石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

何でもほしいものを求めなさい

2013-09-30 14:12:03 | Weblog
IMG_4638.jpg


 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)

 みことばの前提条件は、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」とある。
それは、キリストの血肉を分けた者としての関係にあるのだ・・とどまるとはそういうこと。
葡萄の木と枝はひとつのものである。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:56)

 子が親を信頼に足りると思う良好な関係なら、どんなことでも安心して話すだろう。相談や、助けて欲しいこと、かなえて欲しい願いなど・・、親の好みに合わせた話ばかりではなく、自分の思う所を自由に打ち明ける事も出来るだろう・・。

ある程度成長したなら、結果は親に聞き従い「待て」と言われれば待つし、「駄目」と言われれば涙をのんであきらめるだろう。
それが出来るのは、生まれてから今日までの親の愛と訓練によって、それが最善であることを経験しているからである。


 創造主なる神様がキリスト者に求めて居られることは、「アバ、父」なる神様を知ることである。神様は私たちのことをすべてご存じであるが、私たちは祈りによって話し、すべての機会を用いて求めないと、みこころを知ることは出来ないのである。
なぜなら、生まれながらの私たちが、神様の思いを計ることは決して出来ないからである。

主との関係は霊的な交わりであるから、私たちの成長に従って聖霊がみことばを通して思いを伝えてくださる。
しかし、知って居ることとそれが出来る事とは違うし、まして、納得できることとは違う。

だから、なんでも求めなさいと言われ、肉的な思いを祈ることさえ許されているのだ。なぜなら「アバ。父」だから・・それほどに親しい関係なのだから・・。
信仰が建て前と本音のような二重構造にならないために、何でも求めることができる関係に置かれているのだと思う。

そもそも、主は私たちの心のすべてをご存じなのだから、何一つ隠すことなど出来ない。
イエスさまを通して賜ったものは、奇跡の大小を問わずすべて交わりの実であるから、素直に受けて大いに喜び、求めればよいのである。

ただ「アバ、父」は「主」でもあり、主として従順するという当たり前のことをわきまえておれば良い。
それは、私たちにとって何が最善であるかを知るのは、ひとり造り主だけであるから・・。


 命が守られることをどんなに祈っても、人は必ず一度死ぬ者である。それが時に祈りの答えであり父の愛である。
死もいのちも永遠の関係に在る身には、生きる場所を移しただけのことであって同じようなものである。

いや、キリスト者にとって召されたことはゴールに到達したことであり、世の人にはどの様に見えようとも、御側にいる方がはるかに素晴らしいことである。
すでに主の必要を満たした者とされたのだから・・。


 主を主とするなら、なんでもほしいものを求める祈りの中で、日々「アバ父」との交わりを楽しみ、愛を知る喜びを増す時、みことばは霊ばかりではなく魂をも満たして感動となるだろう。
その時間は訓練の時でもあるのだけれど、交わりはみことばのご真実を経験させ、制限に拠ってではなく、成長したみこころの祈りへと導かれて行くのである。


あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恵みの時

2013-09-27 18:26:25 | Weblog

 久しぶりのウオーキングコースはすっかり秋色・・。
坂道を吹き上げてくる強い風は、柔らかな壁のように身を受け止めてくれる・・
なんだか楽しくて、身を任せるようにして進み・・、
靴に弾けるドングリを踏み踏み、緩い坂を下る。
汗ばんだ身を冷まして風は吹き過ぎてゆく・・。

カサカサと乾いた音を立てる枯れ葉、流れてくる懐かしい金木犀の香り・・、
乱れ咲くコスモスは風に戯れる。
キーウイフルーツは枝をしならせ、たわわに棚からぶら下がる。


 栗も柿も厳しい暑さを乗り切ったご褒美のように、今年は豊かに実を付けている。
田の面はすっかり刈り取られ、整然とした切り株を現し、米袋を満載した軽トラックが行き来する。

誰にも来る恵みの秋・・主の豊かなお憐れみ。

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

重荷

2013-09-26 11:11:55 | Weblog



 年を取ると眠りは浅くなり、幾度も目覚めてあれこれと思い悩むこともある。今まで身近ではなかった人の事でも、年と共に世の煩いに追い込まれることもあり・・、それを幾分でも理不尽だと感じるなら、なをさら眠れなくなることがある。

「もう!」って起き出して祈った時、長らく忘れていたみことばを思い起こさせてくださった。
そうだった。かってこのみことばに身を寄せて、新しく力を得て幾度も幾度も立ち上がった日があった。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 
今、みことばのご真実に安らぐことを知っている。そのことを多くの経験を経て教えてくださった。
私たちは世の重荷を主に下ろし、賜った自分の十字架を負って付いて行く者である。主は、私のくびきは負い易いと言ってくださった。また、事実そうだった。
そうして・・私は眠りに落ちていった。


 イエスさまのみことばはさなぎを守る繭のように、一方的な愛で幾重にも幾重にも語られ、永遠の約束によって覆っていてくださる。
キリスト者はその繭に包まれ主の愛を経験し、喜んでいなさいと命じられている。
時が来るまでそこにいて、成長を待っていなさいと・・。

しかし、人はそこに在っても世の嵐を見聞きして心乱されることがある。それは、繭の堅固なことを疑ってしまうから・・、いや、みことばの約束に居ても、それを日々見つめ経験していないから忘れてしまっている。
みことばに包まれていることを忘れるなら、裸のままで嵐の中でありそれは恐ろしいのは当然なのだ。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)

時が来たら、イエスさまの備えてくださった家に帰ろう。全幅の信頼という傷のない羽を広げて、愛する方の元に飛び立てますように・・。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(ヘブル12:1)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

償い

2013-09-24 14:01:12 | Weblog


 取りなしの祈りは難しい。異言の祈りならできるけれど、知性で祈る時はどの様な言葉もしっくりしなくて・・落ち着かなかった。

御子イエスさまの十字架のあがないを知って居ながら、主に向かって「なぜ」とつぶやくことには抵抗があるけれど、心を痛めておられる人を想うとき、自分の経験とも重なって、その痛みは心に重くのしかかる。


 しかし、主はそのことを十分ご存じであった。たとえ罰せられた年々であっても、主はそれを回復してくださり、栄光を賜るのだと知ったとき、私はどのように取りなせば良いのか・・、祈れば良いのかを知り、望みを持って安息することができた。


シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。

打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。
いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。

あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。(ヨエル書2:23~26)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

半沢直樹はなぜ銀行に入ったのか?

2013-09-23 15:30:30 | Weblog

 復讐のためだけならこの終わり方は最善である。目的は果たしたのであり、彼は銀行にはもう何の未練もないだろうから・・、しかし、家族のために出世を望んでいたのなら、土下座は愚かな要求である。

なぜなら、彼に土下座をさせられたのは大和田常務だけではなく、頭取を始め、大和田のやり方を尊敬していた銀行という組織なのだから・・。

 そもそも組織に入って、その色に染まらない者がそこで出世したところで、自分自身が分裂状態となり、精神的にも肉体的にも病気になってしまうだろ・・。
彼の妻が「ここまでやったのだから、お父さんも喜んでいる」という台詞があったけれど・・。

私なら、息子が私の復讐のために人生を消費して喜ぶことは決してない。むしろ、子どもに恨みを知らせてしまったことを悔やむだろう。自身の恨みは自身で持って死んで終わりである。


 聖書は怒ることも認めているけれど、イエスさまも怒ることがあったから・・。
しかし、何時までも怒っていることは許されていない。
復讐は神にお任せで、敵のために祈る者である。本心は脇に置いて・・。
そこにある救いの大きさは感動である。信じる者にとって、主はご真実であり、倍返しであがなってくださるお方であるから・・。

 しかし、もし半沢の出世でめでたいと終わっていたら、つまらない漫画のままだった。
終わりは妙にリアルだったので、「時間を損した・・」なんて気持ちにはならなかった。珍しく息子(彼は滅多にテレビドラマは見ない)と共に楽しませて貰った・・。

続き?それってなんだろう・・。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ヨナは主を知る

2013-09-18 13:42:24 | Weblog


私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。(ヨナ書4:2)

 彼は、主の御顔を避けてタルシシュ行きの船に乗ったときから、腹の底ではわかっていたのだろう、主の愛も厳しさも、その全能の力も・・どうせこうなるということを・・。
だから、嵐の時も船底で眠りこけることができた。逃げている間も、主に身を任せるしかないことを知って居た。

たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。(詩編139:80)


 魚の腹の中で死を味わっているときも、彼は愛されていることは確信していた。だから、何処ででも主と交わることが出来たのだ。たとえ、背いている時であっても、罰せられているときであっても・・
そこで主に祈って言った。彼は、自分の言葉を聞いてくださる方に話している。

「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」(ヨナ2:7)

知って居ることと従順することとはレベルが違う。ヨナは死を経て従順することができたのだ。どんなに小さな事でも従順にはそれなりの死が必要である。


 彼は愛によってニネベで働いたのではない。主に従順して仕方なく主の言葉を伝えたのである。
しかし、ニネベには主の備えがあり、彼の言葉は王宮からその大きな町の隅々にまで、真っ直ぐに届き真の悔い改めを招いたのだ。

彼はそうなることを知っていたといっているが・・。それでも自分の思いのように滅びることを40日間待っていた。
ニネベが救われることを望まなかったヨナは、自分の働きによって神の救いが現されたことを不愉快に思ったとある。

 なんだかこの成り行きは面白い。神に従順するのは行いまでであって、ニネベの救いに対する反発は初めから少しも変わっては居ない。
そう、主の働きをしようとしても、自分の本心が付いてこないことによって躊躇してしまうことがある。

しかし、本心を知って居るから働けない、という言い訳が通らないことを此処で学んだ。私たちの本心なんてどうでもよいのだ。ただ、命じられたことをするとき、主はそれを用いられるのだから・・。大切なことは主のみこころが成ることである。

 此処でヨナは自分自身を偽っては居ない。主のみこころを知ったからといって、私たちは自分自身を偽ることなど強いられてはいない。
信仰によってすぐに感情、心まで変えることはできない。怒りやねたみや恨みなどが消えるほど、人の心は容易く組み伏せるものではない。
主はそのことをよくよく知っていてくださったのだ・・、そのことに気付かされて私はとても感動している。

神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。(ヨナ4:6)

主はヨナの思いを決して無視されることはなかった。
まことに天地創造の神が、不機嫌を直そうとあやしてくださるのである。ひとりの人にさえ、ここまで細やかな愛と忍耐をもって顧みてくださる。私たちの主なる神はこう言うお方である。

ヨナは葛藤の中で主の愛を経験して、また新たに主を知るのである。
従順するとき私たちは主の愛を経験することが出来る。私を知り尽くす方の個人授業を受ける事ができる。それはなんと幸いなことだろう。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6:6)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

覚えて居てほしい

2013-09-10 15:16:02 | Weblog

 何度も読んだ箇所だけれどルカ8章、ゲラサの男の箇所。イエスさまがお命じになった時、狂った男から多くの悪霊が豚の中に入って豚の群れが死んでしまった。
そのことによって、 豚という大切な財産をあっという間に失った人々は、イエスさまに此処から出て行ってほしいと言った。

彼らには、その時こそ、正気に返った男を見て救い主を知るただ一度のチャンスだったのだ。しかし、彼らにはそれが見えなかった、財産を失ったことでパニックになってしまったから・・。
イエスさまは時々、私たちに問われることがある。「あなたにとって、最も大切なものはなにですか?」

どの様に答えることも許されている。「此処から立ち退いて、私にかまわないでください。」と願えばそうされる。
私たちが目に見える財産に心を奪われていると、失ったもののことで心が占められてしまって、イエスさまがわからなくなる。

 誰でもこの世もあっては、何時すべてを失うことになるかも知れないのだから、大切なものを無くしたその時こそ、本当にイエスさまに出会うチャンスなのだと知って居て欲しい。

財産を失ったゲラサ人のようにパニックにならないで、主の時を逃さないために、イエスさまの御前に静まることを覚えて居て欲しい。
イエスさまを失った人は本物の墓場に住むようになるのだから・・。永遠の滅びという死の場所に住むことになるのだから・・。


 息子の出発の朝に、一緒に聖書を読んで少し話をした。はなむけの言葉として伝えたいことはひとつだけ・・。
良き備え、何の心配もないイエスさまのお守りの中に行くことをよくよく知って居るけれど、それを承知で伝えたいことがあった。


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

何だかんだのメモ

2013-09-07 11:41:09 | Weblog

 めちゃくちゃややこしい日々が続いていた。
順を追えば、息子の異動による引っ越しがあり、まあ、これは私には何もしないようにと息子に言われていたのだけれど・・、たとえ口出ししてもほとんど相手にされなかった。それでも私は落ち着かないのだ。


 次に、最近聖書を読んでいると字がだんだん見難くなり、部屋の中でも明るい場所を探してうろついたり・・、それはとてもイライラすることなので、眼鏡のレンズを変えようと思った。
貧乏性な私だけれど眼鏡だけは一応デパートで作っていたので、またまた物入りだと・・、出不精なのに面倒くさいとため息をつきながらも出かけた。

しかし、丁寧に検査をしてくださった店員さんの言葉に私はがっかりしたのだ。「5年前に作ったときと視力などは余り変わっていません」とのことだった。
本当なら喜ぶべきかも知れないけれど
「え~そうですか・・、レンズを変えて劇的に見えるようになることを期待して来たのですが・・」そんなことをつぶやいてしまった。

「それなら、読書用を作られたらいいですよ。」その一言に「ああ、その手があったか・・」とホッとした。
今の遠近両用では見える範囲が狭くて、何度も眼鏡を持ち上げながらの読書やpcに手こずっていたから・・。そんなことをお話ししながら勧められるままに注文して帰ってきた。


 その直後、主人の免許証の紛失が判明。警察に電話を入れると、当日発行できる免許センターに行くように勧め・・いや、半分命じられて・・それは「不携帯で乗らないでくださいね。」と強く言われて・・
そうなれば、一緒に行かないと後悔することになりそうで、慌ただしく準備をして出かけた。

知らない場所に行って、慣れない手続きをするのは年を取ると緊張して疲れる。時間ぎりぎりの滑り込みだったこともあって、係の方は親切に?手早く進むように教えてくださったが、これが主人にはなかなか・・なもので、係の人の気持ちは無視することにして「ゆっくりで良いよ」なんて横から口を出し・・なんとか免許証を手にすることができた。
家に仕舞っておけるものではないし・・再々発行なんてことにないよう願うけれど一抹の不安あり・・。


 息子の荷物を送り出す前夜に、急遽、翌日も出社することとなり、ほとんど荷造りの出来ていなかったことで、夜逃げのごとくバタバタと荷造りが始まる。

それでも私には手を出すなと言うので、ムカッとしたけれど放っておいた。階段を重い物を持って何度も何度も上がり下りする激しい足音を聞きながらも、知らぬ顔をでゲームをしていた。いくら何でも眠るほどの度胸もないので・・。

すべてが終わったとき、「今後ひとりで出来ることでも、助けてもらってやる方が良いよ。終わったときに一緒に喜べる人ができるから」とひとこと忠告をしておいた。

これは半ば自分に言い聞かせることでもあり、親子は結局似ているのだ。私もそんな風に甘え下手で、ひとりで無駄に頑張って生きてきたような気がする。でも、年と共にそのことは寂しいものだと思えるようになり・・それで言うのだが・・。

翌日運送屋さんが来たときには、完全な荷物が玄関に積み上げられていたので、あっという間に運び出されて終わった。そこまでしなくても良かったのに・・運送屋さんが二人、手持ちぶさたな様子だった。
終わったこと息子にメールしたとき、「対応有り難うございます」とご丁寧な返信が来たけれど「初めから終わりまで、ぼーっと見ていただけなんだけれどね・・」って、主人につぶやいていた。


 ずっと雨が続いていたけれど昨日はバイクで移動するのに絶好の晴天。沢山の洗濯物もぎっしりと並べて干し、安心して出かけることが出来た。
前方に青空を見ながらちょっと強い日差しも心地よく、ついでに体や心の湿気も払うかのように風に身を任せて走る。
大川の岸はきらきらと緑が揺れている。川面も白く光っている。あれほど居た川遊びの人影も絶えて、ただ、広々と夏の終わりを漂わせていた。

教会のお掃除当番は姉妹と手分けをしてのご奉仕。掃除機を詰まらせてもたもたしていた私の分まで手伝ってくださったので思ったよりも早く終わった。
お掃除が終わったら何気な日々のことなどおしゃべり・・、夫のこと子どものこと食事のこと、そうして彼女はペットのこと・・そんなたわいもないおしゃべりがホッと楽しい。


 後は、出来上がった眼鏡を取りに行くと忙しさは終わる。たぶん終わる・・だろう。
しかしどんなに忙しい日々の中にも、そのすべての出来事の中で主を近しく感じ続けているし、みことばは新鮮で魅力的である。そこにはとんでもない発見があり、それはワクワクすることであり、世にはない感動があるから・・。


彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。
しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。(ダニエル8:25)

ハレルヤ!

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

十字架を負って (ダニエル書から)

2013-09-03 14:15:39 | Weblog

 捕囚となってバビロンに連れ去られたダニエル達にとって、王の食べ物や飲み物を拒み、その理由を「身を汚したくないから・・」と伝えることは、死をも覚悟してのことであったろう・・。

しかし、彼らは一貫して理由を明確に伝え続けている。それが主のみこころだからである。
彼らの身を守るものは、人の知恵や世渡りの巧みさではなくひとえに主に拠るのだ。彼らは自分の言葉の結果を、主に在って受け入れ、身を任せているだけであった。

ダニエルが夢を解き明かして、殺されることを避け得た時、そのことによってネブカデネザル王は初めて造り主なる神をほめたたえた。

王はダニエルに答えて言った。「あなたがこの秘密をあらわすことができたからには、まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ。」(ダニエル2:47)

 
 ダニエルは高い位につけられたが、それは彼の罠ともなる。人の力によって上げられた者は人の力によって落とされる。
ダニエルが、王の命令に逆らい偶像を拝まないことを告げたとき、王の顔つきは変わったとある。

ある日、優しい人の態度が一変するなんて世によくあることである。
たとえキリスト者であっても、世に執着するなら人の顔色をうかがって生きるようになる。人と神を同時に恐れることはできないから、それは神をないがしろにすることにつながっている。

 しかし、主を恐れる者は、良い時も悪い時もイエスさまに身をお任せして、その内に安息しておればよいのである。ダニエルたちは何時でも、死の向こうに居られる主を見ていたのだろう・・。

もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(ダニエル3:17~18)


「しかし、もしそうでなくても・・」ハレルヤ!
主は、あらゆる境遇から私たちを守ることがお出来になると知っている。けれど、人はみこころのすべてを知っているわけではないので、今、目に見える結果によって主の御愛を疑うことは出来ないのだ。

私は知っている。それは及びもつかない御愛の内に、良きことが進行しているのだということを・・。
世では最悪である死さえも、キリスト者にとっては祝福のゴールである。

そのような確信は、イエスさまが愛と忍耐を持って祝福し、教育してくださった経験によるのである。
ダニエルのように良いときも悪いときも「しかし、もしそうでなくても・・」と、御名を告白する者でありたいと願っている。どうか、主が守ってくださいますように。


 ダニエルは主に育てられた者、決して異邦人の王によって育て直されてはならなかった。
キリスト者も世から救い出され、新しいいのちによって育てられた者、世に育て直されるよいうなことがあってはならない。

たとえどんなに弱くても、主に在る者は世を育て直す者なのだ・・。
王は彼らを自分で教育しようとして失敗し、教育されたのは王である。ダニエルは主によって教育された信仰の勇士であった。

今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。(ダニエル4:37)

ネブカデネザル王は苦難の中で砕かれて、真に主を見い出しほめたたえた。
このことをもってダニエルたちはひとつの大きな仕事を成し遂げたのだと思う。父なる神がほめたたえられることほどに、真実な価値あることはないのだから・・。


 十字架は死刑の道具である。イエスさまは自分の十字架を負えといわれる。それはキリスト者が世に殺される危険をもっていることを示している。イエスさまと同じように・・。
ただ、その時はっきりと主を告白するなら、主ご自身が私たちを証してくださる。

確かに・・、十字架に架かってくださるのはイエスさまである。髪の毛一本も燃えることはなく、主に在る身がライオンに引き裂かれることもない。

証の十字架をくださったイエスさまを喜んでいる。イエスさまは言われる「私のくびきは負い易い」と・・
どうか、父なる神の御名があがめられますように。


いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです(Ⅱコリント4:10)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加