石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

十字架で書く

2013-11-28 13:50:20 | Weblog

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学のない者(義務教育も満足に受けていない)が、聖書を読んで気付かされるままに、その嬉しさをまんま書き綴り、誰にも読まれるままにしている・・。それはわきまえのない、愚かさかも知れない。

聖書の権威をなんと心得ているのか・・。何の権利があってお前は自分勝手に読み解いているのか・・そうして、それを恐れもなく語るのかと・・。


聖書の理解は変わる(それは深まってとも言えるのだけれど)こともあり、行動にも揺らや迷いの記録がそのままに残る。
何一つ正しく確かにものなどないではないのではないか・・。
そんな自問自答がないわけではないけれど、それはむか~し食べた賢くするという木の実の影響だと思っている。


 聖書の中には、神の愛と厳しさがあるけれど、ひとりみことばの前に居るとき、染みてくるのは赦しと恵み。
姦淫の女に対するおことばのように、イエス様の赦しと備えがじわりと染みるばかり・・。だから、その温かさを・・その備えの完全を伝えたいと・・僭越なことを願ってしまう。


 自分の十字架を負うと言う事は、恥辱の丸裸を人の目の高さに曝す事だと知った。
イエス様がそのように十字架でさらし者になってくださったことを教わった時、その言葉は私の内に突き刺さり、私の恐れを裂き、包み隠していた衣は地に落ちた。


「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」(創世記31:29)
ヤコブが、舅ラバンのもとを妻子や財産をもって逃げるように去った時、神はラバンにこのように告げて、ヤコブを守られた。
彼が正しかったからではなく、ただ、神のご計画のうちにヤコブは居たからである。

こう言ってくださる主に身を寄せて私は平安を得る。罪に問う敵に対して怯える良心を、説得する必要なんかない。みことばを思い出すだけ・・。
どのような事柄に対しても、背を伸ばし平安の内にそれらを受けて立つ事が出来る。
弱さ故に後ろめたい思いの中であっても、主に赦されている者として、みことばを盾にして立って居る事が出来る。


 裸の恥の中で主を仰ぐ。その裸にも主の愛と赦しの記録がすべてが刻まれているから・・。間違いも失敗も愚かささえも、そこでイエス様に寄り頼んで生きたことは、私の歴史に甘く残っているもの。
どうしておめおめと地に埋めてしまうことなどできるだろう・・。
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小春日和に布団干し

2013-11-27 18:23:40 | Weblog

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 ぽかぽかの小春日和りに布団をいっぱい並べて干す。
昔は重い綿の布団で干すのも大変だったけれど、それに比べれば羽毛なんて楽なもの・・。
それに、お日様に干す頻度もグッと減った。せいぜい風を通す程度でふんわりとするものだから・・。
輝く日差しを受けて、並んだ布団は専業主婦の醍醐味。幸福感満喫。

 子ども達が小さな頃は、少しでも日差しがあると必ず布団を干した。冬など付きっきりでちょっとでも長い時間をと・・日差しを求めて持ち運んだりもした。
そんな布団はお日様の香りがして、ふわりと軽く、ほかほかと暖かく、それは誰よりも干した本人の私が嬉しくて、天から賜った贅沢な夜を深呼吸して香りを楽しんだ。


 その頃は古い綿を打ち直しに出して、私は布団の仕立て直しをよくしていた。
打ち直しの綿をもってきてくださった布団屋さんに、綿の入れ方のコツを尋ねたとき、プロの入れ方を実演して教えてくださったことがあった。
布団の角の綿の入れ方、余計な綿の切り方から重ね方・・。これをちゃんとしないと使い心地が悪くなるということを・・。

実際教えられたとおりにした布団はとても奇麗にできて、使い心地が良かった。だから、こたつ布団も自分の着物を解いて、手作りしたものを長い間使っていた。
今では布団を作るという事はなくなったけれど、ふっとあの布団屋さんを思い出す。何事でも、プロの技術を教えてもらえるという事はとても素晴らしいことだと思う。


 ウォーキングの途中から、予報通りに空に広がる雲を見上げつつ歩いた。帰るなり軽く叩いた布団をそそくさと取り込む、大切な暖かい空気を惜しんで・・。
いっぱいにふくらんで、ふわふわになった布団を積み上げてひとりでほそく笑む・・。部屋まで太陽がいっぱい!ああ、今夜のしあわせ・・
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いのちの書の名

2013-11-25 12:35:48 | Weblog

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 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
(出エジプト32:31~32)



 モーセは自分の永遠のいのちを差し出して取りなした。
そのようなモーセは素晴らしいと思ったが・・ふっと気付いた。このいのちはモーセのものではなく、主によって賜ったものではないか。
主に賜ったものを差し出して、交渉することが本当に可能なのだろうか・・、

たとえば、殿様から頂いた宝物を差し出して、家臣の命乞いをすることなど絶対に許されない。それは殿様から頂いたものをないがしろにするようなことだから・・。

 モーセの言葉の通りに、モーセのいのちを奪って叛逆の民を赦す事など神様にできることだろうか・・。
絶対に出来ないと分かっていながら、そういう取引を持ち出すことは小狡いことのように思えた。

「父を葬るために・・」と言ってイエス様の召しを断るような者。
モーセにも、このことにおいてはそのような匂いをかぎ取ってしまう。人とは、無意識にそういう選択をしてしまうものなのか・・。

いやいや、それ以外に救う方法がなかった?そうかな・・、神様はモーセ以上に彼らを憐れむお方ではないか・・。
人が誰かのために命を差し出したとして、それをもって造り主と交渉する材料とは成らないと思う。もともと、それは神様のものだから・・。


 しかし、主はモーセと語り合ってくださった。彼の言葉を聞いてくださっていた。
主の赦しの中で人が御前に居ること。そこで主のご愛に訴えること。そのような造り主との交わり、それこそが私たちに出来る唯一のことではないだろうか・・。


すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。」(出エジプト32:33)

すべて決めるのは主である。
主がモーセの哀願を聞いてくださったのは、モーセのいのちが差し出されたからではなく、彼の民を憐れむ愛が差し出されたことによるのだ。


 今、御子のいのちと引き替えに頂いたいのちの書にある私たちの名は、いかなる理由があろうとも決して手放してはならない。それは神から賜った最高のプレゼントなのだ。唯一守り通すべき宝物なのだから・・。
それを差し出す事を主が喜ばれる事など決してないと思う・・。それは神様が人と共に喜ぶために与えてくださったのだから。


 それにしても、このうなじの強い民に対するモーセの忍耐を思う・・、改めて自分自身がイエス様のご愛を受けていながら、なんとまあ、堪え性のない愛の無い者かと、自身の不甲斐なさに思いは至る。
「イエス様の愛をください」と主にすがろう・・。

今週のメッセージで、イエス様が二人ずつ世に使われた箇所から、ひとりではなく、祈り合うためにも2人3人集まることの大切さを話されたなぁ・・。

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モーセのカナン

2013-11-23 11:11:37 | Weblog

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 奴隷の状態から救い出されてエジプトを脱出した民は、「神を知るため」の不思議や奇跡を何度も何度も経験し続けて来た。
それにもかかわらず、彼らは、目に見えるモーセだけを頼りとしていたので、モーセの姿を見失ったとき、自分たちの神として金の子牛を作り、それを拝み、それを楽しんだ。

 なぜだろう・・人は偶像を作り、それに好き勝手な願いを込め、それをもっともらしく祭ることが好きなのだ。
それは心をワクワクさせ、その喜びは容易く共感することができて、子どもから年寄りまで楽しむ事が出来るのだ。
そう、バベルの塔を築く時もそのようだったのだろう・・。


モーセはそのような罪を取りなす中で、主の御前に40日40夜何も飲まず、何も食べなかった。
彼は、うなじのこわい民のために命を嘆願し、これからも主が共に居てくださる事を懇願し、主との永遠の契約を頂いた。


モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、
お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」(出エジプト34:6~9)


その時の彼は、ただひたすらに主と交わり、主に捧げたいのちは神によって完全に満たされ、保たれていたのだ。
肉の欲求の入り込む隙のない、そのような40日であったのだと思う。
だから、山から下ってきた彼の顔は、彼を養われた主の栄光によって光っていたのだ。

モーセの墓はない。彼は約束の地カナンを見る事もなかった。
「あなたは彼に対して神の代わりとなる」(創世記4;6)
だから、彼の痕跡は残されなかった。偶像として拝まれる事のないように主が守られたのだ。
彼はカナンを見るかわりに主の御元に、世のすべての重荷を解かれて休らいでいる。それぞ真のカナン。

何によって生きるのか、誰に生かされているのか・・。
何を楽しむのか・・、何を知りたいのか・・。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
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祭司とされた者

2013-11-21 18:54:11 | Weblog
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 みことばを読んでいて分からなくなった時、思考停止してウオーキングに出かける事がある。
青い空を見て、錦に色づいて来た山を見上げながらサッササッサと歩く・・。ススキの白い穂が風に揺れて、ホオジロさん達が一斉に飛び立つのを見てもサッササッサと歩く・・。

 そんな中「神様は、偶像を造ったアロンをなぜ祭司に用いたのだろう・・。金の子牛が火の中から出て来たなんて、実にいやらしい言い訳をする奴を・・」
そのままにしていた疑問が再び広がる。

そうして今週のメッセージで聞いた言葉を思い出した。
「イエス様の召しに対して、『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』(ルカ9:59)と答えたが、それは人がよく使う巧妙な言い訳である・・」

確かに、人とはそういう者である。私をも含めて神様の前であっても、実に上手い言い訳をする者であると・・、その言葉はグサッと胸に刺さった。
彼は、ただ従いたくなかっただけであろう・・。

 そんなことを考えていたとき、何の脈絡もなく開かれた・・。
「あっ・・そうか。」って「そのようなアロンであっても、神の代わりのモーセの働きによって洗われ、聖なる服を着せられて用いられるのだ・・。」

アロンには拠らず、神様のご計画によって用いられるのだ。
「それは紛れもない私・・。なんの働きもない者が、一方的にイエス様の血潮に洗われて、義の衣を着せられて、罪を覆われ、祭司の役割を負う・・。」


 サッササッサとなだらかな坂道を上りきり、緩いカーブを曲がって復路。脇の畑には大根の葉が元気いっぱい青々と茂り、葱は真っ直ぐに伸びている。
そうして私は感動の中、心地よいひんやりとした風を受けて、サッササッサと歩く。

そんな勢いで家まで帰って来てしまって、後で帰って来た主人に叱られた。「見せたいものがあったのに、畑に寄れ」って・・アハハ・・ころっと忘れていた。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(Ⅰペテロ2:9)


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ゲラサの救い

2013-11-16 14:15:47 | Weblog

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 息子と聖書を開いた。
共に聖書を読み、彼の通読箇所から心に残って居る事を話してくれた。

そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。(ルカ8:38~39)


「イエス様は、多くのものを持っている人には『捨てて、わたしに付いてきなさい。』と言われる。
けれども、捨てるものが何もない者には『帰りなさい』と言われているように思ったよ・・。

ゲラサの男にも家に帰りなさいと言われているね。
でも、それはゲラサの人々がイエス様を追い出してしまったので、彼がイエス様を伝えるようにされたのだと思った。」

私は、「ああっ、そうだったのか・・」って、素晴らしい発見に嬉しくなった。
「これこそイエス様らしい、愛があるなぁ・・」って・・、
私はがゲラサの人々が救われないとしても、自分で追い出したのだから当然だと思っていたけれど、確かにイエス様はそういうお方ではない。
イエス様は何時だって私たちを惜しんでくださるお方だもの・・。これだから、みことばの分かち合いは楽しい。

 
 彼は転勤になって、「時間が出来たので毎日聖書を読むことが出来る」と言った。以前は通勤に往復4時間もかかったので、疲れてとても無理だったのだけれど・・。
毎週、金曜日にはこちらに出張があって家に帰り、ゆっくりと週末を過ごす事が出来ている。

初めはちょっと戸惑ったけれど、今ではすっかり慣れて私も気楽になった。
彼が何処にいてもイエス様の備えがあり、導いていてくださることが何よりも嬉しく感謝である。
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マリヤの行い

2013-11-11 14:30:00 | Weblog
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 今日の礼拝はハープコンサート!
忙しなく昼食の準備をすませて、雨催いだからと駅まで主人に送って貰って、電車で教会に向かう。

ハープは6ヶ月ほど前にも聞かせて頂いて、予想外に力強いその音色に魅せられていた。演奏の間のショートメッセージは、美しく明瞭な日本語で、今仕えておられる東北の現状を静かに話された。

 震災2週間後に日本に来られ、被災地の様子に「何も出来ない。」と、為す術もない自身に落胆されたという・・。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

このみことばに、「私は、イエス様のところに行ったか・・」とご自身に問われ、ただ、出来る事はマリヤのようにイエス様のもとで賛美をすることであると、淡々と続けておられるという・・。

 若い女性がひとり軽自動車に大きなハープを積み込み、何処にでも出かけてイエス様を賛美するという・・その無防備とも思える行いの中に、主の完璧な備えをお聞きして、ハープの音色の中にある霊の深い呼吸を思い返していた。


 御国という望みを縦糸に、この世のうめきを横糸のようにして織りなして行くマリヤの人生には、美しい軌跡が描かれているだろう・・。
そうして「良くやった。良い忠実なしもべだ。」というほめ言葉を、その時重ねて受けるのだろう・・。
まるで少女のような彼女の笑顔に、その日を重ねて見ていた。
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モーセ (出エジプト記1~4章から)

2013-11-08 11:01:01 | Weblog


 燃える柴の奇跡を見ても、神様のご計画に対するモーセの気は進まなかった。普通はそうであろう・・。
ある日突然、「奴隷状態の民を救い出す指導者になれ」と言われて、「はい。はい。」とその命令を引き受けることなどありえない。それはあまりにも突飛な話で、あまりにも恐ろしいことだから・・。

しかし、モーセは以前同胞を救おうとして失敗し、それによって育てられた王宮を追われたのであった。同胞を救う願いは彼の中にあった事である。
突然のことのようであっても、彼の願いへの神様の介入であり、彼の願いから出たことであったのだ。

こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。(出エジプト2:11~12)


 キリスト者も、多くの失敗や無駄な回り道をするけれど、神様の筋書きによって歩んでいるのなら、必ず成るべき事が主によって成ると信じている。その時、過去の失敗を覆い隠す必要はない。モーセの失敗が隠されていないように・・。


さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。((出エジプト4:24)

神の命令に従っている途上であったが、モーセの中途半端な気持は神の怒りとなり、彼を殺そうとされた。
人は誰でも、神への不従順によって永遠の死をむかえるのである。その時モーセは何もしないままにその死を迎えようとしていた。

 そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」
そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。(出エジプト4:25~26)


妻の機転によって息子の血という代償を払ってモーセは救われた。
そう!私たちが神の息子であるイエスの血という代償によって救われたように・・。
神の前に証するものは血である。血はいのちである。命の代償はいのちであるから・・。

しかし、「主はモーセに会われ」とある。主は近しくモーセに会われていたのだ。主とお出会いするというそのことの重大さは、それ自体命がけなのだ。その時人は主に問われているのである。

キリスト者もイエス様の血に覆われて、時に、いや常に主にお会いする者である。それはとても厳粛なことなのである。
その時何を問われ何を答えているのだろう・・。
今私たちは、イエス様に買い取られたいのちの故に死ぬ事はないけれど、ならば、なおさら明確な返答をしたいものだ。


 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)

神様はモーセに「あなたの靴を脱げ」と命じられたのである。
これまでの彼は自分で考えで、自分の良いと思う事を行って来たが、それらのすべてを捨てなければならないということである。それらを脱ぎ捨てて初めて、神のご計画という聖い道を進む事ができるのだ。

モーセが以前の失敗を繰り返さないために必要なことは、主のご計画を行うことなのである。
主の内を歩む者は、盲人のように日々手を引かれて歩かなければならないのである。しかし、彼の責任はそれだけである。
彼自身によるいかなる力も要らない。それが人が「神の代わり」となって神の計画を行うための必要なことなのだ。

あなたは彼に対して神の代わりとなる。(創世記4:6)

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食品偽装

2013-11-07 16:34:21 | Weblog


 食品偽装のニュースが連日溢れているけれど・・私はそこに飢え渇く魂を感じてしまう。
もっともっと・・もっと旨いもの、もっと珍しいものを食べたいという欲求から出て、あちらの店、こちらのグルメと彷徨って結局一杯食わされたのだ・・。

「飢えも渇きもないくせに、牛飲しました馬食した。」そんな詩を思い出す。量においての馬食ではなくても、機会においての馬食もある・・。
でも、旨さの究極は飢えだと思う。食品にそれ以上の差はない。

 ニュースを見ていてまず始めに感じた事、「おいひ~ぃ」と満足しているのだから、そのままそっとしておいてあげれば・・なんて思ったりもした。
もともとそんなものは、その程度のものなのだから・・。

いやいや、こんなことを言っては、料理に人生を賭けている人に申し訳ないなぁ・・。
私だって下手ながらも、主婦として料理には色々な思いを込めて、一生懸命に作って居るのだから・・。
でも・・、話はそんなことではないと思う。

 イエスさまという救い主によって、霊の渇きを満たせない人は、見当違いな満足のために彷徨い続ける・・。そのような飢えにつけ込む、あらゆる旨そうな話がテレビに巷に今日も懲りずに溢れている。
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空気を読むな

2013-11-01 13:54:49 | Weblog
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 兄弟の中でヨセフはひとり父に溺愛され、愛されるままにその愛に浸り、ひとり高級な着物を着せられるままに着て、
兄たちがひれ伏す事を現した夢を、その神経を逆なでするもかまわずに見たままを話して聞かせた。
それは、ある意味・・恐ろしいヨセフであった。

ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。
見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」

兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。

ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。(創世記37:6~9)


 彼はこの後に、兄たちによってエジプトに売られ、夢を解き明かすというたまものによって出世してゆくのだけれど、
始めに彼が、兄弟を恐れて夢を語らないなら、夢を解き明かすというタラントを埋めてしまったことになったのだ。

後の飢饉で彼が一族を救い、そのことによって語ったとおりに夢が実現することもなかっだろう。
神様の大きなご計画に彼が関わる事もなかったのだ。

みこころを行う者は、人の顔色を伺っては何もできない。神様のみこころと人のご機嫌は殆どの場合両立しないから・・。責められる事を恐れてはイエス様について行く事はできない。


 イエスご自身がそうであったように、誤解されたり、妬まれたり、罠にはめられたり・・そういうことがキリスト者にもある。
でも、恐れる事はないとヨセフの記事は教えてくれた。それらのただ中でみこころが成って行くのだと・・。

ただ、キリスト者の恐れるべきは神のたまものを埋めてしまう事である。人を恐れて神様に用いられるチャンスを捨ててしまう事である。
空気を読み、人の反応を恐れる者に、神を知らぬ人には愚かしい十字架の言葉を、どうして混ぜものなしに語る事ができるだろう・・。


あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。
あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。(イザヤ41:13~16)


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