ8章)

2015-07-29 14:21:07 | Weblog



そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」(マルコ8:29)

 この直後にイエス様が話された言葉は、ペテロにとても理解できるものではなかった。まるで裏切りのように感じたことだろう。彼が、すべてと引き替えにして従ってきた主は、彼の唯一の望みであったから・・。

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。(マルコ8:31)

死人をもよみがえらせる方がなぜ殺されるのか・・人を癒し、救いを語る方がなぜ排斥されるのか、この時理解できる人はいない。
イエス様に従うことは理解できるからではなく、納得できるからでもない。ただ、そのままで自己を差し出して従う他ない。

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(伝道3:11)

復活の確信がもてない信仰にはなんの望みもない。でも、それは時間を必要とすることであり、聖霊による学習や経験を必要とすることでタイムラグがある。それを埋めるのは無条件の従順ではないかと思う。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8:32~33)

イエス様は「ペテロ、引き下がれ」とは言われなかった。もし、そう言われたならペテロは終わりである。イエス様は彼に働くサタンの言葉を退け、聞いていた弟子たちも守られた。
「神のことを思わず、人のことを思っている」この区別は人にはわからない。ただ、この時はペテロが自分のことを思っていたことも事実だ。神を思わず人のこと思うのはサタンのわざ。

ここで「自分のこと」ではなく「人のこと」と書かれてあるので、それが人類愛によることであっても、神より出ていないことはサタンの罠かも知れない。
しかし、永遠を見ることのできない人が、いったいどのようにしてこのことを見極めることができるだろう・・。

ただ重要なことは、イエス様はペテロのだけのメシアではなく、ユダヤ人だけのメシアでもない。全人類のメシアであり、創造主なる神様のみこころを行う方とわきまえることである。

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マルコ8:34~37)


イエス様は群衆にも永遠のいのちの価値を教えられた。知った者には責任がある。そうして私たちも・・。
いのちには命を支払う。人は肉の命を差し出すことによって、永遠のいのちを得るのである。命を失ってからでは手遅れであり、生きている今しか差し出すことができないのが命である。

神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。(マルコ8:38)

自分の十字架その肉の死を帯びて、世では愚かな十字架のことばに従順するのである。
復活の望みを抱いて・・。

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「まだ悟らないのか」(マルコ8章)

2015-07-28 16:25:40 | Weblog



「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(マルコ8:2~3)

イエス様のお言葉に、弟子は「こんなへんぴな所で」(新改訳)と言っている。イエス様のお側にいるかぎり場所が悪くても、時が悪くても、貧しくても大丈夫なのである。主は無限に豊かで気前の良い方であるから。

イエス様がパン種の忠告をされたとき、パンの奇跡を2度も経験したばかりの弟子たちが、パンが一個しかないと論じ合っていた。
これこそパン種、不信仰が入り込んで不安を膨らませ全能の主を忘れさせてしまう。
このことは今も起こること。神様の恵みを暮らしの中で経験しても、少し問題が変われば「貧しい、苦しい、あれが足りない・・これが足りない」とつぶやく・・。

パウロの告白はすばらしい。此処には主に在る者の自由がある。

貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(ピリピ4:12~13)


 群衆を解散させるのはいつもイエス様だった。主は羊飼いだから・・羊飼いの権威によって集め、また散らされる。散らされる者であってはならないと思った。

イエス様が癒し為さるとき、群衆からそっとその人を引き出された。イエス様は神様のわざを伝道の道具にはされない。その人の価値に拠らず、信仰さえも問わず、ただ、ただ可哀想に思っていやして居られる。言いふらすことも好まれなかった。

 普通の暮らしの中にあって、世から区別されているキリスト者のいのちそのものが伝道なのだろう、大切なのは主によって生きる一日一日である。
それは人が褒められることではない。世は、弱い人の中に居られるキリストを発見して感動するのであり、立派な行いとは、ただキリストにより頼んで生きている姿である。此処に取り繕いの嘘はない。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5:16)

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実質 (マルコ7章)

2015-07-27 15:20:07 | Weblog



 形式や建前の祈りは偶像に捧げるものである。それはいのちも感動もない作り物だから。
今も生きて働いておられる主には、血の通った言葉でお話しするように祈りたい。
「娘から悪霊を追いだしてください」と願った女は、少し気むずかしい感じのイエス様に交渉している。

アブラハムも、滅ぼされるソドムの救いのために神様と交渉した。(創世記18章)もし、私たちが切羽詰まっているなら、そうして主以外に救いがないことを知るなら、借り物ではない言葉で一生懸命に哀願するだろう。そうして主はそれを待って居てくださる。

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(マルコ7:27~28)


そうして娘は救われた。主のパン屑は豊かであり完全である。それも12籠もあるのだから・・、私はパン屑をねだりながらのブログ三昧。


 律法をいつの間にか人間の掟にすり替えてしまっているとイエス様は暴かれた。神の言葉は聖霊による解き明かしを必要とするが、人の教えは分かりやすく世に溢れている。
だから気をつけていないとすり替わってしまうのだ。みことばは正確に覚えないとサタンにすり替えられてしまことがある。エバのようにあっという間に取り込まれてしまう。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。(Ⅰコリント1:18)

 父母に与えるものを惜しんで「捧げ物になった」と言い逃れることは、神をも自分をも欺く言葉。親を憐れまない心を覆い、神のことばをないがしろにするから。
そんな人の言い伝えを持ち出して御子を責め立てる彼らは、「白く塗った墓のようだ」とイエス様は言われた。見た目が奇麗でも中は腐っていると。

「すべての食べ物はきよめられる」とイエス様は言われた。食べ物によって汚れを受けるのなら、それを避けることは簡単だけれど、人の心から出るものが人を汚すと言われた。それを変えることは簡単ではない。
だから彼らは言い伝えを宗教的に教え、それによって地位を確立して来たのだろう。それは人の力で出来が、人の思いを変えることは主に拠らなければ決して完成しない課題である。
腹を立てた一瞬に心の内では殺していたかも知れないし・・、私の無分別なんて全くそうであるし・・。ただイエス様の導きの中でヨチヨチと心の内を治めさせていただいたり、赦しの中で過ぎ去らせて頂いたり・・主の十字架により頼んで回復させて頂いて居るのみ。

 聴覚障害者の癒しが書かれてあるが、私の次男も聴覚障害者である。彼はもう20年近くメーカーで技術者として勤めさせて頂いて居る。彼は書くことによってはっきりと必要を伝えることができるし、しっかりとした意志も持っており勤めながら資格も取った。
障害ゆえの課題もあり、いつも助けを受けているだろうが、絶えずイエス様は彼の必要を満たしてくださって居る。主のみわざは一通りではない。
何よりも感謝なことは、彼が毎朝の聖書通読を長く続けていることである。それが自分の弱さ故に辿り着いたことなら、一瞬の癒しよりもはるかに感謝だと私は思う。
命の限り、弱さの中に完全に働く主にあって生きることはとても安心なことだと思うから・・。
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ヘロデの信仰 (マルコ6章)

2015-07-24 14:02:18 | Weblog



 イエス様の郷里でみことばを聞いた人々の答えは「この人のことは良く知って居る」であった。それですべては終るのだ。
「あなたの信仰が・・」とイエス様は繰り返し言われる。信仰のないところではイエス様でも何も出来ない。信仰によることは麗しく主のお喜びとなるのだが・・。

 12弟子は何も持たずに遣わされた。彼らが運んだのはイエス様であった。だから何も無い彼らを通してイエス様が働かれたのである。だから、ユダであっても良いわざを行う事が出来たのだ。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)


 ヘロデは喜んでバプテスマのヨハネの言葉を聞いていた。しかし、聞くだけで行いという根がない者はいとも簡単に罠にはまる。いくら聞いてはいても信仰が成長しないからである。彼はヨハネを解放するべきであった。
どんなに喜んで耳を傾けていても「みことばを聞くだけ」のヘロデも群衆のひとりに過ぎなかった。

それでもイエス様は押し寄せてくる群衆を深く憐れまれ、みことばを語りパンを食べさせてくださった。それは霊と肉の糧である。しかし、群衆の関心はパンであった。イエス様が後にそう言っておられる。

その時、イエス様は弟子に「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と言われた。イエス様が数によってわざを左右されることはないのである。
5つのパンと2匹の魚、5000人以上が満腹して12籠あまった。この経験をイエス様は弟子に覚えさせようとしておられた。

神様の豊かさと御力を記憶させるためであったが彼らには残っていなかった。みことばを繰り返し聴くこと、読むこと、覚えることは主に在って生きるための糧である。それを忘れると信仰は死ぬ。

その経験を覚えていないから湖でイエス様が分からなかったのである。側を通り過ぎる救い主を見て「主です」と叫ぶなら、それで勝利を得るのである。
幽霊と見えたのは、みことばを聞いても御わざを見ても感動もしなかったからである。「心が鈍くなっていた」と書かれてある。そのことはイエス様をどれほど疲れさせることだろう。

信仰生活には、主の憐れみによる奇跡が大いこと、小さいこと幾度も経験するけれど、次の問題と共にそれらは一時の喜びとなって、すぐに持ち去られ忘れ去られてしまうのである。心が鈍くなってしまわないように、絶えずみことばに感動して主に留まってなければ、どのようなお方であったか主がわからなくなってしまうのだ


イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。(マルコ6:41)

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主との距離 (マルコ5章)

2015-07-23 15:10:56 | Weblog



 ゲラサの人々が見たのは、服を着て正気になってイエス様の前に座っている男であった。彼は今まで狂っていて昼も夜も墓で叫び、鎖でもつなぎ止めることが出来ない状態だったのだ。
しかし、男から追い出された悪霊どもは、イエス様によって豚に入り崖から落ちて死んでしまった。多くの豚を失った人々がイエス様に願ったことは「この地方から出ていってもらいたい」であった。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マルコ8:36~37)


ゲラサの人々がイエス様を恐れたのは、財産を守るためでありそれが彼らの選択であった。
恐るべき事に、主は私たちのいかなる意志をも尊重される。

彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない(マルコ4:12)

みことばは事実である。目の前で奇跡を見ても主を認めない者は認めない。福音を聞いても理解することがない。人はどこまでも頑なで、目先のことだけでこれさえあれば大丈夫だと思い続けている。

彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。(詩編49:11)新改訳

たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである。(詩編49:11)口語訳


 娘の命の危機に接して目覚めたヤイロの信仰は、時をかけて成長させられる必要があった。
「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(マルコ5:23)

群衆が行く手を阻み、12年間も血の病に苦しんで来た女が密かに、イエス様の衣のすそに触れて癒されることを求めた時、イエス様は彼女を癒し告白に導かれた。
それは彼女を世の差別や病、罪の重荷から解放するためであった。このことはヤイロには割り込みに思えても、主には彼女がメインであった。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)
主に信仰が認められることは人には完全なことであり、主のお喜びである。

ヤイロはこの途中の出来事を通しても信仰の成長が導かれた。しかし、彼は「娘が亡くなった」という最悪の知らせを受ける、信仰が試されるとき世は絶望的な情報をあふれるように持ってくる。
イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われた。
私たちもみことばを覚えて口に出し留まるなら、真実な主の御力を経験して成長の糧としてくださる。

彼は目の前で女の癒し見て、「あなたの信仰があなたを救った」というイエス様のおことばを聞いていたのだ。イエス様のお側でじっと待って居たからである。
イエス様は群衆をまとめてではなく、一人ひとりを時間をかけて育ててくださるお方である。このことは生き死によりも大切なこと。

イエス様のひとことで娘はすぐに起き上がった。主は言われる「食べ物を与えよ」イエス様にいのちを救われた者は、みことばを食べて生きるようになる。
人はすべて死にゆくだけの者である。唯一イエス様によってまことのいのち、滅びることのないいのちを受けるのである。みことばに養われて成長してゆくことは、老人も若者も同じく必要なことである。

主が奇跡の場に伴われたのはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけであった。変貌の山でも、ゲッセマネの祈りの時も彼らだけであった。
しかし今、私たちは常に主のもっとも近くに居ることが可能なのだ。ハレルヤ!

イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(Ⅰヨハネ4:15)
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区別される主 (マルコ4章)

2015-07-22 12:46:40 | Weblog



「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ようになるためである。(マルコ4:11~12)

おびただしい群衆がイエス様を求めて集まって来た。しかし、イエス様はたとえでしか話されなかった。
マルコの4章では、イエス様がはっきりと人を区別しておられることがわかる。

「聞く耳のある者は聞きなさい。」
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」る。(マルコ4:23~25)


良い土地に落ちた種は、ひとりでに生長して実を結ぶが、道ばたは世のことで頭がいっぱいの人の場でありそこはサタンの世界。石だらけのところには育てる土はなく、イバラは世が絡みついてきて離してはくれない。しよせんこんなところでは種が育つことはないのである。

夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4:27~28)


百倍の実を結ぶのは、「ともし火は燭台の上に置き輝かせる」ためのである。
主の祭司の働きのために備えられたタラントを埋めてはならない。たとえそれが、からし種のように小さく思えてもである。

からし種は頑張って大きくなるのではない。また、種の立派さでもない。その内に神が秘められたいのちによって、どんな野菜よりも大きくなるのであり、葉の陰に鳥が巣を作れるほどになるのである。これは鳥が巣を作るということでなく、大きさを現している。

大切なことは主と共に居て、主の語ってくださるみ言葉に常に耳を傾けている、どんなときにも主に心の戸を開いていることである。そのことが群衆と弟子の分かれ目なのである。
押し寄せる群衆は帰って行き、自分の必要に応じてやってくる。しかし、弟子は四六時中主と居る者である。

たとえ体は世の事に忙殺されているようであっても、いつでも主のみこえが聞ける霊の備えがあるなら、神は「あなたはどこにいるのか」とは言われないで、みことばを聞くことが出来るだろう。
また、その時間は主が守ってくださる。主はご真実だから、世の波風にわめくことはないのだ。

たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(マルコ4:34)
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息子と詩編70編を読む

2015-07-20 17:31:42 | Weblog



連休で帰宅している息子は早起きをして朝顔の写真を撮ってくれた。開いたばかりの朝顔は、めしべもおしべも真っ白に光っていた。いのちの輝き・・。
すぐに蜂たちが来て花びらに花粉をこぼして行ったけれど・・。

それから、彼の通読箇所を読もうと一緒に交読していた後、彼は詩編の70編を聖書を取り替えて読んでいたので、「私も此処、好きだよ。」と言うことで二人で盛り上がる。

神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。
私のいのちを求める者どもが、恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き卑しめられますように。
「あはは。」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のためにうしろに退きますように。

あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。
私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。(詩編70:1~5)




神様にこれほどまでに親しい祈りができるのは、良い関係なのだろうなぁ・・って思う。
言わなくてもすべてをご存じの方に、心の内を取り繕ってもなんの意味もない。すべてを聞いて頂く、思いの丈をありのままに祈る自由は、主とどれだけ親しいかということだと思う。

すると、主が私たちの心の内を整えてくださる。平安をくださる。また、敵のように思えた人にさえもとりなしてくださり、いつしか私の思いも、相手の思いも互いに知るようになってしまうから・・本当に不思議なのだ。
人間関係のどんなことでも話せるお方は主だけである。



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聖霊によらなければ (マルコ3章)

2015-07-18 12:50:17 | Weblog



 イエス様がマリヤの胎に来てくださり、人の家族として成長されることはどうしても必要であった。
いきなり人の罪に出会われたなら、人類はきっと滅びるほか無かったと思う。
家族というもっとも近しい関係の中で、愛と共に混ざっている罪を、成長に従って見て行かれたことで、罪人を愛する忍耐を学習してくださったのだと思うから・・。

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、(ヘブル5:8~9)


キリストの苦しみは人の罪のゆえであり、罪ある者をも愛する忍耐であった。罪を知らない方にとって、これはどれほどの苦しみ悲しみであったことだろう。そのすべての罪を負って十字架であがなうまでに、御父に従順してくださったのだ。
  
そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。(マルコ3:9~10)


願いのままに押し寄せる人々を癒しながら、その不毛とも思える疲労の中で、集められた使徒はイエス様のなぐさめであり希望であったろう。
ユダが混じっていたけれど・・、まあ、この世には完全なものも純粋なものもない。それは天にしかないものだから・・。


 安息日の律法が「良い行い」さえも禁じていると、神の戒めを曲解させてしまった人たち。イエス様は、神のご意志から遠く離れて、すっかり形骸化した宗教を悲しまれたことだろう。
人は言葉を自分の都合に合わせて、何時でも曲げることができる者だから・・。

エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(マルコ3:22)

サタンは人を貶めるとき「あいつはサタンだ・・、悪霊だ・・、魔女だ・・」そんなふうに言わせる。その時、人がその言葉に乗ってしまうのは、その心の中に願望があるからである。都合の悪い者を何の証拠もなく葬るに、これほど都合の良い言葉はないからである。

汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。(マルコ3:11)


汚れた霊がイエス様を告白することは赦されない。
イエス様の力がどこにあるのかを知るために、人は自分の中にあるもので計る。悪霊を宿すものは彼を語るだろうし、聖霊を宿す者は「主です」という。

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(Ⅰコリント12:3)

たとえイエスの家族であっても、聖霊によらなければ本当に主を知ることはできない。まして私たちは、主に拠らなければ家族の本当の姿を知り、その必要を満たしてあげることはできないのだ。
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罪を赦す権威 (マルコ2章)

2015-07-17 11:17:12 | Weblog



イエス様が世に来られたのは弟子を求めてであった。「神に応答する」という、人に取って唯一の良い行いを求めて来られた。だから、救われる者は多くはないのだろう・・。少しも難しいことではないのだけれど。

それでも、イエス様は人々の一欠片の信仰をもすくい上げようとしてくださっている。

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。(マルコ2:4~5)


体の癒しだけでは意味はない人は必ず一度死ぬ者である。イエス様は始めに罪の赦しを宣言された。それこそ永遠に変わることのない救いに至ることである。
それは律法学者の言うとおり神にしかできないことである。それも十字架で彼の罪をあがなってくださるイエス様だからできることである。

病人を運んだ人の行いを用いてイエス様のわざが行われた。そこで神の御名があがめられた。すべて神の御名があがめられることによって完全となる。



 イエス様は猟師や徴税人をお弟子とされた。決して評判の良い人たちではなかったろう。ただ、彼らは御国からは最も遠い所にいると、自分を悲しんでいた人たちであった。
だからイエス様のお言葉に即座に従うことができたのだ。彼らは目をギラギラさせてキリストを待っていたのだ。

「私は満ち足りている。私の信仰に足りないものはなにもない。」と言って、人が好きなように手垢にまみれさせた律法を、布団のようにかぶって眠っている人は、神のわざも愛も見ることはなく彼らが新しく生まれることはない。その必要を彼らが覚えることがないからである。

 この病人はみことばどおり、すぐに起きあがり床を担いで出て行った。
主はご真実だから、命令されるときは必要な力が備えられている。神のわざを見ると直ぐにあがめ、主に招かれたときは直ぐに立って付いて行く。それは幼子でも可能なほど単純なことなのである。
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