石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

誓約

2013-08-28 15:58:29 | Weblog
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 今週のメッセージも嬉しかったし、洗礼式は喜びに溢れていた。
昔、私は信仰の先輩である彼女のお姑さんから「嫁さんに信仰を伝えたいけれど、お商売のことなどあって・・」と、ご自身の弱さを語っておられたことを、感動と感謝を持って思い出していた。

すでに召されて、今此処にはおられないけれど、人の弱さを覆うイエスさまのご真実を、間近に見ることができた思いで、皆共に感動しつつ、私たちの弱さにも同情してくださるイエスさまに希望を繋ぐ時となった。


 しかし、イエスさまを信じる信仰の告白に、教会や組織への誓約が続いており・・私はそのことに違和感を感じて、どうにも消えず悩み続けている。

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2:14)


それは、おそらく何処の教会ででも当たり前のように行われてきたことなのだろう・・が、洗礼式とは、聖書に従ってイエスさまを信じる信仰の告白であるはずで、ただ、主を告白して救われるというみことばに完全に基づくはずが、人由来のしばりをもって重荷を背負わせているように思えた。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)

ただ、信仰によってイエスさまの十字架であがなわれ、心に溢れる救いの喜びによってイエスさまを慕い、その霊の体なる教会を愛し、その礼拝の場をも愛して奉仕も捧げ物もしてゆくのである。
主がその信仰を育ててくださっているからだと私は信じている。


ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(Ⅱコリント9:7)


すべて、豊かに備えてくださる主から受けて、それを信仰による自由の中で捧げる。捧げる者はそれがどこからきたものであるのかを知っているので、主にお返しするという意味もよくわかり、右の手の行いを、左の手に知らせる必要はなく、主がご自身の必要を、私を通して備えられたということを喜ぶのである。


しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。(マタイ5:34~36)


人の作った組織や決まりが主に優先することはありえないから、何に対しても誓うことはできないはずである。主は誓ってはならないと言われた。
主の居られるところにキリスト者は居るべきであり、人の組織に居る者ではない。行けと命じられたらすべてを捨てて行くべきであり、留まれと言われれば誰も居なくなってもひとり主と共に居るのである。

 日々成長を続ける者は時々刻々と変化している。その中で何をどのように守り、何をどのように育てるのかは主の意志に拠ることだ。
みことばの解釈さえも変化して行く、聖霊の導きは風のように自由である。主に在る人をどうして支配することが出来るだろう・・。

私たちの教会は豊かなときも貧しいときも、献金や奉仕を強制しない美風を守り続けている。それは、イエスさまへの信頼によるものであり、救われた人の信仰を信じてのことである。だからこそ不純に思えるひとことを悲しむのである。

 幕屋は主と共に過ぎゆき、神殿も崩れる。世ではイエスさまは限りある弱さをまとわれた。この世のものはすべて影にすぎず、主に呼ばれる時を待つための仮の宿。
大切なものは唯一、聖霊による導きの中を右にも左にも逸れないように、一人ひとりがyes、noを選び取りつつ主と共に前進することである。
今は、再臨は手を伸ばせば届く時であるかも知れないのだから・・。
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時 (主のストーリー)

2013-08-22 21:28:56 | Weblog
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 ホトトギスの鳴き声を聞くことが少なくなった。
数年前には、夜中の大きな鳴き声に起こされて、鳴いて血を吐くホトトギスなんて本当かも・・って、夜鳴く鳥に色々な思いがあった。
今年は夏ウグイスの声もあまり聞かなかった・・。ただ、イソヒヨドリだけが増えている。美しい声で囀るのだけれど、あまり素直には喜べない。何かが変わってしまったから・・。


 昨夜の雨で、今朝はいくらか涼しかった。でも、日差しが強くなるとともに、のしかかるような圧迫感を感じて少し胸が苦しくなる。
こういう時は早く汗を流すことだと、庭に出て草むしりをする。そう、汗を流すと楽になる。造り主が備えてくださった水冷装置は、わずかな風でもヒヤリと肌を冷ましてくれるから・・。

竜のヒゲの青い実がとても美しい。ああ、高砂百合の咲くのが遅れていて、まだつぼみのままだ。本数も少ないなぁ・・。
植物は年ごとに変化する。その変化にはいっぱいお話がつまっているのだろう。私に聞く耳があったら、いろいろ教えてくれるだろうに。いや、お説教かも・・あまり手入れの良くない庭だし・・。
何時も同じじゃないから飽きることはないのだけれど・・。


 手を突っ込んで草をむしっているとトカゲが飛び出してきた。このトカゲさんは顔なじみで数年前から庭に住み着いている。きょとんと見上げている時には平気だけれど、飛び出すのはやめてよ。
いや、驚いたのはトカゲさんの方かも・・ゆっくり葉陰でまどろんでいたのだろうから・・。


ツクツクボウシが、もうすぐ夏休みも終わるよ~ああ、忙しい忙しい・・そんなふうに忙しなく鳴いている。
私の中では、ツクツクボウシと夏休みの終わりがつながっている。居てくれてありがとう。


 メダカさんはとても元気。涼しげな水草の間をみんなでス~イスイと泳いでいる。
新しく生まれた赤ちゃんも2匹いる。それは、幸運にも卵からかえってすぐに見つけて保護したもの。

放っておいたら食べられてしまうらしいから・・、それが証拠に一匹が夏中卵を産んでいるけれど、ちっとも増えてこない。
保護した赤ちゃんメダカもずいぶん大きくなって、元の水槽に戻しても、時々追いかけられながら、素早い泳ぎで身をかわしすっかり馴染んでしまっている。

 
 息子も9月には異動になるという・・。今までは、何だかんだと言いながら17年ほど同じところに居らせて頂いた。
何度目かの親子の自立だなぁ・・。私、最近何かと依存していたし、彼も依存している部分があった。
どうぞ、この小さなメダカのように元気に乗り越えてくれと願っている。

今まで互いに頼り合っていたところに、主が入ってくださることを祈ろう。主が備えてくださるタイミングは何時だってGood!これが最善。

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良い地

2013-08-20 14:41:52 | Weblog

 群衆はイエスさまに群がって来た。そうして、たとえ話を聞いて去って行く。彼らは何に満足したのかだろう・・、噂の人を見ての満足なのだろうか。
彼らは見ても聞いても悟らないとイエスさまは言われた。

時にはイエスさまにずっと付いて来る。イエスさまが心配をしてパンをお与えになるまで・・、彼らはパンに満ち足りたけれど、再び空く腹を抱えてイエスさまを探し求めるようになった。
まことのパンである主ご自身を食べないかぎり、今も人は満たされることはない。

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。(マタイ4:4)


 弟子はイエスさまのことばの前に残る者である。
霊のことばを受けようとするなら、常にイエスさまの前にいなければならない。奥義を得て霊が安息するまでは満足してはならない。
イエスさまは教えてくださる。
時に、みことばの成就を目で見せ、細い御声を聴き取るようにとすべてを用いて話しかけ続けてくださる。



 種まきのたとえでは、道ばたに落ちた種は鳥に持ち去られ、人に踏みつけられた。
聞くだけの信仰の不用心さを思う・・。みことばは聞くとそれを消化して、霊の宝物庫に仕舞うものである。いつでも持ち出せるように自分のものにしておくこと。
消化できないときはそれを反芻しているべきであり、放り出しておくものではない。みことばをいのちの宝だと知っているならそうするはずである。

岩地に落ちた種は、根がないために枯れてしまう。
神の言葉を柔らかな心で聞くことの大切さを思う。聖書の言葉は、そもそも人の言い伝えや、人の教えによって知るものではない。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(Ⅰコリント1:21)

 植物にすぐれた肥料を与えてもそれだけでは育たない。その養分を吸収するには水が必要なように、聖書をどれほど読んでいても、聖霊によらなければ霊の成長には結びつかない。
小さな種であっても、根はひとり地の深みに水を探し求めて伸びてゆくように、キリスト者であれば、直接聖霊による導きを求めなければ成長は望めない。

なぜなら、直接聞く教えには混ぜものがなく、一人ひとりの時に叶って、その人の必要に応じて開かれるから・・。主のお導きは完全な個人指導。

 主によって常に耕されていなければ、やわらかな良い畑とはならない。それは放っておくと固まってしまって、空気を失い、水を含むことも出来ないほどになってしまう。
キリスト者にも、神の息、神の霊が、絶えず吹き込まれることが、成長と安息のために必要なのだ。


 私たちが、主から受けた教えを互いに持ち寄り、聖書に照らして共に味わう時共に成長して行くだろう・・。
主の主権の前に恐れることを学び、主の好みを知り、主のみこころを悟るようになるだろう。

真にみことばだけが語られるなら・・世においてはまったく違う者同士が、同じイエスさま色に染まって行くのだろう。
ずっとそのようなものを渇望しているのだけれど・・。
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里帰り

2013-08-16 14:24:25 | Weblog


 孫の成長は、しょっちゅう動画を送って貰ってよく知っているはずだけれど、やはり側でみないと感じられないものなんだ・・。
側に座って声を聞き、頭を撫でたり触れたり、体温を感じることで喜びが倍増する。ごく普通のやりとりや、お手伝いの仕方にもよく考えているんだなぁ・・と成長を見たり、鋭い言葉が返ってきて、何処か自分に似ているかも・・なんてドキッとしたり・・。

さくらはお琴やピアノの習い事を「楽しい!」と言う。合唱の朝練にも精出しているとか・・。「夏休みの宿題は大丈夫?」と聞くと「もう、全部終わったよ。」というが、嫁さんに「まだ、やっかいなのが残って居るでしょ」って言われていた。あの、自由課題。


 末のあかりはおしゃまで優しい華のある子。おいちゃんの手に何気に触れていたり、「おいちゃんだいすき」なんてお手紙を書いて渡したり・・。
初ラブレターだとはやされていたけれど、おいちゃんは実に丁寧に「ありがとう」と頭を下げて頂いて居た。あはは・・。
彼女は優しいけれど、時に言葉に鋭さがあるのはそれも女の特徴かも・・。私は男の子しか育てていないので、女の子の成長には興味津々で楽しい。


 最後の夜は、ささやかだけれどおじいちゃんの快気祝い。みんなでカンパ~ィをして、赤飯やステーキなどでお祝いをする。焼き肉を計画していたけれど、あまりに暑くてとてもそんな気になれなかった・・。

「こうして、みんなと食事が出来るのはありがたいなぁ・・嬉しいなぁ・・」って、主人はほろりとしていた。
イエスさまありがとうございます。


孫の花火を見に表に出たら半月がぽかりと浮かんでいた。なぜか心に残って、しばらく花火よりも空を見上げていた・・。

嫁さんともいっぱいおしゃべり・・楽しかった。息子の車で買い物に行ったときはあまり話は弾まなかったのに、嫁さんとはいくらでも話すことがあるのは不思議なことだ。
こんなに不安定な世の中に生きているのに、彼女はいつも安心を与えようとしてくれる。「大丈夫だよ。おかあちゃん」って・・。


夫婦して元気に孫を満喫した夏。
記念撮影の後で、小さな手を振り振り車は日常へと戻って行った。
少し片付けも終わった昨夜、久しぶりの夕立に濡れた路面に涼風が吹き渡り、コオロギがリリリリ・・と小さく秋を呼んでいた。
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十人のらい病人の癒し

2013-08-09 19:41:06 | Weblog

ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。
イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。(ルカ17:12~16)


 彼らは律法によって世から隔絶され、人に近付くことを許されなかったので、声を合わせてイエスさまに叫んだのだろう・・。
しかし、癒された時ひとりだけ、共に生きてきた9人に決別してイエスさまに帰って来た。
去って行った人たちはイエスさまに近付くことはなく、祝福の断片で満足してしまった。

異邦人の彼だけがイエスさまに戻って来たとあるけれど、異邦人ゆえに彼には疎外感もあったのではないか・・。
しかし、その寂しさを補って余りある祝福は、彼がひとりで行動をする時のために備えられてあったのだと思う・・。

信仰は集団で行動するものではない。一人ひとりが自分の意志によって、日々道を選び取りそれぞれの歩幅で歩むものであるから・・。

 群れることは縛りともなる。ともだち百人はいらないのだ。主に在っては家族に対してさえも、常に身軽に居ることが必須である。呼ばれればすぐにすべてを捨てて行く者であるから・・。

再臨の時に家族連れで昇っていけるとは考えられない、むしろこの考えが間違っていて欲しい。息子も嫁も、孫もみんなを誘って行きたいのは当然だから・・。どれほどそれを願っていることだろう・・。誰だってそうだ。


 私もイエスさまに「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と叫んだ者である「息子が死にそうなのです。」と・・。
それから、イエスさまの憐れみとみことばのご真実をゆっくりと・・、主の飴と鞭によって信仰を躾けて頂いた。

今は大胆にイエスさまに近しく居らせて頂いている。
姦淫の女でさえ居心地の良いイエスさまの御側に、まことの故郷を見いだしたのだから、この世に求めるものは何もない。


 イエスさまは息子も私も生き返らせてくださった。
でも、本当に大切なことはイエスさまと共に歩んだプロセスなのだと気付いた。主は気前の良い方であるから、無条件に願いを叶えてくださる事があるけれど、神の国抜きにそれらを求めても、何の意味があるだろう・・。


9人の癒しは、彼らには瞬間の満足に終わってしまっている。はかない肉の命に満足しても人にも神にも益とはならない。
今、キリスト者には御国こそがゴールである。寄り道をどんなに楽しんでも、御国の懐かしさに比べればひたすら早く帰りたいと・・私はそう思う。

でも、十字架を負っている。イエスさまの救いを喜びつつ、神をほめたたえ感謝をして世で暮らすこと・・。
その役割を勝手に投げ出すことは出来ないので・・頑張っている。

イエスさまが「もういいよ。良くやった良い忠実なしもべだ。」って言ってくださる夢を見つつ・・
まあ・・、人には頑張っているようには見えないだろうけれど・・私なりに。


 やもめが息子を亡くした姿を見て、イエスさまは可哀想に思って癒された。(ルカ7:13~14)
イエスさまは憐れみ深いお方である。情けのあるお方である。
でも、この奇跡を通して「人々が神をあがめた」ことこそ大切なことである。イエスさまは父のみこころをなさる。すべては、父の御名があがめられるためなのだから・・。

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完全な癒し(主のストーリー)

2013-08-07 14:56:18 | Weblog

 腫瘍は5mmまで縮小しており、腫瘍マーカーも正常値まで下がっていると伝えられた。なを、「肝臓の値まで正常になっています。何も治療をしないで治りましたね。」と、二人の医師からそのように言われた。

主人を通して、多くの医師の前で数字とし、映像としてイエスさまの奇跡が現されたことに、恐れを覚えて昨夜は眠れなかった。

今までも数々の癒しを頂いて居るし、沢山不思議なお守りも経験しているけれど、それらはすべてイエスさまと私たちの個人的な関係の中でひっそりと頂いて居たことだった。
しかし、今回はそれらとは違う。そのことをどのように受け止めるべきなのかわからなくて・・少し狼狽えていた。


 朝から、掛かり付けの先生に医大の結果を報告に行った。
「それは良かった」と、喜んで聞いて居てくださったけれど、「もう、これで終わりにしたいのです。点滴も減らすことができないでしょうか。」という言葉に、キッとされて「病気を甘く見ない方が良いですよ」と言われた。

医学者と信仰者は見るところが違うのは当然なのだろう・・。
医大でも、そのようなことを訴えたとき「まだ腫瘍は在るのですから、これからも診て行く必要があります。」と3ヶ月後の予約を進められたっけ・・。
私は単純に、回復しているのに検査をしたり、治療を進める意味がわからないだけなのだけれど・・。


 聖書には、イエスさまに癒されたペテロのしゅうとめは、すぐにイエスさまをもてなして立ち働いている。
本当に良くなったかどうか自分の中をのぞき込むようなことはしない。それが信仰者の姿だと思うから・・。私たちにとっては主の癒しこそが完全なのだから。

でも、イエスさまが5mm残された事の意味を感じ、もうそれ以上は何も言わなかった。
3ヶ月前には1㎝残されていた。
この時もなぜ?と私は不思議に思った。完全に癒すことが出来る方が、あえてチビチビと残されるのはなぜだろう・・って。
ブツブツとつぶやきつつも、きっと主の意図されることがあるのだろうと深い所では気付いていた。


 思えば、何の働きもない年寄りになぜ今更癒しなのか・・人間的にはそうだけれど・・。
それはイエスさまのお決めになったことであるから、人は主の価値観を恐れるべきなのだ。
主の価値観は人とは真逆であり、弱い者愚かな者を用いるお方であるから・・。

確かに、聖書の中でも年寄りを用いておられる。わざわざ年寄りになるのを待って用いることがある。
力を無くすことが祝福であったり、人のステータスを塵芥と捨てることを喜ばれたりする。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅰコリント1:27)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)


 何の力もない者、何の価値もない者を、一方的に愛し、完全なご自身のわざによって用いることがお出来になるお方がイエスさまである。
人が何一つ神様を助けることが出来なくなって、初めてお役に立つことがある。
ただ、主のなさるままを受けて、主の用いる御手に信頼していよう・・。御旨にすべての時をお委ねして此処に安息しよう。
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「もう、止める。」

2013-08-03 11:15:01 | Weblog

 昨日、医大に出かける直前になって主人が「今日は止める・・」なんてい言い出した。
午後になっての外出は面倒くさいのは良くわかる。日盛りに出かけるのはとても気が重い。まして、治療でもない検査を重ねることなんか嫌だとよくわかる。

だからといって、検査をすっぽかすことは後々面倒なことになりそうで・・、簡単に賛成できない。
今一度医師に付き合って、この結果をもって今後のことを話すほうが大人の判断だと説得しつつ、さっさと立ち上がって準備をする。


 一昨日、血液内科の医師は、この腫瘍に関して命の10年保証をしてくださった。家電でも10年保証はめったにない。「10年経ったら90ですね。」なんて笑っておられた。
腫瘍マーカーにおいても問題なしということで・・。
しかし、CT検査の結果を見てから今後のことは話しますとのことだった。

そのこともあって、主人は今日の検査は馬鹿らしくなったのだろう。私もそう思うけれど・・。検査には幾らかのリスクもある、まあそのことは心配要らないと私は思っている。「毒を飲んでも害を受けない。」そもそも、そのような癒しなのだから。


 なんとか説得して炎暑の中を病院まで行くと、待ち構えられていて検査はあっという間に終わった。
しかし、二日も続けて血を採られたと主人は
「献血させられているのではないか」「まさか・・病院が有無を言わせず献血させるなんてあり得ない。」
主人の発想に大笑い。第一病人の血では使い道もないだろう・・いや、何かの研究にはなるのかな。


会計を済ませて幾らかかったとか文句を言いながら病院を後にする
まるで火の中に飛び込むような炎熱地獄だったけれど・・。しかし、元気なんだからと西日の中を駅までとぼとぼと歩く。来い来いと言う医師はこの負担を知っているのか・・
しかし、この身の幸いもわかってはいるのだけれど・・そんなことなど話しつつ・・。

今度、結果を聞くときにはちゃんとこちらの言い分も伝えよう。
それにしても、何処にでも出かけられる元気と、美味しく何でも食べられる幸いが与えられていることが、どれほど素晴らしいことなのか・・。
私たちは主の守りの完全が、その中に住んでいてもほどんどわかってはいないのだろうな・・ 。
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