石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

今、蜜月の中

2013-03-26 21:30:10 | Weblog
ツバメ2.jpg

当分ブログを書くことは出来ないと思います。
イエスさまの臨在の中で、
私は主人に付き添うことに専念いたします。

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真理とは何ですか

2013-03-23 14:13:47 | Weblog


ピラトは真理なるお方を前にして質問をした。そうして、その答えを聞く前にキリストを殺してしまった。
こうして彼の救いのチャンスは永遠に失われてしまった。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

イエスさまは世を去る前にお弟子に教えられた。世を去っても彼らと共に居ることの保証として・・。

その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(ヨハネ14:17)

真理を誰が知ろうか・・どれほど知恵のある者であっても、知識のある者であっても、生まれつきのままで真理を知ることは決してない。
イエスさまを神のキリストと信じ、受け入れた者だけが知ることができる。

 真理が何であるかは、常にキリストの助けの中に居て、みことばの約束の真実さを経験し、導かれるままにみことばの光の中を生きる者のみが知ることである。
唯一決して偽らない真理はイエスさまにあり、みことばにあることを経験するからである。

イエス・キリストを知る者だけが真理を悟る。いや、イエスさまを知ることこそが唯一の真理である。みことばに生きる者だけが真理の内にあるのだから・・。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。(ヨハネ16:13)
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御手の作品

2013-03-21 14:58:24 | Weblog

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:3)

神様はことばをもって天地を創造された。地のすべてのものも、ことばによって造られた。
しかし、「人よあれ」とは言われなかったのだ!

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記1:27、2:7)


神様はアダムのために天地を造られたのであった。
彼らを此処に置くためであり、彼らにすべてを支配させ、彼らに地の収穫の喜びを与えるためであった。
そこには食べることの必要は完全に満たされていたから、それは生きる喜びのためであったことが分かる。
造られたばかりの聖いアダムは、神様のことばの中に居たのである。その時アダムは罪を知らなかった。


 しかし善悪知識の木の実を食べて人は造り主から独立し、善悪の基準を自分で判断するようになった。蛇の言葉の通りに彼らの目が開け賢くなったのだ。
ただし、この目は肉の目であって、神に基準を置く真実な霊の目は死んだ。

互いを鋭く見つめる目が開かれると、人は真っ先に自分を恥じるようになり、そう・・人は自分に対してさえ取り繕い、言い訳をしなければならなくなった。
ありのまま、すべてが裸ままの自分自身を受け入れることは耐え難く・・。そう、それが賢さの正体である。

 しかし、創造主である神様はご自身の造られた人に、執着し続けてくださった。
イエスさまがご自身を「人の子」と言い続けられたのは、罪を知って自己の惨めさに気付いた人類に、ご自身の姿を通して神の創造された素晴らしいアダムを見せるためであった。そう、罪を知らない完全なアダムの形を取ったキリストが来てくださった。それは、罪からの回復を告げるためであった。


こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。(創世記3:24.4:1)


 アダムはエデンを追い出された後にエバを知り、彼女はカインを生んだとある。それは神が創造された関係とは違ってしまったことを現している。
罪が入り込んだ人の間には、隠し事や、力による支配行われ、情欲によって子孫を産むようになった。そこには産みの苦しみと、家族を養うための困難が付きまとうようになった。

しかし最後のアダムであるイエスさまによって、神様はご自分の作品を御手の内に取り戻してくださる。
「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マタイ22:30)
御国では完全な夫婦の喜びが待っている!造られたばかりのアダムとエバのあの日のように・・。ハレルヤ!


人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩編8:4~5)

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あなたは一粒の麦

2013-03-19 13:50:32 | Weblog


まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)

一粒の麦として地に蒔かれたとき、人は重い闇に閉じ込められ、身動き一つ出来なくなる。地は圧迫する力を持って締め上げ責めるから・・。自分では何も出来なくなって、ただ闇の中で、その環境の中でじっとうずくまる他ない・・。

その時出来ることはただひとつ、あらかじめ備えられたいのちに信頼することだけ。
重い闇の中で、その身動きも出来ない圧迫の中で、人手に拠らず新しいいのちは成長する。

以前の力は消耗させられなければならない。成長させるのは神のご計画。ただ、神のご計画によることだから・・、人はそれに何も加えてはならない。

夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4:27)


 自分の持っている力だけのことなら、できるだけ頑張って大きな粒になり、そのまま食べられれば役割は終わるだろう・・。
しかしその実を消耗させるように、世の栄光を塵芥と捨てることを求められたとき、それは信仰が試されているのだけれど、それこそ神の良いご計画。

用いられるためには、50倍にも100倍にも増えることが求められるから・・、そのままでは役に立たないのだから・・、死のような闇に「アーメン」という者こそ神の栄光。


 その時は突然で、望んでもいないのにある日その身に降りかかる。神の選びは常に突然であるから・・。
マリヤが、ガブリエルから受胎告知を受けた時のように・・、それが殉教の形、それは選びのしるし。

全能の神の子が磔にされ、御父に捨てられるまでの圧迫を受け、死を通って神のご計画を成就してくださったことを知っているのだから・・。
今、選ばれたあなたの従順によって、どうか神の御名が崇められるようにと切に祈りつつ・・。

「平安があるように」というイエスさまのみことばを静かに聞いて、闇にみことばの光をかざしつつ、神の御手に落ちた姿こそ勝利の芽生え。



光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)
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ラザロは混じっていた

2013-03-18 14:27:20 | Weblog


人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。(ヨハネ12:2)

 イエスさまの奇跡は実にさりげなく、私たちの日常に混じっている。死人がよみがえるという途方もない奇跡が、普通に溶け込んでしまうのだ。

 確かに我が家も、そんな奇跡を何度も何度も経験している。苦しいはずの暮らしが何ということもなく普通に過ぎていたり、困難な問題が自然に解決してしまったり、重い荷物を背負う覚悟を決めたとたんに、背負う必要がなくなってしまったり・・。

それらの奇跡は、いきさつを証しすることもできないほど自然に、いつの間にか私たちの日常を過ぎて行っていた。
イエスさまの奇跡は後で振り返った時初めて気付くことのほうが多い「あれっ、いつの間にかあの問題や困難が過ぎてしまっていた。」って・・そんな感じ。

ただイエスさまを見上げている間に、ただ、みことばに止まっている間に・・、
「傘地蔵も来ないのに、何の困ることもなかった。」なんて・・よく笑った。
このような卑近な出来事も、ラザロのよみがえりのようなすごいことも、主には同じ事ではないかと思える。
すべて主の憐れみに拠ることだから・・。

だから、イエスさまのわざを闇に葬ることはとっても簡単なことである。感謝を忘れて時が過ぎてゆく中に、それは埋没してゆくから・・。
祭司長のようにイエスさまとラザロを殺そうなどと計画する必要もないほど・・。

どうぞ、神に栄光を帰すことができますように。
どうぞ御名が崇められますように・・と祈ろう。

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イエスさまの評価

2013-03-16 18:40:58 | Weblog


イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。(マルコ14:3~5)


 マリヤのように、今も神様にだけ捧げられた行為が人にほめられることはないだろう・・。
人には彼女が何をしているのか分からないからである。イエスさまの必要を満たしていることは、人の知性によっては理解できないことだから。

もし、彼女が貧しい人のために香油を差し出したとしたら、誰でも彼女をほめるだろうけれど・・。
人は自分の理解できないことは嫌うものだから、主にあっての行為が評価されることはない。褒めそやされる事は、たいがい人間中心から出ていることである。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

 キリスト者の完全とは、イエスさまの必要を満たすこと、神の栄光のために働くことではないか。
イエスさまを語るなと命じられた弟子達は、「人に従うよりは神に従うべきです」と語ることをやめなかった。

マリヤは、誰にとがめられてもイエスさまに香油を捧げることを止めることはなく、弟子はどれほど責められてもますます喜んでイエスさまを語る。それは人よりもまず、神様を愛したからである。

「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」

イエスさまのためにする立派なことは人は無関心であって、人はヒューマニズムを美しいと喜ぶ。それが人の愛の限界である。
しかし、マリヤはイエスさまのみことばを愛していた。だからイエスさまの必要を感じ取ることも出来たのだ。

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知るために捨てる

2013-03-12 13:37:42 | Weblog
アオジ.jpg

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。(ヨハネ10:14~15)


主の羊は主の声を知っている。その知り方は、父と御子の関係と同様であるという・・。これはすごいことである。
私たちは本当にそれほどに主を知っているのだろうか・・。いや、御子と御父のような交わりを経験しているだろうか。

わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。(10:17)

御父と御子の愛には条件があった!これは驚きだった。
でも、このことは私たちにも当てはまると思う。私たちも主に信頼して居れば、自分の人生の計画をまず主に委ねて、家族を巻き込んでイエスさまについて行くだろう・・。それをせず、主に関係なく自分の選択によって生きている者を、主はどうすることもお出来にはならのだから・・主を知ることはないということになる。

幸せのために頑張って生きている世にあって、あえてみことばを選ぶということは、自分発のものを「捨てる」ことによって、主を「得る」こと・・。
自己追求から、ひたすらにイエスさまを探り求めることになるのだから・・。だから私たちも「自分のいのちを捨てるからこそ、父は愛してくださる」と言えるのだと思う。
しかしそれは世には愚かなことであり、時に正気の沙汰とは見えないだろうけれど・・。


ペテロは、イエスさまを「主」と呼んだ時、すべてのものを捨てた。折角イエスさまが釣らせてくださった大量の魚も捨てて従って行った。(ルカ5:8~11)彼がイエスさまを「知る」時、彼の人生のすべての計画、選択は180度変わった。
群衆がイエスさまに付いて来たのは、食べたら無くなるパンのためであったけれど・・。弟子は唯一いのちなる方を知ることを選ぶ。これが群衆と弟子の違いである。


だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。」(10:18)

イエスさまが十字架でもう一度得る権威によって得てくださったいのちは、私たちの永遠のいのちである。私たちも十字架を経るのだけれど、それは一度きりのことではなく世に在る限り日々主を知るために、選び取りつつ生きてゆくことになるのだと思う。

イエスさまが気が狂っていると言われたように、私たちの選びもまた世の人には理解できないのは当然だと思う。
それでも神のわざを備え私たちを通して、ある人には創造主なる神を知ることを導いてくださる。それはまったく神のわざであって、人の熱心や信仰の与り知らぬことだけれど・・。

もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(10:37~38)


「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれど、彼の話したことはみな真実であった」とあるけれど、これほどの大きな奇跡はないと思った。
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悪魔の試み

2013-03-10 19:21:58 | Weblog


 聖書の良いメッセージを聴くと、新しくみことばにであうことができる。何度も開いた箇所であってもその度に新しい発見がある。このことこそ、普通の本との決定的な違いである。

ブログを書くようになって、聴いたことをわかった様な気持ちで終わるのではなく、自分の言葉に消化する習慣が付いたように思う。時間をかけて思い巡らせ反芻し、時には調べるようにもなった。
そのことは私にとってとても良かったと思う。ただでさえ、年とともにポロポロと記憶が抜け落ちてゆくようになったから・・このことは感謝なこと。

ルカ4章から
 御父の祝福、そうして聖霊に満たされたイエスさま。もう、何でも出来るパワーに溢れている様子が浮かぶ。しかし・・

「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。」(ルカ4:1~2)

働きのためにイエスさまは断食をされている。「腹が減っては戦は出来ぬ」なんて言葉があるけれど、人となられたイエスさまの肉体的な状態は、40日間の断食で完全に無力であったろう・・。

イエスさまに満ちていたのは聖霊の力。このことが試みの時にどれほど大切なのか教えてくださっている。肉のがんばりが脱力しなければ御声を聞き取ることは出来ない。イエスさまでもそうだったんだ!

 悪魔は、空腹のイエスさまの弱みにつけ込もうとした。石をパンにせよと誘惑をする。イエスさまのおことば、
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」此処はルカよりもマタイの言葉のほうが良い。後のことばが大切なのだから・・。

以前ノンクリスチャンの友人に「人はパンだけで生きるのではない。」と伝えた所、すかさず「そうよ。肉を食べることも必要だよ」なんて返されたことがあった。私はすっかり後のことばを伝える気力を失ってしまったから・・。アハハ・・

「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(ルカ4:6~7)


悪魔は嘘つき、偽り者である。支配することを任されているのは、神の許しの範囲内である。(ヨブ記)
そもそも彼が約束を守るわけがない。でも、イエスさまは知っておられたと思うけれど、直接悪魔に勝とうとはされなかった。「うそつき!」なんて水掛け論に持ち込むことはされなかった。

イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」(ルカ4:8)

イエスさまは一貫して、父の約束であるみことばを伝えられた。人となられたイエスさまはすべての勝利はみことばにあることを教えてくださっている。


 世のもろもろの戦いの中で、キリスト者の勝利とは単純に問題をみことばにつなげることである。たとえこの世で願いどおりなったとしても、そうでなかったとしても、それは今、目に見える結果に過ぎない。神様は良い方である。良い計画がなることには何もかわらないのだから・・。

 この世での敵はいろいろあって、一々それに応える必要なんかないのだと・・。拍手をもらおうと頑張る必要もないのだと・・。
聖霊の導きによってみことばを語ったなら、そこで安息するだけである。みことばの約束の主が戦ってくださるのだから・・。

悪魔はイエスさまに「石をパンにせよ」と言った。これはイエスさまには出来ることである。彼は出来ないことは言わない。私たちを誘惑するときも、少し頑張れば出来ることを言う。これが彼の仕掛ける罠だと思う。

このとき私たちの力は邪魔である。私たちが神様を手伝うことは出来ず、どうせ見当違いになる協力も要らない。静かに主に信頼してみことばを待っていることがすべてだと思う・・。
イエスさまでさえもそうされたのだから・・。悪魔の試みの中でイエスさまは私たちに世の生き方を教えてくださった。

『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。』(Ⅱ歴代20:15)

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盲人の癒しと証し

2013-03-08 14:01:46 | Weblog


 盲人の目にイエスさまはなぜわざわざ泥を塗られたのだろう・・。イエスさまはなぜ彼を人の目に曝されながら歩かせるという、ちょっと意地悪な道筋を備えられたのだろう・・。簡単に触れて癒された人もあるのに・・。
彼にはなぜこのような一手間を掛けられたのだろう・・そんなことを主に問いながら読んだ。

弟子は「彼は罪人だからか?彼の親が罪人だからか?」と問う。
このような疑問は、古今東西同じ考え方なのだ。障害がないという事にあぐらをかく人の傲慢が透けて見える。いずれはその傲慢によって、自身の弱さに傷つくことになるのだけれど・・

 「神のわざがあらわれるため」イエスさまの答えはいつでも弱者の希望の光。やさしさに溢れている。
誰でも神によって造られた人であれば、その愛は平等にある。たとえ人にどの様に見えようとも、神のわざの現れ「良い計画」を主は持っておられるのである。

わざわざ安息日の癒し、イエスさまはどうしても安息日に行う必要があったのだ。神のわざが現れるために・・。
律法をねじ曲げて人を苦しめ、その上に君臨しているパリサイ人や宗教指導者たちへの警告のために。
その時、彼らの中に分裂が起こり、誤りに目覚める者が起こされるようにと・・。

「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」(ルカ12:51)

 目を開かれた元盲人の証しはどんどん成長してゆく。
「私がその人です。」癒された盲人であることを人々に告げる。

「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」パリサイ人の前ではっきりと事実を告げる。

「あの方は預言者です。」彼は自分の思っていることを明確に述べ、

「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」証のあり方を教わる言葉だ。

「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」アハハ・・ユーモア、彼は驚くほど強くなった。「障害は彼の罪か、親の罪か」と目の前で噂されても、何も言い返せなかった男とは別人のようである。

「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(ヨハネ9:30~33)


彼は指導者を相手にイエスさまを教えている。これこそ生きた証のことば。神のわざの現れ、神の栄光である。

イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9:35~38)

ハレルヤ!

 目に泥を塗るイエスさまの一手間は彼を育て、彼の信仰を完成させてくださった。
長血の女の癒しのときも、イエスさまは群衆の中で彼女にすべての告白を導かれ、彼女の恥を曝された。サマリヤの女にも自身の身の上を曝させている。なにしろ彼女は町中にそのことを触れ回ったのだ。

イエスさまが選ばれた時は、罪の上に絆創膏を貼るような癒しはされない。
闇の部分を残したままでは、神のわざは現れず、父なる神に栄光を帰すことにはならないのだから・・。
たとえ罪の体を癒されたとしても、そんなものはひとときのことで、いずれは滅びる肉に過ぎないのだから・・。

すべてを光の中に曝された者は、罪を処理され光の中を歩むことになる。従う者を霊、魂、体の癒しをもって、主の光の中を歩ませてくださる。
神様は群衆相手ではなく、取るに足りない者の上にご自身の栄光を現される。そういうお方だった。

「わたしの目には、あなたは高価で貴い」(イザヤ43:4)
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真理はあなたを自由にする

2013-03-07 21:41:59 | Weblog
ムクとメジロ.gif

人は何と不自由なのだろう・・
ヨハネ8章にある、ユダヤ人とイエスさまの言葉とのかみ合わなさは、それを象徴している。

イエスさまに「あなたはだれですか。」と、ユダヤ人は大切な質問をしたが、聞く耳を持ってはいない人々には、聞く前から答えが詰まっていた。「彼は不品行によって生まれた者で、狂っているのだ。」という・・。

「彼らはイエスが父のことを話しておられるのに、それを悟らなかった。」とある・・。イエスさまはご自身のことは話されない。いつも父なる神さまのことを話し、父のみこころだけを行われる。イエスさまにご自身のことを訊いても、父を通しての神のキリストとしか語らない。

彼らは「私たちはアブラハムの子」と語り、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」と誇る。
光に照らされたことのない人の教えが、彼らの中にとぐろを巻いて詰まっている。

アブラハムの子であり、父は神であると主張する彼らこそは悪魔の子であると、イエスさまは彼らの思い違いを正された。


すべてはそのわざによってわかる。イエスさまは神の子として神のみこころを行い、十字架でキリストのわざを成就なさる。
悪魔の子は、父である悪魔のわざを行い御子イエスを殺したのだ。


「真理は人を自由にする。」しかし、霊である神様と、魂で受け取る人の間は、常にかみ合わない言葉が溢れていて限りなく不自由である。
だから神はそのわざによって、隙間を埋めてくださるのだろう。

 今は、主の十字架を通して私たちの必要を満たしてくださっている。一人ひとりに相応しく、聖霊によってみことばを解き明かしてくださる。
人の知識による言葉に頼らず、古い言い伝えではなく、今日新しい革袋を用意して、日々開かれる新しい言葉を保存する。

そのことばは聖霊が管理してくださって、必要なときに思い出させてくださるから、なに不自由ない導きの中で、御国への道のりを味わい楽しむことができるのだ。
「真理は人を自由にする」その御約束の成就の中で!
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