石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

独り占め

2014-11-29 18:36:20 | Weblog




連日お客様や、お電話や、お便りを頂いている。
それは、喪中葉書によること・・、お一人お一人に「ごめんなさい。」と言いつつ、応対している。
「電話一本知らせてくれれば・・」と言われればまったくその通りなのだけれど、「あの時は、私は主人を独り占めしておきたかった・・ごめんね。」と言うほか無し・・。

無我夢中といえばそうなのだけれど、確かに独り占めしたくて、息子以外にほとんど誰にも知らせなかった。
昔馴染みの方には、「いかにもムベらしい・・」と言われた。「昔からそうだった・・」と・・、
ずっと昔・・若い頃にもそんな言葉を聞いたことがあったなあ・・。大切なことは誰にも相談しないで一人で背負ってしまう性質、それはわがままでもあるのだろうなぁ・・。

花の香りが辛いと言っていたら、沢山の百合やトルコキキョウの花束を頂いて、さあ、どうしようと思っていた。
しかし、その百合は開いてきてもあの強烈な香りは無かった。ほっとすると同時になんだか恥ずかしくなった。我が儘が・・。
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永遠の家

2014-11-25 15:10:41 | Weblog




 日曜日に主人の納骨式をしていただいた。メッセージで確認と確信を語られて嬉しかった。
次男も熱心にみことばを読み、メッセージを聴き、賛美も一緒にしてくれたことが嬉しかった。
みことばによって、主人の今ある所を確認し、救いの確信を頂くことは何よりの平安のもとであるから・・。感情は時にずっと遅れて付いてくることがあるけれど、余り気にすることはないのだと思う・・、みことばによってどんどん前進することが、信仰の成長には大切だと思うから・・。

 以前聖書をお伝えしていた方が、「この間から行ってもお留守で・・、でも、そんなに心配はしていなかったよ。元気だとはわかっていたから・・。洗濯物を見る度元気だって思っていたし、留守で買い物に行っているのも元気だからだと思っていたよ。
ご主人はもう一番ええ所、イエス様の所でいはることがわかっているからね。大丈夫やってわかっているから・・」

肩を抱くようにして話してくださる彼女に、以前話して来たことがちゃんと伝わっていることが感じられてそれが嬉しかった。心配はしていないけれど、洗濯物などでそっと見守られていたんだ・・って、ほっこりとした温もりが伝わって来た。

 顔を合わせる度に何気に声をかけてくださる方々、そっと戸口に置いてくださっているお野菜・・。さり気なく気に掛けてくださっていることが良くわかる。
そんな中であっという間に暮れる秋の夜にも、安心してひとりで暮らすことができるのだ。ご近所ってありがたいとつくづく思う昨今である。

私は此処で残りを生きて行きたい。しかし、気になるみことばがある。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネ21:18)

みこころならば、私は主に身を任せる他ないだろう・・。それは、主がご計画をもっておられることだから・・キリスト者は世では旅人なのだ。

今、主人は永遠の都に到着している。その事実が現在どのようであるのかは知らないけれど、すでに主の御手の中にあるのだから。
いや、今世に生きている私もすでに御霊によって主の中にあり同じ事なのだ。主のみこころに在って生きるのだから。

確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。・・・(Ⅱコリント5:4~6)


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主のストーリー (くびきを砕く)

2014-11-22 14:48:10 | Weblog




 真っ青な空、その先に広がる山は金糸、銀糸の綾衣、贅を尽くした縫い取りを纏っていた。桜の梢が青空にキラリと光り・・赤や黄色の葉っぱが輝いて舞う・・。
秋の大盤振る舞い・・すべて造られたもの主をほめたたえよ!

今年は紅葉が美しい・・我が家のモミジも真っ赤に染まるのは珍しいこと。今まで黄色く散るとばかり思っていた。南天も、千両も、万両も、真っ赤な実を沢山つけて、まるで笑いかけているようだから・・、もうひとりの私が檄を飛ばす。
「泣きごとを言うな。顔を上げろ!」って・・。


 ウサギのとこちゃんが死んだ時のことを、何の脈絡もなく思い出した。
あの時は、丁度申し込んでいた「ホームページ講座」が始まって、幾分心がそちらに紛れていったことなど・・。
今は紛らわしようもなく主の御前にいる。
紛らわされてたまるか・・って主人の思いが重なるようだったが・・しかし、それは違っていた。
主人にはもう何も必要ないのだ。私の心さえも・・。

 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(黙示録7:16~17)


飢えることもない主人は、食べるための苦痛もなくなった。それはなんという感謝なことだろう・・。病んで食べることは辛いことでしかない。飲み込めないのに渇く苦痛からも解き放たれている。
涙をすっかり拭われて、もう何を思い煩うこともなく、主に安息して、その愛の中に満ち足りているのだから・・、私が貧しい愛を補う必要はなく、完成されているのだ。

その日がくれば、あなたの肩から重荷は取り去られ、首に置かれたくびきは砕かれる。(イザヤ10:2)新共同訳

二人の肩から砕き去られたくびき・・。45年という月日が一瞬に砕けたような気がした。しかし、神がこのことをされたのだから・・私は従順している。
そうして、ホームページ講座の変わりに、御前にじっと傷を曝して待って居る。

主は心の打ち砕かれた者を癒し、彼の傷を包む。(詩編147:3)

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神の恵みを無にしないために

2014-11-16 14:21:35 | Weblog




 イエス様の十字架の贖いによって、守れもしない律法の呪縛から解かれた自由の子が、再び奴隷に引き落とされてはならない。パウロはそのために教会を熱心に見張っていたことがわかる。
自由の子は神の作品であり、救いの喜びを持って、あらかじめ備えられた良い行いを、与えられた自由の中で行うことができるのだ。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)

そのことは、神の作品であるからできることなのであって、人の努力にはよらないことがわかる。そう書いてあるのだから・・。


 奴隷は強いられないと何も出来ない。奴隷は幸せではなく、人の顔色を見ながら最低限度のことしかできない。彼らには自由がないからである。そのような中に喜びも感謝も生まれようがない。だから、絶対に奴隷とされてはならないのだ。

実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。(ガラテヤ2:4~5)


律法主義が忍び込まないように「一時も譲歩することなく見張っている。」と書かれている。今もそれほどに注意を要する事柄なのだと言うこと。福音の真理が保たれるための努力が常にはらわれなければならないのだ。ぼんやりしていてはすぐに奴隷に落とされる危険があるのだ。

誰かが信仰を間違えそうになった時、ペテロに抗議したパウロのように、真っ直ぐに伝える勇気も必要なのだろう。それはパン種のように、あっという間に教会を変質させて行ったことが書かれていて恐ろしいことだから・・。(ガラテヤ2:11~13)


 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ2:21)


みことばが切り取って使われることがある。「神の恵みを無にはしません」だけを切り取って律法に貼り付けると、真逆に使うことが出来るのだ。サタンはみことばを用いて真理をねじ曲げることさえするから。
だから、一歩も譲歩することなく見張っていることが必要なのだ。


しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ2:16)

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良い働き

2014-11-13 10:39:06 | Weblog




 人は、聖霊の助けによって良い働きをすることがある。しかし、イエス様は良いわざをもって世の王とはなられなかった。極悪人のように最も過酷な刑である十字架にかけられたのである。
このことは、今キリストのわざを成したとしても、それが必ずしも好評を得て終わるわけではないことを現している。世はどん欲に自分の満足を求め続けるから・・。

もし、世の評価を追い求め喝采に留まろうとするなら、どんどんキリストからは無縁のものとなって行くしかないだろう・・。イエス様が世の喝采の中にとどまることなどありえないように、私たちもそこに居続ける者ではない。
そもそも、その良いわざが主から出ている事を知っているなら、ひとり世で好評を得ることには、ずいぶんと居心地の悪い思いをするものだ。

 主に在って真実であろうとするなら、イエス様を「ホザナ、ホザナ」とエルサレムに迎えた民が、数日の内に「十字架にかけろ」と叫んだように、世に手のひらを返す非難をされたとしても驚くことはいのだ。イエス様がそうであったのだから・・。
もし、世の評価に留まるための方法を模索するなら、聖霊によって始まったことが変質してしまうことになるだろう。

主に拠って始まった良いことは、人の評価にはよらず「主に在る」ということにおいて価値がある。
人はいつまでもそこに留まる者ではなく、用が終わればさっさと主の置かれたホームポジションに戻るべきである。主に在る者が、いつまでも世の良い行いに忙殺されていてはならない。
キリスト者は世に良い行いをするために居るのではなく、主のご用を果たすために御前に居ることこそが重要なのだから。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)
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神のイメージ

2014-11-11 15:00:24 | Weblog




「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」(ルカ19:21)

 このような主人(神)のイメージを生み出すものは何だろう・・と思った。
そうして、新訳の今キリストに対してさえも、このようなイメージを持っているのではないかと思わせられることがある。

そうなるのは、具体的な神の御わざを個人的には知らず、キリストに対して救いを喜ぶ、霊的な交わりの経験もないままに、厳しい取り立て・・「救いに相応しく・・」というような、圧迫を受けて来たからではないのか・・。

 しかし、それを要求しているのは人であって、決して神でもキリストでもない。なぜなら、主は私たちのまだ知らないときに、すでに十字架においてすべての不足を満たしてくださったのだから、主は何も要求してはおられない。
なぜなら、十字架上でイエスが救いを「完了」して下さっているのだから、それに付け加えるものなど何もない。

主を悲しませるものはこのようなイメージなのである。それは、十字架の恵みによる救いを否定することなのだから・・。
人は、何をするために救われたのではなく、ただ、救い主を知るために救われたのである。知った人はその恵みを告白したくてキリストを伝えるのであり、感謝が溢れて礼拝するのである。
誰から強いられてではなく、ただ、キリスト・イエスに感動しているのだから・・。


どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ1:17)

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また会う日まで

2014-11-08 14:14:31 | Weblog




 医大に問い合わせてみると診断書は出来ているとのこと。すぐに取りに行きますと言うことで、午後ではあったけれど出掛けた。
電車の中で心はシンと落ち着いていた。主人と一緒に下りた駅で降りて、一緒に歩いた道、一緒に渡った信号を渡るときも心は静かに落ち着いていた。

 すべての手続きを終えて、持って来ていた封筒に書類を入れて封をし、ポストを見つけて放り込んだ。
コトンという音を聞いた瞬間、「ご苦労さんやったなぁ・・ありがとう。」という主人の言葉が体の中に入ってきた。

「もうええでぇ、ありがとう。ようやってくれたなぁ。お前やさかい出来たんや」
「いや、あの時はごめん・・もっと・・」
「そんなこと、もう言わんでもええ。全部、言うとおりにしてくれたやろ・・もう満足や。また会うときまでさようなら」
「えっ。さようならって・・」
「幸せに暮らしや。イエス様と一緒やさかい安心や。もう、俺のことで悲しまんでもええ」

ホームに立っているときも言葉が続いていた。私も思いの限りを言葉にして内に話し続けていた。
「さようならって、そんな・・、でも、それでええんやね。うん、また会う日まで幸せに暮らすよ」
茜色と藍色が出会う空の下で心に決めた。のど元に出来ていた涙の塊がゆっくりと溶けていった。


 今朝、日記に書かれていた昨日の祈りを見て、そのことが主のご真実であったことを知った。
「『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』みことばを私に実現してください。」と書いてあった。

祈っても忘れていたのに・・、すべては主のご真実によって、主人の言葉を備え私を導いてくださったのだろう・・。
昨夜も今日も心がほっこりと温かい。それは、いつもある喜び、どんな時も持ち去られることのない喜び。涙の塊は消えた。


いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)
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ソロモンを産むために

2014-11-03 19:09:30 | Weblog




 ダビデの姦淫によって産まれた息子が死に病に罹った時、彼は主の御前に一週間も断食をして、地に伏し、泣いて息子の命乞いをした。
ダビデにとって、自分の姦淫の報いを受けて息子が死ぬということは、どれほどの苦痛であったことであろう・・それは一週間もの断食に現れている。

しかし息子の死を知った時、彼は即座に食事を取り日常に戻っていった。それは、主の裁きに対する完全な服従である。
神の裁きが終わったとき、彼はその意志によって主に従順したのである。神の裁きに完全に満足することを選び取ることによって、ダビデはソロモンを産んだのだ。

 息子が死んだことによって絶望するであろうと判断した家来と、ダビデはまったく違っていた。
王が家来と同じではならない。主に在る王は完全な従順によってのみ職責がまっとうできるのであるから、主のご計画の成るためにダビデはソロモンを産まなければならない。
ソロモンを産むのは神さまの時のみである。

私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(伝道3:14)


 今も、キリスト者が命に関わるとき、すべての命を握っておられる神様を知って居るという事において、世とはまったく違うのである。
どれほど尽くしても人の力によって、その命の終わりに満足することはないだろう・・。けれども、その命の主が裁かれることにおいて満足することは祝福である。

人は主に哀願することはできる、しかし、主に命じる者ではない。主に信頼するとき、すべてを通して神さまが良い方であることを、新約の今はなおさら知っているはずである。


ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。
しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところにはいり、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。主はその子を愛された(Ⅱサムエル12:22~24)
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