石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

ひとつのこと (ヨハネ3章)

2015-04-25 13:12:54 | Weblog




 パリサイ人であるニコデモが「私たちはあなたの行うしるしによって、あなたが神の御子であることを知っています。」と言っている。
このことによって、パリサイ人がキリストを知っていたことがわかる。知った上で彼らは、その行いの悪さによって、イエス様を受け入れることができなかったのだ。

悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3:20~21)


人は、都合が悪いときは知って居ても知らないふり、気付いていても気付かぬふり、見えていても見ないふりができる。
大概のことは赦しの中にあるけれど、

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:36)

証しされる聖霊に逆らい続け、ひとり子を十字架にまで差し出してくださった神様の愛を信じないことは、神の怒りがその人にとどまるとある。それは造り主の執着とも思えること・・愛が届かないことへ神様の怒りである。

「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」(ヤコブ4:5)


 新しく生まれるには死ぬことが必要であり、その死とはみことばの前で死ぬことである。
すべての不都合なことや賢い言葉を葬って、みことばに留まっていることである。
死んだ者は動けないのだから、新しいいのちを注いでくださるまでまで待つことになるけれど・・、このいのちは上からくるものだから待つしかないのである。

だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:13~15)


ニコデモはこのみことばに留まって、思い巡らせていたのだ。そうして、十字架のイエス様が希望の光であることを悟った。
だから、弟子さえ逃げた状況であったのに命がけでイエス様を葬る働きをした。彼はこの時新しく生まれ永遠のいのちを得て、語られたみことばが彼に成就した。
バプテスマのヨハネもイエス様を証してその役割を完成した。
ただ、みことばに留まり続けるなら、聖霊が成すべき事を導いてくださる。それは多くのことではなくひとつだけかも知れないけれど・・。


イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ3:5)
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マリヤへの備え (ヨハネ2章)

2015-04-24 15:09:04 | Weblog



 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:3~4)

イエス様の初めての奇跡。このことが行われる前に母マリヤに対して「わたしと関係がない」と言われている。
私は以前から、もし我が子が無実の十字架刑によって殺されたなら、とても正気ではいられず、きっと狂ってしまうだろうと思っていた。
マリヤはどのようにしてその危機を乗り越えたのだろう・・と心の底に疑問をもっていた。

今日、その疑問が解けた。イエス様はその日のために、マリヤに心の準備をしておいてくださったのだ。
親子関係と神の御子としてのご自身の違いを、マリヤがちゃんと切り分けることができるために、十字架に向かう公生涯の始めに「これから起こる事柄はあなたとは関係がないのだよ」と、心に十字架の日の備えがされたのだ。

イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。(マルコ3:33~34)


この箇所でも、マリヤとの親子関係を断ち切っておられる。
とても冷たいと思えた言葉は、十字架に向かわれる歩みに置いてマリヤが壊れないための避け所だった。

その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。(ヨハネ2:12)

この一節に、とても麗しいひとときであったろうとほっとする。それは肉と霊の家族が水入らずで過ごす交わりの時。マリヤは生涯この時を思い出しては慰めとしていたと思う・・。

「主の愛された弟子」と自称していたヨハネは、主のご愛に敏感だったのだ。だからイエス様は十字架の上でマリヤを託された。彼がイエス様の心を誰よりも知って居たからだろう。イエス様はずっとマリヤを心配してくださっていたのだ。

「イエスはすべての人を知っておられた」とある。人の弱さをご存じの主は、私たちが壊れないように守っていてくださる。
私の悲しみの時もそのように守っていてくださった。これからも召される日まで守っていてくださることを知って居る。いや、永久までも・・。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)
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神の子ども (ヨハネ1章)

2015-04-23 23:43:59 | Weblog



この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12~13)


 みことばを文字通りに頂いたからこの人々の中に私も入っている。確かに血筋に拠ってではない。もっとも、イエス様の十字架の血に拠るのだけれど・・。
自分の熱心という肉の欲求や意欲でもない。私には頑張って神に近付こうなんて熱心も意欲もない。そんなの初めから無理。

しかし、今、現実に私は神の子どもとされている。それは、ただ、神に拠ることだという・・。だから、こんな私でも神の子どもであり続けることが出来るのだ。
主はご自身の真実さゆえに、約束を破ることがお出来にならないから・・。そのことにより頼むのは小狡いと思う。でもでも・・どこまでも私は望みのすべてを主に根拠を置くしかない。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)

ナタナエルは言った「ナザレからなんの良いものが出るだろう」
自分の中を見ると「私のどこにそのような良いものがあろう。神の子ども・・笑うよ」と思う。確かに私の中には良いものは何も無い。ただ、主が良きものを持って居られるということのみ。

「来て、そして、見なさい」ピリポはナタナエルをこのように誘って、イエスに連れて来た。
主に来て、そのみことばのご真実を生活の中で経験した。賭けるようにより頼んで来たみことばの真実を、主は幾度も見せてくださり不思議な平安も賜った。
そうして・・いつしかあり得ないようなことも文字通りに信じていた。

再臨も、永遠のいのちも、癒しも満たしも・・すべて聖書に書かれていることが、自分にも起こると信じて疑わない。
みことばに何も足さず何も引かず。賢く脚色することもなく、肉の欲求によって演出することもなく。神の子どもであることに安らいでいる。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

 イエス様はナタナエルがいちじくの木の下に居たことを話し彼を知って居ると言われた。それは彼が「ナザレからなんの良いものがでるだろう」と言ったことも知って居るということであった。
しかし、主はそのことを責めたり、恥をかかせたりはなさらない。「偽りがない」と言ってくださった。そう、イエス様は唯一偽りはお嫌いなのだ。

イエス様は私のしたこと、話したこと、思っていることのすべてを知って居られる。知って覆っていてくださるから平安があるのだ。
「先生。あなたは神の子です」ナタナエルが思わず告白したのは、その愛に触れたからなのだ。
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あなたは何処にいるのか

2015-04-21 13:25:49 | Weblog



イエス様さまにお会いするのは何処ですか。
もし、教会という建物の中ならサタンは喜ぶでしょう。
日曜日だけ嫌な気分を持ち込んで、家に閉じ込めればそれで勝利ですから・・。
あるいはあれこれ雑用を準備して置けば、その手間だけでキリストとの間にくさびを打ち込むことができるのですから・・。

みことばには、私たちはいつも主とともにいると書いてあります。イエス様は出掛けて行ってお会いする方ではありません。
私たちは主が勝利を取ってくださった平安の内に、いつも安息している者です。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主とともに生きるためです。(Ⅰテサロニケ5:10)

キリストがあなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように(エペソ3:17)

誰でもイエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)

私たちは、この備えられた喜びと力によって教会に出て行き、キリストのからだとしての働きをさせていただくのです。
教会の喜びは、兄弟姉妹のうちにおられるキリストです。

それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(Ⅰペテロ4:10)
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ピンクのピンクのチューリップ

2015-04-19 20:26:37 | Weblog


雨が降るって・・土砂降りになるかも知れないと言っていたよ
それでも、お隣のチューリップ 思い切りピンク!
あっけらかんと空を向いたまま並んでいる

ねえ、雨がすごく降ってきたら
そんなに開いたままで大丈夫?
でもでも・・すっくと気前よくピンク つややかに誇らしく並んでいる

そうだよね。
だから、あなたを見た人は誰でも幼稚園を思い出すのだよ
恋に破れた少女も、リストラされた企業戦士も、年寄りも
黄色い帽子や、スモックを着ていた日の
あの楽しさを思い出すのだよ
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合鴨

2015-04-17 21:09:49 | Weblog



 出掛ける前に気になっていたストーブの掃除を終えて、思い切り薄着になって外に出た。それは、寒いくらいの方が低血圧には楽だから・・。
この間から雨続きで歩くことができなかった。昨日は久しぶりの晴れで忙しくてその間はなかった。今日やっと夕方になって時間ができた。

もう栗の花がついていた。道すがら菖蒲の紫色のつぼみが庭に並んでいた。チューリップは花盛り・・黄金色の山吹も満開だった。
田んぼでは蛙が大合唱・・しかし立ち止まって蛙の姿を探したけれど声はすれども姿は見えず、しかもぴたりと鳴き止んで・・「早く行け!」と追い払われてしまった。

半分まで来てしんどいから此処までにしようか・・ってちょっと迷ったけれど、会いたい相手があったので「がんばろう!」って先に進むことができた。
ぐるりと回ってやっと緩やかな下りになる。往路はひたすら上り坂なので緩やかであってもそれなりにしんどいのだ。

やっと会いたかった合鴨さんの小屋が見えて来た。道の下の水路の側に小屋はあって、二羽の合鴨さんはたいがい水路でいつも仲良く遊んでいる。羽がとてもきれいなのは水浴びをしているからなのだろう・・。
するとバイクが止まって、菜の花を持ったおじさんが小屋に向かって歩いてこられた。私はとても嬉しかった。聞きたいことが山ほどあったから・・。

「お宅のペットなのですか」「いや・・去年の合鴨農法の合鴨ですね」
「あれは雛ですよね。大人になってもできるのですか」「できますよ。」
「稲を食べないのですか」おじさんは笑いながら「食べますよ。働かせようと思って餌を減らすと稲を食べますね。」
私は「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」を思い出した。そのようなおおらかさでないと、自然に任せるような農法はできないよねって・・一緒に笑いながら納得していた。

つがいで雛が生まれたら素敵だと思っていたので聞いてみた。「男の子ですか、女の子ですか。」「雌です。二羽で交代で毎日卵を産みますよ。」
「うわ~そうですか、鶏の卵と同じなのですか」「いや、ちょっと大きいけど味は淡泊ですな。」
「でも、卵を産んでくれると楽しみですね」合鴨さんがおじさんに駆け寄ってきた。
「良くなついていますね。」「いや、餌が欲しいときだけですよ」と言っていたけれど、餌に食い付くこともなくおじさんの側でまごまごしていた。これはやっぱり「父ちゃん」って喜んで居るんだと思う・・。
「ここに来るのが楽しみです。ありがとうございます。」お礼を言って、下り坂を浮き浮きと早足で帰った。とても嬉しかったのだ。合鴨のことをずっと聞きたいと思って、誰か教えてくれる人に出会わないかと思っていたから・・。直接飼い主に出会えるなんてなんとタイミングの良いことだろう・・と私はちょっと興奮していた。


 エバはエデンの園で、善悪の知識の木の実を食べると死ぬということはアダムから聞いただけなのだ。だから彼女の知識は曖昧だった。
園には神様が居られたのだから、エバはなぜ直接「善悪の知識の木」のことや「死ぬ」ということについて質問しなかったのだろうと思っていた。大切なことを人づてに聞いただけでは不安であろうに・・。

大切なことという自覚がなかったのだろうか、そのことに興味もなかったのだろうか・・。神様の唯一の戒めなのに・・。
そう考えていてふっと気付いた。今私たちには神様が内にいてくださる、エデンの園よりも近く居てくださって居る。

「誰でも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられて、その人も神の内にいます。」(Ⅰヨハネ4:15)

なのに、私たちはなんと質問することの少ない者だろう・・、なぜもっと知りたい知りたいと願わないのだろう・・。

みことばに対して曖昧であるなら、蛇は「本当に神は、良い行いをいらないと言われたのですか」そんなふうに誘導するだろう。
そうして私たちは「良い行いは勧められているのです」と答えて、救いの根拠を曖昧にされてしまうのだ。

主に関心を持って絶えず聴き、みことばを内に蓄えて、思い出させてくださる聖霊の管理の内に、その時みことばで答えることができなければ危険なのだ。
それは単純に主を知りたいという愛から始まることなのだけれど・・。

神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。(Ⅱテモテ1:9

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親戚

2015-04-13 12:53:18 | Weblog



 おばあさんの訃報が入ったのは、デボーションが終わって聖書を閉じた直後だった。
それからの三日間は、セレモニーホールを行き来しながら親族と過ごした。そこでは誰とも血縁関係にないことに、私は出掛ける前いくらかのしんどさを思ったけれど、ドアを開けるなりその心配は消え去った。そこでの関係において、主人は生きていたから・・。

一緒に病院に行き来して、先のことを相談してきたお嫁さんは「ありがとう」を繰り返してくれ、「ひとりでもし、何かあったら私に電話してね。」ということで携帯の番号を交換した。しかし、携帯は放り出したままで電池切れになったり、滅多に持っていないと話したことでみんなで笑ってしまった。

先日我が家の近くにおばあさんが転院することを了承したばかりだった。「そこならバイクで行くこともできるし、保証人もするよ。」って簡単に引き受けたのだった。

今までの経験から、主はできないことをさせなさらないことを知って居る。どんなときでも必要を準備して助けてくださったから、いつも頼まれたことは断らなかったのだ。しかし、今回は引き受けただけで重荷は取り去られた。


 それでも、親戚間での私のクリスチャンとしての出発は問題だらけだった。葬式では焼香はせず子供にもさせなかった。あの時はとても白けさせてしまった。もう少し前もってうまくやる方があったのだけれど、ひとつのことしか考えられなかったのだ・・。
私は親戚や地域の人に告白したかったのだ。「私たち家族は、これからはイエス・キリストだけに頼ります。これから主がされるいことを見ていてください。」と・・、とても不器用にだったけれど・・。

今、その親族の中に居て誰とでもよくしゃべり、いっしょに笑い、いっしょに泪ぐんでいた。
「おばあさんは今頃、『○○、どうしてお前此処におるね』ってびっくりしているよ。」って誰かが言ったのでみな爆笑した。

そう、主人が亡くなったことはおばあさんには知らせてなかったから・・、私も屈託無く笑えたのは、以前おばあさんの手術の夜に付き添ったとき、苦しさの中で「祈って」と頼まれて、癒しに加えて救いをも祈ったことがあり、おばあさんがパラダイスで主人と会うことの可能性があったからだった。

皆、おばあさんの表情まで思い浮かべることができて、その可笑しさに吹き出したのだった。おばあさんのお葬式は涙も笑いもどこかほのぼのとして温かかった。

初日だけはタクシーで行ったけれど、後はずっと主人の姪っ子の婿がアッシー君を勤めてくれた。彼の男っぽい育メンぶりがほほえましく、姪の幸せそうな様子がとても嬉しかった。
雨の中濡れながら、ドアを開けて下ろしてくれた親切は三日間変わらず、『こんな事くらいしかできないから」って言葉は優しかった。
「ああ、イエス様がずっと関係を取りなしてくださっている・・」と・・、彼らの祝福と、どうか主を知る日がまいりますように心から祈った。

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半年

2015-04-07 11:38:25 | Weblog



主人と、天と地に別れてはや半年が過ぎた。
つい車の音に「ああ帰って来た」と思ってしまう・・。得意げに「ほらさ」って差し出す獲物は、木瓜の枝だったり、一万円札だったり、小さな竹の子などなど。
いつも私が大きな口を開けて待っているから、何かしら獲物を咥えて帰ってくれた。

 まだ、明けやらぬうちに目覚めてそれっきり眠れなくなることがある。
治療のことなど悔やまれて・・、嫌な検査を止めれば良かった。あのときもっとゆっくり主人の気持ちを聞く時間を持てば良かった。後から後から止めどなく思いが吹き出してきて・・逃げるように布団から出る。

私は知って居る。医師や私がどんな間違いを犯そうと、主に知られずに地に落ちる命はないのだってこと。それが普段は私支え、めげることなく生きることが出来るのだけれど・・。
それでも死の棘は、主人の命の終わりまで付き合ってきた私に深く刺さっている。そうして、それを抜きたくない心がある。
何十年も一緒に生きてきたのだから痛みは当然なのだ。当たり前なのだと・・、一心同体の半身もがれて平気なはずがないではないかと・・。


 日曜日は雨催いだったので教会には電車で行った。下りた駅の桜が満開だった。
主人の癌が発見されたのは一昨年の春。何となく体調が悪そうな主人の異常を伝えるために、点滴に通っている医院へ一緒に行って伝えたことから、悪性リンパ腫と肝臓癌が発見された。

医大通いの車窓に日に日に桜は賑やかに開花して行き、その華やぎにどれほど慰められたことだろう・・。
私はあのとき必死だった。空しい言葉ではなく、どうすれば主人を励ますことができるのかと・・、しかし、それは杞憂だった。
すべての慰めと力をイエス様が備えていてくださったから、私は主人と並んで車窓に移り変わる季節を味わっていただけ。

 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。(ルカ20:36)
イエス様はこのように言われているから、私は主人の今の様子を知って居る。

それでも私はまだ世に生きていて、未だ主人の人生の続きにいるような者だから・・、
巨人が勝ったこと、勝龍が勝ったこと、梅が咲いても、クマガイソウが沢山芽を出しても一々、「今年はウグイスがよく鳴いているね。」とか、「誕生日にあげた八重桜が咲いたよ」とか報告したくなるのだ。

祭壇なんて無くても、機嫌良く微笑んで居るお気に入りの写真に、「ほら、私の方が上手やろ」と庭木の剪定を威張って見せたりするのだ。
ホタルイカが思いのほか旨かったりすると、食べさせたかったなぁ・・って胸がちくりと痛むのだ。ひとり用に小さなカップに治まった肉を買ったときも、こんなに早くに終わる命なら、嫌いな魚ではなくもっと肉を食べさせてあげれば良かったのにと、私にはほろ苦い後味ばかりが残るのだ。


 ひとりで冬を越したよ。今年は雪かきをしてくれる人もないと心配したけれど雪は降らなかった。灯油を買いに行く事も出来ないと心配したけれど、ちゃんと配達して玄関に並べてくれたよ。それでものっぽの電気ヒーターを買ったのは、とても心細かったからなのだ。殆ど使わなかったけれど・・。

白菜も大根もご近所さんが次々にくださって十分すぎるほどだったよ。
ひとりの部屋も今年はそれほど寒くもなく、穏やかに主は守ってくださったから・・実はそんなに困ることはなかったよ。

 今も時々テレビなどに腹を立てることがあるけれど、そんな時いつも「怒るな。」というあなたの言葉を自分でつぶやいてしまうよ。
ひとり残されることを心細がったとき、「大丈夫。あいつらが放っておく訳がない。」って・・、そう、息子達はあなたが言ったとおりだった。

そうして一番近くで、ハラハラと気遣って居てくださるお方が主であることを感じている。私たちは天にいても地にいても同じ主と居るのだから、今もとても近い存在であることに変わりないのだ。
雨が止んだら、芽を出したばかりの春菊の様子を見てみよう・・。主人が掃除をしておいたプランターに、先週蒔いた種が小さな双葉を出しているから・・。
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交わりの主 (ヨナ書)

2015-04-04 15:41:42 | Weblog



 毎日ヨナ書を読んでいる。同じ箇所に留まって動けないで居る。
「私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(ヨナ4:2)
 
 神様に命じられてもニネベの救いを願わないヨナは、逆らって逃げている間も、大嵐の船の中でぐっすり眠ることができた。彼は主を知っていたからである。
そう、主が良い方であって味方であることを知る者には、どんな時にも変わらぬ平安があるのだ。

ヨナは自分を海に投げ入れることで嵐が静まる水夫に伝え、海に投げ込まれると嵐は静まった。
神様は、ヨナを嵐の海から大魚の腹に移された。
天地を創造され、すべての生きるものを造られた御方にとっては、大きな魚を備えてヨナを飲み込ませ、その腹の中で生かすことに私は何の不思議も感じない。

おとぎ話のようであっても、みことばを幼子のように、文字通りに信じることに人の聖さはある。
ひとつのみことばを受け入れないことは、神様を自分の理解の中に作り直すことになる。それは汚れたことである。

ヨナはたとえ罰せられるときも、主は敵ではなく憐れみ深いお方であると知って居た。悪の栄えるニネベでさえも救おうとされるのだから・・。
神様をどのようなお方と思うかで、神様と私たちの関係は決まる。信じていることが成るのだ。
神の愛を信じないから憐れみを制限してしまう・・、信じないから持っているものまで取り上げられてしまうのだ。そこには神様のがっかりがあるのだ。


 ヨナの叫びに対して、ニネベは王から家畜に至るまで断食をして悔い改めた。神様の備えがすでにあったのだろう。福音を伝えるときも、先立つ備えがなければ人は動かないものだ。
でも、ヨナにはそれは不愉快であった。そのことをヨナは主に隠さない。自分の不愉快も不機嫌も隠すことのないヨナである。

霊的とか、魂的とか主の前に別けようとすることがあるけれど、そんなことは関係ないのかな・・って、ヨナ書を読んでいて思った。どんな肉的なことであっても、そもそも隠せるお方ではないのだから・・。
神様はそんなヨナの機嫌を取ろうとするほどに深く関わってくださった。

「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:11)

家畜の命を惜しまれるという記事は新鮮だった。これまで私はこう言う記事を見たことはなかったから・・。
ニネベの布告に、家畜にまで断食が行き渡っていたことにも関連があるのだろう。主は報いて顧みてくださるお方なのだ。

ニネベの12万人の救いという、大きなご計画はひとりの人ヨナを通して完成される。
しかし、主にはもうひとつのご計画があったように思えた。それこそヨナとの交わりなのではないか・・。

ヨナはニネベで名声を得たとか、救いの勇士とかそのような記事はない。ニネベの人々はひたすら神様に向かった。 彼らはヨナの叫びを聞いて直接神に悔い改めた。

神様はヨナにとうごまを備え、ご自身のニネベに対する憐れみの思いを語って、主の御旨まで導かれた。
主は計画が成れば良いと考えられるお方ではなく、12万人を救うときにもひとりの人と細やか関わり、育ててくださるお方であることがヨナ書には書かれている。

ヨナにしてもヨブにしても賜る最上のものは、神様との御交わり、主を知ることの祝福なのだ。
ヨナが神様に選ばれた理由は彼が主を知って居たからである。彼が主を信頼していたからである。だから彼はいつも本音で語って行動にも嘘がなかった。それはとても大切なことであると教えられた。
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