石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

ゴールのことと明日のこと(主のストーリー)

2013-07-31 19:46:34 | Weblog

 場違いな所に置かれるほど居心地の悪いものはない。私が王侯貴族の世界に置かれ、そこにしか住む所がないとなることは、たとえどんなに煌びやかな美しい世界であろうと苦痛でしかない。

人が神と住む、それこそ場違いの極みではないか・・。
たとえ、罪を赦されていることを知っていても、ほんとうにそこに安息することができるとはとうてい思えない。

罪の記憶を持ちつつ、真実の主、影のない光の主と共に四六時中居て、リラックス出来るなんて考えられない。それは恐ろしくさえある。
そんな天国など怖くて行けない・・。


 しかし・・思えば、イエスさまと共に生きるようになって、イエスさまに出会う前の生き方を責められたことは一度もなかった。
それはイエスさまを救い主と信じ受け入れた時、イエスさまの記憶からも、私の記憶からも、罪からくる記憶を拭い去ってくださったからだとしか思えない。

いや、私に記憶はある。けれどもそれは主によって清められ、完全に赦されて、幾重ものみことばの中に封印されている。罪によって病んだ痕跡も、過去の恨みも憎しみも、悲しみも理不尽も・・。
だから、私は今もこれほどに安息し、祈ること、願い求めることができるのだろう・・。

なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)

神様が忘れてくださるのだから、私たちにも忘れさせてくださる。
それは新しくされた保証であって、光の中に住むための備えなのだから・・。


 今、再臨のこと、御国の住まいのことをリアルに思い描くことを求めている。それは願わなければ、決して人の思いとはならないだろう・・。
それこそゴールなのだから、ゴールが何処かわからないような走り方にならないために・・。今、それは遠い先のことではないように思うから・・。


 明日は医大へ主人の診察のために行く。
「癌が消えたとはまだ信じられないので、3ヶ月後にもう一度診せてください。」という医師の要望によって、二つの科の診察とCT検査のために計3日通うことになる。

主人はこの暑さにもへっちゃらで非常に元気。通院していた頃を懐かしんで、明日のこともまんざら嫌でもないらしい様子・・なんだか変なの・・
まあ、久しぶりに一緒に出かけて、主が何をなさるのか・・ちょっぴりドキドキしながら見せて頂こう。


そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~4)

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証しは十字架

2013-07-26 12:34:27 | Weblog

 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(詩編30:11~12)


 不思議が行われたとき、キリスト者なら誰でも主なる神ご自身を恐れ崇めるはずである。
しかし、現実には人を見てしまっている。
人の信仰だとか・・、祈りによるとか・・そんなふうに微妙にすり替えられてしまうことがある。
そうやって、神様のわざがサタンに盗み取られてしまう。

使徒がそのような言葉を聞いたなら、衣を裂き塵をかぶって否定しただろうけれど、今はそれさえ出来ず、言葉を失って絶望する・・。
そうして、苦い後悔が檻のように残る。そんな澱が証の度に積もり続ける。
すべての出来事を通して、ただ、共に主を崇めたいだけであってもすれ違ったままである。

いつも神様の救いは、ひとつのことを明らかにしている。それは、「何の資格もない者が受けた」と言うこと。
神様はそれを世に知らせるために、明らかに資格のない者を用いなさる。当然ながら、誰よりも当人がそれを一番よく知っているのだけれど・・。

もっとも、百人隊長であってもその良い行いによって、イエスさまを動かす資格になどにはならないのであり、そんな風な考えはイエスさまを貶めるものなのだけれど・・。それはみこころとは真逆なものだから・・。
主の憐れみはいつだって一方的で、人はこれを受けるのみである。


 証は時に残酷でさえある。
神様の不思議は、何時誰に成るのかそれはみこころに拠ることであって、それを「時が良くても、悪くても」語ると言うことは、痛んでいる人を傷つけることがある。
それはどれほど鈍感な行為であろうか・・。

しかし、それが神様の意志に拠ることであれば、憐れみを受けた者が、時や相手を選択することはできない。誰が、人の信仰の中身を知ることが出来るだろう。
まず、互いに主に服従するところからすべては始まるのだから・・。

 イエスさまは「わたしは、地に平和をもたらすために来たのではない。」と言われる。イエスさまの平和は、信じて、新しくされた者の霊の内に成ることであって、古い魂にあっては、激しい痛みをともなうこともある。

それを知っていながら、魂に拒絶されることばを語ることは、主の憐れみを受けた者の十字架なのかも知れない・・
十字架は救いをもたらせるものと信じて、従順するために負って行くべきなのだろう・・。
主は生きておられると告白しつつ・・。


「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。(使徒18:9~10)



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午前4時45分

2013-07-25 19:08:38 | Weblog

新聞配達のバイクの音・・、焼けたばかりのホットドッグをオーブントースターから出して、玄関の鍵を開ける。

すでに明るさを含み、薄い青の広がる空にまん丸い月。
ポストに放り込まれたばかりの新聞を抜き取り、もう一度空を見上げる。雲一つ無い空の真ん中にぽかんと浮かぶ月・・ちょっと間抜けたようすで・・。

昨夜寝室から見た時は、煌々と金色に輝いていたけれど、今はそんなに頑張ってはいない・・ちょっと眠そうで・・。

目覚まし時計のように、ヒグラシゼミが大合唱。
こだましているのかと思うほど・・


「ありがとう」と新聞を受け取り、目を通しつつホットドッグを頬張っている息子よ。
あなたの一日は今から始動する。
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聖書の罠

2013-07-24 15:47:06 | Weblog

 聖書には良い行いを勧める多くの箇所がある。
もし、何も出来ないことに比べればまだマシであると読み、また、あんな酷い人に比べればマシだと読み、昨日より今日はマシになっていると読むならば罠に嵌る。

その聖書箇所によって、絶望することがなければ罠に嵌ったままで一生終わる。その人の信仰は一歩も進まない。聖書はそのように出来ているから・・。

 しかし、絶望の底から主に救いを求め、信頼して飛び込むなら、イエスさまは十字架の血に染まった御手で受け止めてくださる。
それが誰であろうとも・・。イエスさまの十字架の救いは、人の罪の嵩を遙かに超えて、無限であるから・・
その救いの大きさは、心貧しく何も持たずに主に身を寄せた者だけが知ることができる。

その人はイエスさまの養いによって育てられ成長する。人本来の力がそれに手を貸すことはなく、人の知恵がそれを悟ることもない。
聖書は人には出来ないことが書いてある。それは、自信と傲慢の終点であるゲヘナから脱出させるためのものである。


イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)

イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)
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百人隊長の信仰

2013-07-22 14:13:10 | Weblog

 礼拝中に読まれるみことばによって、聖書に新しく出会うことがよくある。

百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。(ルカ7:3)

確かに彼はイエスさまを家に招こうとしたのである。
彼にはそうして頂くだけの行いがあったから・・。彼がどんなに謙遜であっても、それまでの彼の信仰はその行いの上にあった。
しかし、

イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。(ルカ7:6~7)


途中で、「お言葉だけをください。」と変わっていたのだ。今まで気付かなかったことにショックを受けた。



 何処で礼拝するか・・それはただ主に従順することであり、すべての必要は主に在って満たされることを知ると、期待は主に向かってふくらむ。
誰に責任を問うことではなく、導かれた主のなさることなのだから・・。

どんどん読み進められるみことばを聴きながら、「主よ。これはどういうことですか」と尋ねた。
フリーズした頭の中の疑問が溶けてゆくように、百人隊長の様子が見えてきた・・。


 長老達を送り出した後、百人隊長は静まってイエスさまを迎える備えをしていたのだ。彼はイエスさまをどんどんリアルに感じていった。そう、すでにイエスさまと向き合っていたのだ。
彼はイエスさまとの霊的な交わりの中で聖さにふれ、恐れることを学んでいった。そうして、どんどんイエスさまが近づき家から余り遠くない所までこられた時、
彼は、神の権威に対する恐れを知った。御子を呼びつけると言うことの恐れを・・自分をわきまえること、行いの上にある自分の信仰の過ちを知ったのだ。


 祈りはイエスさまとの交わりである。
祈りの成就を待つ・・、何時間か・・何日か・・何年か・・、百人隊長とイエスさまの距離のようにどんどん縮まって行くのだけれど、それはイエスさまと交わりの時間でなければならない。
リアルな願いの成就よりも、むしろ大切なのはこの時間である。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)


 イエスさまは百人隊長をほめられた。
でも、彼を導かれたのは主である。まるでやらせのようだけれど・・イエスさまから発したことであり、イエスさまによって成ったことであって、百人隊長の信仰の成長によって神の栄光に至るのだ。

イエスさまは誰をも育てたいと思って居てくださる。誰をもほめたいと思っていてくださる。
でも、本当に私たちは成長を願っているのだろうか・・。
勘違いの会堂を建て続けたり、厚かましいからそこまでは願わない。天国の約束を貰ったのだからそれで十分なんて・・、それは十字架を軽んじることではないかと思う・・。


 百人隊長はイエスさまに直接出会っては居ない。しかし、彼は霊の深い所でイエスさまの養いを受け、すでに出会っている。
群衆は直接イエスさまに出会っている。パリサイ人も、ユダもイエスさまに出会っている。しかし、それは彼らに何の益にもならなかった。いや、時には躓きになっている。

重要なことは、霊の深みに在ってイエスさまに出会うことだと思う。百人隊長はその時、真にイエスさまを礼拝していたのだ。

 求めるなら、願うなら、ことは神より発するのである。私たちには拠らないのだから、それは誰にもチャンスがあるということ。
導きに身を委ねて、臆病にならず求めよう・・、完全な信仰は、唯一主の備えの中にあるのだから。

 礼拝の中で、「イエスさまを驚かせるようになりましょう。」と言われた。私は「アーメン」と言った。
それは願えば備えられる、イエスさまの愛のやらせなのだから・・。

私は主の兵隊でありたいと思った。兵隊は自分の価値を知る必要なんかない。ただ、命じられるままに動く者で、伝えるように言われればその通りに伝える伝令となる。
出来るか出来ないか・・それは命じる方が知っておられるのだから、とっても気楽なことである。
まして、救い主であるイエスさまに用いられるなんて、なんと光栄なことだろう。


だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)
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聖なる所

2013-07-19 13:45:46 | Weblog

 ヨシュアに聞き従って、契約の箱をかついだ祭司たちは、蕩々と流れるヨルダン川に一歩踏み出し、水の引いた川の真ん中にすべてが終わるまで立っていた。
ヨルダン川を渡ったとき、リーダーとしてヨシュアへの民の信頼は一生変わらないものとなった。

今やヨシュアは、恐れをもって従うと誓う4万人の戦士を従えた堂々たるリーダーであった。
しかし、その時

主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(ヨシュア記5:15)

 エリコを前にして、主が告げられたことは「靴を脱げ」であった。靴は主の命じられた所を勝ち取るために、大切な足を守る人の備えであったのだけれど・・。
しかし、ヨシュアはその備えを捨てた。

あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(ヨシュア記1:3)

神がヨシュアに約束された場所は、彼の弱い生の足の裏によって踏む所であった。彼は、自分を守る為の備えを捨てて主に信頼した。
ヨシュアの仕事は主の言葉をそのまま信じ、権威を持って伝えることである。

 聖なるところは完全に神によるものであり、人の知恵や人の経験、人の備えを持ち込むなら主の計画は汚れる。それらはパン種である。
彼は自分の戦士4万人を主に返した。ヨシュアを強め、彼を用いるのは一方的に主である。主の軍の前で彼はこのことをわきまえた。

ヨシュアは「強くあれ、雄々しくあれ」という神の言葉のとおりに、戦いを主のことばに委ねた。
彼の雄々しさと強さは、神のことばを曲げることなく伝える力である。それこそが、主にあるリーダーの使命である。そこから右にも左にもそれてはならない。

 私たちは、何を恐れるべきなのだろうか、何に対して雄々しくあり、何に対して強くあるべきなのだろうか・・。きよくあるためにそれを間違えてはならないと思った。


彼らは、わたしの民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を教えなければならない。(エゼキエル44:23)
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紙一重

2013-07-14 19:04:05 | Weblog

 今朝は、目覚めとともに違和感があってトイレに駆け込む。待ったなしの激しい症状にかかわらず、腹痛もないのだけれど心配で出かけられなくなってしまった。
そこで礼拝はお休み。折角昨夜からチラシ寿司の準備をしておいたのに。まあ、いいか・・ゆっくりしようって・・。

 午後になって薬も効いてすっかり落ち着いた。あまり出かけたくはなかったけれど、夕食の材料を買うためにスーパーまで・・。
バイクのキーを差し込み、「厚かましいお願いですが、どうぞお守りください。」イエスさまにひとこと祈る。心の中でもう一度「厚かましい・・」って繰り返していた。
そのときふっと口から出た言葉が心にズンときたから・・。何時も祈るわけではないけれど祈らされるときがある。

 ちょっと風が強いけれど肌に心地よくて、国道を気持ちよく走っていた。
突然左から一塊の若者達が飛び出して来た。とっさに右にハンドルを切ると同時に、後ろから軽トラックが迫ってきた。急ブレーキを掛けると同時に、すれすれに追い越して行く車。
左には半裸の若者達。彼らは何か叫びながら固まっていた。

大川にバカンスに来ているのだろう・・、彼らが国道に飛び出してくることがこの季節よくあるのだ。
普段、国道に飛び出す人なんか絶対に居ないのだけれど、今の彼らには何処も遊び場気分で危ない危ない。浮かれている彼らにはこちらが気をつける他ない。

 祈らされることがある、それはとても感謝なお導き・・。
夕食の後で主人に話すと、
「もしものことがあったら、今頃こんなことしていられなかった。」って言われた。
改めてイエスさまのお守りを深く心に覚える。厚かましい祈りを聞いてくださったんだ・・って。

遠くにヒグラシが鳴いている。このけだるいような夏の夕暮れを、私たちにプレゼントしてくださったのはイエスさま。
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水中ルンバ

2013-07-13 16:04:44 | Weblog

 メダカさんの水槽に藻を買ってきて入れてあげた。奇麗な藻に私は大満足だったのだけれど・・
数日してなんだか水槽の中が騒がしい・・。
メダカさんたちが盛んに追いかけっこをしていて、よく見ると、藻に小さな小さな丸いものが沢山くっついている。

もっとよく見ると、メダカの春ちゃんのお尻にいっぱい卵がくっついていた。「アララ、どうしよう・・」
妹が以前卵からかえして貰ったメダカさんだから、彼女はベテランだけれど・・とっても面倒なことになりそうで、嬉しいような大変なような、喜んでいいのか忙しいのにと困ってもいいのか・・。

 次の日、巻き貝発見!エ~ッどこからやって来たのだろう・・。水道水しか入れていないのに・・。
そのうち・・アララ、小さな小さな巻き貝だらけになっていた。メダカの気持ちになるとその数が怖い。水槽を乗っ取られそうな勢いで増えている・・。

私も流石に気付いた。これは藻に付いていたのに違いない。
調べてみるとそう悪いこともしないらしいけれど・・。いや、水槽がピカピカになっている。ピタリと張りついて、昼も夜もクルクルとまるでお掃除ロボットルンバだ!

 しかし、物には限度ということがあって、とうとう妹に電話をする。
「置いておいてね。すぐにもらいに行くから・・水槽が汚れていて欲しかったから」飛びついてきた。
そうして、前からある彼女の藻と取り替えてくれた。これで巻き貝の異常繁殖はなくなるかな?ルンバだらけも困るから・・。

しかし、新しく藻を入れ直しても、春ちゃんは再びお尻に卵をくっつけて泳いでいる・・。「どうしよう・・」
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忙中閑あり

2013-07-11 14:42:45 | Weblog

 血圧の低下を無視して・・いや、ときどき参っていたけれど、ゆっくり弱っていられないほど、主婦にとって梅雨明けは忙しいのだ。
こたつ布団などを洗い、羽毛布団などは干して片付けることがやっとできた。ほかほかに干せた、炎熱地獄のような布団との格闘だったけれど、なんとか押し入れに収めることが出来てホッ。お天気が安定していたのは感謝。

梅干しの夜干しも終わって元の瓶に収まった。今年の梅はとろりとやわらかく、とってもよい塩梅に出来上がった。塩1割というぎりぎりの分量なのでいつも気を遣う・・、

3年前の低塩梅干しがまだ保存してあるけれど、それを潰して鰹節と少しの御醤油を落としてのお茶漬けはとても旨い。
私は紫蘇をあまり入れないので色はイマイチだけれど・・。
紫蘇ジュースと新生姜の甘酢漬け、キューちゃん漬けなどなど・・そう、保存食作りも今は忙しい。


 そんな日々の中で、朝毎に少しずつみことばを読んでいた。今日はちょっとゆっくり・・。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(Ⅰコリント2:14)

 あらゆる宗教には教えがある。それらは人の知性に納得できるものである。なぜなら、それは人の言葉だから・・。
しかし、みことばは神の霊によるから、霊によってのみわきまえ知ることができるもので、霊によらなければ伝わらないものである。

人の知性には理解できないことが多いからと言って、みことばは人の知恵によって言い換えることができるようなものではない。
誰がその答えをもっていよう・・。
霊の飢えを満たして養い、成長させることが出来るのは主のみである。

「あなたのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生きながらえさせる。あなたのやも
めたちは、わたしに拠り頼まなければならない。」(エレミヤ49:11)


 聖霊による助けが不可欠である。それを人の知性によって読み解こうとするとき、キリスト信仰は変質してしまう。そう、イエスさまの姿を見失ってしまう。

何も知らずに入った信仰生活の中で、ある時、悩みの中に迷い込むことは喜ばしいことなのかも知れない。
それは、自身の欠乏に気付き、霊的な盲人であることを知ったのかもしれないから・・。

その気づきは、イエスさまの豊かな祝福をうけるために必要・・。欠乏を知り、飢えることがなくては人は求めない。まず、自身の必要に気付くことが絶対に必要なのだから。


あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ16:24)

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じゃがいも (主のストーリー)

2013-07-05 18:29:16 | Weblog

 我が家にとって、今年のじゃがいもには大きな意味がある。
種芋を植える季節は主人の癌騒動の真っ最中だった。私には、とても収穫に漕ぎ着けるとは思えなかった。
二種類の癌で、血液内科と消化器内科を行ったり来たりしている身には、とうてい先のことなど考えられなかったのが事実だった。

主人が熱心に畑の準備をしていたので、ネガティブな言葉を口にすることは避けていたけれど・・
たぶん入院している頃だろうし、私には看病と畑なんて出来るわけ無いから、たとえ植えてもどうしようもないのではないか・・、そんなことを心の底では思っていた。
それは、絶望しているのではないけれど、少なくとも今年は無理だろうと判断していた。

 ただ、主に在っては、今まで良いことでも悪いことでも、想像通りになる訳ではないことを経験していたので、それは、私の心をとても落ち着かせていた。
でも「信仰によって癒される」などと確信していたわけではないけれど・・。

私は主を恐れていたので、「主は、私の望みを叶えなければならない」なんて畏れ多くて考えることもできない。
ただ、主の憐れみ深いことは知っていた。
どのような明日が待っているのか、まったくわからなかったけれども、憐れみの主に身を委ねる時、すべての恐れや悩みを吹き飛ばした。

 これからブログにどんなことを書くことになるのだろう・・主人の苦しみを断りもなく書いて良いのだろうか・・、なんて戸惑いもあったけれど、主は平安を備えてくださっていた。

今、新じゃがを前にして夫婦でイエスさまに感動する。主人が自分自身で植えて、当たり前のように世話を続けて、自分で掘ってきた。
そうして「美味しい、美味しい」と、家族で楽しく食べることができるとはなんという幸いだろうと・・


 今朝、通読でエゼキエルを読んでいて、ああ、注意するべきはこのことなんだなぁ・・って、
「どうぞ私たちをこのような罪からお守りください。幼子のように心を空っぽにして、イエスさまの御前に居らせてください。」と祈る。
それは、子どもにも年寄りにも誰にでも出来ることなのだから・・。


「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。(エゼキエル14:3)
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