石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

ほとんどのんびり・・時々激痛

2014-12-25 11:32:41 | Weblog




あなたの夫はあなたを造った者
その名は万軍の主

 ハレルヤ 今朝のみことばに感動!
やもめでもないし、寡婦でもない。私には万軍の主である夫があるのだ。何と心強いことよ。
これでますます強くなる・・、最強である。

最強の婆は昨日74歳になった。
JAの方がなんとお赤飯をとどけてくださった。ニコニコと満面の笑みで「お誕生日おめでとうございます。」って・・。

私はお赤飯だったことに感動したのだ。だって炊いて届けたことはあるけれど、自分のために届けられたという経験は初めてだったから・・。思ってもいないことで素直に嬉しかったのだ。

 夜には油菜さんが電話で「ハッピバースディ・・」を歌ってくださった!またまた、サプライズに感動。
電話が掛かってくる前に、「主人の写真に向かってピースサインを送っていた。」ことを話すと、「やりそうだ・・」ってアハハ・・なぜか受ける前に嬉しかったのだ。時々前後が入れ替わる。

眠る前に息子から電話「残業で遅くなったけれど、おめでとう。体を大切にして」って・・。JAの人には、「あなただけだよ・・」って言った。ゴメン・・覚えてくれていたんだ。もっとも私のは覚えやすいけれど・・。

 体と言えば、胸骨の痛みは続いている。それもヒビとかではなく神経痛かもしれない。反対側も痛んだから・・、昨夜は、癖でうっかりごろんと転がった拍子に激痛。寝返りも打てずよく眠れかった。医院で貰ってきた痛み止めを飲んで寝たのだけれど・・、失敗だった。

まあ、たとえ病もうと痛もうと主の愛に居り、主の慈しみは少しも変わることはない。その確信がちっとも動かないという図々しさに支えられて、気持ちはアハハ・・と最強。
今朝は気をつけて上手く起き上がったので、静かにしていれば少しも痛くない。
温和しくしておれ・・ということなのだろう。でも、この通り口は達者である。
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ゴール

2014-12-22 13:02:14 | Weblog



 主人を亡くして「悪いことでした」とか、「お気の毒に」とか「ご不幸」という言葉を聞く度に、「いや、違う!」という叫びを飲み込んできた。
懸命に生きて辿り着いたゴールなのに、どうしてそれが不幸であり、気の毒であり、可哀想であってよいだろうか。

誰もが辿り着く終着点が本当にそれで良いと思っているのか・・そんな苛立ちを覚える。
いかに良い生き方をしても、どれほど成功を収めても、最期が必ずそういう言葉で終わるのが人生なんて・・それで満足なのだろうか。なぜそのことに疑問を持たないのだろう・・。

 私は主人を「良くやったね。おめでとう」と心の内ではほめている。葬式の間もその思いがずっと内にあった。常識によって世に倣えをしていたので、口に出せずにずっと欲求不満なのだ。
私の死亡時に、誰かが「おめでとう」と祝福してくれたらとても嬉しいと思っている。まあ、遺言ではないので無理しなくて良いけれど・・事実は変わらないのだから。

人は世に来るとき、産み出そうとする母と、生まれようとする子が苦しみを通ってゴールするように生まれてくる。それには誰でも「おめでとう。よくやった」と祝福して喜びほめる。

天国に産み出す母の苦しみは、すでにイエス様が十字架で負ってくださったので、自分の分だけ負うことになる。
死という産道を通って天国に生まれて行くのである。それも、もう二度と死ぬことのないいのちに生まれて行くのである。それは実に「おめでたい」こと。


 しかし、悲しい例外はある。いや、例外のほうがはるかに多い。それは神様の悲しみである。
決してみこころではないことだけれど、イエス様という十字架の産道を通っていない死は、聖書に出てくる「金持ち」(ルカ16:19~31)の死のようである。

彼は、死んで後の苦しみを兄弟に味合わせたくないと、世に残した親族の分まで苦しみ、天国にいるラザロを世に送って忠告してくれと頼むのである。勿論それはできない。死後もなを世を引きずることこそ地獄の様だと思う。

天国にある者は、神さまに世での涙をすっかりぬぐわれて、世とは完全に終わっているのである。それは完璧な「さよなら」状態である。
その証拠にラザロには世もゲヘナの金持ちも見えてはいない。

 私が主人と再び出会ったときは、互いを良く知っては居ても、世の関係を引きずってはいない。それは世の続きではなくまったく新しい出会い、それは真っ新な出会いである。世にあった人の罪が欠片も混ざらない関係なのだ。

世ではどんなに仲の良い夫婦も家族も、何らかの罪の影を引きずっているものだが、天にそんなものが混ざるはずはないのだ。
だからこそ、その出会いが楽しみなのである。それはかって見たことも聞いたこともない素晴らしい交わりだろうから・・。

まして、まことのいのちの主であるイエス・キリストに間近にお会い出来るのだ。私を知り尽くし、緋のように赤い罪を雪のように白くし、神の子どもとしてくださったお方にである。本当にそれはワクワクすることである。


 どうか不幸な死が当然などと思わないで欲しい。悲しいゴールが当然であるなどとあきらめないで欲しい。そんな最期しかないのなら、なぜ世で頑張るのか・・それはまったく意味のないことではないか。
神のかたちに造られたほどの人が、そんな刹那的なものであろうはずがないのだから。

イエス様が十字架で成し遂げてくださった罪のあがない、その結果与えられている永遠のいのち、それを自分のものとして受けることが出来るのは、世に生きている間しかないのだ。
どれほど家族が祈ろうと哀願しようとそれだけは、自分自身で生きている間に選択しなければならないことなのだ。主に在って忠告するなら、そのチャンスはあなたにとってこの瞬間しかないのかもしれない。


私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:1~2)

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「ちょっとしたミスさ」

2014-12-17 13:36:07 | Weblog




 昨夜、椅子に正座したまま斜め後ろの物を取ろうとしてバランスを崩し、とても変な格好に倒れかけて肋骨に痛みが走った。「しまった!」と思ったけれど後の祭り・・。
まあ、それほど大したこともないだろうと・・、というのも体を動かさなければ大丈夫だったから・・。そっと寝た。

それにしても、直前の息子からの電話で「お母さんも気をつけて・・」と言われたとき、何言っているんだか・・いつでも気をつけているよって聞き流したっけ。その後だったからちょっと反省。
確かに今までも、失敗の前には必ず警告を色々な形で受けていたのに、聞き流して失敗に至っている。それでも、憐れみの中で守られて今日まで来たのだ。

 20年ほど前にバイクで事故をしたときと同じ痛みだった。肋骨のひびのような・・、でも、あれくらいのことでそんな事があるのだろうか。
私は自分の体は若いと思っている。病気で寝込むこともなく、持病もないから滅多に薬を飲むこともない。ただ、ちょっと神経を使うときにお腹を下すことがあるくらい・・。それだって一服の薬で放っておいたら治る。

だから、これも時間が経ったら治るだろうと思っていたが今朝は痛い。とくにうつむくこと、体をちょっとでもねじることが痛い。じっとしていればなんでもないのだけれど・・。
それも不便なので、20年前に病院で貰ったコルセットを痛みをがまんして探し出した。以前の経験から、コルセットでずいぶん楽になることを知って居る。

ただ、どれくらいで治ったのか・・それを覚えて居ない。あと数日でクリスマスだぞ・・どうしよう。
まあ、いいか。イエス様におまかせしよう。私の結論はいつも同じ。
ご飯も食べられるし、トイレにも行けるから不自由はない。ただ、お風呂大好きだけれど、今日は止めたほうが良いのかな・・それは辛い。
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尊ばれないイエス

2014-12-16 15:10:06 | Weblog



彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:1~3)

イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)


 以前から、イエス様を現す表現にどうしてこれほど違いがあるのか・・と心に引っかかっていた。
眠れなかった昨夜、布団の中で寝返りを打ち続けていたとき、ふっとこのことに気付いた。

ルカのイエス様は子供であったのだ。まだ、みことばを語っておられなかったのだ。みことばを語らないイエス様は誰にでも愛された。

 でも、十字架を前にして語るイエス様の真実なことばに肉に激しく反抗し、生まれつきのものは主に逆らって止まなかったのだろう・・。
その時人の目に神の光輪は見えず、ゆがんだ目には欠点だけがクローズアップされて見えたのだ。

キリストのことばを受け入れるには、生まれつきのままでは受け入れることができず、砕かれないと受け入れることはできない。
しかし、砕かれることを喜ぶ人はいない。主の忍耐によって追い詰められ、行き詰まって砕かれた時に始めて「アーメン」と言えるのである。そうして、イエス様を能動的に愛するようになるのである。


 真実にみことばを語ることは生やさしいことではなく、それはイエス様と同じ道を歩むことになる。幼い頃のイエス様のように誰にでも愛される者でいたいものだけれど、大人であれば働くべきであり、働くために主はみことばのパンを与えてくださるのである。
パウロは言う。「働きたくない者は食べるな」(Ⅱテサロニケ3:10)

語らないなら、みことばは解き明かされることはなくなる。それが恐ろしいから語りたくないことも語るし、真実に語るためには覚悟を決めることにもなる。
主のみことばを解き明かされるときは口に甘く、蜜のようだからやみつきになるのだけれど、それが腹には苦いことは、後に思い知らされることになる。


私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。(Ⅱコリント6:1)
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揺らぐ

2014-12-15 18:40:36 | Weblog



 寒くても最近は毎日歩く。血圧の低い私には、夏よりは冬の方が歩くのには適している。
土曜日で戻っている次男も、出掛けたまま帰ってこないので、私も寒風の中に飛び出した。

いつも畑を見上げてしまう・・。今まで気付かなかった小屋の軒先に、白い小さな袋が揺れていた。きっと種が入っているのだと思った。括り付けている主人の様子が浮かぶ・・。来年の種蒔く日を思い描いて括り付けていたのだと・・。
真っ直ぐ前向いて歩を早めた。冷たいものが落ちてきた。意地のように風に向かってサッササッサと歩く、初雪だ。今はいっそ冷たい方がいい・・。

 三叉路まで来たとき、カメラを下げて帰ってくる次男に出会った。「もう一度良い?」「良いよ」と踵を返して付き合ってくれた。
風の中を舞うように歩いた。一緒に歩いているだけで、黙っていても頑張りが溶けて行く・・。
「風が強いね。もう、帰ろうか・・」甘えた心が弱音を吐く。
「うん、無理をしなくても良いよ。」その言葉に素直にUターン。


今日のみことば
朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死をを着る時、「死は勝利にのまれた」としるされているみことばが実現します。(Ⅰコリント15:54)
「アーメン」みことばを心に書き記す。
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燃え尽きることのないクリスマス

2014-12-10 19:09:18 | Weblog




 真のクリスマスは、25日で燃え尽きたり終わったりしない。イルミネーションや蝋燭のように消えることはなく、大切なことはそれから始まるのである。キリストと共に生きることが・・。

すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。(出エジプト3:2)

モーセの見た火は燃え続け、燃えさしも灰も残らない。本物は尽きるものではなく、いよいよいのちを増し、尽きることはないものだ。
偽物は必ず尽きる、偽物は疲れて尽きる。それが続くことはない。

義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。(箴言4:18)

神より発したことは疲れない。いや、いよいよ力を増しいのちを増すのだ。もし、それが疲れたり飽きるなら、それは神より発したものではなく、何処かで間違っているのだと思う。
疲れることをもって、疲れることのない神を現すことは間違っている。だから・・今、みことばに聞こう。

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(詩編46:10)

多くの人を集めて、盛大にツリーを飾ることによって主が崇められるのではない。神の御子キリストには、暗闇でお出会いするのだ。羊飼いたちも東方の博士もそうだった。
人は絶望と暗闇の中で、「見えるようになることです。」という言葉を持って主を待つなら、キリストに導く星の光を見つける事が出来るのだ。


「カイザルのものはカイザルに返しなさい。神のものは神にかえしなさい。」
カイザルのものと神のものはまったく違うはずである。カイザルのものは世で朽ちるものであり、神のものは永遠のいのちに至るものだから。

神にかえす手段は人には見えない。もし、わかっても人にはそれを成す力はない。それは、キリストだけが知っておられ、その力はキリストの中にある。キリストに依り頼み、キリストに在って始めて成就されるのである。
だから、それはキリストに依り頼んで生きることなのだ。

それは、クリスマスであっても、正月であっても、結婚式でも葬式でも年がら年中同じである。ただ、主に依り頼んでみこころを生きるのだ。
主が灯してくださった聖霊の炎はいよいよ光を増し、キリスト者の傷から漏れ出でて、人はその救いの目的を成し遂げるのである。
すべての目的は、主の御名があがめられるためにある。

今世界の圧迫の暗闇でそっと祈る人々のクリスマスに、信仰の光がいよいよ輝きを増し、その聖霊の働きが輝き出で、真昼のようになりますようにと祈る。そのすべての光が主を照らし、見る者が膝をかがめて伏し拝みますように・・。
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私の幸せ

2014-12-07 15:27:41 | Weblog


主がわたしのポケットにレプタを入れてくださったから、私は捧げたのです。それが私のしたかったことだからです。
それだけのことです。
私はいつも自分のしたいことをしているので、それだけでいつも幸せです。

捧げたものがどのように用いられたかは私には関係のないことです。
ただ、もしそれが回り回って再び捧げ物として用いられたなら、なんという感謝なことでしょう。
義の実が2倍になったのですから・・。
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イエス様の質問

2014-12-05 13:33:48 | Weblog



 パリサイ人はイエス様に向かって「何の権威によって・・」と質問をしたとき、その答えは「ヨハネはどこから来たのですか」でした。
パリサイ人は議論を重ねて「知りません」と答えました。議論を重ねるまでもなくわかっていることでした。此処に罪の原点があります。
それはアベルを殺した後のカインの言葉と同じでした。
それは、「神の権威とは何かを知るに値しない」ということです。私たちは神さまの前に「知りません」ではなく本音で答える者でありたいでものです。

今週のメッセージから。


 不思議だけれど、先週私は同じ事を考えて居た。神様の前に「私は知らない」と、とぼける罪について・・、その偽りが何処から出てくるのかなどと考えさせられていた。
知らないことにしておくと、波風をたてることなくやり過ごすことができる。自分の信仰とも真っ正面から向き合うことなく、取りあえずの現状維持に逃れられるので、知って居ながら知らないそぶり・・。それは何時だって卑怯な方法である。

イエス様は、サマリヤの女の質問には惜しげもなく奥義を語ってくださった。それは、彼女の中に覚悟があったからである。恥をかなぐり捨ててイエス様を伝えに走ったのだから・・。

また、ペテロがヨハネについてした質問には、
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)
そうして、ペテロは死ぬまでイエス様に従った。

イエス様に問うには、神の権威に対する覚悟が要る。私が何者だから答えてくださるのではなく、私にある覚悟によって答えてくださる。
従う気のない者に答えても、それは不従順の罪が増し加わるだけなのだ。だから、質問で返される「あなたにその覚悟はあるのですか」と・・
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いのちの喜び

2014-12-04 10:58:23 | Weblog



 癒しも満たしも・・それは主の喜びのため。
私たちの喜びが造り主への賛美となり、御名を崇める時となり、互いに応答するなら・・その幸いは永遠に残る。

癒されて喜び、時が来て御側に召され安堵する。
涙して慰めを受け、笑わせてくださる主を喜ぶ。

幼子のように、それは幼子のように素直に、主とともに生きる日々。
主をほめるチャンスこそ命の喜び。造られたものの命の喜び・・
日々暮らしの中で、いつでも出会うことができる主の備え。

何度もなんども癒されて、何度もなんども主をほめたたえる。
何度もなんども満たされて、何度もなんども主に感謝する。
何度も何度も取りなされて、何度も何度も御前にひれ伏す。

「弱さの中に完全に働く」そう、それが主の備えられたもの。
そこにあって魂は主と応答する。命はこのために造られた。


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