石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

いのちの木は見えていなかった

2014-04-30 13:59:02 | Weblog


 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。(創世記2:9)

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」(創世記3:1~3)


園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木があるのに、此処ではいのちの木には一切触れられず、とても自然に善悪の知識の木だけが話題になっている。エバの認識ではいのちの木の実も食べることが出来なかったことになる。

この書き方の不思議を、「どう思う?」と話してくださったのは油菜さんだった。
でも、私はしんどいこともあってこのことを側に転がしておいた。「気になるけれど・・」そんな感じで・・。
昨夜、人の目の不確かさに思いを巡らせていたとき突然そのことは開かれた。


 いのちの木は、アダムにもエバにも見えなかったのではないか?なぜなら、彼らには必要なかったから・・。そもそも彼らは死ぬ者として造られたのではなかった。
見えないというよりは目に入らなかった。必要としていなかったのだ。

アダムもエバも完全な者として造られていたけれど、彼らはまるで生まれたての赤ちゃんのように、善も悪も命も死も知らなかったのだ。
死を知った時、始めていのちの木の存在に気付いたのだ。つまりそれが必要になったから・・。

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記3:22~24)


だから神は、罪を持ったまま永遠に生きることから人を守るために、御子の救いの日まで園への道を封印された。


 今も人が、死を自分の事として真っ正面から考えることなしには、命の大切さを知ることはないだろう。
永遠の死を知らなければ、永遠のいのちを求めることもない。だから、サタンは人の心に働いて、死について誤魔化しの美しいストーリーを作り上げ、永遠の滅びである死を語らせまいとする。


 今、エデンの園への道は門であるイエス様によって開かれている。イエス・キリストが完了してくださった十字架の御わざによって安らかに出入りし、いのちの木の実を食しているのである。
それは、この世の死の間際に必要なだけではなく、世にあって自分の十字架を負ってイエス様のみこころを行うために必要なのである。

人は今も善悪の知識の木の実を求め続けている。誰よりも賢くあろうと・・。しかし、いのちの木の実を食するとき、その善悪の知識の木の実は完全に魅力を失ってしまう。完全なものを得てなを不完全なものに憬れる者はなく、その時始めて平安な歩みが始まるからである。

わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。(ヨハネ10:9)

その木は、御子から与えられる聖霊によってその価値を見ることができる木なのである。今私たちは信仰の目でその木を見ている。その実を味わっている。
キリストを信じる者は、イエス様という門を通って、日々信仰によるエデンの園を行き来しているのではないか・・。

その目こそ、真にイエス様によって開かれた目なのであろう。盲人の癒しの時のように、今はかすんでいても、日々もっと鮮やかに見ることができるように願う。それはみこころを行うために是非に必要なのだから・・。


今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(Ⅰコリント13:12)
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メッセージ「思い出しなさい」を聴いて

2014-04-29 10:55:15 | Weblog



 「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
イエス様の祈りを一番側で聞いたのは、十字架の上の犯罪人であった。
イエス様の苦しみの時に誰か共に居たい人がいるだろうか・・、弟子たちも逃げてしまっていた。

「父よ。我が霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
犯罪人のひとりは、イエス様の叫びを聞いた時、自分の命を委ねるべきお方をを知ることができたのだ。
百人隊長の「ほんとうに、この人は正しい人であった。」という、「正しい」とは誰にいのちを委ねるべきかを知って居たということなのである。

誰を信じ、自分のいのちを誰にゆだねるべきかを知ることが最も大切なことである。
誰を信じ、誰に聴いて生きるのか・・、終わりの時、誰に命を委ねるのか。
人は聞いても忘れることがある。みことばを忘れているということはその時、心を亡している時である。

女達は、墓にイエス様を尋ねた「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」と御使は言った、このことはイエス様のお言葉を忘れてしまっている行為であった。
しかし、「女たちは、イエスのみことばを思いだした。」
(後山師メッセージより抜粋)



イエス様は苦しみの時、私の近くに居てとりなしてくださっている。いつだって主は一番必要な人の側にいてくださるお方であり、罪人の側にいてくださる。そのことは本当に平安の源である。

みことばを聞いてもすぐに忘れる者である。いや、マリヤたちのように死者は墓に尋ねるという、過去においては当たり前の行動を反射的に取ってしまうのである。
聞いたみことばが常に生きて働き、それを現実生活の中で味わっていないと、信仰は二重になって分裂してしまうのだと思う。

今、「聖霊がみことばを思い出させ、その希望に留まらせてくださいますように。」と切に祈ろう・・
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イースター礼拝

2014-04-25 14:24:15 | Weblog


メッセージが心に残っている。思いだして書いているので正確とはいかないけれど、喜びを分かち合いたくてpcに向かっている。

メッセージは、ルカ23章27~46節から・・
「十字架につけろ」と叫ぶ人々は、誰もイエス様をキリストとは認めなかった。
ただ、イエス様と一緒に十字架刑を受けていたひとりの犯罪人だけが、イエス様をキリストと仰いで救いを願ったのだった。

彼は、その場の流れに逆らってひとり主を告白した。それは世の流れに逆らって立つ信仰者の姿である。
不信仰の暗闇の中で神殿の幕は真っ二つに裂けた。神と人をへだてる隔ての壁は、人の不信仰の闇の中で取り去られた。


イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:46)

この祈りによって、イエス様が人の罪を負って死ぬ死のみに終わらず、よるよみがえりのための捧げものとなってくださったのだった。


 イエス様がご自身を父なる神様に委ねられたことで、神様のご計画である復活、新しいいのちの計画が私たちに成就したのだ・・。
人の行いや信仰ではなく、神様の良きご計画によって一方的に上から開かれた救いの道だから、私たちにそれは常に開かれているんだ・・。

私たちは絶えず揺れ動くものだけれど、今は、開かれた至聖所でどんな時でも救い主にお会い出来る。「神の国はあなたがたのただ中にある」のだもの・・。
なんて驚きだろう・・それが、神のキリストを否む不信仰のど真ん中、暗闇の中で備えられたとは・・。みことばを聴きながら感動していた。

「十字架につけろ」という叫びと同居するような、女の泣き声の群れに向かって、イエス様は「自分自身と子供達のことのために泣きなさい」と言われた。
人に同調するばかりの生き方では、この先世に起こる出来事に対して、どうして信仰によって立つことができるだろうと・・。


「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

イエス様は人の側に立って弁護してくださった。そう・・今もイエス様は私たちのために弁護していてくださる・・。

先週は大きなお葬式があり、先生はお疲れだろうとちょっと心配をしていたけれど、お元気なメッセージを頂いて、先生の内にすべての必要を満たし、守っていてくださるイエス様を崇めてメッセージを感謝した。

体は日々衰えてゆくものだけれど、霊は主にあって常に新しくされ、日毎に御約束のいのちに近付いている。その望みに心からハレルヤ!!

あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ3:10)
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しんどいねん

2014-04-24 14:52:18 | Weblog


ギラギラお天気がしんどい・・
カラカラ空気で、喉はイガイガ・・。
昨日までのヒリヒリ感は無くなったけれど・・。

手もカサカサ・・
目はチカチカで・・。
体はダラダラ。

油菜さんと聖書のお話しをしている時だけ元気だったけれど・・。
ダメダメな奴め。
でも、ほんとこの季節は苦手・・しんどくて何をする気にもなれない。

大自然の壮大な活動には、いつも圧倒されて私は眩暈がする。
若葉まですべてキラキラしているから、眩しすぎて見たくない。


主人は朝早く出て行って、昼食を済ませると再び居なくなる。
元気溌剌なんでやねん・・。

そんな私の側にいて、冬を越したメダカさんだけは、
ユラユラ、ヒラヒラ・・の~んびりとすっかり安住して、
ガラス鉢の小さな世界で、いつに変わらずたゆとう様にホ~ッ・・
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一件落着

2014-04-16 15:13:54 | Weblog


 主人は鍬を担いでご近所さんと竹の子掘り。そう例年通り、年中行事のひとこまだけれど、昨年は「今年でもう終わりかも知れない・・」そう思ったものだった。

昨日は医大へ、先日のPET検査の結果を持って行って説明を受けた。
長期戦になりそうな予感に、先日から車で通うようになっていた。幾らか安く通うことができるのでそのほうが助かる。主人の運転も守られて心配することは無かった。

昨年の検査で肝臓などに多数散らばっていた癌は、今はひとつであった。それは少し大きくなっていたけれど、血液検査の結果を見る限り、隣接する肝臓、膵臓などを圧迫している様子はないとのことで、今後血液検査を続けて様子をみるということに落ち着いた。
歳を取れば、内なる敵と共存することを選択することも良し・・。

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)


 今日、掛かり付け医に報告に行った。「これで良いと思いますよ。」と言ってくださった。このことばは主人の安心にもなる。
主人はよく食べて、よく眠る。私たちは良くしゃべるし、くだらないことで良く笑う。癌騒ぎの最中でも、いつもどおりでなんにも変わらなかった。

「しかし、お前は何があっても冷静やな。」と主人が言った。
「イエス様を知って居るからだよ。大丈夫だって分かっているから・・」
「確かにそうやなぁ・・」と主人は言った。
こうは言ったけれど・・、実はずいぶん要らぬ心配もし、心の中で狼狽えもしたんだけれど・・。

でも、主人の前ではいつも「大丈夫」と落ち着き払っていることができた。私が動揺したら主人は不安になる。不安はいつもどおりの暮らしを壊す。食欲をなくし、睡眠を妨げる。それは健康な人でも病になること。
いつもどおり・・それは窮地に立ったときこそ守りたいこと。




それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。(ルカ22:39~40)


 今週のメッセージで、十字架刑を前にイエスさまは「いつものように・・いつもの場所で・・」祈られたことを話された。
「いつも」がどうであるか・・その大切さを教えられた。何か事があったときには人は何も出来ない。急にみことばを求めてもそんなドタバタでは得られない。

いつもの親しみの中で、霊の宝物倉に蓄えられているみことばから、聖霊によって時に叶ったみことばが示される。
それは、一寸先も見えない闇夜の危機に、「足のともしび、道の光」として安全な導きとなり、何時も通りの平安が守られる。

その時・・、どれほどオタオタしていても、みことばは碇のように世の波風による動揺を治め、立つべき所を守ってくれる。

そう、人の愛は不完全だから、絶えず揺れ動くものだけれど、神の愛の完全さの中に居らせてくださるから・・

誰も先のことは分からない。何が完全であるのか最善であるのか・・それは時に偶像のようでもあったりする。
しかし、すべての創造主だけは、すべての初めから終わりまでを知っておられる。だから、この方に身を寄せることほどの安心が他にあろうか・・。簡単な結論である。


 竹の子掘りのおじいさんは、残念ながら竹の子を持って帰ることができなかった。スカンポとわらびと木の芽・・。
おばあさんは文句を言った。「木の芽があっても、肝心の竹の子がない・・。」

「竹の子なんかどこにあるか。まるでブルドーザーが搔いたように、掘り返されてなぁーんにも無い。」おじいさんの言い訳。
そう、まだまだ芽を出さない内から、イノシシが盛んに掘り返していると言っていた。
猪に鹿に・・今、山里は彼らのやりたい放題。人にはどんどん貧しくなってゆく山の恵み。
あきらめてワラビご飯で満足しよう。スカンポ剥いて灰汁取りしよう。
木の芽は・・後で考えよう。
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花の山

2014-04-14 13:16:05 | Weblog


無数にハラハラと舞う花びらが、山を薄いピンクに包み込む
一陣の風に歓声が上がる。上から横から谷底からも吹き上げる花の嵐・・
手にも顔にも口の中まで・・花びらのノックを受ける
「あら、花びらって力があるんだ・・」って、薄いピンクの小さな小さな一片に・・



上から横から下からも・・舞う花びらに包まれて、
まるで酔っ払ったように足下が揺れる。
そう、包み込まれて、抱かれて・・寄りかかっているかのようで・・



春の弔い・・
いや、いや、いのちの踊り。喜びの舞。
山を祝福して、見る者を祝福して最期の大盤振る舞いと来たものだ。

山桜は、赤い若葉が背伸びして、次はお任せなさいと手を広げる。
だから、思いっきり今を楽しんで良いのだと・・
桜の中に、浮かび上がっているような・・
そんな、妖しさに酔ってもいいんだと・・。
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「あなたがたは決して死にません。」

2014-04-11 19:50:39 | Weblog

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「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)

 サタンはエバを罪に誘惑するとき「あなたがたは決して死にません。」と言った。万物の造り主である神様は「必ず死ぬ」と言われた。そうして今、人は百パーセント死ぬことを見て知って居る。
しかし・・

主人の病院通いに付き添って1年、医療がまるで万能であるかのような感じを受ける事がある。完全な医療を受けた者は死なない・・、そのような勘違いをさせる力が働いている・・そんなふうに感じた。

人が造り主である神を無視したときに、「あなたがたは決して死にません。」とまるで死を退けることができるかのように、ささやきかけるものがあり、人はそれにすがりつく・・。そう、死から目を背け、造り主の言葉をないがしろにさせる罠。

医学は神が人に許された能力だ。それが死と対立するはずがない。
その医療現場に、カンファレンスに造り主を迎え入れて耳を傾けるとき、それは共存し完全なものとなるはずだと思うけれど・・。

ただ、そのことには人の謙遜を求められるが、それは難しいことではないと思う。事実を真っ直ぐに見れば誰にでもわかるだろう。今まで不都合だからと無視してきた事柄を直視し、そこで立ち止まるなら・・。

 造り主を除いた人の暴走になんの勝利があるだろ・・。どんなに医学が進んでも人は必ず死ぬのだから、結局行き着く所は敗北である。
病院で人生を終えた人が、明るい正面玄関から堂々と出て行くことはない。この現実が、必ず誰もが迎える医療の終着点なんておかしいことだ。

神様は「必ず死ぬ」と言われた後に、死からの贖いという御子イエス様の救いが備えられ、死は救い主によって生のゴールとなり、グリコの看板みたいに手を上げて天の喝采内にゴールに飛び込んで行く祝福となったのである。

 「死なない」という惑わしにすがりついて、造り主、救い主のことばを無視し続けるから、突然足下が抜けるように永遠の滅びに落ちて行くことになるのである。誰もがそのことを知って居るからこそ、必死で「死なない」という偽りにしがみつこうとしてしまう。
しかし、死という刑罰は今や罪の裁きではなく、ご自身の命をもって救いを備えてくださった、神の御子イエス様を信じない事の裁きなのである。

病院はものすごく疲れる所である。そこはサタンの草刈り場のようであるから・・。しかし、その荒野にはイエス様も居てくださる。
どんなに弱い者にであっても、バラバのような悪者であっても、たとえ愚かであっても、信じて救いを求めるならイエス様は助けてくださる。
逃げ場のない死という人の憐れに、造り主が愛によって備えてくださった救いがある。

刑罰の死ではなく、新しいいのちへと移される晴れがましいゴールが待って居るのだ。
その死をどうして恐れたり、否んだりする必要があるだろう・・。苦痛の中で、人の尊厳を弄ばれてまで逃げ惑うことではない。

神様が人に準備してくださったものは、「必ず死ぬ」それこそが完全な救いであり、罪からの脱出なのだ。
この世の命の長さではなく、望みのある死を見いだすために、与えられている時を用いることこそ大切なのである。人は必ず死ぬのだから。
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愛の本質

2014-04-09 00:21:32 | Weblog


 「病気」って調べると、「苦痛や不快感を伴い、健康な日常生活を営めない状態」と出た。
主人はこれらに当たらず、何も不自由はない。けれど一年間検査、検査に明け暮れて、結局手術まで・・。これは今日主人の口から断ってきた。

主人の病気は、検査データという数字であり、CTやエコーやPETなどの映像上でのことで、それが病気を証明していると言うけれど・・。本当にそれは将来を脅かすのだろうか?その将来とは何時のこと?

生きている体は絶えず変化していると思う・・人それぞれに違いもあろうし、一喜一憂する度に癌が発生したり消えたり・・そんなことを日常茶飯事に繰り返しているのじゃないだろうか・・。
私の理屈はこうだから、病院ではなかなか話がなかなか飲み込めなくてとても疲れる。


 今日は3人の先生とお話して脱力感でへたり込むほど疲れた。なぜ、こんな無駄なことをしなければならないのか・・。
いや、それは、初めから覚悟していることであった。すべては主人の納得のために踏んでいる手順であり、主人にとっては「病気だ」と言われることは脅威であろうから、「怖がらなくても良いよ。」と一緒にいるのである。


 神の御子であるイエス様は、私の罪の身代わりに十字架で死刑という刑罰を受けてくださった。
いったいこの私になんの価値があろうか・・神の御子どころか、誰であっても私の為に死ぬなんて、そんな引き合わぬ愚かなことはないのである。それはまったく無駄なことである。

その愚かな無駄なことをイエス様はしてくださった。なぜか・・なぜなのか・・ずっと問い続けてきたことである。
ただ、「愛」とはそういうものだった・・。それは理屈も理由もなくそういうものなのだろう・・。


 長男が仕事を終えて遅くに着いた時、風呂から上がるのを待って、胸に溜まっていたことを話すことができた。
メールでは直接病院に行くとあったので、話す間もないだろうとあきらめていたから、その時間はとても嬉しくホッとする時だった。
嫁さんが「前日に行って話を聞いた方が良い。」と勧めてくれたのだ。彼女の気遣いが嬉しかった。

次男は休みを取って京都へ連れて行き、昔懐かしい多くのものを見せてくれた。鴨川であり、木屋町の柳や桜であり、唯一の少女時代の華やぎである「中原淳一」展だったり・・。
「ゆっくり、見ろ」と荷物を持ってくれたので、のびのびと好きなだけ楽しむことが出来きた。それは窒息しそうな日々から解放されて、深呼吸したような一日だった。

主人は「行ってこい。教会は俺に任せておけ」とひとりで礼拝に行き、迎えに来て「良かった。良かった。」と私の話を喜んでくれた。
何処に行っても親切を受けた。見ず知らずの人にまで細やかに優しくされた日だった。


 ああ・・って、少し主の意図が見えて来た気がした。
私は、早くに親を亡くし、祖父母を亡くし、ひとりで生きてきたようなものだった。だから、愛の経験がとても貧しい。主は今、それを教えてくださっているのではないか・・。
「受ける愛の味わい」と「差し出す愛の味わい」を知れと。

わけのわからぬ主人の癌騒動は、苦しむ主人を看る事ではなく、無意味に思えることにも寄り添う、愛の本質を教えてくださっているのだろう・・。それは私の知らない世界だったから。


 手術をしない代わりに、明後日は遠くの病院までPET検査を受けに行く。二人で何だかんだと言いながら一日かけて行くだろう・・。その元気と、その必要が満たされていることを喜びながら、差し出す愛の味わいを体験しよう。
主が私たちに掛けてくださっている手間暇を覚えつつ・・。
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心配

2014-04-05 20:11:27 | Weblog


 主人が花がとても奇麗だと誘いかけるので、昼食後二人で近所をぶらぶら・・、此処のところ外に出ていなかったから・・、
確かに桜色満開・・花盛り。あらゆる花が白く黄色く咲き誇っている。
美しいこと・・それはわかる。ちょっとは感動もする。
桜、レンギョウ、コブシ、桃に杏・・、タンポポ、水仙、ムスカリの絨毯・・などなど山盛り・・

「もう・・、帰るわ。」
「なんや、向こうの桜もきれいやで・・」
「ちょっと、しんどい」
「無理せんでもええ・・」そう言ってくれる元気な主人を畑に残して戻る。

風邪の熱は下がったのにすっきりしない。
私が熱を出して寝込むなんて鬼の霍乱。少々の風邪気ぐらいでは布団に入ることもないけれど、今回は二日ほどダウンした。
病院ばかり出入りしているのだから、覚悟はしていたけれど・・。


 長男が3月31日の夜遅くに帰って来てくれた。仕事を終えてから横浜から帰ってくるなんて、そんなことが出来るのが驚きだった。
翌日の医大に付き添ってくれて、外科医の説明、血液内科医の説明を聞いてくれ、返事を次に持ち越してくれた。

てきぱきと冷静に聞いてくれるのは心強い。側で居てくれるだけでもほっとするし、頼ることが出来るということには、甘い味わいがある・・。
ただ、その後しんどさがどんどん増してきてダウンしてしまった。結局風邪に負けたのだろう。

熱が上がったり下がったりしているなかで、医師の説明がぐるぐると回っていて、「膵液が漏れることがあるかも・・、」それはどれほどか痛いことだろう・・。
「同じ手術は経験がない。」モルモットじゃない!それはあまりに怖い・・。でも、治療を受けるには避けられないことであり、主人は治療を受けたいのだ。

起き上がっては祈り、眠っては「イエス様助けて!」とつぶやく・・そんな中で、ふっと気がついた。
「愛しているから悩んでいるのだ」ということに・・。今までそんなことを考えたこともなかった。
主人に細かく指示しようとしたり、支配しようとしていることに気付いて後悔することは多々あったけれど・・。

愛して居るから、理屈が通らなくなるのだ。考えがまとまらなくなるのだ。
私はわりと理性でものごとを考える質だと思っていたのだけれど・・。いや、理性でみことばを選ぶことは普通ないか・・。混乱している。

「イエス様が守ってくださるから心配ない。死さえキリスト者には勝利である。」このことは何時だって「アーメン」。今だって少しも変わらない。
「本人の意志を重んじて、結果を一緒に負えば良い。」確かに、そうするつもりなのだけれど・・。一方で私はとても恐れている。

しかし、主人は私のように取り乱すそぶりもなく、淡々と畑仕事をしたり、野球に一喜一憂したり・・。
もし、主人が私のように取り乱したら本当にどうしたらよいのだろう。このことはとても感謝である。

 でも、今私はこれでも命がけで考えて居る。堂々巡りを倒れるまで繰り返して・・、みことばはあっても留まれず、霊も魂も体も疲弊して無力になってしまっている。

イエス様は十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれた。そのお言葉が何度も浮かぶ。
イエス様が父なる神様に見捨てられたのは、人の罪を負って罪人となられたからである。

しかし、今私は決して見捨てられることはない。
「わたしは、あながたがを捨てて孤児にはしません」それはイエス様のみ約束だから。アバ父の御前に今、私たちの罪は完全にあがなわれているから。


 熱が下がった朝、主人に私の思いわずらいを話した。
「わかった。検査は止めとこう。イエス様に任せよう。」と答えて、しばらく後「なんか、気持ちが軽うなった。」とも言ってくれた。
でも、本当にそれで良いのか・・今の私には内に恐れもある。

主人だって、医師の言葉によってまだまだ揺れるだろう・・。私だって、どこまで抗うことができるだろう・・。
私たちには今は何も分からない。しかし、イエス様は初めから終わりまでご存じなのだ。すべては主の赦しの中でのことであり、主は良い方で私たちの味方である。

だから、悩みつつ、惑いつつハレルヤ!と、声はでないけれど歌う!アーメンと歌う!
今、このままで御名をあがめる。
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