石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

怒らない

2013-12-17 19:47:08 | Weblog


 先日の検査結果を聞くために、今朝早くに出かけた。
医師は開口一番「これ見てください。ここにまた一つできました。」それは、なんだかとても得意げに聞こえた・・。しかし話がすり替えられているように思えて、「肝臓の方はどうなのですか」と質問した。

結論は、肝臓の5ミリの腫瘍は縮小していた。
私はそれで消化器の方は卒業ではないかと思うのだけれど、彼は検査の手を放したくないらしい。
「来週エコーを取ります」と言われた。「急ぎもしない検査に、普通に年末に言うか・・」と自分を抑えるのに苦労した。結局「では、来年初めに・・」という約束を一方的に取り付けられた。

「ここにできた」と言う物は、その後に受診した血液内科のお話で、「悪いものなら、そんなに出たり消えたりはしません。血管の腫れではないか・・」とのことだった。以前にもそのような説明を受けていたので、私は初めから落ち着いていたのだけれど・・。
しかし、様子を見るためにということでまた検査は続くのだ。


 診察室から出ると、怒りが口をついて溢れそうになる。主人にぶつぶつ言ってしまった。
・・そんな時、みことばが静かに心から流れて来た。

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」

ああ、主は手向かうなと言われた。腹を立てるなと言われた・・。どのような事実の中にも、必ず主の意志が働いていることを私は知って居るではないか。

「元気なのに・・なんで病院通いをして、体を壊すような検査を繰り返す必要があるのか・・」なんて怒っているけれど、病んで通うのなら良いのかということになる。もう怒るのは止めよう。事実、主は完全に守っていてくださる。それは感謝に溢れることなのだから・・。

すっきりと片が付かないということの中にあるのは、主の深謀遠慮なのだと思った。主を恐れるなら私はもう黙らなければ・・これは私自身のためかも知れない。
究極の理不尽を経験してくださったイエス様を思い出した。主が知っていてくださるのだ。


 帰り道、主人と私の冬用の履き物を買おうとお店に入ると、老婦人が、黒を選んだ私に「玄関にあるとき、赤の方が明るくて良いですよ。」って勧めてくださったので、「そうかもしれない」って素直に赤にした。確かにちょっと心が華やいだ。
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メッセージの励まし

2013-12-15 22:26:20 | Weblog


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「聖霊によって、マリヤが結婚前にイエス様を身ごもったことは、正しく生きてきたヨセフにとっては、大きな悩み苦しみとなったのです。
『聖霊による事』『神様の力による事』が人の大きな試練となり、幸せを壊すようにみえる・・そのようなことがあるのです。」

 人は目の前の事しか分からないから、人の理解を超えた聖霊によるご計画は、時に辛い思いをすることとなる。それは人の知性で思い計ることができないから・・。
その時は一人、いや、ヨセフとマリヤのように二人であってもとても孤独なのだ。

どれほど人の理解を求めても、誰がこの時、イエス様の事を理解する事ができるだろう・・。イエス様がこの世でずっと孤独だったように・・。聖霊に触れられた時から人にはある種の孤独が付きまとう事になる。

唯一、聖書の事実を知るとき「ああ、イエス様が知っていてくださるんだ。」って、それは心の安らぎとなり、消える事のない希望となるのだけれど・・。

「しかし、御使いのお言葉のままにマリヤをむかえたヨセフは、その試練の時をイエス様と共に過ごして居たのです。
神様は世界を動かしてでも彼らを守られました。住民登録のために身重のマリヤはダビデの町へと旅に出る事ができたのです。
その旅を辛い旅であったという人もいますが、私はそうは思いません。それはイエス様といっしょだったからです。」


そうだった。だからマリヤは石打になることもなく、無事にイエス様を生む事ができたのだ!
真に主は、従う者を世界を動かしてでもお守りになるお方であった。ハレルヤって心の中で叫んだ。

「今週も、ヨセフとマリヤのようにイエス様と共に旅をしましょう。」

ああ、そうなんだ・・って、メッセージを聞いて力がわいてきた。私は今週もとても忙しい。でも、もう大丈夫。

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奴隷のくびき

2013-12-13 14:32:06 | Weblog

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 主人は現在とても元気だけれど、5ミリの癌のその後を診るために、CT造影検査を受けに医大に行って来た。
命は主に依って守られる事をこれまでの経緯によって経験しているのだから、私だったら行かない。
しかし、今日は主人が選択する事である。だから、彼の主治医が幾度となく確認していたと言うし、忘れっぽい主人のためにカレンダーに書き込んでおいた。

私は主人に、「イエス様が癒してくださったことが、繰り返しの検査の結果からもわかっているのだから、もう病人じゃないでしょ。」なんて何度か話していたけれど、彼は医師の言われるままに点滴など治療?に通っている。
彼の主治医は「病気を甘く見るな。」と言われた。主人には脅しになるだろう・・。

「命を守るのは誰か」それをはっきりさせておかないと、生きものとして常に揺れ動く体であれば、時に不調になる事もあるから、イエス様に何度癒されても、結局恐れによって支配され続けることになってしまう。


 その日私は、前夜ほとんど眠れずに朝を迎え、左胸に刺すような痛みを感じた。しばらくすると良くなるだろうと耐えていたが、ちょっと落ち着いたと思っても痛みは繰り返した。
先日から、今まであまり感じたことのない肩こりに悩んでいたのだけれど、特に昨夜は左の背から肩の痛みがあって眠れなかった。
これでは治りそうもないとニトロを用いる事にした。


 実は数ヶ月前、夜中に胸の痛みに襲われたことで、近くの医院(たまに私が口内炎のお薬をもらったり、風邪薬をもらうていどだけれど・・)に行き、
「昨夜、とても胸が痛くなりました。でも、夢か、現か分からないのです。朝目覚めたときには、もう何ともなかったものですから・・。こんなあいまいなことを話せるのは、此処でだけですけど・・」なんて・・。

先生は「一度検査を受けますか、病院を紹介しますよ。」と言われたのだけれど、「いえ、それは結構です。」なんて断ったのだった。
私は痛いのは駄目だけれど、もう、この年で自分から選んで検査漬け、薬漬けになるつもりもない。先生と笑って何かとお話しをして「では、お守り代わりに」ということで頂いてきたお薬だった。


 ニトロで痛みは落ち着いたけれど、肩の違和感は取れず「ああ、これは困ったなぁ」と、一応自分の下着などの入院の準備をして置く事にした。
これで何かあっても、主人に「持って来て」と頼む事ば出来るから・・。どれほど嫌な事であっても、いざそうなった時は誰かに任せるほか無い。自分の死に方を決める事は出来などできないのだから・・。

主人には悟られないように・・断続的に、「イエス様。助けて・・」とそっとつぶやきつつ出掛ける準備をした。
お薬を頂いた時、「痛んだときに家族を呼びましたか」と先生に訊かれた。私は「なぜ?」って思った。
主人が医者なら呼ぶけれど・・戸惑ってうろうろするだけなんだから呼んでも仕方がないのだ。でも、このような考え方はなにか違うのかな・・。


 医大の予約は午後で昼食を済ませて出かけるときは雨催いだった。冷たい雨の中を歩くのは辛いなぁ・・なんて思っていたら、途中から暖かな日が車窓に差し込んできて、その柔らかな陽射しに、硬くなった体も心もほぐれて行くようだった。
それでも、その日は脱力感で黙って揺られているしかなかったけれど・・。

検査はわずかな時間で終わった。
私は体調が悪かった事などを主人に話した。不機嫌でない事知って欲しいから・・。主人は驚いて「悪かったな」と言った。

家に帰り着いて、夕食を済ませ、お風呂から出てきた主人がぽつりと言った。
「いつまでも医者にすがりつかないで、死ぬ準備もせんとあかんな。」
私が「イエス様のところに行くんだよね」と確認をすると、「イエス様のところに行くよ!」と即座に帰ってきた。その言葉がとても嬉しかった。

死の恐れによって医療にすがり付いているように感じていたから・・。人は死ぬ。そのことは避けられない。
そのことを受け入れてイエス様による希望を持って、今日の元気を一日ずつ喜んで生きて行きたいのだ。
私たちの国籍は天にある。そこに帰るための旅路を歩んでいるのである。この世にしがみついていては、逆にこの世を楽しむ事もできないのだから。


 今日はもう元気で背中の痛みもなく口内炎も治った。ただ、寒いなぁ~。買い物にはバイクで行く事を止めて、主人の車で連れて行って貰った。
午後にまた畑に出かけようとする主人に「こんなに寒いに行かなくてもいいでしょ」なんて引き留めた。
空は時雨れてどんより冬曇り・・私たちは冬ごもり。


わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。(レビ記26:13)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)
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ヨベルの年

2013-12-07 14:43:18 | Weblog


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あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。

この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。(レビ記25:10~11)


 神は7日毎に仕事を休み、7年毎に地の収穫を休み、50年目のヨベルの年にはすべてを神の元に戻すように命じられた。
それは人の働きを精算して、財産である地を割り当てられた主の元に戻す年である。

すべて地は主のものだから、神のものは神の元に戻るのである。この規定を守ることは自身が神の所有であるという事の証となるのだ。
その時、主は彼らを神のご真実によって養ってくださる。


 今もこのように神に従う事が出来るなら、人はどれほど過ちから守られることだろう・・。
留まる所を知らぬ支配への執着を人は持ち、その欲に惹かれて人生を突っ走って行くことが滅びの始めなのだから・・。


勝利した人が、敗北した者を二度と起き上がれない怨嗟の中に閉じ込めるなら、そのような社会が幸せなわけはなく平和なわけもない。

 平和も真の豊かさも主から出たものでなければ得られない。人の豊かさは虐げられた貧しさの上に成り立っているが、その貧しさはすべての人に痛みとなって現れる。
どれほどその事実から目を反らせても、神は、人がそれほど鈍感で居続けられるようには造られていないから、肉は豊かに見えても心は渇き蝕まれて行く。それは社会を、国を歪にし必ず滅びに向かわせる。

 今、この国を覆っている暗黒の時代への予感。それも元は同じ所から来ているのだと思う・・。その欲望は足りる所を知らずいよいよ渇くものだから・・。
まさしくみことばのとおりである。

「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:15)

 命のある間に主に帰ろう。遅くはない。
「私のヨベルの年とは何だろう・・」と主に聴こう
主を恐れることを知り、すべてを一度神の元に戻して、「私をあなたの所有としてください。」と願おう。


こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(Ⅰペテロ4:2)
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三日月

2013-12-05 23:30:15 | Weblog

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 山間のかなたにわずかに茜色が残って居た。
空には低く鋭い月が浮かび、宵の明星が光を放っている。あら、金星ってこんなにきれいだったかな・・。

ヘットライトの帯が川面にも映って・・
かなたの鉄橋をシルエットのような電車が渡って行った。

日暮れは早く、急き立てられるように感じるけれど・・別に焦る必要はないと気付く。
どうせ、主人と二人だけなのだから。

「それにしても、日が落ちるのが速いね・・」私がつぶやくと
「ああ、今は一番速いなあ。まだ5時頃や」と主人が答えた。
「なんか、山奥から帰ってきたら、ほっとするね。」
「住めば都や。」
「私は此処に一番長く居るから・・此処が好きや。此処はええわ。」
「コンビニもあるしね。」
と、コンビニの前を走りつつ大笑い。


 おばあさんの夢を見て、気になったので様子を見に行って来たのだった。でも、実際は夢を見たから気になったのではなく、気になって仕方がなかったので夢を見たのだろう・・。

主人はちょっとしたことがあって怒っていたので、誘ったときはあれこれと言っていたけれど、勿論気になっていたに決まっている。

 彼女は体はとても元気だったけれど頑固さが出て来て、どうにも面と向かうと腹が立ってくる事が多い。
終いには笑ってしまって・・「まあ、元気なら良いよ」ということで帰ってきた。弱っているとき、人は誰でも可愛い所もあるのだけれど・・お手上げだ。

イエス様の前で、きっと私もこんな風なのだろう・・。
イエス様の忍耐をちょっぴり味わった。
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