石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

葛藤の中で

2012-11-30 23:37:37 | Weblog


おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカ12:2~3)



 イエスさまはお弟子に語られた。そう、このおことばを私は自分のこととして聞かなければならなかった。
今、私はいろいろな理不尽に向かい合っている。憤り、いらだち、不満、悲しみ・・あらゆるネガティブな言葉が・・感情がどんちゃん騒ぎの祭りをしている状態。

隠れて語っても同じこと・・それは大声で屋上で叫んでいるということなんだ。キリスト者が、こんな言葉を言い広めているのか・・と苦しみつつ・・。

 そうそう、こういうときは肉体を痛めつけるに限るんだと、少し足を伸ばして歩きまわる。夕闇の川面に映る夕日が美しいなぁ・・って一瞬そのことは忘れるけれど、なんのなんの次の瞬間、またまた性懲りもなく同じ言葉が吹き出してくる。

心に忍び込んだ罪のパン種は、どんどん際限なく膨らんで、爆発のチャンスを待ち望んでいる。
椅子を蹴飛ばしてみても、当たり障りのないものを投げてみても・・アハハ・・ここらが主婦の限界で、こいつを退治することなんか出来ないことを知った。


 眠れぬままに起き出して、祈ることもできないので詩編を写す。できるだけ丁寧な字でゆっくりと・・。
次第に何かが解けて行く・・、異言の祈り・・つぶやくような知性の祈りへと、詩編を通して次第に明確な祈りに導かれて行く・・。

 「主よ、私の魂、この肉を治めさせて、勝利を取ってください。この事柄を十字架として負い、イエスさまの御足跡を歩ませてください。イエスさまがされたように、理不尽に黙して語らずみこころを歩ませてください。

私には、それが出来ずに苦しんでいることを主はご存じです。でも、あなたはこのことを私にさせなさることがお出来になります。
なぜなら、私がそのことを願っているからです。砕いてくださいと苦しみの中で叫んでいるからです。

今、私の願いを聞いていてくださることを私は知っています。あなたの助けによって、自分の十字架を感謝を持って負いますように。
少しばかりの自分の力によって、また、世の正しさを持ち出して、それから逃げないように見張ってください。

 あなたが祝福の中でくださった力によって思い上がり、私がどこから救われたかを忘れないようにお守りください。
もう・・三日間もこのように御前に祈っています。今日は少しわかりました。
霊の賛美も、異言の祈りも、知性の祈りの中にもある主の甘さを・・御名を崇めます。」
ハレルヤ
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人の子は安息日の主

2012-11-29 23:02:24 | Weblog


 すべての律法の上にあられるイエスさま。人は主の主権に服するか、それとも逆らうのか、そのどちらかなのだ。
イエスさまがお弟子を選ばれた。

彼らお弟子たちの関係が、常に良かったわけではないことが聖書からわかる。
出世を願い出たヤコブとヨハネに対して、出し抜こうとしたと腹を立てたり、誰が一番偉いかと論じあったり・・それは結構この世的であった。


「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:5)


各器官が、目、耳、手、足・・とすれば、目は「あなたがたは、何も見えないではないか・・」と思うだろうし、耳は「あなたがたには、何も聞こえてないではないか・・」と思うだろう。

各器官が、互いに完全に理解することは無理なのである。目には耳の働きがわからず、目にわかることは見ることだけなのだから・・。目ばかりが集まると互いの理解は容易であるし、誰が一番であるかを知ることもできるだろう・・。
しかし、それでは主とは無関係な人の好き勝手な集まりに過ぎない。


「主の前には、何も持たずに出てはならない。
あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」(申命記16:16~17)


 キリスト者が主を礼拝するときに捧げるべきもの、主が望まれる捧げものとはなにだろう・・、礼拝に必要な捧げものとはなにだろう・・。

主に賜った最大の祝福とは十字架である。御子の犠牲による十字架の救い。故に人の出来ることは、イエスさまと共に十字架に死んだ魂を持って行くことであろう。
時に、生き残りの肉の反抗を経験するけれど、主にあって乗り越えることができる・・。みこころならば主がそのことをなさせてくださる。

その時、各器官はキリストによって新しく生かされ、互いの働きを知ることができる。それは互いの理解ではなく主への従順によるのである。
すべての器官が自己を忘れて、キリストなるかしらを求める信仰によって始めて、キリストのからだは完成される。
そのからだは、頭なるキリストによって成長し働くようになる。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)

 お弟子達は聖霊に満たされた後、各器官としての必要を満たし合い、キリストの愛によって結ばれ、試練の中で教会を建てあげて行った。彼らの見ていたものはキリストであり自分自身ではなかったのだろう。彼らは安息日の主に完全に服した。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

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正しさ

2012-11-26 23:02:20 | Weblog
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 イエスさまが、安息日にあえて癒しを行われたのはなぜだろう・・。ルカ6章で行われた手のなえた人への癒しは、緊急性のあるものではないと思うけれど・・。

イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」(ルカ6:9)

人々はイエスさまお言葉を聞いて「分別を失った」と書かれている。イエスさまのおことばがあまりにも正しかったので、彼らは分別を無くしてしまったのだろう。

 安息日を守るという律法、その法に則り正しく神に仕えていると思っていた彼らは、この言葉により、自分たちの正しさのよりどころを失ってしまった。そこで分別なくし、内にあった殺すもの・・憎しみがあふれ出した。

安息日を守ることは義なる神さまの命令であるが、それを人がみこころのままに行うことはできないのである。イエスさまは出来ないと言うことに気付かせようとされたのであるが・・。

 人は自分の信じている所を攻撃されると分別をなくす者である。だから、イエスさまを伝えるときに彼らの信じている所を攻撃したり、説得しようとしても成功しない。分別をなくした者に生きる決心はできないのだから・・。

しかし、人を知り尽くしておられるイエスさまが、このようにな方法で攻撃されたのは、後日のための備え、私たちのためでもあるのだろう。
私たちは知らなければならない。人の義が何処から来ているかと言うことを・・。

 人の正しさは善悪知識の木の実を食べた血筋にある者によって、その自己中心によって維持されているのであるということを・・。私たちには、神の義により正しく判断することなどは出来ないのである。

それは仕方がないこと。血筋により人は殺すことは出来るが、生かすことはできないのだから。生かすのはいのちの木であって、善悪知識の木の実は殺すものであるから・・。人を生かすことが出来るのは神のみである。

人が自分の正しさを振りかざすとき、イエスさまからは遠くなり、救い主を殺す者ともなりうる。それは法ではなく自我に過ぎないのだから・・。それは殺すが、イエスは生かす方である。

善悪知識の木の実を食べた人類は、正しさによって神に仕えることは出来ないのである。ただ、イエスさまの十字架のあがないによってのみ、神に仕えることができるのである。
人の判断を否みイエスのことばによって選び取る人、ただ、みことばにアーメンという者のみが仕えることができるのである。


すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:22~24)
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悔い改め

2012-11-24 19:38:09 | Weblog
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 聖書には、「悔い改めて、救いを得よ」とあるのに、弟子達が召されるとき彼らに、具体的な悔い改めの場面はなかった。そのことに?

R姉妹との交わりで、その疑問について「どう思う」とメールした。
そのことを文字にして、みことばを開いた直後にそれは解かれた。

 悔い改めとは自分の中をのぞくことでなく、ただ、十字架に行くことだって・・。イエスに付き従って行くとは、イエスの十字架に行くことである。
だから、自分たちのすべてを捨てて(ユダ以外は)イエスに行った彼らの悔い改めは、それで完全であったと気付いた。

後を追ったメールでそのことを話すと、確証となるみことばを送ってくださった。

「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。 」 (ヨブ記42:6)

 違いは自分を中心にして悔い、改めようとすること。私はこの嘘くささに苛立っていた。
人の律法的な良い行いと、主にある悔い改めのレベルの差、どうやってそれに気付くのか・・
それは自分に絶望するしかないと思う・・。

結局自分を捨てるしか無い。肉はそのことに徹底的に逆らって出来ることを陳列し、捨てられることを拒否するけれど・・。

 弟子達は、自分たちのすべてを塵芥のように捨てて、イエスの十字架にまで付き従ったのだ。弱さの故に逃げたことを責められることはない。主は私たちの弱さに同情してくださるからである。彼らの悔い改めは完全だった。

自分を塵芥として退け、十字架に行く時、すべての良いもの(罪からの解放、新しいいのち)が備えられている。それ以上の悔い改めなどはない、何をしたかではなく何処にいるかなんだ。

「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)
「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩編131:2)

ハレルヤ!
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主だけを拝む

2012-11-20 13:35:32 | Weblog


また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(ルカ4:5~7)


イエスさまのあわれた誘惑は私たちにも必ずやってくる。だから、イエスさまが模範を示してくださったのだから。

悪魔が私たちにささやく「私を拝め」は、この世のすべての偶像であったり、世の習わし、言い伝えであったりする。
とりあえず人々に従いなさい。そうすることで良く思われ、キリストの愛を伝える働きも進むでしょう・・こんな具合。そうして、サタンの嘘にころっと騙され主に恥をかかせることになる。

何もかも同じであるなら、どうやってキリスト者であることを証出来るだろう。受けている祝福がどこから出ているのか誰にわかるだろう・・。

イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」(ルカ4:8)

イエスさまのお答えはなんと明確なことであろう!
騙されてはならない。大切なことはひとつだけ。人に良く思われることではなく、みことばに従うことである。
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真ん中を行く

2012-11-12 23:17:52 | Weblog


イスラエル人であると言うことにあぐらをかいている民に、イエスさまが語られたのは、
預言者エリヤが遣わされたのは異邦人のひとりのやもめであったこと。預言者エリシャが遣わされたのは、多くのライ病人のうち異邦人のナアマンだけであったこと・・。

それは、生まれによって救われるわけでないということ。
生まれはイエスさまの郷里という、最も救い主に近い場所でありながら、異邦人の地よりも遠い人々・・皮肉なことである。
最も身近でありながら救い主がわからなかったのは、イエスさまの兄弟たちもそうであった。

「すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」(ルカ3:5~6)


このことが起こるとき、遠くで渇いていた人々は近くに引き寄せられ、当然と思っていた人々は謙遜な悔い改めに迫られる。誰であっても、救いは一方的な神の憐れみによることであるから・・。

痛い事実を示されて怒った人々は、羊を殺すときのように谷に突き落とす方法で、イエスさまを殺そうとしたけれど、主はその人々の真ん中を通って行かれた。
イエスさまのいのちは父なる神さまに委ねられており、その時はイエスさまの従順によって決まるのである。

「しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」(ルカ4:30)

「そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」(ヨハネ7:30)

「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」(ヨハネ8:20)


キリスト者の人生もまた主の内に握られており、本人の選びによって進路は変わるけれども、世に弄ばれ殺されることはない。
それはイエスさまを戴いている身であるから・・。従順するときそこには必ず神の良い計画が成る。それは究極、御国への凱旋であるのだけれど・・。
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驚き

2012-11-06 19:03:18 | Weblog


今日は息子とルカ5章を読んで話し合った。彼はペテロたちが大量の魚に見向きもしないで、すべてを捨てて即座にイエスさまに付いていったことに驚いていた。
驚き・・それは聖書によく出てくる言葉。イエスさまを知るたびに人は驚く・・。今まで見たことも聞いたこともない福音の驚き。

でも、世の物を惜しむ必要などないのだ。主はすべてを持っておられるお方なのだから・・「金持ちの青年のことを思い出すね。」って彼が言った。
なぜためらうか・・それはイエスさまを知らないから。

イエスさまの永遠に繋がる豊かさに気付いたなら、計算尽くででもついて行くだろうから・・。
だって船いっぱいの魚よりも、金庫いっぱいのお金よりも、それを何時でも与えてくださるお方と一緒にいる方が得に決まっているもの。エヘヘ・・私は欲張りだからついて行くよ・・。

でも、ユダは折角イエスさまと一緒にいながら、イエスさまを知らなかった・・。彼の心が財布の中身ばかりを見ていたから。
呼ばれたときにためらうなら早速サタンがやって来て、行けない理由を備え続けて呉れるだろう・・。後で・・は無い。

このことは私たちに言われていることだね・・。世の物は必ず滅びて行く・・。しかし永遠に繋がるものを主は持っていてくださる。
私たちはすでにその豊かさを主によって頂いて居るの。

今、いろいろな問題の中にあってそれに執着して振り回される必要はないよ。イエスさまはひとりの主の子供のためにでも、逆転のチャンスを備えてくださるお方である。
でもね、だからこそ私たちが執着するものを間違えると、愛を持ってすべてを取り上げることによって、その危険から救い出してくださるお方でもある。

いつでもすべてを捨てて、即座に御声に従うという覚悟を持っているかどうか・・問われていることはそういうこと。
それはイエスさまをどれだけ知っているのかということによる。
人々は驚いただけであるけれど、主を知る弟子はすべてを捨てて付いていった。

「彼らは船を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」(ルカ5:11)
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飢え

2012-11-04 22:24:37 | Weblog
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イエスさまには罪がないから本来誘惑されることはない。誘惑は罪から来ると思うから・・。
でも、イエスさまは荒野にて四十日間の断食によってご自身を弱くされ、悪魔の誘惑を受けてくださった。

こうして、イエスさまは人の子としてのすべての試練を経験してくださった。空きっ腹にパンの誘惑、イエスさまがこの世では得られなかった権力と世の栄光の誘惑、神の愛を試みることの誘惑・・。

そうして教えてくださったこと。みことばによって勝利しなさいと・・。しかし、私はみことばがそれほど近しいものになっているか・・という問題を抱えている。
本当に、神のことばによって飢えが満たされるほどに・・。

私は神への飢えをパンで満たしたり・・する。そんなときは飢えも渇きもなく、旨くもないのに食べている。
内にとぐろを巻いている主への飢餓感がある、異言の祈りも賛美もどんな祈りもその距離を解消しはしない。

みことばは甘く、また、些細なことに至るまで、主はご自身の憐れみを今も暮らしの中に見せてくださっている。
それでも・・それでも渇く。心ここにあらず・・もっともっと、もっともっと・・。世はそういう所なのだろう。

移りゆく世の栄光は虚しくも無意味である。
ただ、神を試みることは深い。人は誰でも愛を求めて止まないのだから・・。信じることに置いてのみ受ける仕組みが人の弱さ・・。いや、それさえもキリストの信仰によるのだけれど・・、そこに安息するには、自分の魂から距離を置き続けなければならない。

弱い者に遣わされて来てくださった救い主。
しかし、そのお方を知っていると思っている者や、選びの民だと特権意識に居る者には躓きとなる。その方は石ころからでもアブラハムの末を起こすことの出来る方である。
立っていると思う地が揺さぶられることは、神の憐れみなのだろうなぁ・・。


それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:3)
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キリストの証し

2012-11-01 20:50:32 | Weblog


 バプテスマのヨハネの死が証したものはなに・・イエスさまの十字架が証したものはなに・・ 、
ヨハネの死にがっかりした人がいた。十字架のイエスさまに自分を救えと嗤った人が居た。そう、人は神さまのわざのすべてを知ることは出来ないのだ。


神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道3:11)

 神さまのわざと人のわざの違いは御霊によって知るほか無い。その断片を見ただけではそれが人の失敗であるか、神の計画によることであるのかを知ることはできない。
だから、主にある人もイエスさまのように責められたり、時に嗤われたりもする。

でも・・そんなことはイエスさまを知るものには甘さでしかない。本人には神のわざははっきりとわかるものである。
イエスさまと在る身には、仮に嘲笑の中にいてもイエスさまのいのちが染みてくるから・・。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

 キリストのあかしは決して古びることはない。それは時を経ていよいよ鮮やかに現れる。ただ、その時人はすべてを知ることが出来ないだけである。

バプテスマのヨハネが不妊の老女エリサベツから生まれたことは事実である。この証が、彼が馬鹿な王に最後まで悔い改めを説いて、おめおめと首を切られて殺されたからと言って古びることはない。

彼は悔い改めの水のバプテスマをほどこした時、キリストによる火と聖霊のバプテスマ、新約のキリストを知らせた。
彼だけが誰も知らないキリストを見ていたのだ。
彼の中ではもう完全な救いの成就したことを見ていたのだ。そのことは、彼がどれほど生きたことになるのだろう・・。
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