石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

証し (主のストーリー)

2013-06-27 23:21:27 | Weblog

今日は美容院に行ってきた。
「ご主人は如何ですか」と美容師さんに聞かれた。
「エッ」というと、「この前来られたときに、『明日はペット検査に行く』と話しておられたので・・」と言われて、
あの時、家に帰ってからなぜそんなことを話したのかと、ちょっと後悔したことを思いだした。
やはり誰かに話したかったのだろうか・・とか、彼女の家庭の事情なども聞いていた心安さからなのか・・ なんて、自分のおしゃべりに戸惑ったのだった。

 「それがね、小さくなってしまって、大学病院で何もすることが無いと言われて、今はよく食べて、良く動きとても元気。」
「えーっ、何か健康食品とかとっていたのですか、」
「いいえ、本当に何もしていない。主人と『イエスさまの憐れみだね』って話している」
「やはり、良いことをしている人は違うのですね」
「とんでもない。ただ、イエスさまが憐れんでくださっただけ」

 しかしこの、「ただ憐れまれただけ・・」という事実を伝えることはかなり困難。彼女はしきりに「そんなことが本当に起こるのですね」と繰り返していた。
私は、このような証を準備されたのはイエスさまだと気付いたので、真意を伝えることはイエスさまにお任せして、心の中で彼女のために祈った。

すっきりと短くなって軽くなったパーマ髪に満足をして、そう、彼女の技術がとても気にいっているので、心からお礼を言って喜んで帰って来た。
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2013-06-24 14:35:06 | Weblog

 先日、さくらちゃんのお琴の発表会の様子がメールで送られてきた。本当に便利な世の中になったものだ。
しゃんと背を伸ばし奇麗に正座している姿、それだけで十分頼もしかった!終わった後も緋毛氈からすっと立った!そんな小さなことにも一々感動し・・婆バカは嬉しい。

 美しい琴の音色を聞いていると、私は母のことを思い出す。母は六段を引いたと叔母から聞かされていたから・・。
私は実際に母の音色を聞いてはいないのに思い出す・・、私にとっての邦楽は、戦争に弄ばれた母の記憶からの避け所。

物心がついた頃には、私たちを食べさせて生きるだけで精一杯だった母。私が目にしたのは、心臓病を抱えてハアハアと喘ぎながら働く姿。
それは逃げ場のない悲しみ・・痛みであって、母の葬式には「これでもう、苦しまなくても良くなった」と中学生の私が涙もなく喜んだ・・。

 セピア色の写真には、床の間に母の琴と父の鼓が置かれていた。夫を亡くし幼い子どもを抱えて、物のない時代を必死に生きた母は、穏やかな日々のすべてを戦争によって引き千切られ、断ち切られてしまったのだ。
後に叔母から聞くまでは、そのような優雅な日々があったことを想像することさえ難しい状況だったから・・。

 今この平和な音色の中で、どうかこの良き思い出がすっかり持ち去られるような日が、この子達に来ることがありませんようにと、琴の調べに祈りを重ねる。
不穏なものの足音が聞こえるような世にあって、ただ、ただ、この国の平和を願わずにはいられない。

しかし、まことの平和はイエスさまの内に逃げ込むほか無いのだろう・・、「どうか、イエスさまを見つけてね。」と心から祈る。
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エリフの正しさ (主のストーリー)

2013-06-19 18:26:57 | Weblog

 彼はとても正しい言葉を筋を通して語った。つまり年長者の語るのを待っていたということで・・。
しかしエリフの動機は、ヨブが神よりも自分を義としたことに対して、神に代わって怒り、友人がヨブに言い返せなくなったことに怒ったのである。

「私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。
今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。
私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。」(ヨブ記32:18~20)


 エリフにあるこの「霊」とは何の霊だろう・・。「物言わざるは腹ふくるるわざ」なんて古いことわざそのものだ。彼は気晴らしをしたいと書いてある。
人が神に代わって怒るなど恐れ多いことである。それは神ご自身のなさることであるから・・。
張り裂けようとしているのは、新しい葡萄酒を古い革袋に入れたから・・分かり易いことである。

でも、エリフのことは自戒を込めて読まないと・・って、私はドキッとした。
神は愛である。神から発したことなら愛が先立っていたはずである。ヨブの3人の友は、間違ったことを話してしまったかも知れないけれど、心からヨブを愛していたことがわかる。
家族もこのような間違いを犯すことがよくある。

「声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、塵を天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。
こうして彼らは彼と共に七日七夜、地に座っていたが、誰も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにも酷いのを見たからである。」(ヨブ記2:12~13)


彼らは語った言葉によって神に叱られているけれど、ヨブに祈ってもらうことで受け入れられた。このことは神が彼らの愛に応えて準備されたことであった。

 しかし、エリフは無視されている。熱心に宗教を語ったけれども、それが神から出ていなかったから・・。
神の言葉に非常に似ていても、愛の無い所にはみこころは無いと思う・・。
そうして、彼の語ったようになった。
「だから、人は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みられない」(ヨブ記37:24)

 叱られたり、懲らしめられることは、神が実子として扱ってくださっていることである。だから恐れるものではない。けれど、放っておかれることは恐ろしい、それはそのまま滅びに至ることであるから・・。
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サマリヤの女のように (主のストーリー)

2013-06-18 10:49:52 | Weblog

その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。(ヨハネ4:39)

サマリヤの女は、イエスさまから礼拝の奥義を教わっていた。しかし、彼女がサマリヤの町で伝え歩いたのは「私がしたことを私に言った人がいる」だった。
それは、ある意味下世話なことである。

彼女の賢さと捨て身の謙遜!でも、それはイエスさまに出会った感動から出たことなのだ・・。
伝える者の満足のためでなく、彼女が伝道のために捧げたものは自身の恥だった。

そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42)

彼女はこれによって、完全にイエスさまを伝え終わったのだった。ハレルヤ

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ホタルの光 

2013-06-17 11:15:19 | Weblog

 先日ふっと息子達の声が聞きたくなって、久しぶりに電話を掛けた。嫁さんの元気な声「お母ちゃん、どうしたの」
「別に何にも無いけれど・・落ち着いて暇になったら、気になってきただけ・・」
「ああ、それだったらよかった。」
なんてことで、とりとめもなくおしゃべりをしていると
「蛍を見に行きたいのだけれど、仕事が忙しくて・・」という。

そうだ、彼女は生ホタルを見たことがないって言っていたなぁ・・。
昨日、家の前から橋の下を覗いてみても見えなかったということで、「今年は居ないよ。水も少ないし・・」と伝えた。

後で主人に話すと「いや、居るらしいよ」ということで、次男を誘って少し上流に行って見た。
そう、ほんの少し行くと、ご近所の人たちも来られていて、わいわいとホタル見物をしておられた。

頼りない光をふわふわと漂わせ・・、それでもその光に笹の葉などが浮かび上がる・・。時にすう~と光の尾を引いて、手を伸ばせば届きそうな所まで迫ってくる。
闇の中に遠く近く・・上に下にと・・たゆとう幾つもの光、群れたり・・消えたり・・

それは闇が深いほど鮮やかである。本当にそう・・、闇の中でないと光は見えないものなんだ。
イエスさまの光が見えない時は、何処かにまだ寄りすがるものがあるのだろうなぁ・・。本当は邪魔な懐中電灯なんかを、後生大事に持っているのだろうなぁ・・。
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みことばいつも新しい (ヨブ記) 

2013-06-13 09:10:46 | Weblog



 主に在る姉妹と、数日間に渡ってヨブ記を通してお交わりを楽しんだ。
もう十分知っているはずの箇所だけれど、それは今日初めて出会ったかのような疑問から始まった。

ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(ヨブ記1:1、1:8)

神はなぜこれほどにヨブの正しさをクローズアップされたのだろう・・このことに疑問に感じた。神も認める彼の正しさ・・、
しかし「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)とも書かれてあるではないか・・。
ヨブの正しさは神の義に相当するものではなかったから、ヨブ記があるのではないか・・。この神の義と人の正しさというものの乖離はなにだろう・・

 神がわざわざサタンを煽って成し遂げようとされたことは、ヨブを完全な者とするためであろうと考えられる。
ご自身の真実を偽ることが出来ない神は、故にいかなるときにも愛するお方であるから・・。
ただ、神も認めるヨブの正しい信仰は、彼に幸いの平安の実を結ぶものではなかった。

こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。(ヨブ記1:5、3:25)

ヨブが大切な息子たちを神の裁きから守ろうと、心の底ではいつもおびえていたことがわかる。

 人の平安は正しい行いからは得られない。そのことによって人はむしろ生きようと、自分自身を、自分自身のものを守ろうともがくことになる・・。
平安は死を通してのみ得られるものだから、ヨブのたましいは死ななければならなかった。

だから、神はヨブが守ろうとしたものをすべて剥ぎ取り、彼をそのことから解放された。
彼の栄光がすべて崩されることによって、彼は自分自身をさらけ出して神と語った。
サタンも友も神の備えであり、友に向かって訴えたことは神に向かって語ったことであり、ヨブは取りなしのイエスさまを求めて叫び、神も知っておられる自分の正しさを訴えた。丸裸にされて真実な言葉で希望を語り、絶望も語った。

 「死を待ち望んでも、死は来ない。」(ヨブ記3:21)
魂の自殺はない。衆目の前で神ご自身がご自分の評判を投げうつ熱心によって、これを得させてくださるのだから・・。

すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ記2:9)


 神の義とは、御前にまったく安息することではないか・・。
今私たちは、キリストの内に隠され、キリストに覆われて義と認められているのだから、私たちは魂の死を無傷で得ている。そこではもう「私」は生きて居らず、生きているのはキリストであるから・・
ただ、そこに留まることは人の選択に任されている。

神は愛だから、ヨブの完成のために取り上げられたものは、さらに良いものをもって返さ
れた。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42:5)

与えられたすべての良いものにまさるのはこのことであると思う。主を知ることほどの幸いはないのだから・・。人にとって造り主である神に愛される経験ほどのものは他にないのだから・・。
ヨブほど神に愛された人はいない。


あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(1ペテロ5:10)

話し終えて姉妹と感動のため息、「ああ、ヨブ記、美味しかったね!」
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新しい葡萄酒 (主のストーリー)

2013-06-09 14:06:06 | Weblog

 イエスさまの十字架の贖いによって新しく生まれたキリスト者は、イエスさまの準備してくださった真っ新の革袋で熟成され成長してゆく。
そう、それは今まで見たことも聞いたこともない戒め、キリストによる福音という布団に包まれることである。

ただ、この新しい革袋を選択するには、マタイのように「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」(ルカ5:28)この行いが必要である。

何もかもは何もかもであって今日までの罪悪も、良い行いもそれらのすべてを捨ててイエスさまに行くのである。
罪は繰り返し思い出されまつわりつくけれども、イエスさまの前に捨てたのだから、もうそれらに煩わされる必要はない。このことは、きちんと十字架の知識を持つことで解決する。

しかし、「良い行い」これがやっかいで、それ故にパリサイ人も律法学者も救いから漏れたのである。
今日まで営々と築いてきた良い行いという勲章を捨てて、ただの罪人としてイエスさまの救いを求めるには、キリストのへりくだりを頂かなければできないことだから・・。
これこそ、主に選ばれたことの証明なのだと思う。

 今日のメッセージで心に深く刻まれたひとこと・・。
「古いものを味わい、どっぷり浸かってそれに酔いしれている人は、『古いものは良い』というひとことで新しい革袋を退けるのです。その人に対しても私たちはただ、『新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。』と語るだけです。」

染みるような悲しみとともに、キリストの忍耐を共有するべきなのだと心に覚えさせられた。
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「私は・・」 (主のストーリー)

2013-06-07 11:14:38 | Weblog

 みことばの上に「私は」という言葉を付けるとき、みことばは死ぬ。どんなに力在る神のことばであっても、何も出来なくなってしまう。
主は、すみやかにその主権を「私」に譲って退かれるから・・。

すべての祝福の約束も十字架のあがないも、強力な「私」の前に色あせてしまう。ああ、このことの悲しさよ・・。
なぜ、「アーメン」とひとこと言えないのかと嘆きたくなるけれど、このことは御子の命と引き替えに神の与えられた自由である。


 ベテスダの池の側で38年間も動けない病人が居た。イエスさまは彼に「よくなりたいか」と近づいてくださった。
しかし、彼は「はい」とは答えなかった。「私には・・」とめんめんと状況を訴えている。ひょっとしたら彼は、良くなりたくなかったのかもしれない・・なんて思う。

みことばに対して「アーメン」といえない時は、大概それを望んでいないことが多いから・・。
それでもイエスさまは彼を癒された。彼に起きて歩く力も与えてくださった。

なを、彼を見つけ出して
「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)
警告を与え、これからの生き方を導かれた。

彼の罪とは、みことばに「アーメン」と言わない罪である。イエスさまに期待せずに、自分の弱さを見つめる罪である。
御わざを経験して、なをイエスさまを否定するなら、誰が救うことができるだろう・・。
だから、「アーメン」のないところでは御わざをなさることが出来ず、弱さは付きまとうことになる。

 本当に主のお憐れみは私たちを追いかけてくるほど深い。そこに希望があるのだから、自分を閉じ込めるものの手にいる彼らのために祈ろう。
「愛し合いなさい」という戒めは、主に賜った信仰の上にあぐらをかくことの戒めでもあると思うから・・。仮に少しくらい信仰があったとしても、

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(Ⅰコリント4:7)

って、追いかけてくださった主に叱られるだろう・・。
でもね、だから心配要らないのだと思う。自分をのぞき込んで心配しなくても、何時もいつも心配して居てくださるイエスさまが居てくださるのだから・・。彼は決して私たちを孤児にはされないから・・。

イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)
目はイエスさまに釘付け!その幸いを共に味わいたいと願う・・。
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光の子 (主のストーリー)

2013-06-05 23:30:28 | Weblog

 火曜日の人が草刈りをしてあげたお礼を持ってきてくださった。久しぶりに信仰のことを話した。彼女のご主人は見違えるように元気になられて、誰の目にもその変わりようはあきらかである。
そのことを話すと、本当にイエスさまと天の神様にいつもいつも感謝のお祈りをしている。と満面の笑みで話された。「教会にも行かずに申し訳ないのだけれど・・」って。

そう、主に深く感謝をしつつ日々を過ごしておられる。イエスさまはそれで良いと言ってくださっているのだろう・・。彼女はご主人の元気をもって主を証ししているもの。
信仰の形は皆違う・・。
一番大切なことはイエスさまを喜んでいることだと思うから・・。
 

 我が家もおじいさんは日々朝から畑に行き、おばあさんは洗濯をしてご飯を作り、息子は淡々と会社勤め。ただ、それだけ・・。
大きな恵みを受けてもその日々はごく普通に過ぎてゆく。奇跡も7日も経てば当たり前のようになり、時々「感謝だね。」とうなずき合うだけ・・。

 死からよみがえった娘に、イエスさまは「食事をさせなさい。」とおっしゃった。ただ、それだけ・・。
熱病を癒されたペテロの姑はすぐにイエスさまをもてなし、ごく普通の生活にもどった。

イエスさまは広告塔なんか必要ない。イエスさまをスーパーの安売りのごとくに宣伝する必要もない。
唯、「自分の十字架を負って付いてきなさい。」それだけ。誰もイエスさまの十字架を負うことはない。すでにすべての必要は満たされている。
ただ信じる人だけが救われ、信じない者は滅びる。それが御神の定められたこと。

 私の十字架を負うって何だろう・・。主に置かれた所で、その環境でイエスさまに安息することだと今は思う。
私たちの目には、良いと思えるときも悪いときも、ありのままに光の中に居ること。ほめられてもそしられても・・変わることなく。


 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(Ⅱコリント8~10)
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