石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

陽射しの中で  (ホセア書から)

2015-03-28 14:32:35 | Weblog




 ウグイスは囀っているし・・脳天気という以外ない真っ青な空に二つ三つ白い雲がぽかりと浮かんでいる・・、春風は柔らかに汗ばんだ体を通り抜けて・・、
そう、今日は申し分のない春うらら・・、体調完全回復1時間コースどうって事もない。
なのに心底の悲しみは、これだけ心地よく備えられた中にも紛れることはなかった。

エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。
イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。
どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。
どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。


ホセア書を昨日は途中で止められなくて一気に読んでしまった。こんなに悲しい書だったのかと・・、だから今日もう一度確認したくて読み返した。
姦淫の女を娶れと命じられたホセア、それは主ご自身ではないのか・・。愛しても愛しても裏切るイスラエルに対して、回復の望みが1章から14章まで切々と繰り返し語られている。
それは人にとっては望みの書なのだけれど・・、この箇所は全能の主が片思いの苦しみを味わっておられるようだった。

あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行ないや、多くの勇士に拠り頼んだからだ。

悪とは何か・・、どれほど愛されても本心を語らず、弁護士を通して面会するように自分の行いや勇士(人を頼りに主を知る)に頼って、父なる神に向かおうとすることではないか。
御子イエスという完全な弁護士を準備してくださっているのに、ひとり真っ直ぐに父なる神により頼むことをせず、空しいことを繰り返すことではないか。

わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。

今、文字通りに内に居てくださる聖なる方、聖霊の導きに信頼しつつ自分の目でみことばを読み、自分の霊で聴き、自分の経験の中で主のご愛を味わうことができますように・・。
でも・・結局どこまでも主の一方的な忍耐と赦しに拠らなければ、私には何も分かってはいないのかも知れないが・・、
それでも今内に主は居てくださる。私も此処にいよう。
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壺の油

2015-03-25 15:47:30 | Weblog




 旅行から帰ったのが15日・・それから歩いていなかった。とても久しぶりに何時ものコースをウオーキング。ラッパ水仙がいっぱい咲いていて、桜の梢には時をまっているように膨らんだ芽が沢山付いていた。
でも今日は冷たい風が吹き付けて良くお出会いするご主人が「今日は歩いていても汗かかないんでよろしいわ・・」って言っておられた。

一時間のコースを歩くつもりで家をでたけれど、ちょうど途中にある分かれ道まで来た時、小雨が降って来て半分で引き返してしまった。洗濯物が気になったのも事実だけれど体力もちょっと気になったから・・。

 旅行はとても楽しかったけれど、歳を取るとどんなに楽しくても疲れるのだ。疲れると何かとやっかいなことが起こるけれど、だからってそれを恐れていてもつまらない人生になるだけ・・。しばらく温和しくしていれば治るように造られて居るからそれでいい。

夜に38.3度あった熱も夜が明けると共に下がって、そのとき「やった!私はまだまだ若い。」とはりきって汗をかいてシーツなどを洗って布団を干して・・なんてやったからその夜また熱が出た。愚かだ・・とさすがその翌日はなるだけ温和しくして、お風呂にも入らずに早めに布団に潜り込んだ。

まあ、そうこうするうちに完全に元に戻ったのだけれど、人は老いるとあちらこちらと弱くなり、耐久性も持久力も落ちて来るから、自分の年齢とうまく折り合いをつけて使う知恵が必要になる。
けれど歳とともに忍耐強くなるというわけではなく、むしろ我慢がなくなっていらだってしまって失敗することが多いものだ。


 主には必要な癒しをたまわる。けれど不老長寿をくださることはない。そんなものを貰ったら逆に大迷惑だ。いつになってもゴールできないマラソンなんてぞっとする。
主はそっと癒しも満たしも下さるものだから・・とても自然で、その時は恵みに気付かない事の方が多い。

エリヤによって告げられたように、やもめの壺の油は尽きず瓶の粉も尽きないかったけれど、やもめには「今日もあった。」「アララ・・今日もある」そんな日々だっただろうと思う。
主の恵みは門口に俵を積み上げるような満たしではなく、神のわざは日毎に満たされるものだから、うっかりすると感謝のチャンスを逃してしまうほど自然なのだ・・。
主よ。今日のお恵みを感謝します。

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神に愛されている人

2015-03-24 15:08:45 | Weblog




「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」(ダニエル10:19)

神様がダニエルの恐れをのぞいて力を与え、話すこと、聴くことの備えてくださったのはなぜだろうと思った。彼は「我が主よ、お話し下さい。」と言うだけで無力であり、何の働きもできないのに・・。

しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(ダニエル10:21)

神様の現れによっていっしょに居た者は震え上がって逃げた。人は神様に向かって立つことはできなかった。罪人は神の権威に耐えられずダニエルも気を失っている。
しかし主は、恐れずに聞け・・と言われる。

「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」(ダニエル10:12)

語る前から聞かれているとある。主はこのように備えて招いてくださるのだ。
今、新約の時代はなおさら、ダニエルの時代とはまったく違うのである。
キリスト者はイエス様の十字架によって罪の無い者とされ常に御父、御子、聖霊の三位一体の神様との親しい交わりにある者なのだから・・。

御救いの式服を着せられた時から、私たちは「アバ父」と神を呼ぶ者であり、その中身には拠らずイエス・キリストの備えによって、完全であり神の子という身分の者なのである。
このことこそ、キリスト者にとって何よりもわきまえているべき事柄である。

しかし、私たちに何が出来るのか・・すべては主がなさるのではないか。何の力が私たちにあろうか・・。それでも私たちはその席に招かれ、主の会議に出席することこそ御旨なのだ。主は私たちを救ってみこころを知らせ、語り合おうと計画されたのだから・・。主は何事も私たちに知らせたいのである。


 イエス様が葬られた墓にマリヤたちが行ったとき、大地震と、輝く御使いと、死人のようになった番兵を見た。どれほど仰天したことだろう。どれほど恐ろしかったことだろう。しかし、彼女たちは「恐ろしくはあったが大喜びで・・」とある。

彼女たちの恐れは、御使いによって語られたイエス様のよみがりの知らせによって喜びに変わった。主を愛する思いが恐れに勝ったから・・。
そんな彼女たちにイエス様は現れて「おはよう」と声をかけてくださった。彼女たちは御足を抱いて拝んだとある。

人が主にひれ伏すのはどんな姿勢よりも美しいと思う。人が人にひれ伏す土下座と形は似ていても中身はまるで違うのである。
神の前にひれ伏す心は喜びと、感謝と、親しみからであり、安心して御前に身を投げ出しているのだから・・、それこそ造られた者の自然な形だと思う。
主の御愛に触れて思わずひれ伏す・・それは私にもとてもしあわせな瞬間。


 「恐れるな」とは何度も聖書に出てくる言葉である。みこころを恐れ、知ることを恐れ、交わりを恐れる。その心のどこかには「あなたは恐ろしい方・・」そんなイメージがあるのではないか・・、主に愛されることをあまりにも知らないのではないかと思ってしまう。
「神に愛されている人」は、恐れず神を愛する人である。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(Ⅰヨハネ4:18)

ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。(Ⅰコリント)

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遊ばせて貰ったよ~

2015-03-23 16:42:01 | Weblog



 3月14日に北陸新幹線のグランクラスに乗せて貰った。切符が取れたという知らせを次男から受けて、1ヶ月間私は熱心に歩いて持久力を付けた。行きたかった金沢と東京だったから・・。

金沢では、源泉掛け流し温泉と蟹と甘エビの食べ放題!温泉は最高だった。荒れていた手が一変に奇麗になった。早朝のコーヒーも旨かったよ~
東京ではスカイツリーと、私の希望で浅草を回るはとバスと墨田川船下り。
ホテルは眼下に国会議事堂と首相官邸という最も東京らしいロケーションに驚いた。孫たちとみんなでレストランの食事・・夢のような時間だった。


 此処で、最大の目玉であるグランクラスの感想を飛ばしたのにはわけがある。金沢駅に着くと大混乱といえる人人人・・立錐の余地もない混みようだった。
奇麗な加賀友禅をお召しの娘さん方が並んで、丁度東京から着いた一番列車のお出迎えらしいけれど・・押せ押せでどうなっているのか良くわからない。

三味線の音や、バンザイの声や、「危ないですから立ち止まらないで下さい」絶え間なく叫ぶスピーカーの声・・ああ・・。
茶屋町での茶屋を予約していたけれど、延々並んで切符を買っていては、肝心の新幹線が時間的に危ういとキャンセルをすることになった。

もみくちゃになりながらお土産の発送をすませて、遅々と進まない行列に並んでなんとか乗車券を買って(特急券は持っていたのだが・・)ホームに上がってやっと一息。私はこれでクタクタになってしまったのだ。

だから・・グランクラスのシートにこっぽりと心地よく包まれて、アテンダントさんに出されたお弁当や熱いお茶を頂いてほっこりとしたらウトウトと眠ってしまった・・。
途中、立山連峰の説明に目覚めて真っ白な山並みを見はした・・。また、日本海の広い海岸線も一瞬「わー」と感動して見はしたけれど・・それだけで後はウトウトで東京だった。色々とサービスがあるというのに・・なんとまあ、もったいないうたた寝。
息子に「それが一番良いのだ」と言ってもらって、「そうかも・・」と思うことにしたけれど。


 だから、東京では元気回復してホテル入り、迎えに来てくれた孫達とフロントで会って、一緒に部屋に案内してもらった時、ちょっとしたハプニングがあって「お詫びにどうぞ」とホテル特性のチョコレートをⅢ箱もゲット。孫達を喜ばせた。
レストランでの夕食会で、そのチョコをそっと口に運んだあかりは、みんなに「持ち込みだ~駄目だよ~」ってからかわれていた。

夜のスカイツリーはホワイトデーということで白く輝いていた。展望塔では足元が滑って行くような揺れを感じて、嫁さんにつかまって「揺れる」って一人で騒いだけれど、本当にゆる~く揺れたよ・・。まあ、私は三半規管が弱いからだろうけれど・・。

夜景は多彩な光の洪水だった。嫁さんは「此処は下町だからまだイルミネーションは少ない方よ」と言っていたが・・。
次男は写真に夢中だった。孫たちも上まで上がるのは初めてとのことで、一緒に上がれて嬉しかった。


ホテルまで送って貰って窓の外の夜景に疲れを癒した。バスタブに身を浸したけれど私はこの形は落ち着かない。初めての分厚いバスローブを試しに着てみたけれど、落ち着かないので結局早々に脱いだ。アハハ・・

私が「金沢に行きたい」「東京に行ってみたい」と何気なく言った言葉が、こんな形で実現したことに感動している。
金沢では晴れていると思う間もなく真っ暗になり、雷雨になり夜も激しい雷と風雨にびっくりしたけれど、タクシーの運転手さんの言葉によると良くあることだという。

茶屋には行けなかったけれど、もっとも金沢らしい自然を経験したということ・・。また、駅の混乱も金沢の歴史的な瞬間に立ち会ったわけであった。忘れられない思い出が出来た。
息子たちにありがとう。
良くして下さった主に心から感謝するばかり・・。
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生きている者の神 (マタイ22章から)

2015-03-10 19:44:20 | Weblog



 エルサレムでのイエス様にパリサイ人が最も腹を立てたことは、少々乱暴な宮聖めではなく、子供達が「ホサナ、ホサナ」とイエス様をほめたたえるのをそのままにされたことであった。
彼らは、その言葉は自分たちが受けるべきものであると思っていたから・・。

すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。(マタイ21:38~39)


 ぶどう園を横取りした農夫のたとえ(マタイ21:33~39)では、イエス様は、主人の財産とある神の権威を、農夫であるパリサイ人が自分のものにしようとしていると話された。

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)
だから、このように忠告された。
彼ら自身がそのことを明確に意識していたかどうかはわからないけれど、やっていることは正にそうであった。


王子の結婚披露宴では、招待されていたお客であるパリサイ人たちは披露宴そのものに無関心であった。
そこに用意されていたのは、ほふられた雄牛によるあがないであったけれど、彼らは言い伝えを完全に守っているという自負によって、罪の意識が無いことをイエス様は指摘されたのだけれど・・、

彼らは、物の売り買いのような、畑仕事のような俗なものではなく、清い宗教者だと思っていただろうけれど、その中身は彼らの軽蔑していた庶民の生活そのものであった。なぜなら、神抜きの宗教的なものとは商売そのものだから・・。

「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。」(マタイ22:8)
救いのための宴会に「相応しくない人」とは、悪い人でもなく通りすがりの人でもない。神が愛によって準備してくださった罪のあがないを必要としない人である。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)
神様のほうで罪を赦すためのあがないを準備してくださるから、悪人も善人も救われるのだけれど、選ばれるためには「自分の罪を知って、十字架の救いを必要と認める」ことは絶対の条件である。


 サドカイ人の仕掛けた荒唐無稽な例え話に対して、イエス様はとても重要なことを教えてくださっていた。

「すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マタイ22:28~30)


イエス様のことばは注意深く聴かないと、人は現実の経験に、まだ見ていないことをも押し込めて思い違いをしてしまうのだ。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。(イザヤ43:18)
まだ見ていないことを過去の経験に重ねてしまったり、過ぎたことを思い煩う・・。それでは今日語られるみことばを悟ることはできない。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)


「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ22:32)

 主は将来を準備して、ゴールに向けて共に生きてくださる方である。聖書は硬直したマニュアルではなく、今も生きて働くいのちのことば。
だから一生読み続けて倦むことなく、日々の必要を新鮮に満たすことができるのであり、耳の後ろからそっとささやく聖霊の導く声を、今日も待ち望むことができるのだ。

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先の者があとになる

2015-03-07 13:35:26 | Weblog



ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイ19:30)

 すべてを捨ててイエス様に付いてきたお弟子に、御国の祝福が約束された。でも、その直後のお言葉が気になった。
誰よりの先に、イエス様を知った彼らに対して話されたのだから、このことは「あなた方は後になる・・」と言われたことになる。
確かに、イエス様の十字架の隣に居た強盗の方が先であった。なぜ?と主に尋ねつつ読み進めいたら、20章のぶどう園のたとえに答えを見つけた。

 1日1デナリの約束で雇われた労務者。朝から働いても、昼から働いても、夕方少し働いただけでも賃金は同じ1デナリ。この1デナリはイエス様の十字架の救いを現していると思うから、これ以上に何も付け加えるものはなく十分なのだけれど・・。
此処で大切に思ったこと、最も感謝するのは誰かということであり、恵みに気付いた者から順番に救われるのだということ・・。

子供のように恵みを受けて入る御国。
御国に入ることが赦されるのはただ神の恵みに拠るのだから、金持ちなど人の力は邪魔でしかない。長い間働いた報酬と勘違いしてしまう立場は、恵みに気付くには不利なのである。

だから人の力が完全に消耗し、「人にはできないことが神にはできる」ことにのみより頼む者とされる時間が必要であり、一方的な恵みと知って感謝に溢れて入る所が御国なのだろう・・。

「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)
ぶどう園のたとえの終わりにも繰り返し忠告されている。

 イエス様はこれからご自身に起こることを話された。十字架への道を進まれるご自身のことを・・。
しかし、弟子たちが考えた事は御国での地位のことだった。彼らは御国が当然与えられるべき報酬だと勘違いをしたように思う・・。。

そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。(マタイ19:28~29)


しかし、この約束も報酬ではなく何処までも恵みによることなのだ。
20章の最期の盲人の癒しは、ただ彼らがイエス様に「憐れんでください。ダビデの子よ」と救いを求めただけである。

盲人は目が開かれてイエス様について行く事が赦された。恵み以外には考えられない彼らにはとても分かり易いのである。
イエス様について行く・・連れて行って頂くことが救いの完成である。弟子に求められているのは、終始主の恵みと憐れみによって付いて行くことが赦されていることへの感謝である。
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「来なさい」(2)

2015-03-03 16:47:23 | Weblog




 ヨハネの死を聞かれたイエス様は「ひとりで寂しい所に」行かれた。
パンの奇跡の後も、ひとりで山に登られ夕方までおられた。
イエスの孤独が染みるような箇所である。御父との交わりだけがイエス様の力だった・・。

御父から注がれる力によって、イエス様を真に知る者の無い世で働かれていた。イエス様は完全な人であったのだから、寂しさも孤独も・・心の痛みもやりきれなさもご存じだった。

 群衆のために「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われて、準備できたのはひとり分ほどのパンと魚だった・・、けれどそれで十分だったのだ。
それはイエス様の祝福によって無限に増えた。必要な人のすべてを完全に満たしてなを余るほどに・・。私たちはどんな時も、主に在って「足りない」と恐れることはないのだ。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)
このみことばを知っていても、問題に出会った時にうろたえる不信仰。弟子達も再び同じ問題にであった時、同じようにうろたえているけれどそれが人なのだろう・・。


 湖の上を歩くイエス様に恐怖する弟子たち。常識ではかれない時人は恐怖する。でもイエス様は初めから終わりまで、人の常識ではかれる部分なんか無かった。人の造った神なら人の常識の通りだろうけど・・。
人を造られた方のことは、多くのことを教わっても少しずつしかわからない。
しかし、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」みことばは何時も信仰に引き戻してくださる。

イエス様の「来なさい」という御声に信頼して水の上を歩いたペテロだったけれど、波風を見て恐れに捕らわれ沈みそうになった。
「主よ。助けてください。」と主に呼ぶことは、不信仰な自分をそのまま主に持って行くこと。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と聞くけれど、主の御手はもうペテロをつかんでくださっている。叱責よりも早く救っていてくださるのが主の御真実。だから、主に叱られることは甘いのだ。

不信仰を暴露される度に差し出してくださる御手。キリストの温かさを経験させつつ成長させてくださる主。
「来なさい」と今日も呼んでくださっている。
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「知って居る」

2015-03-02 20:13:00 | Weblog




 イエス様の故郷の人々はみことばを聞き、御わざを見て「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。」
と言っている。でも、その力の源を知ろうとはしなかった。悟ることはなかった。

彼らは、イエス様がこれまで出会って来られたどの人々よりも、人となられたイエス様を知って居た。それは事実である。
でも、「キリスト」に対する渇きはなく、癒しも彼らには必要のない、何でも良く知って居る健全な人々だったのだろう・・。
医者である主を必要とするのは、罪という病に苦しむ病人だから・・。


川を知って居ると言っても、足首までの小川を渡っただけの知り方もあり、激しい大川を横断した知り方もある。
深みにどんどん入って行くとふわっと体が持ち上げられることを経験したり、みことばにより水は体を支えて、上を歩かせることもあるという・・。そこまでの知り方を求めることもできる。

思いを巡らせていた時、「あなたは何処まで知りたいのか・・」そんな声が聞いたように思ってちょっと・・たじろいだ。即答できない自分の信仰レベルを知った。

頭の中だけで丸暗記しているみことばと、生身に経験したことでは、それはまったく違うことだ。みことばは時に、脈打つようないのちのドキドキや、包み込むような温もりがあるのだ。そんなふうに経験しないとつまらない。もったいない。

 聖書はとても不思議な本である。
繰り返して同じ箇所を読んでも何度でも新しい発見があり、別の箇所から新しい理解に繋がったり、いつも新鮮で飽きることはない。

それは初めの理解が間違っているわけではなくて、理解の角度や、深さによって変わるのだと思う。なぜならそこに不安や恐れを感じないから・・。むしろパズルのピースが揃ってゆくようなワクワク感があるのだ。

 今日の私にみこころを教えてくださる。それは昨日と同じ事ではない。だから日々新鮮で期待感に溢れて座るのだ。
みこころとは形にはまったものではない。日々変化して、ゆっくりと成長する私たちに応じて、細やかに語り導いてくださるもの・・。そうした交わりの甘さを味わうことだから・・。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

みことばの森を散策することを恐れることはない。「探しなさい。求めなさい。」と言われている。主が隠された宝を見つけ出すことこそ、主のなによりの喜びだと思うから・・。
「子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」(マタイ7:10)
「卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。」(ルカ11:12)


「もう、知って居る」と思ったらそれでおしまいだけれど、「今日、私は新しく主を知った!」そんな日々を送りたい。御許に召してくださるまで・・。
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