石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

衣替え(2)

2014-05-30 20:15:47 | Weblog




 急に暑くなって、五月に真夏のTシャツなど出さなければならず、積み上げていた冬物を仕舞いタンスの入れ替えをした。
こたつ布団を洗って・・、毛布を洗ってなどなど・・この頃は洗いグマ。それにつけても気がかりな黄砂やpm2.5。だから予報を伺いながらとなる。
昔は黄砂ってちょっとロマンチックだったんだけれど・・、今じゃ戦々恐々、喉の具合も悪くなるし・・。

部屋の窓を開け放し布団を屋根の上に干す。押し入れを開け放して掃除機を掛け、引き出しから夏物を放り出して冬物を仕舞い込んで行く。
此処で捨てる物を選び出しておかないと、増える一方になることは分かっているけれど・・、

この前、捨てたセーターをずいぶん探したことを思いだした。確かに古い物だけれど着心地が良くて惜しかった・・。
またほどんど着ていないけれど、来年もきっと着ないだろうと思う服もある。奇麗でも主人が頑固に着ない物もある。捨てるべきなのだろうななぁ・・。

 ホルストの惑星をちょっとボリュームを上げて聞きながら、じゃんじゃん仕事をする。
途中でちょっと嫌になったけれど、木星のお陰で続けることが出来た。しんどくなったのは部屋が暑い所為なのだ。でも、窓にあれこれを置いているのでエアコンも使えないから、我慢がまん・・。

部屋の掃除が終わって一階に下りてきたときには、思ったよりも汗をかいていて着替えざるを得なかった。
それにしてもこの急激な暑さは何なんだ!とも思うけれど、夫婦共に動けているのだから・・まあ良いか。


 暑さの所為かどうかわからないけれど、大豊作で、毎日スナップやグリーンピースを食べている。うんざり気味の主人に、スナップは炒めたり、煮込んで卵とじにしたり、お浸し、お味噌汁の具、あらゆる料理の付け合わせなどなど、日々工夫をしているが・・、グリンピースご飯も何度か食べた。

昔は何処の家でも、旬には毎日毎日同じ物を食べるのは当たり前だった。飽きたなんて贅沢は絶対言えなかった・・。
だから私は平気だけれど、ついに今日、主人はスナップを片づけたと言った。これでも此処まで引き留めていたのだけれど・・さすがもう十分だ・・。

五月もやっと終わり。そんな言葉が出るのはちょっと疲れたのかな・・。
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祝福は安息の内に

2014-05-28 15:50:53 | Weblog


ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。(ヘブル2:1)

大切なことは「誰から聞いたか」ということ・・、それはイエス様に聴いたことば。イエス様が成就してくださった聖書の言葉。
何に押し流されないようになのか・・、イエスさまが成就してくださったわざに、人の努力を付け加えるような流れに押し流されないように、恵みに留まっていることだと思う。

 真実な主はおことばを、しるしと力あるわざによって、また、聖霊のたまものによって証してくださった。そう、人にはこのことが必要なことをご存じだから・・。
神様による一方的な祝福を受けたことが書かれている。

「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」(ヘブル2:6~8)

イエス様の事が書かれているのか、人のことであるのか・・私にはわからないけれど、今、信仰によって主とひとつにされているのだから・・、(だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。Ⅰヨハネ4:15
同じ事でもあると思う。畏れおおくあろうとも、主のものは私のものなのだから・・。


 しかし、私たちはその完全な勝利をまだ見てはいない。ただ、すべてをご自身において成就してくださったイエス様の事実を歴史において見ている。だから、この方によって私たちは約束の栄光を受けることができる。

イエス様は私たちと同じように血肉をもって人の子となってくださり、そのいのちを持って救い出してくださった。このことはすでに完了している。
なんと・・、死の恐れに縛られた悪魔の奴隷から、神の子とされる栄誉にあずかっているのだ。
造り主である主は、ご自身を否むことが出来ないご真実なお方だから此処に私たちの平安がある。


 これらを得ていてもなを安息しないから、主は祝福したくても出来ないのでなはいかと思う。
もし、頑張っている者を祝福するなら彼は「神は憐れみ深い」とは言わず、「私の良い行いによって神は祝福してくださった」と言うだろう。主は彼に間違ったメッセージを送ってしまうことになるから・・。

神様はすべての子供たちをどれほど祝福したいと思っておられることだろう!ご自身のしるしを現したいと思っておられることだろう・・。

イエス様の祝福を受けたのは十字架上の罪人(ルカ23:42~43)であり、子を亡くして泣いている母親(ルカ7:13~15)であり、叫ぶこともできない盲人(ヨハネ9:1~7)であった。彼らは間違いなく「神は憐れみ深い」というだろう、彼らにはその言葉しかないのだから・・。
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幼子ニコデモ

2014-05-26 16:56:44 | Weblog



「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」(ヨハネ3:2)

 屁理屈を言い続けるパリサイ人や律法学者の中にあって、ニコデモはみわざの事実をありのままに見ていた。それによってイエスの神性を悟ったのだと思う。
そのようなニコデモの目にイエス様は神の国を見せようとされた。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:3)


ニコデモの訊き方はユダヤ人の教師のようではなく、まるで幼子のようにシンプルであった。

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:5~8)


幼子のように訊くニコデモに対して、イエス様は霊の目を覚ますように奥義を語られる。おことばに食い付いてくるニコデモを喜んでおられるように感じられる。

ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネ3:9~10)

霊の目が開かれるためには、新しい革袋が準備される必要があり、古いもの役に立たないことを示され、それまでの知識は新しく生まれ変わるには何の役にも立たない事をはっきりさせられた。
このことは、ニコデモだけではなく、すべての人に向かっておっしゃっているのことなのだ。なぜなら誰でも霊においては神様の前に幼子であるから・・。

まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。(ヨハネ3:11~13)


 イエス様が事実を話されても誰にも分からないのである。この地に在る者が天の事柄を知ることはない。
ただ、ひとり天から下ってきてくださった方だけが知っておられる。だから、「わたしの言うことを聴きなさい。」と話してくださる。

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14~15)

なんと、ニコデモに十字架のことまで話された。だから十字架刑の後、彼はイエス様を葬る働きを果たした。彼の内にイエス様のおことばが確かに残っていたので思い出したのだろう。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16~17)


このみことばを覚えていないクリスチャンはないと思えるほど有名なことばであるが、これはイエス様がニコデモに話されたことばだったのだ。
もちろん今はすべての人に・・。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3:18~21)


罪とは何であるか、神がおくってくださった救い主を信じない事である。悪い行いとは何か、救い主に来ないことである。それは、神の愛への拒絶であるから・・。
真理を行うとはなにか、自身の弱さに働く神のわざを光の中に曝すことである。

幼子のようにみことばを聴こうとする者に、主は惜しげもなく奥義を語ってくださる。学問も奉仕も献金も年数も問われない。
何しろ出会ったばかりのサマリヤの女や、無学な盲人に教え導いてくださったのだから・・、なんと感謝なことだろう。

だからこそ、昔絵本で知った教えに留まることなく、人から教えられた教えでもなく、日々、聖霊を通して教えてくださるイエス様に、直接耳を傾け、主を知るために語られる奥義を待ち望む者でありたいと思う。

生きているものは成長を続けるはずである。生きている信仰、主との生きた交わりによって、体は衰えても霊は成長を続けもっともっと主を知ることができるのだから・・。
主に愛される幼子たちよ!

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10:21)
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皐月

2014-05-23 16:00:22 | Weblog



 多彩な新緑に包まれた道を今日はゆっくり歩く。木々は種類ごとに、微妙に緑の色を変え、形を変えて、あるものは照り映え、あるものは影のように佇んでいる。これこそ神の作品なのだ・・。
人がみんな違うように、神の創造はそれはそれは細やかで丁寧。


 整然と並んだ早苗の田の面は、鏡のように山の緑を映し、青空を映して、準備万端相整いまして候そんな感じ・・。

頭の上から透き通るようなウグイスの声、うん、上手に長く鳴いている。この間まで下手くそだったのに・・。
枝の先を見上げて姿を探すが飛び去る後ろ姿だけ・・見られたくないのかな・・。眼鏡は嫌いだと誰かが言っていた。

昨日ホトトギスの初音を聞いたから、期待したけれど今日はお留守みたい・・そう、ホトトギスはとても減ってしまった。


 ウマノアシガタ、ハルジオン、タンポポ・・草むらに普通にあるけれど、ちゃんと名前をもっている。
緑の中、赤紫のアザミに立ち止まる。五月の野の楽しみのひとつ、私が出会いを待つ花。

桜の枝では小鳥たちが宴会中、枝から枝へと鳴き交わしながら群れている。ぽかんと見上げていると、次々と谷を超えて飛び去った。
ゴメンね。邪魔をする気はなかったの、ちょっと姿が見たかっただけ・・。

鼻の穴をふくらませて、思いっきりフィトンチッドを取り込んだ。低血圧にも体が慣れたみたいで、回復したら五月は心地良かった。

 こんな日本が好き。里山が好き。
此処には、季節毎の豪華なお接待がある。花も木も小鳥も雲もみんなでいのちの喜びを奏でくれる。
この静かな風景が好き。出会う人ごとに穏やかな挨拶を交わせる日々が好き。
このような日本が好きなのだ。

でも、回り舞台のように、すべてがくるりと変わってしまうのではないか・・と思う昨今。
「日本を守る」「日本人を守る」という叫びを聞く度、すべてを失う準備がなされたような不安を覚える。どうしてそのことが守ることになるのだろう・・という疑問の中で。
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ドライブ

2014-05-21 14:17:40 | Weblog


 昨日は「ドライブに行こう・・」なんて、主人に付き添って医大へ行ってきた。車で行くようになってずいぶん楽になった。まあ、精神的な緊張が無くなったからだけれど・・。

主人は畑が忙しくてほとんど家にはいない。その様子だけで私には状態が良いことがわかる。ただ、体内に悪性リンパ腫というものがあることは事実なので、定期的な検査は続くけれど・・。

お天気は良く車はスイスイ走り・・、私たちはどうでもよいことをしゃべり続ける。
今回の騒動で、私は改めて主人の存在の大切なことを知った。
若い頃は暮らしのため、子育てのために主人が重要であった。でも、歳を取って気付いたことはその頃には思っても見ないことだった。


 私にとって、主人が掛け替えのない遊び相手であると言うこと・・。いえ、何処に出掛けるわけでもないし、飲み友達でもないし、カラオケに行ったこともないけれど、私は主人相手に毎日言葉によって遊んでいた・・。

ある時は「わかるかな・・わかんねえだろうな」と思いつつ、ペラペラとしゃべり、ある時は主人の問いにちょっと的を外して・・そう、外堀から埋めて行くように話をするとか・・。
まあ、そんなことは若い頃は絶対になかったことだ。性急に説き伏せようとしたり、ただ伝達するために要点だけを伝える・・そんなことが大方だったから・・。

しかし、最近は遊び半分な会話が多いことに気付いた。それは、ほんとうに日常なので、そのような遊び相手がいつも側にいてくれないとどんなに寂しいだろう・・どうすればよいだろうと気付いたのだ。


 伝わってなければテレビに語っても同じではないかと思われるが、私は主人の反応を見ながら楽しんでいるのだ。遊んでいるのだ。それは、最近のちょっと呆けてきた主人であってもちっとも困らない。よけいに面白くなってきたくらいだ。

主人はイチゴミルクの大好きな私のために、毎年イチゴを作ってくれるし、葉っぱ類が好きなので年中作っては、泥を落として持って帰ってくれる。
私のからかい半分な会話にも、のほほんと応じてくれる。ただ、どこまで聞いているのか居ないのか・・よくわからんこともあるけれど、時たま打てば響くような返事が返ってくることもあるから・・けっこう面白いのだ。




 日曜日は地域のお掃除だった。
主人は早くから出て行った。私たちの地域では家族総出に近く、みんなでやるのだ。
次男も帰っていて参加してくれた。「今日は掃除なんだ」と話しただけで、時間になったら準備をして「何をしたら良いのか?」と聞くので、「みんなで地域を奇麗にするだけ、みんなのすることを見ていて、自分に出来る事を手伝う。」「わかった」彼は戸惑う様子もなく軍手をしてさっさと出て行った。

そんな様子に、聞こえないことをもう、そんなに苦にしていないなぁ・・って、その成長が頼もしく、イエス様と彼の職場に感謝した。そう、イエス様の備えの中で、彼は会社においてじっくりと育てられてきたのだろう。辛い所も通ってきたけれど、それも自信になっている。


 同じ事が続くように思える、同じ事の繰り返しのように思える日々の中に、二度と帰ってこない日が収まっているのだろう・・。そこにイエス様のお憐れみを見ることができる。

洗礼の学びが主人は楽しいらしい・・。日曜礼拝も、いつも先に家を出る準備をして待って居る。昔、私に「行くな」と怒鳴ったことなどすっかり忘れているのだろう・・私はしっかり覚えて居て、その変わり様をニヤニヤと眺めている。


夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4:27)
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文脈

2014-05-19 14:14:30 | Weblog

アゲハ.jpg

 母の日のメッセージで、カナの婚礼の箇所から母と子の関係を語られた。ぶどう酒の奇跡が中心ではなく、イエス様とマリヤを中心として語られたのが新鮮だった。
聖書って本当に深くて広くて飽きることはないなぁ・・そんなことを思わせられた。

マリヤがイエス様に「ぶどう酒がありません。」と今すぐの必要を告げたとき、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4~5)と十字架を語られた。

この箇所をヨハネ19章の十字架上の言葉、
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。(ヨハネ19:26)

「女の方」という言葉によって、奇跡の初めと終わりが繋がれていることに気付かせられた。そこから、イエス様の母マリヤへの備えが伺えて感動した。
メッセージがその場限りで終わらずに、聖書の世界を広げてくれることは楽しいと思った。


 祈祷会で、姉妹が「わからなかった。文脈がめちゃくちゃで・・」と話されたとき、私も全く同じ事をよく感じていたので思わず「そう、そう・・」なんて横から口を挟んでしまった。
でも、姉妹のその言葉から多くのことに気付かせられた。

イエス様の答えは文脈に沿わず、会話としてはちぐはぐなところが多くある。イエス様が指し示しされる答えと、人の求めるステージがまったく違うのだ。
人は目先のことをイエス様に話す。訴える。祈る。
イエス様は未来を見て、約束や、忠告や、備えのために語られるから・・。

母マリヤに対して「何の関係があるのでしょう」という言葉を、母と子の関係に対するクッションとして備えられたように思う・・、
十字架のショックを和らげ、ヨハネという息子を与えるために・・。そうして彼女にイエス様を失った後も生きる力を準備されたのだと私は思う。

 初めの奇跡の時に、イエス様は十字架のあがないという終わりの奇跡を語られていたのだ。そんな文脈が人にわかるわけがないのだけれど・・。

ちぐはぐに思えるイエス様のおことばを受けて、マリヤは「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と、今の必要が満たされることを信じた。まだ一度も奇跡を見たことが無いにもか関わらずである。

マリヤがイエス様の言葉の内容に依らず、御声を聞いただけで即座に行動できたのは、普通の暮らしの中で、イエス様との多くの応答があり、濃い関係が築かれていたからである。
信仰の文脈は、日々、時々刻々のイエス様との関係によって解くことができるのだろう・・。自分の中で育ててきたお方への信頼によって。
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堅い食物

2014-05-17 14:19:21 | Weblog



こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3:24)

 行いによるものはキリスト者にとっては乳であり、やわらかい食べものということになる。それは信仰への導きの初歩なのだ。それは入り口であり留まるべき所ではない。なぜなら、そこでは生けるキリストには出会えないからである。

そこに在るのは、見えていると言う立派なクリスチャンと、到達できない惨めなクリスチャンである。
神が与えようとしておられるのはそんなものではなく、神の家族という安息であるはずである。


 到達すべき大人の食物とは・・、意外なことに人の努力や頑張りとは真逆のものであった。それは完全に聖霊によることであり、上から与えられるのであり、ただで受けるものである。

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示録22:17)

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)

これが堅い食物のかたちである。

イエス様の十字架によるあがないによって完成された信仰者は、欠けのない者、完全な者でなければならないのである。人は誰もそうはなれないが、神にはどんなことでも出来るからである。
この信仰に留まることによってキリストに包含され、欠けのない完全を得るのである。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)


しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル5:14)

聖霊による感覚の訓練は、ただ「アーメン」という神への同意によるのある。
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主を知る恵み

2014-05-13 20:38:32 | Weblog


彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」(Ⅱコリント10:10)

イエス様に出会って新しくされたパウロは、「人間的なものを頼みにしない」と言った。塵芥として捨てたものを用いて話すことはなかったのだろう。
彼は人間的な権威を捨てて、主に在る弱さを纏った。だから、彼は人の評価を得ることはなかった。人の間で通用するものと、神の霊によるものは水と油であるから。

ノーベル賞とかオリンピックのメダル受賞者には人はこぞって拍手を送る。人の与えた権威は人間賛歌であるからだ。それには自分を含めて感動することが出来るからなのだ。
だから人は、神を知ることさえも人の知恵や知識によって知ろうとする。愚かなことである。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

イエスをキリストと知ったのは誰であったか、律法学者であったか、パリサイ人であったか?
いや、無学な罪人たちであった。なぜ彼らはキリストを知ることができたのか、弱かったからである。その弱さの中に主から入ってくださったのだ。


 金持ちの青年に、イエス様のお言葉に完全に従順しようとするほどの行いがあれば、自分がアナニヤやサッピラのような弱い者であることを知ることができたであろう。アナニヤとサッピラの罪はお金を取っておいたことではなく、善行を装ったことである。人が自分の弱さをごまかすなら、救い主を求めるチャンスを失い永遠の死が待って居る。

行いによって救われようとすることは悪くはない、イエス様も良い行いは勧められる。それは、真実に行おうとすれば誰でも弱さを思い知ることとなり、イエス様の元に行かざるを得なくなるからである。イエス様の導きはそこにあるのだと思う。
ご自分が介入することができるように、心の門を開けさせようとしてくださるのである。主が完全に働くことの出来る弱さを求めておられるのである。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5)

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25)
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トイレの事など・・

2014-05-09 14:35:31 | Weblog


 医大に通って一つ驚いたことがある。婦人用のトイレに行列が出来ていて、その中に一つだけ開いているトイレが和式であったこと。病院だからか・・しかしみんな元気そうだったが・・。
私は何処に行っても、たとえ階段の一つや二つを登り下りしようとも探し回るのが和式である。

 以前ある会合でお隣の婦人と話しているとき、自宅が和式トイレであることを話すと、露骨に軽蔑されたことがあった。その反応に驚いたのだけれど、一つ確認したいことがあったので怯むことなく「私は便秘気味なのです。薬を使いたくないので洋式は困るのですが・・そんなことはありませんか」と聞くと「確かにそれは・・ありますね」と言う答えが返ってきた。

 トイレを改造するチャンスは何度かあった。
主人が壁に錆が出たということで、壁を剥がしてしまったことがあった。こう言う思い切ったことをやる人である。結局なにもなくてそのまま放置された。
私がなんとかしろ・・と言ったことで、「放っとけ!」と怒鳴られそれっきり。そのときは忘れた頃になんとかしようと思ったが、今では面倒くさくなってしまった。

次は、ホーローの風呂桶に錆が出て入れ変える事になった時、
あと一度は下水道工事のときだったが、ボロになった門扉は変えたが、トイレを洋式に変えるチャンスであることは分かっていたが結局止めた。
用を足すのに一々座り込むのも面倒、どんな奇麗にしても便器の一部に体が触れるのも気持ちが悪く、どうしても困るときが来たらその時に考えればよいと・・。


 最近しゃがめない子供がいるということが新聞に載っていて驚いた。トイレが和式なら起こりえないことである。トイレに入る度のストレッチなんて、生涯となれば何回繰り返すことになるのだろう。
膝に悪いという話を聞いたように思うけれど、自分たちになんの問題もないのでこの話、その真偽はわからない。
それに昔のほうが、膝が痛くてトイレができないという話は聞かなったのだ。

しゃがむことと正座は関係があると思う、私は正座が好きである。体重は重いけれどそれでも正座の方が椅子よりも好きだ。
以前聞いた話だけれど、正座は膝に必ずしも悪くないと言っていた。むしろ原因は他にあると思う。なぜなら、椅子の生活になってからのほうが、健康食品だなんだと膝の障害について多く聞くようになったから・・、
むしろ、しゃがまない生活、正座しない生活が膝を弱くしてしまったのではないかなぁ・・。経験からそう思う。


 家をバリアフリーにすることにも私は反対である。年寄りには大いにバリア有りが良い。
気をつけてないと危ないと夜中も注意深く階段を上り下りし、頑張ってちょっと高い上がり框を乗り越えて、敷居に躓かないように気をつけて足を上げ、高い所にも背伸びしたり、毎日用を足すためにしゃがみ込む。

お茶のみの私は結果トイレが近くなり、一日何度もストレッチを繰り返すことになる。
それはどんなにナマケモノであっても繰り返さざるを得ない環境なので、ただそこで生活しているだけで運動になるのだから私向きである。

だから、家をどうにかしようなんてまったく考えないのだ。それに、この家私の設計なのだ!大工さんに部屋の配置図の希望を書いて渡したら、その通りに建ててくださった。
そのとき「設計士さんが良い配置だとほめていた」という話を聞いたので愛着があるのだ。単にシンプルなだけだけれど・・。

話は逸れたけれど、いくらバリア有りが良いと言っても、身に馴染んでいるからこそ楽にこなしているのであって、何かを変えるときその変化がどう転ぶかはわからないのだ。
人様にはどうであれ、年寄りにはマイナスとなる恐れもあるので、あまり世間の流れに乗らない方が良いこともある。なんでも便利で楽であれば良いのではない。




 熱は二晩出たけれど、昨夜は寝汗をかいた程度でこんな無駄口を利くくらい元気に回復。私のかかりつけのお医者さんが、こんなに風邪が長引くのは「花粉症とちがうかなぁ・・」とお薬をくださった。
窓口で看護婦さんに「花粉症デビューですね」なんて冷やかされて、「???」だったけれど、強烈な鼻づまりと喉の違和感が無くなった。離せなかったマスクなしでも平気だ。一日たった一錠で恐るべし花粉症薬。
それにしても・・、此処まで来て参加しなくても良さそうなものを・・。
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捨てるべきもの

2014-05-07 10:29:43 | Weblog


神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ3:3)

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ3:8~9)



 人間的な誇りとなる多くのものを持っていたパウロ。しかし、それらを塵芥と捨てた故に、彼のすべてのものは主の御前に価値あるものとなったのである。
パウロが捨てたものを拾ろうようなキリスト者になってはならない。彼が涙を持って、

「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3:17)

このように叫んでいるのは「間違わないでくれ」という叫びである。
血筋にも行動力にも学問においても、なんら申し分のないパウロであれば、彼の人間的な力によって、その働きが成ったと勘違いをする者が現れることを危惧したからであろう。
御霊に寄らなければ、人は人間的なものを用いて主を知ろとし、主を伝えようとするからである。

私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3:5~6)

パウロは、捨てたからこそ、これらを並べ立てたのであって、主に在っては、その陳列台に並べられているものの無価値であることを知らせるためである。

もし、パウロ発のそれらが何かの価値を持つなら、その分だけ福音が損なわれると告白しているのである。
パウロの純粋な信仰が伺われる。それは、彼が聖霊によってイエス様をよく知っていたからであり、聖霊に寄り頼んでイエス様のように生きようとしたからであると思う。


キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2:6~8
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