石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

ほほえみ

2015-05-31 19:59:53 | Weblog



誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。(マルコ14:38)

此処でイエス様は、理解はされたけれどペテロたちの体を強めることはなさらなかったなぁ・・って思った。
しんどい・・あちこちにコロコロと変わるとらえどころのない痛みがある。まあ、こんなのは、永遠の住まいをすでに準備されている身には大したことではない。
しかし、まとわりつく弱さはとてもうっとおしい。

人は疲れる、人は怪我をする、人は病む。
それらは信仰があっても癒し主を知っていても実にうっとおしい。祈ることにも疲れることがあるほどに・・。
その時は忍耐と信仰を試されているのかな・・、それともアーメンですべてOKなのかなぁ良くわからない。

目を上げると、いつも無愛想なコンクリートの擁壁に、ハンギング昼顔がピンク・・微笑んで居た。とても幸せそうに・・、
目があったとき私も幸せをお相伴させてもらった!
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偉大な父によって

2015-05-29 13:57:16 | Weblog




 新共同訳聖書が欲しいことを姉妹に話したら、持っているので良かったらあげると言ってくださった。即座に「ちょうだい」と言った次の日に聖書は送られて来た!
とてもセンスの良い手作りカバーも添えられていた。早速カバーを着せてワクワクとページを繰った。

 そもそも私はどんな本であれ印を付けたり、端を折ったり、書き込んだりして汚してしまう癖がある。そうして本をどんどん消耗してしまうのであまり手元に残らない。
時々、あの本をもう一度読みたい!と思う時もあるけれど自業自得、後の祭りだ。

息子は本の帯まできれいに保存するから、私が彼の本を扱う時ハラハラされて「丁寧に扱え」と苦情を言われる。
私にこのような癖がついたのは、物心ついて以来古本ばかり買い漁って、ただ中身を読みたいその一心だったからだろう・・。表紙のない文庫本をポケットにねじ込んで、暇を見つけては読んでいたような貧乏人だったから。


 聖書も書き込みがいっぱいになって、それが邪魔で時々替えなければならなくなる。新改訳は主人のほとんど無印の聖書が残されてあって、最近は手元に置いている。
新共同訳に興味もあり、頂いた無印の聖書を開くワクワク感は格別でとても嬉しい。

わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネ10:29)新改訳

わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。(ヨハネ10:29)新共同訳

 
 ヨハネ10章を読んでいて29節の訳の違いに気付いた時、考え込んでしまった。
「父が偉大」と「父がくださったものは偉大」これは大きな違いであると・・、でも少し考えていて気付いた。
そう、聖霊はいつもハッと気付かせてくださるから、決して行き詰まることはない。

父なる神は「すべてにまさって偉大」アーメン。そうして、その神様の偉大さは、御手を経る者に偉大な価値を付けるのだ。
その者が、偉大な神様のおことばに留まるなら、そのおことば通りの価値がその者の価値と成る。なぜなら、その方のみこころだけが唯一の真実なのだから・・。

どちらの訳にも「すべてにまさって偉大」「すべてのものより偉大」と「すべて」がある。このすべてとは「サタン」にも「世にも」勝る偉大さなのだ。だから平安があるようにということ。それは私たちがどうこうと言うに遙かに勝る真実なのだ。

まして、御子の血潮にあがなわれた者には、誰も計れないほどの価値が付けられているのだろう。そのことを知っていようと知らなかろうと・・。
しかし知るなら、父に留まることだけで永遠に変わることのない真価が、その人に平安の実を結ばせることになるのだと思う。
御名があがめられますように。
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神のわざ (ヨハネ9章)

2015-05-28 01:27:04 | Weblog




またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1~3)


いつ読んでも弟子の質問には痛みを覚える。そうしてイエス様のおことばに逆転の爽快感を覚えるのだ。
すべては、ただイエス様のお目にとまったことの幸いなのだけれど・・。

イエス様は不思議なことをされた。地面につばきをして泥をつくり盲人の目に塗られた。私は以前、イエス様のなさりようを嬉しくは思えなかった。
しかし今は違う。お心一つで癒せる方が、もう一度地の塵と主の口から出たものを用いて手でこねられた。まるで陶器師のわざのように、盲人は手を掛けて造り替えられたのだ。

イエス様は、彼に共に働く役割を課して「シロアムの池で洗いなさい」と癒しに時間をかけられ、「アーメン」とお言葉に従った時目が開かれた。
それによって彼の霊、魂、体の癒しがなされたことが、この後のパリサイ人とのやりとりで良くわかる。彼はイエス様のみこころの通りに成長し、パリサイ人相手に堂々とイエス様を証しする者とされた。

「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」(9:15)

「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)

「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」(9:27)

「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(9:30~33)


そうして彼は、満座のユダヤ人の前で信仰を告白してイエス様を礼拝した。彼の身に神のわざは実を結んだのだ。

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(9:39)

姦淫の女には「わたしもあなたを罪に定めない」といわれたが、神のわざから堅く目を閉ざして御子を否むパリサイ人には、「あなたたちの罪は残る」と言われた。こうして彼らは罪に定められる方を選び取ったのだ。
神のわざは、救いと滅びを光の中にさらけ出す。


「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9:35~38
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「わたしはある」アーメン

2015-05-26 22:19:16 | Weblog




そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。(ヨハネ8:28)

 たとい、みことばがまだよく理解できなくても、私たちが「アーメン」できるのは、キリストの十字架が、人の歴史にはっきりと刻まれてある今だからなのだ。
今という時に生かされている者であることに感動して、この恵みの時、救いの日に生かされている者の責任として、どうか、どうかこのことを重大に受け取って欲しいと思った。

それは人類の歴史に置いても、あなた個人あなたの家族にも、永遠の祝福を受けるか否むかただ一度の選択の時であるのだから・・。
本当に大切なこの時に、キリストなる神の御子に「アーメン」と言わなければ、もう、それほど時間はないのだ。

わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。(ヨハネ9:4)
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芸術家

2015-05-22 00:07:26 | Weblog


カシャカシャとリズミカルに苗が植えられてゆく
どうするの?
と言いたくなるような変形の田に・・

何処でどう辻褄を合わせているのか、整然と苗は並んで・・
まったく一分の隙もなく完璧なでき上がり

私はぼ~っと眺めてた。
動けなくなるほど・・感心して
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言葉の真実 (ヨハネ8章1~11)

2015-05-20 14:35:51 | Weblog




そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。(ヨハネ8:3~6)新共同訳


 尊敬の気持ちなど微塵もないのに、イエスに「先生」と呼びかけ、姦淫の女というカモを引っ張ってきて、「さあ、どう裁くのか」と自慢げに迫るお偉いさん達。
イエス様はその心の卑しさに耐えられず、目を反らせてひとり地面にかがまれた。

しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。(ヨハネ8:7~9)新共同訳


 イエス様は一団の中で誰よりも、罪を犯した女よりも低く地面に身をかがめて取りなしてくださっていたのだ。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」訴えている者たちのためにも、訴えられている女のためにも・・。

そうして、すべての人に対して「あなたに罪はないのか」と教えてくださった。「あなたも悔い改めなさい」と・・
イエス様は女に「婦人よ」と呼びかけられた。この一言は女の人格を立て直す言葉のように聞こえる。
本当に・・、何気ないみことばにも人を生かす温かさがこもっている。
女は逃げない。自分の足元にかがみこんでおられる主を誰が怖がるだろう・・。彼女は安らいでいたのだ。


あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。(ヨハネ8:15)
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話し相手

2015-05-19 15:55:59 | Weblog




 今日はゴミの日、昨日少し押し入れの掃除をしたのでそれらを詰め込んだ袋と、生ゴミ用と2袋になって余裕があり、もう一度押し入れに頭を突っ込んでゴソゴソと捨てるべき物を物色した。

瀬戸物がやたら多く仕舞われている事に気付いた。コーヒーカップ、お湯のみ、お皿、ガラスの素麺鉢、これは去年使おうと探したけれど見つからずにあきらめたものだった。
必要な時に出てこないなら無い方がマシだと思いながら・・どうするか迷う。
しかしそれは今考えることでなく、今日は燃えるゴミだと切り替えて雨の中やっと2袋のゴミを出し終えた。

 朝食のパンを焼いてコーヒーを入れ、テーブルに着いてホッとしたとき、居間の薄暗いタンスの上から「かあちゃん、こっち見て」って声が聞こえたみたいに、目の端に真っ白な花が飛び込んできた。
宵に降り出した雨に打たれるのが惜しくて昨日切り取った芍薬をだった。あの時はまだ蕾だったのに・・もう、二輪とも華麗に開いていた。
「あっ!気付かなくてゴメンね、咲いていたんだね!」

そのとき花には優しくあるけれど・・と、昨夜の忸怩たる思いがよみがえった。
「今夜はよく眠れそうだ・・」と思いつつ寝室に入って、電気を付けると同時に足元を素早く動く物に固まった。

それは5㎝ほどの蜘蛛だった。大慌てで殺虫剤を持ってきてシューシューと吹き付けても、蜘蛛は走り回るばかり、いよいよまき散らして部屋を追い回し、床の間の角に逃げ込んで留めのように吹き付けた。
あまりの臭いに自分の方が死ぬのではないかと気付いて、エアコンのスイッチを入れて空気を入れ換えたほどに・・。

 私は怖かったのだ。そして悲しくなった。殺したくはなかったのにと・・。あの蜘蛛はゴキブリやムカデを獲ってくれていたかも知れないのだ。私の敵ではないと知って居たのに・・。助けてくれていたかも知れないのにあのような殺し方をしてしまった。
主人なら捕まえて外に逃がしていた。主人はあの蜘蛛は殺さなかった・・。

もうその部屋には入れずに居間のソファに横になって、まったく面白くないテレビをぼんやりと見ている間に・・、それでも眠れたようで今朝は元気に目覚めた。
だけれど・・と、時間を見て医院へ出掛けた。

アレルギーの薬と、たまに飲む緊急用の睡眠薬が切れていたので欲しかったのだけれど、窓口でそのことを伝えると「診察は良いのですか」と聞いてくださった。「何もないのですけれど、長いこと先生に会ってないから入っても良いですか」ということで先生に、あれこれとネガティブなことを並べ立ててお話しする。

あれはしんどい、これはどうも・・。蜘蛛が出て怖かったこと、蛇や虫が怖くて主人のイチゴは採りに行けないなどなど・・。
そんな私に、「元気そうやな」先生の診断。「最近は血圧もそんなに下がらないし調子が良いです」そこで血圧計を出して計るというこの場に相応しいこととなった。120幾ら・・確かに問題なしだった。

先生はほとんど「そやな・・」とか「それはな・・」と調子を合わせて話させてくださる。待合室に居られる人のことにやっと気付いて立ち上がる。
お薬を受け取るとき、「すみません。いっぱいしゃべっていて・・」と言うと、「いいですよ。溜めとかんと先生に聞いて貰ったいいよ。」と言ってくださった。

お支払いは薬代の百円玉が3枚ちょっと・・「本当にこれでいいのかな・・」まあ、先生が「元気やな」っていう患者では・・そういうことなのかも知れない。ここは未病医院なんだ。こんなふうに病気になる前の治療で守られている。

老人なら、誰でも探れば病名の一つや二つは付くものだ。それを検査漬けにし、脅して薬にがんじがらめ副作用に薬をまた重ねて・・、子や孫の医療費を食い尽くすなんてまっぴらなのだ。

だから本当にありがたいと思う。気の重いことは話せば流れて行くから・・。帰りにちらっと言われた「それでも歳は取るのだから・・」先生の言葉に、強気も弱気も心しなければねと少し反省。


 不如帰がよく通る声で鳴いている。それは緑滴る山々に響き渡るほど・・。
先日姉妹が、「あら、天然の鶯が鳴いているね。」と言われた言葉が可笑しかった。鶯は天然でしょう・・と。

でも、街の中に住んで居られる姉妹にはそれほど新鮮だったのだろう。私が「『チョットコイ。チョットコッチキテ。モ~チョットコッチ』って鳴いているでしょう。」って言うと大笑いしてた。「小鳥ともしゃべるの」って・・。

だってお父さん居ないから何とでもしゃべる。メダカは私と目が合うと「かあちゃん、ごはん」って水面をつついて請求するし、花とも草とも主人の代わりにしゃべるのだ。
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まず直接聞く (ヨハネ7章)

2015-05-18 19:23:39 | Weblog




「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである」(ヨハネ7:1)

 キリスト・イエスから時にこぼれる人の感情、思いを聖書に見ることがある。イエス様が完全な人として、魂の働きももっておられたと言うことだと思う。
イエス様と最も近いはずの兄弟たちもキリストと認めず、からかうように「出て行って、自分を世に現せば・・」と言っている。
イエス・キリストは孤独であった・・。

そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。(ヨハネ7:6)
イエス様の十字架の時はまだ先であったが、兄弟たちにイエス様を知る時は来ていたように、私たちにもイエス様を知るのは今がその時である。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(ヨハネ7:7)

世は世のものでないものを憎むから、人が神のものとなった時もそれは起こる。それはイエス様に似てその行いによって世の罪を暴露するからである。
ユダヤ人を恐れて人々はひそひそとイエス様を語る。しかし、主は大声で御父との関係を証された。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(ヨハネ7:17)

聖書を、「行いという覚悟」を持って開くなら、誰でも神のみこころを知ることができる。
それが真実であるかどうかは、動機が神の栄光を求めて居るかどうかでわかる。そうして、その人には不正がないといわれる。

「安息日を守れ」というモーセの律法を守るために、御子を殺して「殺すな」という律法を破ろうとする愚かさ。
安息日に「生かす」神のわざが受け入れられず、神に遣わされた救い主を「殺す」のである。
それによって彼らが、律法を神の栄光を現すものとして守るのではなく、自分たちの栄光のためであったことがわかる。

イエス様は「わたしは父を知っている」と叫ばれる。イエス様のことばを「あの人が言ったことばはどういう意味だろう」と思い巡らし、主を知ろうとした人々には、

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)


人はすべて断片によって自分の頭で判断しようとする。
否定する人は聖書の「メシアはベツレヘムから出ると書いてある」という断片をもって否定し、律法を知らないことでわざによって信じようとする人がある。
いずれも完全ではない。聖霊によらなければ誰もイエスを主と呼ぶことは出来ないからである

まことに、今は「恵みの日」である。聖霊はみことばを解き明かし、みことばに信頼する時、みわざによって主を体験することができる。それを繋いで主は御真実と確信させてくださる。
だから、目を開けていなさいといわれる。それはみことばに対してみわざに対して・・。

 律法を知らない者はのろいの中にあり、律法を自分のために利用する者は永遠ののろいの中にある。
知らなかった者はイエス様に出会うことにより救われるが、自分の為に律法を守る者はイエス様を殺すからである。

「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」(ヨハネ7:51)
「まず、イエス様に聞きなさい。」私たちの伝道もこのように勧めるのだ。しかし、このとき人々は家に帰り、ニコデモのようにイエス様のもとに行かなかった。
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神のわざ

2015-05-17 15:14:47 | Weblog




イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。(ヨハネ6:5~6)


ピリポに解決できないことは初めからご存じのイエス様が、なぜ人を試されるのだろうと思ったことがあった。
私たちは困難な問題に直面させられることがある。その時、私たちには正しい答えを出すことはできない。それは私たちが主の御力を知らないからである。

だから現状を答えるしかない。賢い人から借りてきた答えではなく、恐れてたじろぐのでもなく、ピリポやアンデレのように自分の言葉で答える。
そのとき主は、ご自身を通して御父のわざを見せてくださる。パンの奇跡はピリポやアンデレには、他の弟子とは違った経験になっただろう。
主が問題を個人的に出してくださるとき、そのことを通して神の御力を私の経験とすることができるのだ。


 パンは欲しいだけ与えられる。十分食べたとき、弟子には「余ったパン切れを一つもむだに捨てないように集めなさい」と言われた。
みことばのパンを味わって「わかった」と、あるいは「今日のノルマは終わった」と聖書を閉じる。
しかし主は、弟子ならなをみことばを無駄に捨てないように、もっと忍耐強く、丁寧に集めなさいと私に諭されたように思えた。

神様が「これはわたしの愛する子」と言われた御子イエス様の御体は、まことのいのちのパン、それは無残に十字架で裂かれ私たちに分け与えられた。そのパンは永遠のいのちを保つまことの食べ物。
十字架で流された血は罪のきよめのためのまことの飲み物。その事実をもっと丁寧に、忍耐強く、自分のこととするためにみことばを拾い集めなさいと教えられた。


 群衆はイエス様のわざを、肉を養うパンと見て王にしようとした。人々が王を立てるのは自分たちの欲望を満たするためである。
それゆえサウルは祭司サムエルを待つ事ができなかったのだ。人に立てられたら人を恐れなければならないからである。

しかし主は、私たちの人生の目的をこう言われる。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:27~29)


 それで、人々はイエス様を信じることが出来るのか・・。
しかし、あれはヨセフの子ではないか・・というつぶやきが起こる。今も単に「歴史上の偉人」となる。
本当に誰が救われるのか・・、私たちはイエス・キリストを証明して、信仰を説得することはできない。ただ、聖書をそのまま話し、自分の身に起こったことを伝えるだけである。

「父が引き寄せられないかぎり、誰もわたしのところに来ることはできません」
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしは霊であり、いのちです」と主は言われる。
今、永遠のいのちに至る言葉を持っていることは、驚くべき神のわざ奇跡なのだ。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(ヨハネ6:54~56)新共同訳


イエス様がいつも私の内に居られる。私もいつもイエス様の内に居るのである。
試みの中で渇いているときも、みわざに満腹しているときも・・。
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主のうちに遊ぶ

2015-05-15 10:31:38 | Weblog




 姉妹との再会は突然思わぬスピードでお膳立された。
私は橋の向こうまで歩きながらタクシーを待った。主が準備してくださるのでなければ満足はできないから・・今日まで温和しく祈っていたのだ。
タクシーが止まって、ドアが開くのを待ちかねバグして再会を喜び合った。

 「電車は貸し切り状態でね。賛美しながら祈りながら来ることが出来て、とても楽しかったの。」と話してくださった。
お茶、聖書、賛美何の制限もなく霊を解放して・・でも、私まだちょっとぎこちなさを感じる・・、それはやはり経験を必要とするのだろう、いつもひとりだったから。

食事おしゃべり、互いの聖書を通してみことばの交換、共感して疑問を出し合って聖書を繰って・・おしゃべり。
ちょっとお茶、またまた、聖書を繰る。訳が違うね、あら本当だ。でも心配ないわ。聖霊が翻訳していてくださるから・・。そう、他の箇所を通しても、間違いのないように導いてくださるから。

新しい発見!このみことば無印だった!本当私も無印だった。
此処はまだわからない楽しみにしている。これから教えてくださるでしょう。そう、必要な時に必ず開かれるから・・。

善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(ヨハネ5:29)

いのちを受ける「善」ってなにをすること?
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)
イエス様に行く事。決して律法ではないわ・・それにしてもトラップだと思わない?

さばきを受ける「悪」ってなにをすること?
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(ヨハネ5:40)
これね。

それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。(ヨハネ5:20)

さらに大きなわざって十字架とよみがりでしょう?
う~ん、もう少し深いかも、
十字架で人の子イエスの体は壊され、信じる人々に分け与えられたでしょう。
うん?ああ、聖霊ね。

そして、信じる者を一つのキリストのからだとし、花嫁として私たちは召されている。
これはとても大きなわざ!これ以上の大きな事はないからこのことだと思う・・。

でも、「あなたがたが驚き怪しむためです」とあるけれど、クリスチャンであっても驚き怪しむことないね。
なぜびっくりしないのでしょう。なぜ感動がないのでしょう。信じきれないからかな・・もうひとつ分かって居ないからかな・・

 みことばを掘り返し、手探りし、思い巡らせて・・みことばのパンに満腹。近しく居てくださる主の甘さを分け合って解き放たれた霊の満足。魂も喜び踊っていた。お腹もいっぱい!
時はあっという間に過ぎてなごり惜しみつつ、雨上がりの橋の向こうに手を振り振りする人を乗せてタクシーは去っていった。
でも、みことばはずしりと置き土産された。


 夜になって、ああそうだ一度次男と話してみようとメールを書いた。彼は今世に翻弄される船の中で働いている。
以前尋ねたとき、「大丈夫だよ。自分の仕事に集中するだけだから・・」と話していたので、心には掛かっていたが余計なことを言わず、そっと祈っていたのだ。
はやり、彼の返事は「大丈夫だよ。毎日の自分の仕事に集中しているから。それより、お母さんのことが心配だったけれど、元気で良かったよ。」だった。
大人になったなぁ・・。

イエス様の導きで入った会社であり20年間育てられてきた実績は、会社目線はわからないけれど、私目線では十分に実感しているから今後何が起こっても、身に着けて来たものまで剥ぎ取られることはないと私は知って居る。

落ち目になると何から何まで愚かに見えるけれど、温かさも、育ててくださった方々の熱心も、心遣いも、間接的にも感じていたから・・、テレビのニュースには胸がつまって、主に「悲しいのです」って訴えていた。
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