石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

ちり紙交換

2014-06-30 19:50:46 | Weblog



 ちり紙交換のスピーカー音が聞こえてきた。飛び出して保存しておいた新聞紙を出そうとして、先日町の回収に出してしまっていたことを思いだした。溜まって我慢できなくなってしまったのだった。
一袋だけ残っていたので急いで家の中の新聞紙をかき集めて足し、玄関先に出ておじさんを待っていた。

少なくて申し訳ないないなぁ・・と思ったとき、ふっとおじさんが足を引きずっている様に見えたので、
「足、怪我でもされたのですか。」って聞くと、
「この間から体の具合が悪うて、4ヶ月ほど寝てました。何処が悪いのか検査してもわからず仕舞いで、ただしんどうて・・しんどうて・・もう、これでお仕舞いかと思いました。」
「もう、大丈夫?」
「まあ、なんとか此処まで良うなりました。」
「お大事に・・また来てね。」運転台でおじさんはニコニコと頭を下げて下さった。私も・・。

 おじさんにいつもポケットティッシュを頂いて、新聞をため込んで待つようになって何十年にもなる。おじさんが年を取るのも当たり前か・・。
近頃は地域で回収するようになり、ちり紙交換の人もほとんど来なくなってしまった。

「家を新築していて忙しくて来られなかった。」と聞いたとき、「良かったね」って嬉しく思った。
「風邪を引いて来られなかった。」と聞いたとき、まだ風邪気が残って居るようだったので気がかりだった。

おじさんの家が遠いことを聞いたとき、「なぜこんなに所まで来るの?」なんて私の不躾な質問に、「こんな仕事を家の近くでする人はおまへん」フフフ・・アハハ・・って、なんだか可笑しくて二人で笑った。
ちり紙交換が恥ずかしい仕事だとは思わないけれど、その気持ちもよく分かるので・・。おじさんもカラッと笑っていた。

 ずっと来てね、ずっとずっと来てね。それが無理であることは良くわかっているけれど。
しんどくて・・そう、なんだかしんどくなって、昨日まで出来たことが今日は出来なくなり、そうして・・思い出になってゆく。
この町に暮らして数十年。思い出の人が増えて・・、時々その人とのあのこと、このことなどを主人と話して寂しさを分け合っている。
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ストリートビューで・・

2014-06-28 19:45:00 | Weblog




 主人が若かりし頃、活躍していたという懐かしの土地に、もう一度行ってみたいと何度か言っていた。
「一度行って見ようか」と言いつつも、その地は都会であり、どう考えても50年も60年も昔の面影が残って居るとは思えず、実際に同行する気にはなれなかった。

今日、思いついてストリートビユーでその地を探すことにした。地名を聞いては検索を繰り返し探しまわった。あやふやな記憶を辿って辛抱強く探し回ったけれど、当然昔の面影などは伺うすべもなかった。

「・・の工場があるはず」「公園があるはず」「広い道があったはず。こんな高速はなかった」
「あのなぁ・・そのままな訳がないでしょう。何十年経っていると思っているの・・」なんてちょっともめたりしながらも、顔をくっつけるようにして長い時間モニターをのぞき込んでいた。

そうして、私たちの感想は「行かなくて良かったね。」
結局、モニターをのぞき込むことにさえも疲れて終わり。懐かしい風景を何ひとつ見つけることはなかったけれど主人は満足そうだった。

 「懐かしい地名が沢山出てきただけでもええわ・・」ということで、夕食を取りながら、何十回も聞いている昔話を機嫌良く聞いてあげた。
「このウナギとても美味しいね」これが私の返事だったけれど・・。そう、今夜はウナギ丼それも鹿児島のウナギを豪華に半分ずつ・・。
小さいお茶碗なので、半分でもたっぷりはみ出していて満足感たっぷり。だから気分は良好なのだ。

気分の良いもう一つの理由は、主人も美味しそうに食べてくれたから。
昼食のそうめんを「美味しい」と言ったわりにはほとんど食べなかったので何か食べそうなものをと、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで奮発したのだ。

まあ、ころっと食べたのを見た時、「あんたは、ただ贅沢なだけだったのか・・」という疑いも生まれたけれど・・。
「なんか、スッと気分が良うなったわ。また、しんどうなったらウナギ頼むな。」「財布がしんどうなるわ。」
実は、そんな元気そうな顔を見ただけで、価値はあったと思うのだけれど・・。

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わたしは背負って救い出そう

2014-06-27 14:59:25 | Weblog


 年寄りというものは、一瞬に体調ががらりと変わる。そんなことは、主人でも私自身も毎度経験しているけれど、今回はちょっと危なく感じた。

先日より、調子に乗って朝から晩まで草刈りだとか、何だかんだと畑に入り浸りで動き回っていた主人。
「歳を考えた方が良いよ。それに病気があることは事実なのだから・・」と言っても耳を貸そうとはしない。ブレーキが壊れるのも老いの故?

 そもそも癌騒ぎのときも主人自身はまったく気付かなかったのだ・・。私がなんか変だと異常に気付いて、掛かり付け医に検査を申し入れたことから癌が発見された。それほど自分の体調には鈍感なのである。
あまり神経質なのも面倒だと思うけれど、鈍感なのも家族にとっては恐いことである。
イエス様という避け所があるから、私は落ち着いて心配しすぎることなくいられるのだけれど・・。


 その、かなり疲労して食べられなくなくなった折も折、おばあさんが入院したという電話を受けた。私ひとりで行ける場所ではないので、主人の体調の方が心配な状態だったけれど、一緒に車で出掛けなければならなかった。

おばあさんは88歳、病気なんて知ったことかと意気軒昂で「もう帰るから・・」と、買っていったパジャマ等を「要らないから持って帰って」という。
所々筋の通らない話があるのに、しっかりしている所はとてもしっかりしていて、話を聞く気はなく自分の意志は変えないのだ・・。

おばあさんの病院に付き添ってくれた義妹は、そのような様子に一番疲れるという・・とても良くわかる。と、しばらく相談に乗ったり、愚痴を聞いて「家を継いだからといって、ひとりで負わなくてもいい」ことを伝える。
老人の世話でもっともケアが必要なのは、本人よりも周りの人の方である。老い方によっては嫌なものがむき出しになって、ほんとにわがままになることがあるから・・。


 でも、私は自分の中にもそのようなものを感じることがあって・・ひとごとではないのだ。主のお憐れみにすがるべく、夜中に布団の上でひれ伏すことがある。自分ではどうにもならない老いを抱えている。
誰もそのように老いたいとは思わないのに・・、長生きには辛さも残酷さもある。

主人は病院で手当を受けて少し食欲も出てきた。今は安静がどれほど大切かと説得を続けている。幸い今日は雨催いでホッとしているが・・、それでも畑に行ってしばらくもどらなかったなぁ・・。

主人の体は弱さを抱えているけれど魂は平安で言葉も優しく、7月13日に決まった洗礼式を穏やかに淡々と待って居る。
いつもイエス様に依り頼む者だから、実はそれだけで備えは万全なのだけれど・・。


あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)
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わたしは彼らの神となる

2014-06-24 14:56:39 | Weblog





 主に命じられ、イサクを捧げて山を下りて来たアブラハムたちは、登って行った時とは違っていた。彼らの価値はまるで違う・・。
捧げられたイサクは主のものとなり、主が彼を養い守られる。アブラハムも主を第一にした者として祝福の中に住む。
このことが試練なら、それは聞き従うものにとっては大きなチャンスでもある。確かに主は良い方であるから・・。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)

アブラハムがイサクを主の御手に渡したことによって、その子孫も主の庇護を受ける者と成った。
そうして今、その祝福は私たちにまで至っている。歴史のその時に主に従順する者が、主のご計画には必要なのである。
いや、すべてのキリスト者の従順によって、祝福の主のご計画が成就して行く事になるのだから・・

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:6)

 問われているものは、「私」を忘れて主のご計画を生きるのか、それとも「私」の計画、または感情のままに生きるのかという選択である。
その選択はその場限りのことではなく、長く歴史に変化をもたらせるものだと思う。目の前のことではなく、まだ見てはいないけれど、主の良いご計画に信頼することができる者は、キリスト者だけであり、内に宿す聖霊によって生きる者だと思う。

 主の完全な愛の中に私の愛する者を託すには、聖書から知って居り、また信頼した日々の恵みから、主がどのようなお方であるかをよく勘定に入れることが大切である。
動機は主に対する信頼であり愛であるけれど、しかしそのことを成し遂げるエネルギーは信仰に基づく計算であるから・・。

私が握り締めれば私の貧しい愛に閉じ込め、私が主におゆだねすれば豊かな主の愛を受けることになる。
人は決して完全な親にも、子にも、友にもなれない。しかし、主に託する時、主の完全なご計画が彼らの上に備えられる。
これこそ主を証して、主の栄光を現すもの。私たちはそれを見て共に主を喜び、感謝していよいよ主によって祝福の中を歩むことができるのだから・・。


わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。
こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(エゼキエル11:19~20
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誘惑

2014-06-20 10:31:27 | Weblog


 アブラハムがイサクを捧げるとき、悩み苦しむことは優しさだろう・・、しかし彼はそうはしなかった。一心にみこころを求めて朝早く山に登っていった。彼がイサクよりも神を愛することを選んだからである。

ノアが箱船の中で、滅びる人の声を聞いて胸が張り裂ける思いをすることは優しさだろう・・。でも、そうは書かれていない。
彼はただ主を恐れて今見ている滅びの中にも、なを主の良いご計画に希望を抱き静かに信頼していたのだ。
それは彼が誰よりも神を愛し、神の良いご計画に望みも抱いていたからである。彼らの心の内には「私」というものは存在しなかったのだ。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)
人を愛する神の豊かな祝福の結末から目を離さなかったのである。

 ロトの妻が滅びる人を惜しんで振り返ることは優しさだろう。しかし、彼女の愛は神ではなく人にあった。
神の命令が自分を救うことに始まっても、そこにみこころの完成という大切な役割があるのだから、一心に成し遂げるべきことであり、誰に先駆けてでも幸せを備えられたなら、大いに喜んでその幸いの中に住むべきである。そこで賛美に明け暮れることになるだろう・・。

キリスト者なら、家族よりも、友人よりも、恩人よりも、イエス様を一番に愛するのである。キリスト者には、誰よりもイエス様が一番大切なのである。神の御子が死んでくださったのだから。

御子の流された血の価値を知っているなら、その愛の深さを幾らかでも知っているなら、みこころと人を愛する愛を天秤に掛けることは決してないのだ。
体験していることは、十字架の愛であるから、誰をも愛するイエス様の愛を知っているゆえに、その間で思い悩んだりは出来ないのである。

 サタンは人の感情に訴え、もっともらしくねじ曲げて、苦悩する姿を差し挟むとき人がそれに感動してしまうなら、彼らの潔い信仰は貶められてしまうことになる。それは人と神の麗しい関係に水を差す働きである。
完全な神の愛を知ってなを、自分のみすぼらしい愛を引っ張り出してくるだろうか・・。

 聖書がエンターテイメントとして用いられるとき、そこ聖霊が働く場はないだろう。なぜなら、それらは必ず感情を揺さぶる仕掛けが不可欠であるから・・。
しかし、みこころを行う事は見えない方を愛する行為なのであり、人の目に触れることもなく地味にひっそりと行われる故に、真実はショーにはならない。

完全な聖書があるのだからそこから右にも左にも反れるべきではなく、まして、感情が絡みつく事柄故に、それを切り分ける面倒を考えると私はそれらを避ける。
敵は巧妙であり全くの嘘よりも数パーセントの毒を感情に吹き込むだけでも、そこに植え付けられた事柄は容易にパン種のように膨らんで、信仰を変形させるおそれがあるからである。


兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13~14)
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日々是好日

2014-06-18 13:28:11 | Weblog




 昨日は主人と医大へ行く。混んでいて、予約時間よりも1時間長く待たされた。主人と「病気じゃなくて良かったね。」なんて・・、ちょっと皮肉っぽいおしゃべりなどをしつつ待って居た。

医師は検査の数値を見ながら小さな声で、「出たり消えたりしていたものも、消えていますね。」とおっしゃって、「肝臓の数値も良く、黄疸も出ていないので、また、一ヶ月後に来てください。」と言われた。
ちょっと待って・・と、予約日を一週間延ばしてもらった。まるで値切るような感覚で・・変だけど。でも、すんなり聞いてくださった。

「もし、何か変わったことがあったら夜中でもいいので、連絡してから来てください。」「ええっ、何処に連絡すればよいのですか?医大にですか?」
「そう、血液内科と言ってください。」
「ありがとうございます。」ということで診察室を出た。

実は、先日主人に変わったことが起こっていた。
血尿があり下腹痛があった。でも、主人は「医大には言うな」ということで内緒なのだ。検査、検査の面倒はもうごめんと言う。

私も強いて言う必要もないだろうと思った。血尿を見せられた時もさほど驚くこともなく、「しばらく様子を見ようか・・」なんて、「たぶん尿路結石なのだろう。」という自己診断をくだして・・。その後まったく何事もないので、「出てしまったのだろう。」ということで終わっていたのだ。

 まるで平安を試すように色々なことも起こる。しかし、主の許された事しか起こらないという確信によって取り乱すこともなく、夜はよく寝て、朝は元気に起き、よく食べて、よく動き、よくしゃべるので、「こんな病人はおらんやろう・・」と思っている。

今日の主人の血液検査の数値を見た時、「きっと、私よりも長生きするで・・」そんなことを思った。私には絶対無理なほど、すべて申し分のない数値だったから・・。

帰り道、調子よく走る車に「このオンボロ車よく走るね。」「うん、だんだん調子がようなっている。」「買い換えなくて良かったね。」「ああ・・」
80歳にもなって、慣れた車を変えることに不安があったから、なんとか保たせたいと願って祈って来たのだった。

昨日も今日も良い日だね。
明日、明後日に何があっても、主に在って良い日である。

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ホタルの光

2014-06-17 16:04:25 | Weblog



 息子たちは小学校の土曜参観を終え午後に横浜を出発したのだが、停滞もなくとてもスムーズに走れたと言うことで、思ったよりもずっと早く元気に、賑やかに帰ってきた。

孫娘達は背も伸びて、言葉にも成長がみられていよいよ楽しい。
じいちゃんの畑のじゃがいも掘りでは、満面の笑みを浮かべておいちゃんの写真におしゃまなポーズをとっていた。
それでも末っ子の悩みは、「チビって言われるのが嫌なんだ・・」らしい。

「ばあちゃんならデブよりも、チビの方が可愛いくて良いと思うけれど・・」なんて慰めにもならないことを言ったので、ワアワアと大騒ぎになった。たわいない戯れの中で、孫を賜った喜びが染みる。

彼女はおいちやんの部屋にあるドールハウスのお人形遊びが大好き。おいちゃんは大騒ぎで部屋をかたづけ、棚からハウスを引っ張り出してサービスに努めている。

誘われて彼女たちの遊びに入ると、私はなぜか睡魔におそわれるのだ・・。子供の声のトーンが眠気を誘う・・不思議だ。
上の娘は相変わらず、本を手にすると没頭してしまって周りが見えなくなってしまうから・・それは良いことなのだけれど・・う~ん・・ちょっと、みんなつまらなくなってしまう・・。

 嫁さんはたわいもない四方山話を付き合ってくれた。私は殆ど外で世間話とか出来ないので、彼女と気の置けないおしゃべりができることが楽しみなのだ。
主人に「遅くまで起きていたから、差しつ差されつ飲んでいるのかと思った。」なんてからかわれたけれど、「紫蘇ジュースでね。」なんて・・。

主人の体のことや、その後の医師との関わりなども聞いてくれたので、私の心にあることなども話して、あれこれと負った荷物の棚卸し。女同士のおしゃべりも楽しかった・・ありがと。

 賑やかに焼き肉を食べた後、いよいよメインのホタル見物に出掛けていった。
すると・・ホタルは光りの川のように、無数の瞬きとなって迎えてくれたと言う・・。主人も「今までに見たことのない沢山のホタルだった。凄かった。」と興奮して話してくれた。聞いている内に主の御真実が、深い感動となって私の胸の奥に染みていった。

それが、切実な祈りであっても、たわいない祈りであっても・・、主はご自身がご真実であるゆえに、私たちの祈りを御身を低くして聞いてくださるのだろう。祈りが応えられる度に恐れを覚え、主を愛する愛に満たされて行く。ただひれ伏すばかり・・。

 振替休日の月曜日に家族揃っての記念撮影をワイワイと終えて、嫁さんの「行って来るね・・」と言う嬉しい言い間違いを残して帰って行った。

今、私は想う・・御国での神の家族の交わりは、どれほど素晴らしい喜びなのであろう・・。
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気まぐれパソコン

2014-06-13 21:49:15 | Weblog


10日以来pcを強制的に封じられていた・・と言うしかない。どうにも動かなくなったのだ。長男に教えて貰ってその通りに操作しても反応無し。pcの作者である次男は、「それでは帰るまで待つしかない。」という。

しかし、この3日間pcに触れる事ができなくてゲームも出来ず、ひたすら掃除をしていた。つまりそうれがみこころだったのだろう・・。「働け!」ということ。
ゲームというアイドリング状態が必要なのだと言い訳にして、いや、自分でも信じ込んでいたのだけれど・・。そんなことは完全に否定された。

暇でも、昼寝もできない私は仕方なしにあちらこちらと、コマネズミのように掃除をしていたけれど、掃除というものは決して尽きることのない作業であった。まだまだやることはあるが時間切れということにする。

今夜、次男が帰宅してスイッチを入れると、pcめ何食わぬ顔をしたすんなりと立ち上がった。
「ああ・・あれは何だったのか。」3度も試したのに動かなかったではないか!

悔しいけれど・・良かった。ずいぶん家の中がすっきりした。それは、それだけ汚れていたということなのだけれど、誰よりも気になっていた私が一番嬉しいから・・「これでいいのだ。」

「私へのご褒美」という甘ったるい言葉は好きではないけれど、明日は孫たちに会える!それは何よりのご褒美。やっぱり嬉しい・・。

ただ、最近こちらは気温が低くて昨日のホタルは2匹、今日は3匹発見と主人の報告。貴重なホタルたちよ命を大切にしてくれ・・。
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不信仰な私をお助けください

2014-06-10 13:35:42 | Weblog


 愛する子に食べさせようと、手を尽くして実に新鮮な美しい魚を手に入れました。料理人を雇い、最上の料理に仕上げるようにと十分に給金も支払い、丁寧に頼みました。
しかし、待てど暮らせど料理は出来上がりませんでした。

料理人がその魚に手を下すことが出来なかったのです。
彼女は料理人の腕が心配で魚の側を退かなかったからです。とうとう彼女の心配によって魚は腐ってしまい、美味しさを味わうことはできませんでした。
依頼しても任せ切ることがなければ、どれほどお金を積もうとも、どれほど丁寧に頼もうともその味わいを知ることはできないのです。


 祈ることは簡単でも、主に完全に信頼して安息することは簡単ではないのです。
暮らしの中でみことばに信頼して、イエス様に飛び込むように一度二度と主のみわざを経験する内に、大きな問題も安心して、御手に渡すことができるようになるものです。

イエス様さまは神の元から来られた教師です。そう、なにしろ私たちを知り尽くしておられ、ただ、良いことだけを計っていてくださるお方です。
私たちが信仰の無いことを訴えるとき、ご自身の信仰を分け与えて育ててくださいます。

ただ、主の方法に完全にお委ねし、私たちは安心して休まなければなりません。それまで私たちの積み上げてきたものは崩され更地にされるでしょう。キリストという土台の上にその願いが建て上げられて行くためです。
主に信頼して休めますように。


するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:23~24)
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ほ~たる来い

2014-06-09 17:06:47 | Weblog


 来週は、嫁の希望である生ホタルを見るために孫達が帰ってくる。嬉しくて張り切っているけれどかなり忙しい。いつも奇麗にしておれば何時でもどうぞ・・となるのだけれど。

毎日、一日一善のように準備をしている。冷蔵庫の掃除はもう終わった。汚れ物なども片付けたつもり・・。お風呂場のカビ落も先ほど終わった。洗濯槽の掃除がまだ残って居るのだけれど・・。

細々とした家事をする時も、晴れ間が多くてありがたい梅雨である。ただ、気を許すことはできないけれど・・、パラパラとにわか雨に襲われることがあるのだ。
お隣のご主人は「畑に雨が降ってくれんと困る」って先日こぼしておられた。ちょっと変な梅雨だ。

カーテンも新しくした。淡いグリーンなので外の緑と良くあって嬉しい。家の中まで庭の一部のように涼やかで・・違和感がなくて良かった。掛けて見ないとわからないものだから。ただ、冬はどうだろう・・。




 忙しくても聖書を楽しむ時間はある。今週はペンテコステ礼拝だった。使徒行伝2章から話してくださった。ルカ24章45節から読まれたので、今朝もう一度ゆっくり味わった。

「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて・・」(ルカ24:45)
この時、お弟子は復活のイエス様によって、備えられてたことがわかる。

十字架刑の直後は、恐れで人目を避けて、隠れるように戸を閉めきっていたけれど、イエス様の祝福とおことばを頂いた彼らはまったく違っていた。希望に胸をふくらませていたのだろう。

彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。(ルカ24:52~53)

恐ろしいエルサレムで、彼らは非常な喜びをもって神様をほめたたえていたのだ!
集まって「いと高き所から力を着せられる」時を彼らは期待にあふれ、感謝にあふれて、神様をほめたたえつつ待って居た。

知性の祈りはそんなに続かない。同じ言葉を繰り返し祈る必要はないのだから・・。でも、賛美、神をほめたたえる感謝が尽きることはない。たとえ、声は出なくなっても喜びは心の内から溢れ出るから・・。

聖霊を受けたお弟子はすぐに語り始めた。
「あなたがたは、これらのことの証人です」(ルカ4:48)その働きが即座に始まったのだ。
与えられた言語のままに誰にでも語った。聖霊によって備えられた働きは、とても大胆だけれど、本人にはとても自然なのだ。なみなみと満たされたものは自然に溢れ出す。それだけのこと・・ハレルヤ
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