石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

みことばの倉

2015-02-25 14:05:21 | Weblog


 

「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:35~37)


 心にみことばが満ちていれば、時が良くても悪くても、空気を読む間もなく語り出さずには居れないもの。それによってサタンの巧妙な罠を退けることが出来るのであり、世からも守られるのである。
しかし、みことば以外のもっともらしい言葉は、やがて御前にてすべて言い開きを求められることになる。

ソロモンの知恵を聞くためにシェバの女王は遠くからやって来た・・。しかし、側におられるイエス様のみことばに耳を貸そうともせず、神のわざを目に見せられてなを「ベルゼブルのわざ」と否定してしまう人の頑固さ・・。


 悪霊が出てきた家に戻ると、きちんと片づいていたので自分よりも悪いほかの霊を連れてきて住み着き、初めよりもさらに悪い状態になる・・。そのような邪悪な今の時代である。

彼らには律法があったが律法を成就される主を否定したことで、律法による救いをも追い出してしまったのだ。
みことばの倉もなく、律法の成就もなくなった家の守りは空っぽであり悪霊の天下となる。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

 殉教の人々は、聖霊の臨在の中でこのみことばに生きたのだろう。それはなんと甘美なことであろう・・、わずかな時の差で人は必ず死ぬのだ。キリスト者の完成されるのはその後の永遠でである。

「ベルゼブル」と時に呼ばれる方が私たちの家長であれば、その主の家族はみことばを語ることによって同じように責められる時があるだろう。
キリスト者にとって世とは、一つのみことばによって昨日までの良き日が一変するものだ。それは剣であるから・・。

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12:50)

「自分の十字架」とはイエス様の家族であること。そのキリスト者には世の知らないたましいのやすらぎが約束されている。
ひとときの世の安らぎを取るか、主に在る永遠の安らぎを取るかは自分で選ぶものであって、主のみこころを行うとはその選びだと思う。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)

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罪の重荷から解かれて

2015-02-19 11:59:48 | Weblog




「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」(Ⅰヨハネ5:18)


 信仰とは何処にいるのかということである。「あなたはどこにいるのか」と主が探さなければならない所に隠れてはいけない。
キリスト者の事実は、肉の目に見えることではなくみことばにある。みことばを信じる信仰によって、十字架の赦しによる御父と御子と聖霊の交わりの中に居ることなのだ。

「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(Ⅰヨハネ4:15)
私たちのうちに居ます神は、御父、御子、聖霊の三位一体の神であり、天地創造、全能の神である。

なんということであろう・・それは信じがたいのは当然であるけれど・・、このことに関しての不信仰はサタンの餌食、神の悲しみである。
「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)
それはひとえに信仰なのである。

 エデンの園に植えられた「善悪の知識の木」は、この日のためであった。
放蕩息子が家に居た頃と帰ってからでは、父と子の交わりの質はまったく違うだろう・・。
今、人は神の愛を御子の十字架によって確認して御許に帰ったのである。
だからこそ、その交わりの中に置かれている私たちは、すべての思い煩いから解放されて、このみことばに生きることができるのだ。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)


今生きるのは、御父、御子、聖霊なる主に心を向け、常に思いを寄せて、愛する方を知ろうと知力を尽くし、時間をかけて解き明かされてゆくみことばを楽しむためである。やがてリアルに御会いする日まで・・。
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してもらいたいことが分からない

2015-02-18 16:01:22 | Weblog


「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)

 「自分にして貰いたいことを他人にする」これは愛の現れだ・・律法って愛なのか!と驚いた。
愛の神が与えたものだから愛であって当然だけれど・・。

ただ、愛を行う力がなくて・・、また、それを他に向けて命じるとき、また自身に向けて責める道具となると、それは縛りとなり責め立てて罪に定め、滅びに向かわせるものとなったのだ・・。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

愛を命じられても、人には真に自分がしてもらいたいこと、また自分の真の必要なものが何かわからないのだ。だから人にすることも分からない。また、分かったとしても、力が無くて出来ないことに気付いた時イエス様が来てくださった。

イエス様が成就してくださったことに安息するなら、律法的といわれている生き方とはまるで違う平安のうちに、用いてくださる主のいのちによって出来てしまうのだろう・・。
そのとき始めて私たちは、的外れではない「してもらいたいこと」に出会うのだと思った。
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ゴール目指して

2015-02-10 14:43:21 | Weblog



 キリスト者は誰であれ、すでに美しく飾られたキリストの花嫁として完成されている。十字架の御子の血によって、赦され、洗われて、日々覆われている。
なんと晴れがましいことだろう・・。

罪の代価を支払って買い取られた花嫁は、その贖いに何も加えず、何も差し引かないで、ただ「アーメン」と大いなる恵みを味わっていいのだ。
すべては造り主なる神さまのご真実によること・・。

あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。(イザヤ54:5)


 人の幸いは、父母の元に産まれ出て、イエス様の十字架の赦しを受けて主と共に生き、死んで造り主の御元の永遠に帰ること。
いまわの際に私たちはイエス様のお言葉を聞く・・。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

なんと幸いな事よ!
祝福のゴールを知ることこそ、信仰を持って人生を駆け抜ける力なのだと思う・・。
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教会学校の恵み

2015-02-09 17:35:20 | Weblog

 
 
 昨日は思いもしない出会いがあってとても嬉しい日だった。
礼拝の後で、来会者の紹介があり「Tさん」というお名前を聞いた時すぐに気付いた。教会学校に来られていた方ではないか・・って。
彼のフルネームを覚えて居たので、礼拝後にお聞きするとやはりそうだった。奇麗な奥さんと3人のお子さん連れでクリスチャンホームだと言う。教会学校に来られていたのは、小学校に上がる前・・そう小さかったけれどちゃんと面影があるのは不思議だ。

何ともいえない感動、教会学校に関わることの醍醐味としてこれ以上のものはない。その頃の私の拙い信仰を思い出したけれど、私たちがどうだからなんてなんの関係もないこと。
「わたしがあなたがたを選び・・」「アーメン」救いは主が選ばれたことなのだ。主がすべてを備えてこの場にて出会わせてくださった・・それは恵み、大きな慰め。ただ、御名をあがめるばかり・・。


 でも、朝は大変だったのだ。
いつもは嫌と言うほど早くに目覚めて、寒いからまだ待てとむりやり床の中で我慢しているくらいなので、朝は二つ弁当を作る必要があると分かって居たけれど、7時頃に起き出せば十分間に合うと何の心配もなく眠った。

しかし、事もあろうにその朝は、電話の音に目覚めたのだ。あたふたと出るとお近くの姉妹が「今日は雨なので車で迎えに行きますわ。」と言ってくださった。
とても感謝してふっと時計を見ると、8時40分!9時30分に迎え来てくださるという約束をしていた。
慌てふためきストーブを点けるのも、上着を着るのも忘れてお弁当の準備。

いくら下準備は出来ていたとはいえ、ガスに油を掛けてエビフライ、筑前煮にもう一度火を通し、サラダ用のブロッコリーを切って・・死にもの狂いの大慌てだった。
起きてきた息子が入れてくれたコーヒーでちょっと息をつき、「昼のカレーはこの鍋にあるから」と言いながら、弁当箱にチンしたご飯を詰め、冷ます間もないフライを入れて、筑前煮を押し込み、ブロッコリーのマヨネーズをラップに包み糸で縛って放り込んだ。

制限時間いっぱいで「後は宜しく」と息子に任せた。「洗い物はして置くから気にするな。居なくても行くから、急いで帰って来なくてもいいよ」という言葉を聞いて、顔を洗って着替えつつ、冷凍のおむすびをチンしてちょっと囓って滑り込みセーフだった。


 激しくなってきた雨の中を迎えに来てくださった姉妹に、心から感謝して乗せて頂いた時には本当にほっとして、いつも私の失敗を覆っていてくださる主に感謝した。
昨夜は左足首が痛んで、ちょと恐いというモーラステープを貼っていたくらいだから、駅まで歩かなくて済んだこともとてもとても感謝だった。

その上「T」君の出会いもあって、しみじみイエス様は優しいなぁ・・愛されているなぁ・・って、嬉しい日だった。
だから集会後のお掃除当番も上機嫌で出来た。帰りに無農薬のオレンジを頂くというおまけまであって・・。


夜は、教会学校で出会った一人ひとりの子供たちのことを思い出した。小さくても、イエス様に従って行く悩みを真剣に話してくれたAちゃん。今は良いお母さんになっているかなぁ・・イエス様を覚えて居てくれるかな・・。
教会のご近所のBちゃん、いつもお家の前を通る度に「どうしているかな・・」って思ってしまう・・。
主は御真実だから祈りを聞き流すことなど出来ないお方。そう、祈られることの幸いは此処にあるのだ!
みこころが成りますように。

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挑戦

2015-02-06 15:38:32 | Weblog




 仲代達矢さんが、このような意味のことを話して居られた。
「60代になって、自分を暴露してやろうと思った。駄目なら駄目でよいという少し居直った気分・・。
80代になって駄目で元々、楽しければ良いと挑む気持ちがある。」
私は「やはりこういう人が居られるんだ!」って、探していた人に巡り会えたような感動を覚えた。

人には年代に応じて負うべき責任があるけれど、年老いた素晴らしさはそれらから解放されて、真に追い求めつべきものに挑戦できることである。しかし、老いてなを守りの中では何とつまらない人生だろうと思う・・。
挑戦したいものを持っていることは幸いだ。成功や失敗なんて他人の評価ではなく、その満足は生きているという実感そのものだから・・。

 たとえ最期は呆けて死んでも、人生を輪切りにしたら「真っ赤な完熟」が現れるようだといいな。熟れ損ねたスイカのように白い種に、守りの皮ばかりが厚いような人生だと悲しい。
でも、ただ平凡なだけに見えた人が「完熟」だったりして驚くのかもしれない。人の目にはどのように映るかわからないから・・。


 妻は夫が生きている間は夫に縛られます。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ、主に在ってのみそうなのです。(Ⅰコリント7:39)

このみことばを発見したときはかなり驚いた。「願う人」がある女(ひと)は幸いだ。
キリストの花嫁とされているクリスチャンの女性には、とてもリアルなみことばに感じる。
みことば通りに夫に仕えて来た女性なら、その感慨はなおさらだろうなぁ・・。

「結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。」(Ⅰコリント7:34)
こうしたことからの解放もあるのだろう・・。
不思議なことだけれど、ひとりなって「いかに生きるか・・」なんてことをよく考えるようになった。暇になったと言うことなのかな・・。
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人が人を殺す

2015-02-04 15:43:19 | Weblog



「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
このみ言葉が、神が人を造られたときにはなかった老化ということを、指しているだけではないことに気付いた。

他人、または自分を殺すようになったことも含まれているのだと・・。
そもそもは、アダムが神に逆らって禁じられた実を食べたことによって、人類に死をもたらせたのだから、彼は人類を殺したことになるのだけれど・・。

人がどんどん賢くなって行ったとき、その賢さによって殺す知識も増し加わってゆき、人の歴史は殺し合いの歴史のようになって行った。
また、善を支配するようになったとき、殺すための理由も無数に生まれた。自己中心の理屈によって、戦争をする国は何処であっても「さあ、これから悪事を働こう」とは決して言わず、「正義のため」という。

エデンの園を追われてカインが生まれアベルが生まれて初めての殺人が行われた。こうして人が人を殺し合う死が旧約聖書にはあふれている。
現在でははるかに知能的に、遙かに巧妙に・・時は殺されたことに気づかずに殺されてしまうこともある。


 先日、ホロコーストで音楽隊員として生き延びた女性の人生をテレビで見た。以前にも同じものを見たことがあるけれど、何度見てもその衝撃は変わらず、釘付けになってしまう・・人とは何か・・って。

無数に殺されて行く人々の中で、その殺人を肯定するかのように、命じられるままに演奏し続けた日々。
解放されて何年も経って、やっとふれてみようとした音楽会で、かって演奏していた蝶々夫人のアリアを聞いたとき、失神してしまったと言う傷の深さ。老いた母が弾いてくれと頼んでも手に出来なかったというバイオリン。

彼女はそのようにして生きたことを悔いて悔いて、生きることを選んでしまった弱さを悔いて悔いて、人を傷つけて生きたことを悔いて悔いて・・。赦されることを拒むように涙もなく、過去を重い口調で告白していた。

 「私の罪はイエス様の十字架によって赦された」と語ることがとても軽薄に恥ずかしく思えた。私と彼女とは何が違うのだろう・・むしろ彼女の方が崇高ではないか・・。
それでも・・と今は思う。私にはそこに居る他に居場所はないのだ。


彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。(使徒11:23)

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