石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

自分の十字架を負う

2014-02-28 10:31:15 | Weblog


 十字架を前にして、ゲッセマネの園でイエス様が血の汗を流して祈られた。その時イエス様は「悲しみのあまり死ぬほど」と言われた。
また、弟子を選んで伴い、「目を覚まして祈って居なさい」といわれ、このときイエス様は弟子を必要とされた。

イエス様の死ぬほどの悲しみとは何だったのだろう。
主は世に来られる前から十字架を承知しておられた。御父の計画された人の救いのために、人のすべての罪によって十字架で処刑され、その事実を信じる者を、神様の前に無罪としてくださったのだ。

御父に完全に従順されたイエス様のご生涯であれば、十字架を悲しまれるなどということは考えられないのである。
主にはご経験のない罪を負うことの恐れはあったとしても、悲しみとは・・それも死ぬほどの悲しみとは何だったのだろう・・。何が此処まで主を悲しませたのだろう・・。

しかし・・。十字架はすべての人を救うことはできないのである。十字架は信じる者には救いであっても、信じない者には永遠の死を現すものであるのだ・・。イエス様のお悲しみがわかったように思う・・。


 最近しんどく、悲しく、どうにも辛いものを抱えている。まるで監獄の中に閉じ込められているようである。
それは、みことばが割り引いて語られたり、言葉をすり替えられたりするのを聞くとき・・、
それは、たとえ目の前で力ある神のわざを見ても屁理屈をならべるだけなので、サタンに持ち去られてしまうのを見るとき・・。
まるで手のひらに砂をすくうような空しさに襲われる。

イエス様に依存する弱さは祝福と成るけれど、世に依存する弱さは死をもたらす。また、せっかくの恵みを無駄にしてしまう・・。
その様子をただ、祈るだけの弱々しさの中に、手をこまねいて見ていなければならないことは、実に苦しい事であり、悲しいことである。

 しかし、神様は人に選択の自由をお与えになったのである。信じる自由と信じない自由。それは御子の命と引き替えにするほどのものであって、誰もその自由を奪うことはできない。

それはそれほどに厳粛なものであるから、その厳粛な自由においてキリストを信じる信仰を自ら選びとるということに、神様からの栄誉を賜るのである。また、それこそ神様ご自身のお喜びであり、これこそ探しておられる宝なのだから・・。


 ゲッセマネでイエス様は弟子たちに、共に祈っていなさいと願われた。
今、私はイエス様が負われた十字架の内、私が負うべき分を、私の十字架をとして頂いて、世にある悲しみと苦痛のわずかばかりを負わせて頂いているのじゃないだろうか・・。これこそが「自分の十字架」なのではないか・・。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタイ16:24)

私の罪や私の欠陥、私由来の良いも悪いもそれらのすべては信仰に入ったときに、イエス様の下に捨て置いたものであり、前もってイエス様が十字架で処理してくださったのである。
世に言う「私の十字架」のようなものは、主の赦しと救いを味わうためのもの、助けを経験するための材料に過ぎず、今それは苦痛の十字架ではなく主の祝福となったのである。

今負うべきは、ゲッセマネでイエス様を悲しませ苦しませた、不信仰という重荷の欠片ではないのか・・。私の分として分け与えられた十字架、それは、ゲッセマネでひとりの弟子として、目を覚まして主に居るということなのではないか・・。

 十字架は救いの成就である。救いを完成してくださり、今日も主は忍耐を尽くして待っていてくださる。だから、たとえ今は不信仰を見る深い悲しみであっても、あるいはそれらはいつか主を味わうための材料となり、主の祝福を間近に見ることになるのではないか・・、正直、今は戦いの中にあるのだけれど・・

みことばは常に私の内にあり、真実な神から流れくる慰めをどんな時でも聴くことが出来るから・・。この牢獄で賛美する・・砕けよ獄屋と・・。
時にこの十字架が担いきれなくてくずおれそうになっても、百回でも、二百回でも、主の御手によって支えられ、主の愛による希望がその度に新しく注がれるだろう・・。

自分の十字架、それはキリストのくびきを負うこと。それは主の御声を聞きつつ御国に向かう旅路、私は早くに辿り着きたいと願うけれど・・。


忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:4~5)

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霊は肉の下には居ない

2014-02-22 16:46:34 | Weblog


 霊は肉の頑張りにはよらない。霊は主の力によるものであるから・・。
肉は霊をあらゆる理屈をつけて攻撃をする。それは、肉は霊の支配下に置かれまいと戦うからであり、人の頑張りを葬る力を極度に恐れているのである。

 イエス様を激しく攻撃したものも、実に肉の働きである。
肉の力は自分の努力のたまものであり、自分の意志によって積み上げてきたものであるから、それを評価しない価値観を嫌悪するのだ。

このようにして、どれほどの神の意志が損なわれてきたことだろう・・。霊を肉の支配下に置こうとする働き。それは実におぞましいことである。
神の民をなぶるゴリアテに対して、聖なる怒りを覚える少年ダビデを攻撃する兄たちの言葉は、肉の内から吹き出てきたもの。

兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」(Ⅰサムエル17:28)

なぜ此処まで彼はダビデを憎むのか・・と思える言葉であるが、それは霊に対する攻撃である。肉が霊に対して怒るのには理屈はない。肉の生存のための戦いであるから・・。

罪の支配下にある肉は、神の支配にある霊を極度に警戒する。それは、霊に神の支配が及ぶ時、肉はその価値を失うからである。
その戦いは人の憎しみ怒りを掻き立てるのである。それはその人の内から出ていても、その人のすべてではなく、その人の肉によるのである。憎むべきはその肉の働きである。

それは、巧妙に言いくるめようとし、お前にはその価値はない、お前にはそのような権利はない。何も出来ないお前にそんなことができるわけがない・・と手を尽くして封殺してしまおうと計り続ける。そう、それは肉と霊の生死を賭けた戦いである。

ダビデの羊飼いの日常は、兄たち兵士の日常とは違う。同じように戦いの経験を積んでいたように見えても、ダビデは主の戦いのために上から備えられた力であって、そこには駆け引きは存在しない。神が勝たせてくださるからである。その経験の上にあってゴリアテに立ち向かうことができるのである。

人の肉による鍛錬ではゴリアテに立ち向かうことは絶対できない。人は駆け引きに拠らないと何も選べないから・・。立ち向かわないことが賢さなのである。
肉の力は霊の前には死ななければならない。神の働きの前に、肉はどれほど鍛えても役立たずであり、それは、霊を攻撃する力を鍛えるだけなのである。


もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(コロサイ2:20~3:1)

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神の悔い

2014-02-13 14:10:07 | Weblog


 イスラエルの民は、常に共に居て守り導いてくださった造り主なる神を退け、他国民と同じ目に見える王を求めた。
神はその願いを聞き入れて、背も高く美男子のサウルを王に選ばれた。人は見かけを欲するから、偶像視される人たちは、皆なにか立派な様子をもっていなければならない。人は見た目が重要なのだ。

サウルは、王に祭り上げられることがなければ謙遜であり、自分の分の中で幸せであっただろうに・・と思う。
このことは、そもそも神から出たことではなかった。そこに彼のすべての不幸があったのだろう。


 彼は兵士たちの反感を買うことを恐れ、主の聖絶の命令をないがしろにした。
此処で、神に聞き従った神による王権か、人を恐れ人によって立つ王権かが分かれる。
人を恐れることと神を恐れることは両立しない。人を恐れる者が、神に従って事を聖別することはできない。彼は以前にも人を恐れてサムエルを待つことができなかった。

「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」(Ⅰサムエル15:11)
神はこのとき、サウルを選ばれたことを悔やまれたと書いてある。
しかし、

「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」(Ⅰサムエル5:29)
サムエルはこう言った。

サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(Ⅰサムエル15:35)
此処でも主は悔やまれたとある。これはどういうことなのだろう・・。すべてを見通す造り主は、人が塵に過ぎないことをご存じであるのに・・。


あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)

 このみことばを思いだした。私たちも先に神によって選ばれた者であることを・・。
そうして、私たちも神にどれほど悔やまれる存在であるか・・と思った。
私たちの時々の選びその行いは、選んでくださった方を多々傷つけたこどだろう・・。命令によって歩むことができず、何度道を逸れたことか・・。
ただ主の忍耐によって、信仰に引き戻され守られているのだから・・。

悔いることのない神がその最善の計画を曲げ、人の願いの故に悔いなさることがある。
それでも、その私たちの不信仰、不出来のすべてを超えて、神はご自身の栄光をとってくださるお方である。

今、それは私たちには拠らず、ただ、ご自身の良い計画を成し遂げるみわざによって・・。だから、やはり神は「悔いることはない。」事実を完成してくださる。
私たちが、感謝をもって御前で安息し、弱さの中であっても、心から主を喜び御名をあがめていますように・・。


それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。(Ⅱコリント4:14~15)
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カクテキ作ろう

2014-02-11 16:19:03 | Weblog


 青いお空に、ふんわり白い雲・・
頬にふれる風は、雪を含んだように冷たいけれど・・
お日様を仰いで歩くのはと~っても気持ちいい。

 リズミカルに音を立てているのは、椎茸の菌打ち作業、そう、またこの季節・・。
我が家では小遣いは与えられなかったから、大学時代の長男には一年間の小遣いを稼ぐための大切なお仕事だった。理系の彼には春休みこそ稼ぎ時だったから・・。

怪我をした時、こちらの落ち度だと、狼狽しつつ平謝りしてくださった雇い主。しかし、私はその経験を良かったと思っている。
肉体労働の経験も男の子には必要だと思うから。


 畑仕事のおばあさんとご挨拶
「良いお天気ですね。」
「でも、寒いですなぁ・・山にまだ雪があるさかい」
「もう、ちょっと辛抱がいりますね。」
「まあ、まだ・・春は無理ですなぁ」
明るい陽射しが心地よいから、そういうおばあさんの顔も笑っている・・。丹精された美味しそうな野菜たち・・、おばあさんの腕を現している。

 主人の畑に立ち寄って、かぶら大の丸大根を収穫する。なぜか大きくなれないでいる・・。
主人の作業にちょっと口出しをして、
「畑のことまで口出すな。放っといてくれ。」おっと・・ご機嫌を損ねてしまった。

それでも私の抜いた大根を洗ってくれた。
以前、最期に残った丸大根の葉を切り落とすと同時に、コロコロ・・と転がって、道に落ちて砕けたことを話して笑うことができた。
「寒いから早く帰って来て・・」と言い置いて帰る。

主人がちょっと気むずかしいと感じる時がある。彼は今微妙なお年頃で、仕事が出来ない時どうしてよいのかわからないのだ。完全なご隠居になって、家でごろごろできるまでにはまだ修行が足りなくて・・。

 帰るなり大根の皮を厚く剥いて、小さな角切りにし塩をする。これはカクテキにするつもり・・。このように時をおかずに料理するとき、それが野菜であっても我が家で活け作りと言う、まだ活きているだろうから・・出来は悪くても新鮮さこそ醍醐味。

白菜キムチをずっと食べていたのだけれど、もう底をついてしまった。韓国のお漬け物は寒いとき体を温めてくれるから、冷え性の私は欠かしたくない。まあ、好きだってこと・・。
さあて、葉はどう使おうかな・・。
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サムソン

2014-02-07 15:40:53 | Weblog


 以前は、単にサムソンを愚かだと思った。
悪女デリラを愛し、弱点を教えろと責め立てられ、願いを叶えることは自分が死ぬことであるのに、ついには自分の弱点を教えてしまう・・。

しかし今回、サムソンの「死ぬほどつらかった」この言葉が心に刺さった。

こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。(士師記16:16)


 ふっと・・サムソンとイエス様が重なった。
デリラは大金に目がくらんでサムソンを売る。必要もない金を欲して・・そう、彼女の必要はサムソンによって満たされ、サムソンによってどんな敵からも守られたであろうに・・。

キリスト者はキリストの花嫁。それは本当に良い花嫁なのだろうか・・。花婿に死ぬほどつらい思いをさせていることはないのか・・。
夫以外のものを求めて、時に責め立てるほどにねだっている事はないだろうか・・

私たちはデリラのようではないのか・・。イエス様は心の中にある思いをすべてを知って居られる。口にしなくても責め立てる事は出来るのだ。
すべてを満たす方に安息することなく、内にくすぶる欲望は、主に「死ぬほどつらい」をもたらせている事に気付いた。

賢さはデリラの中にありサムソンを売る。ユダのように愛を裏切ることはとても簡単。愛は愚直なものだから・・。
悪女デリラを愛したサムソン。
罪人を花嫁とするために、十字架にまでかかりいのちをくださったイエス様・・。


 ああ、花嫁は何を語ろうか・・主と共にパンを食し、新しくされた香しい霊をもって、かすかな細い声のみことばを聴き取り、ただ花婿の愛に浸ることではないか・・。
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我ら関西人夫婦

2014-02-04 21:01:00 | Weblog


今日は強風、バイクで帰って・・
「風が強いと疲れるよ。私なんか吹き飛ばされそうで・・」
「当たる面積が広いからな」
「・・・」


夕食
「これは体に良さそうやな」
「とても元気になれるよ。200まで生きるかも・・、いや、それは迷惑やな。そんなに年金もろうて、健康保険つこうたらあかん」
「いいや、少子化で日本の人口が減ったらあかんから頑張る」
「それくらいやったら、案山子を人口に加えることにしたほうがマシやって言われるよ、人口100万人内、案山子20万とか・・」
「俺は案山子以下か・・」たぶん・・


現在、こちらの雨量0mm
「ああ、雨降らんかなぁ」
「降らないよ。」
「お前はそう言うけど、ジャガイモを見てみろ・・可哀想に枯れてきとるで。」
「何か他のことを考えたらいいよ・・アベノミクスの将来とかさ」
「そう、しよう・・」と、畑に出かけて行った


暑いのに畑に・・
「じゃあ、母さんちょっくら行ってくるわ・・」
「どうぞ、私にはあんたを引き留めるだけの魅力はない。」
「後ろ髪引かれる思いで・・」と、ゴマ擦って・・


テレビは怖い
「あ、おなら止めてよ。まともにこっちに来たよ・」
「俺してないよ。此奴や」と、インタビュー中の可愛い女の子を指さした。
可哀想に思いながらも・・笑いが止まらなかった。

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弄ばれる言葉

2014-02-01 23:26:24 | Weblog


 「明日ママが居ない」私は初めから見ている。
ロッカーに捨てられていたから「ロッカー」とか、赤ちゃんポストに捨てられたから「ポスト」、ストレートなあだ名に驚いたけれど、昨今偽りの言葉ばかり見聞きしていたので、なんというか・・スカッとした。

スカッとした理由は、子供達がその現実から少しも逃げないで、卑下することもなく、自己憐憫の欠片もなく、事実を受け入れてたくましく、明るく描かれているからである。

身を寄せ合う彼らの中の優しさと、身勝手な大人から自立しようとする健気さが、その呼び名とは裏腹にさわやかだ。
上品な言葉で語る下品な人を、日々テレビでは見せられているから、そんなことにはうんざりしていた耳には新鮮だった。


 このドラマによって虐められた子供が居るということで、中止させようとすることは愚かな勘違いだと思う。
ドラマをネタにして虐めるということこそが問題になるべきで、思いやることも出来ずに虐める子供の心は痛んでいる。それこそ癒しが必要であることに気付くべきなのだ。


 施設長が子供達に、貰ってくれる家族の気を引くために嘘泣きを強要する場面があった。
これは痛烈な皮肉であって、嘘で固められた世の中で生きるための保身術であることに、ドラマが問題になったことで気付かされた。

もし、ポストという名ではなく、ロッカーではなく、可哀想なだけのお涙ちょうだいになっていたら、批判を受けることもなく、スポンサーが世に気兼ねすることもなかっただろう。みんな嘘泣きは大好きだから・・。


 優しく立派に育てた若者を、「人を殺して死ね」と戦に駆り出すとき、「おめでとう」と口々に言い、「ばんざい」と叫んで送り出した。
その言葉の残酷さ、その偽りの言葉の恐ろしさ・・あの時、この国は言葉を殺してしまったのじゃないか・・私はそう思っている。

「平和」という言葉を用いながら、他国の嫌がることをして憎しみを掻き立てたり、危険な原発事故に「安全」を連呼したりする。
そのようにして日夜言葉がねじ曲げられ、言葉が弄ばれている。

世がもっとも嫌悪するのは真実な言葉。此処は偽り者サタンの独壇場だから・・。彼らが好むのは偽善、それは恐ろしい圧力を持っている。
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