石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

福音の成就

2013-01-31 19:33:53 | Weblog


 今、自分に満足をして生きている人にとって、福音を聞くことは、実際には楽しいことではないだろう。
だって、彼らにとっての楽しい人生が、永遠の滅びに向かっていることを知らされるのだから・・。それは癌の告知を受ける以上に苦痛なことであろう。

救いに至る門は狭く、魂の死という十字架を通らなければならないことを知るからである。
だから、聞かなかった事にするか、割り引いて聞くことになる。
このようなわけで、福音を聞いたことがないという人も、実際は多くは耳にしているのである。

 語る方も、耳に心地良い言葉を聖書からつまみ出したり、賢そうな豆知識を披露したり、救いの原点である十字架にスポットライトを当てないようにする。
しかし、神の言葉は直覚によって受け、サムエルのように真っ直ぐに語らなければ、聞いた人に福音は成就しない。

「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」(Ⅰコリント1:17

 しかし、自身に癌のような罪の自覚や、痛みを持っている者には、やっと自身の問題の正体を見たことで、解決の糸口を見つけ安息に至る。
そこに示された福音は、まさに待ち望んでいたことであり、罪による苦痛からの避け所、情けない自己からの脱出の道であるから、喜んでキリストに聞き従うことを決心する。

決心した者をイエスは助けてくださる。どんな駄目人間であっても、必ず彼の願いを聞き入れてくださる。それは人の力に拠ることではなく、神の備えによるからである。


私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6:6)
ハレルヤ!
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解放

2013-01-30 13:34:23 | Weblog
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 今、自分に満足をして生きている人にとって、福音を聞くことは、実際には楽しいことではないだろう。
だって、彼らにとっての楽しい人生が、永遠の滅びに向かっていることを知らされるのだから・・。それは癌の告知を受ける以上に苦痛なことであろう。

救いに至る門は狭く、魂の死という十字架を通らなければならないことを知るからである。
だから、聞かなかった事にするか、割り引いて聞くことになる。
このようなわけで、福音を聞いたことがないという人も、実際は多くは耳にしているのである。

 語る方も、耳に心地良い言葉を聖書からつまみ出したり、賢そうな豆知識を披露したり、救いの原点である十字架にスポットライトを当てないようにする。
しかし、神の言葉は直覚によって受け、サムエルのように真っ直ぐに語らなければ、聞いた人に福音は成就しない。

「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」(Ⅰコリント1:17)

 しかし、自身に癌のような罪の自覚や、痛みを持っている者には、やっと自身の問題の正体を見たことで、解決の糸口を見つけ安息に至る。
そこに示された福音は、まさに待ち望んでいたことであり、罪による苦痛からの避け所、情けない自己からの脱出の道であるから、喜んでキリストに聞き従うことを決心する。

決心した者をイエスは助けてくださる。どんな駄目人間であっても、必ず彼の願いを聞き入れてくださる。それは人の力に拠ることではなく、神の備えによるからである。


私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6:6)
ハレルヤ!
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嵐の後

2013-01-29 18:36:26 | Weblog


キリスト者と言えども、この世に住んでいるかぎり世の人と同じ問題は必ずやってくる。キリスト者故に悩みが増すこともある。
その時は普通に怒ったり、叫んだり、憎んだりを経験するけれど、その問題に何時までも留まっていることはない。

それは、私のうちにおられるキリストが、すでに世に勝利しておられるからである。
問題の中で、イエスさまのあらゆるタッチを経験することが出来る。
濃~いみことばに新しく出会って、救いの確信を新たにすることが一番の収穫。

また、忍耐強く祈りを聞いていてくださる方に洗いざらい自分をぶちまけると、内になぜかさわやかな甘さが留まることを経験する。イエスさまと私の歴史のようなものが・・。

生活の中でふくれっ面をしてグズグズしている私に、まるでにらめっこをするかのようなユーモアを備えられて、思わず吹き出してしまったり・・、その時は全身の力が抜けて行くようであり、頑なな魂が溶かされ、これではまるで幼子のようだと感じてしまう・・、それは主にあやされているような感覚。

その細やかで濃厚なタッチを経験するとき、次第に問題そのものが馬鹿馬鹿しくなってしまって、がんばってでもなく無理をしてでもなく、それらを吐き出して短期間の内に過ぎ去って行くのだ。

まさしくこれが主のお導き、私のすべてを知り尽くした方の救い。後に残るのは新たにされた救いの確信であるみことばと、近しくいてくださった主の甘い記憶。

問題なんかちっとも恐くない。又やって来ればもっとイエスさまを深く、もっと近しく知るだろう。その甘さをもっと味わうだろう!
ハレルヤ!

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)
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私の宝

2013-01-12 23:09:04 | Weblog


群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。
すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:13~15)

 イエスさまに訴えた彼は、かわいそうに不平等な扱いを受けていた。しかし、イエスさまのお言葉は「どん欲に注意しなさい。」だった。
そう、彼は自分のものを、自分のものに出来なかったわけではない。親のものをもらえなかっただけである。

親のものも自分のものと考えるのはどん欲。それを兄弟がどのようにわけようと、自分のものでないなら関係もないことである。
たとえ世の法律でどのように決められていようと、この世の法律にイエスさまを持ち出すことはナンセンスである。

イエスさまはお弟子に向かって話された。そう、みことばこそは私たちキリスト者の法である。

「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」(ルカ12:22~23)
「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」(ルカ12:34)


 しかし、私たちは故もなく御父の莫大な宝、御国を受け継いでいでいる。
御子イエスさまの十字架の釘によって、御父の手のひらに、私たち一人ひとりのいのちを刻んでくださっている。

決して消すことの出来ないように、血を流して刻み込んでくださった。
父なる神様は言われる。「見よ。」と・・。
この神の御手を「見ていよ」といわれる。この祝福を!

「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:16a)
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