石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

オクサンからカフサンへ

2014-10-31 11:43:21 | Weblog




 「今『奥さん』と言われたけれど、私はもう奥さんじゃないのにね。」
そんな愚痴とも付かない言葉を嫁さんに漏らしたとき、「じゃあ、カフサンって呼ぶの?」と返ってきた。

「カフサン?」一瞬その聞き慣れない言葉に戸惑ったけれど、それが寡婦さんであると気付いて吹き出した。
ウジウジとねじ曲がりそうな心に活を入れられたような、こ気味好い切り返しだった。その時は「カフサン」にはタジタジだったけれど、悪くないかも・・って今日は考えられた。


 そんなふうに思えるのもここ数日薬なしで眠ることができるようになり、昨夜は熟睡できたからで、またずっと続いていた左足の違和感、気持ちの悪いしびれが消えて、昨日のウオーキングが楽だったなど・・、体の自由を取り戻しているからなのだろう。

 「奥さん」は従順を学び、「寡婦さん」は自立を学ぶのかも・・。
夫婦は互いに不自由な部分を保っている。常に互いに気を遣って妻は夫による縛りを感じることも多い。でも、その縛りが完全に無くなったとき自由の魅力も無くなる。
そんなことを友人との交わりで話し合った。
それは、まるっきりキリストと私たちね。なんて・・

縛りは守りでもあり、完全な自由はすべてに自分で選択し責任を取ることを求められる怖さがある。でも、今私は主人の備えによって守られていることを感じている。残して置いてくれたものによって・・。

子供たちはまぎれもなく主人が私に残してくれたもの。そんなことは主人の生きているときには考えた事もなかったけれど・・。
また人付き合いの悪い私にも、色々な人との関係を残しておいてくれた。知らない人から丁寧な挨拶をされたりする時もそのようなことを感じる。
家も生活の必要のあれこれも主人が残してくれたもの・・、その中でカフサンも守られていた。その部分で主人はまだ生きているのだった。


 相続手続きに原戸籍というものを取り寄せる必要があった。それは明治時代に毛筆で書かれたもので、聞いたこともない名前が沢山出てきて「ほ~っ」て感じだった。
でも、その見知らない人と私の子供達は繋がっており、孫にも繋がっているのだ。彼らもその血によって子孫の中に残されているのだと思った。

クリスチャンはアダム以来の人の罪の血筋を思う。それは紛れもない事実なのだけれど、神様の憐れみは、この滅びる身にさえも命の欠片を残し、その血筋の中で救い取るチャンスを待っていてくださるのではないかと気付いた。
そうです主よ。あなたの忍耐の故に、今主人がこの血筋から救われましたって・・。


 クリスチャンの姉妹に「何を見ても思い出すことばかり・・」って話した時「それが供養になるのよ。」そんな言葉にちょっと驚いたけれど、その言葉に含まれる主人への優しさが感じられて心がホッとした。
言葉ことば・・ことばなる方主イエスさま・・言葉尻ではなく心なんだ。
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愛の力

2014-10-28 22:49:40 | Weblog



 
 昨日は油菜さんといちごさんが、遙々この田舎に尋ねて来てくださった。とても嬉しくて思わずハグしてしまった。
主人のことを「男前」と・・
私が主人のことを男前と言ったのは、最期まで頑張ってトイレに行こうとした気力のことだったのだけれど、彼女たちは、写真の中にいる主人に言ってくださったことが素直に嬉しかった。ほめてもらって良かったね~って。

いっぱい話を聞いてもらって、賛美をして、一緒に祈り、主を共に語り、喜びほめたたえて過ごした甘い時間だった。
「最期の時、私にも主人をそのように愛して過ごす力があるかしら・・」と不安を話されたとき、私が主人と過ごしたあの愛、あの力は私自身のものではなく、キリストによるものだったと話した。

確かに、恐れることなく疲れることなく大胆に愛する愛など、そんな行動力など、私は持ち合わせては居なかった。
しかし、家族をも愛しておられるキリストの愛が、私を通して家族の必要を満たしてくださったのだった。

私がそのことに気付いたのは主人が亡くなって後、その力が私から去ったことを感じた時だった。
主人を少しは愛し仕えたことに満足を覚えて、愛による行動力のない私もこれで少しは変わったのではないか・・と、愛深い人の夢を一瞬見たのだけれど、私は何も変わっていなかった。

でも、神さまの愛は絶えることがないからこれで良いのだ。いつでも私の必要に応じて備えてくださる。私が握り占めるならそれはきっと変質してしまうと思う。
上から賜物として与えられるそれだけが無償の愛、純粋なキリストの愛なのであって、人にはそれを管理することはできないのだから・・。

「自分を心配しなくてもいいよ。ただ、日々主の御前に居るだけで・・」とお話をしたとき、「本当にご主人は幸せね」と言ってくださった。
そう、キリスト者の家族はとても深い愛の備えの中に居るのだ・・、人には想像も出来ないほどのね。


 今日は、入院保険の請求に必要な医院の領収書を紛失したことに気付いて、捜し物に時間を費やした。どうやら捨ててしまったらしい・・。私は時々こういうへまをやることがある。特に今は何事にも注意散漫だと自分でもわかってはいるのだ。

もう・・あきらめるしかないか・・とも思いつつ、やっと祈ろうと静まった。
「主が与えてくださる物なら、私がどれほど愚かでも必ず与えられる。主が与えないなら、私がどれほどしっかりしていてもそれは与えられない」そんな平安が来た。
狼狽えていた心がスッと落ち着いて、直後に来られたお客さまを平静に迎えることが出来た。

結局、「医院へ行ってことを話してみよう・・」と思い至って重い足を運んだ。ところがいとも簡単に「ああ、良いですよ。もう一度書いてあげますよ」と言われ、「困った時は何時でも此処へ来るといいですよ。」と言ってくださった。色々とお話しもして肩の荷が下りる思いだった。

イエス様はお優しい。
今は沢山の人を通してイエス様の愛にふれている。その備えもイエス様の執り成しによることだと私は知って居る。常に必要を満たしていてくださる主だから・・。
愛はキリストによって与えることが出来るもの。そうして、弱さの中で愛を受けるときもキリストの香りがする。
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美容院へ行った

2014-10-24 13:19:43 | Weblog




 私の好みにパーマを当ててくださるお店だった。でも、ほとんど出来上がったとき「お体大丈夫ですか?」と聞かれた。
「エッ、なぜ・・確かに今はめちゃくちゃですけど、昨夜もあまり寝てないし・・」
「やっぱり・・、パーマがあたらないのです。いつもと同じようにしているのに、あて直しますからまた来てください。体調が悪いときにはあることなんです。」繰り返し何度も言われた。

でもこれで良いのだ。今は何もかも思い通りにはならない。それは当然で半身失ったような状態で、何時も通りに行くことなど何ひとつ無いのは当たり前。
正常な判断も、まっとうな生活もどこか少しおかしくても「これでいいのだ」って・・そんなとこに最近ようやく辿り着いた。


 指先を切ったときは瞬時に激しく痛むけれど、腕や足が千切られるような時には、瞬時の痛みは感じないという・・。
時間が経つた後に、無くなったはずの足の痛みを感じる話を聞いたことがある。人の心と体の不思議さ・・。
これも神さまの備えてくださった守りなのだろう。耐えることの出来ない苦しみを与えることはない、真実なお方だから・・。

私はできるだけ日々忙しくしている。静かに服喪の期間を過ごせる人はなんと強い人なのだろう・・。
午後から医大へ診断書を頂くための手続きに行って来た。主人と歩いた道を避けて、一駅先まで乗ってバスで引き返した。電車の中では1時間ほどフリーズしていたから何も感じなかった。


 信仰に入ったとき、イエス様だけに頼る証のために、個人保険をすべて解約したことがあった。結婚前から主人が入っていた個人年金だけは、流石に勝手なことはしなかったけれど・・。
その後、息子が会社の入院保険に入れてくれたことで助けとなったことがあり、今は何もそこまでする必要はないと思うけれど・・、

ただ、あの時私は自分の心の在りかをはっきりさせたかったのだと思う。
しかし、保険を止めたことの祝福は頂いた。主人を80歳までとても元気に守っていてくださったから・・。そうしてその恵みを私が一番頂いてきたから・・。
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2014-10-22 17:35:57 | Weblog


 主人の寝ている部屋へ行って隣にころんと転がった、「どうしたんや」って、まだまだ頑張っていた主人が聞いた。
「寂しいねん」と言ってしまって、慌てて「何時でもあんたは先に寝て、私はひとりでテレビ見てるのになぁ・・」と言うと、「おかしな奴やな」って主人は言ったけれど、二人とも実はもうわかっていた。
そういえば、「寂しい」と訴えたのは主人だけだと今気付いた。


 ほとんど口座番号まで覚えていた預金通帳。使い慣れた暗唱番号、すり減ったようなキャッシュカード。主人名義ではあるけれど、私が作って私が使い続けてきたもの。
それらは、私たちが築いた「家」のものだと意識していた。二人の家庭のために使って、子供を育て生活を賄い生きて来た。

諸々の手続きを進める中で、積み重ねてきた日々が消えて行く・・。勿論、中にあるお金は私の物として戻ってくるけれど、そういうことではなくて二人で造ってきた「家」が消えて行くような・・、そんなリアルがボデーブローのように効いてくる。

でも、残ったのが私で良かった。あんたにはとても耐えられないだろう。きっと呆けていたと思う・・。私でも呆けたことしている時があるのだから・・。なんて、写真に向かってぼやいている。

こんな事を書いている時、息子から「大丈夫か・・」って電話が掛かってきた。こう言うタイミングは、台風の時の嫁さんからの電話と言い、ご近所さんの一言といい絶妙なのだ。だからイエス様は優しいなぁってつくづく思う。

私たちの国籍は天にあり、私の永遠の家庭も天にある。
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看取り

2014-10-20 19:15:00 | Weblog




 10月6日主人の脈は触れないほど弱々しくなり、血圧も40にまで下がり訪問看護師さんも、お医者さんも「もう・・」と首を振って、「長くは保たない」そのように言われた。
それでも私はまだ終わりが近いとは信じなかった。それは意識がはっきりしており、力はなくても話すこともできたから・・。

しかし、時々お腹の痛みを訴えていたのでさすり続け、冷たくなってゆく足や手を、熱いタオルで包むと「気持ちいい」と喜んでくれた。
主人はずっと「暑い」と言い続けて、手も足も布団から放り出していたから、そっとタオルを掛けたりして、なんとかして冷えて行くのを防ごうとしていたけれど、それはもう氷のように冷たくて私はそれが心細かった。

夜になって、強い腹痛を訴えるようになったので私は狼狽えた。今まで看てこられたのは痛みや苦痛が無かったからで、それはもっとも恐れていたことだから・・。
「医大へ行く?救急車を呼ぼうか」と尋ねると弱々しく首をふった。
お医者さんや看護師さんも電話をした。「なんとか痛みを取ることができませんか」と・・。

看護師さんもお医者さんも来てくださったけれど、結局もう何もできなかった。幸い主人の痛みは間欠的でさすりながら祈り続けた。
医大では受け入れてくださるという返事をいただいたけれど、お医者さんが断ってくださった。私はそれで良かったと思っている。そうでないと主人の最期の時に、側にいることはできなかっただろうから・・。

 お医者さんが帰られて看護師さんにも午後10頃頃に帰っていただいた。主人が落ち着いていたし、私はイエス様に依り頼みつつ受け止めようとの覚悟を決めることができたから・・。
12時頃まで時々痛んだ。私は主人の脈打つように動く腸をなでつつ、私も一緒に痛むから・・と祈り続けた。

そんな中でも「トイレに行く」と言う。「大丈夫よ。私がちゃんと奇麗にしてあげるから・・」というと安心したようにうなずく。そんなことを数回繰り返した。下血が続きそのための痛みのようだった。
汚れを取り替えてあげるには主人の体を大きく動かさねばならず、それはしんどいことだろうととても辛かった。私が下手だから、余計に負担がかかっているように思えて情けなかった。

 汚れたおしめを詰め込んだ袋を部屋に散らしつつ、その内汚れがわかってもすぐには取り替えることができなくなってしまった。呼吸が苦しそうになっていたから・・。
後になって、主人がずっとトイレに行ってくれたので、私は下の世話をしていなかったけれど最期にその分をさせてもらったことに気付いた。

主人はもう声が出ないのに、聴覚障害の次男に使うキュードスピーチで「もう、いい」「ありがとう」と言ってくれた。
日が変わって主人の痛みは落ち着いて来たけれど、息が荒くなって胸が大きく波打ち苦しそうで見ていられなくなった。

 しかし午前4時頃その呼吸は静かになり、大きく口を開けてスーゥとした細い息が続くようになった。静かに楽そうになって意識も無く、ただとても静かな平和な時が続いた。
私は何とか生きている証拠を見つけたくて、体温計で計ると35.3分、温かみのある体にほっとした。
しかし、次に計るとエラーが出てもう体温を計ることができなくなってしまった。手を体に差し込むと少し温かかった。しかし、どんどん奥の方、体の下に差し込まないと温かさを感じなくなって行った。

朝になってお医者さんと看護師さんに連絡をして、主人を渡した。
此処で主人の体は私の手を離れて、多くの人の手によって葬りの準備が整えられていった。
私は棺の主人の髪の毛を引っ張ってみた。抗がん剤を用いてからは抜け続けていたから・・、何時もそうしていたように引っ張ってみた。でも、冷たい冷たい感触だけで残った毛はもう抜けなかった。
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枯れた花

2014-10-17 14:30:30 | Weblog


 花の香りが嫌だとつぶやいていると・・、百合たちは、昨日お水を変えてあげたばかりなのに色を変えて枯れてしまった。まるで傷ついたかのように・・、
可哀想なことをしたと、慌てて残りの花を取って花瓶に生け直した。

私は主人の死の悲しみを、花にぶつけて八つ当たりしていたのかも知れない・・。たとえそれが肉体の滅びに過ぎなくても、やり場のないほど傷つくものなんだ・・。
霊の喜びと別れの苦痛は同じ重さを持っていた。私は世にある別れから目を背けようとして藻掻いたけれど、それも事実で、これもまた事実なのだ。

 主人が死の淵にあった時の苦痛、激しく脈打つような腸を私の手に感じて必死に祈った。「癒してください。そうでなければ早く召してください」と・・、だから苦痛が去って、息が細くなってからの時間には、むしろ心からホッとして感謝のお祈りをした。
それがこの世での別れが間近なことは十分承知の上で・・。
もう二度と苦しむことがなくなった故に、主人との別れを喜んだことなのだけれど・・。


主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。


ヨブ記にこうあり、ヨブの信仰は真実だけれど、そもそも造り主なる神さまは、人を死ぬ者として造っていないことに改めて気付かされた。ご自身に似たものとして、永遠のいのちを楽しむ者として造ってくださっていた。
でも、アダムの不用意で不従順な罪の故に、人は自らの死を刈り取ることになってしまった。

イエス様はラザロの死に涙を流された。人の死の痛みを知っていてくださった。
死は生き残った者の心にも大きな傷を残す。死はどのような死であっても美しいものではなく、罪の報いというおぞましい悲劇だから・・。

死者は人生を突然断ち切られ、生き残る者は絆を断たれ、家族を失い世に取り残されてしまう・・。
人となられたイエス様は、今もその悲しみを知っていてくださる。可哀想に思って、涙を流すほどに近しくいて下さるのだけれど・・。


医院に睡眠薬をもらいに行き、久しぶりに何時ものコースを黙々と歩いた。これでも頑張ろうとしているのだ。普通の日を勝ち取ろうと・・。
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今まで通りに生きる

2014-10-16 11:15:35 | Weblog



 今日は役場に行ってそれからライフへ行った。
行くとこ見る物全部悲しかった。胸の奥に重い水たまり。ドンドン膨らんで押しつぶされそうになったから、そそくさと買い物をバイクに積み込み店を後にした。
吹っ切ろうと思いっきり飛ばして帰った。

主人の部屋に祭られている祭壇、むせかえる花の匂いがもどうにもなじめない。花が嫌いになりそう・・。なんとかしなければ。
一番好きな主人の写真をリビングの家族写真の中に貼る。うん、これが一番落ち着く。褒めてくれているような満足そうな顔。その顔には自然に言葉が出てくる。


 主人が褒めてくれるから何でも出来た。しんどいことでもそれだけで報われた。誰も評価しなくても「お前やさかい出来た。いつでもお前がそうしてくれるさかいや。ありがとう」って言ってくれた。
だから、さり気ない顔をしている時も、調子に乗ってピースサインをするときも私はいつも報われ幸せだった。

主人は私と一緒に居るべきで、写真に向かって語る人ではなく、墓に語る人でもない。
確かに私が主人を、この手の中に抱きかかえるようにして天に送った。
今、霊はイエス様とともにパラダイスに居る確信があり、深い平安と喜びがある。その嬉しさは、みことばが真実である事を経験させていただいた喜び。

葬式ではその事実のみに私の心は釘付けであって、悲しくはなかった。喜びと悲しみは同居しないから・・。
しかし・・、霊柩車の中でひとり写真を抱いて、病院の帰りにいつも通った道を走っているとき、留めようもなく涙が溢れた。運転手に気付かれたくなかったのだけれど・・。

 
 昨夜、テレビをぼんやりと見ていて、そのポジティブな生き方の中にハッと気付いた。
「ああ、そうだ。今も主人を喜ばせておれば良いのだ」って・・、何も変わる必要なんか無いのだってことに。
私が笑っていると主人も機嫌が良かった。私が元気なとき主人も元気で、私が病気になったら主人もしんどくなった。

一緒に居た日々と同じように生きて行こう・・。何を評価してくれるのかを良く知って居るから、主人はいつでも心の中に応答してくれる。
出来ないときには、今までみたいに甘えていよう・・「無理、知って居るやろう」って・・。それでも驚かせたいから、今までみたいにやってしまうかも知れないけれど・・。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
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御名をあがめます

2014-10-12 15:51:44 | Weblog



主が、喜ばせてくださったとき、私は笑う
主に在って喜んでいるから、笑っているのです。

だから、主が泣かせるときには涙をこぼしますように・・
悲しみの時は、悲しむ者でありますように
御前に流す涙は甘い・・

主が貧しくされたのならそれも良い
パンと肉はカラスからでも賜る事を知って居るから・・


主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。
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お知らせ

2014-10-12 05:50:08 | Weblog

主人は、10月7日午前5時、多くのお祈りの中で亡くなりました。
支えてくださったお祈りやコメントに心から感謝いたします。

とうぶん更新することができないことをお許し下さい。


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体のこと

2014-10-05 14:37:32 | Weblog




 半月以上も飲まず食わず、少し飲むと後で大量に吐く。その方が苦しそうなので、何も勧められなくなり、吸い飲みはもっぱら口をゆすぐための道具と成る。
骨と皮・・見るからに痛々しくて、尋ねてきた身内に「生きていて欲しかったらせめてジュースで飲ませて上げなさいよ。」見ていられない人の気持ちも分かるけれど・・。

医大では食べたら一週間の命といわれ、「ほしがっても食べさせられないことに耐えられるか?」そんな医師の言葉恐かった。
主人の強い希望で退院して、幸いというべきか主人には食欲は殆ど無く、たまに口にしても「味が変わっている」といって、すっかり食への執着はなくなった。
私はそこにイエス様の助けを感じて感謝している。

飲むと倍以上戻すので、飲み物にも執着が切れてその作業は乾く口を洗うものとなった。だから、何度も頭を支えて口をゆすぎ、うがいをする。
看護師さんに「唇も舌も乾いていないですね。」といわれるので、主人と皮膚から水分を吸収しているのだよ。砂漠の生ものにたいに・・と話している。

 ただ、日に日に痩せ細ってゆく骨骨をそっとそっとさすって、少しでも苦痛が無いようにと、そっとそっと祈りつつ手を触れる。
それは、親猫が子猫をなめ回すように指先で舐めまわす。
その時間は私にとって主に感謝する時、主と交わるとき・・、イエス様が憐れみによって備えてくださった時であると身に染みて良くわかるから。

これが主人の望みどおり、私と一緒に普通に居たかっただけ・・。「正月には良くなるかなぁ・・」と言うとき、私は、「それくらいの考えてゆっくり治そうね」なんて言ってしまう。
なにか御国への備えの言葉なんかを語るべきなのか・・なんてちらっと思ったけれど、私には出来ない。
イエス様に「言葉を持った天使を送ってください」とお願いしている。
注射が上手く入らないときも、「注射の上手な天使を送ってください」なんて・・

飲まず喰わずなのに、むしろ今までよりも感は鋭く、言葉にも真理をついていたりする。だから私は恐れるのだけれど、やはり声が小さくて弱々しいから聴き取れない言葉もあるけれど・・。それは、たいがい「ありがとう・・」だと思っている。そればかり言っているから。


「生きている今しか捨てられないから、今のうちにじゃんじゃん捨てるのだ。」という・・そんな看取りのブログを読んだ。
その気持ちが恐いほどわかる。ああ、同じ気持ちを持った人がいたんだ・・って。
一人残されて、思い出だらけのものを処分できるとはとうてい思えない。見ることさえできないだろう。せめて見なくても良いようにして置きたいのだ。

絶対に無理なことだけれど・・45年も暮らしてきた事実をどうやって消すことができるのだろう。
こんなことは、無駄なあがきだけれど、もっとも思い出の深いものから処分して行きたくて、一緒に病院に通った車をなんとか見えない所にと思った・・、それは心が壊れそうで自分を守ろうとしたこと。


 主人の現状は医大で、多くの医師から重ね重ね説明を受けてきた。
今黄疸が出ていますが。膵臓の管が癌によってふさがれており、いつ敗血症を起こすかもしれない。
悪性リンパ腫は抗がん剤で脆くなっており、腫瘍には多くの血管が出来るから、いつ切れて大出血を起こすか分からない。

抗がん剤治療によって十二指腸にある癌に穴が開いて腹膜炎を起こすだろう、しかしもう手術には耐えられない。
癌はドンドン大きくなるだろう・・しかし、栄養を入れなければ癌は大きくはなれない。

血管が再び切れる恐れは3日かも後かもしれないし、一週間持つかも知れない・・今は、とにかく何時何処で何が起こるか分からない状態です。
覚悟してお家の方で看て頂けれるのならそれが最善です。

しかし、私は知って居る。イエス様のご存じないことは起こらない。命は主に知られずには地に落ちることはない。
イエス様が主人のために天に家を備えてくださった時、その名を呼んでくださるだろう。病状がどうであったとしても、それこそ主人にとって晴れがましいときなのである。


私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(Ⅱコリント5:1)
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