石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

マリヤのように

2012-10-31 22:46:16 | Weblog
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母マリヤは、自分で立ち入ることができない事柄はすべて心の内に留めておいて、それ以上問題を膨らませることをしなかった。

羊飼いの礼拝を受けた時、
「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)

イエスさまが迷子になって宮を「父の家」と言われた時も、
「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(ルカ2:51)

 マリヤは、イエスさまにごく普通に乳を含ませ、おしめを取り替え、少し大きくなったら食事を与え、身の回りのことを一つ一つ教えて、共に成長する普通の母親のように育てていったのだろう。

自分で立ち入ることのできない重大なことはひっそりと心に留め置いて、ありふれた日常を重ねていったのだろう。
その先に神さまのご計画という、どのような事実が待っているとしても・・。心に留めおくということは、あらがうこと無くその事実に従順することでもある。

「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」(ルカ2:34~35)



子育てには常に問題や課題が現れる。いや、生まれたときから持っていることもある。しかし、それらはたいがい母の立ち入ることが出来ない事柄であり、神さまの備えられた問題である。

そんなときは、マリヤのように日々淡々と自分のできることをして、共に居る時間を喜び楽しむ・・そんな日常を重ねて共に成長して行けば良いのだろう・・。

シメオンの預言のように、マリヤが息子との別れという深い悲しみを受けた後のことは、イエスさまご自身が心配をして、彼女に新しい息子を与えてくださった。

イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:26~27)
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イエスの御名

2012-10-30 20:49:52 | Weblog


この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)

 人前で「イエスさま」とその名を語ることには勇気が要る。その名は、人の完全な弱さを漂わせるから・・。
聖霊に拠らずにイエスさまの名を語ることはできない。イエスさまの名を語る者は、恥を忍び、無条件降伏して頭を下げ狭い門を通った者だけである。

「イエス」その名はただひとりである。すべてを受け入れるならマザーテレサのように愛深く賢く見える。しかし、ただひとりキリストの十字架によって救われ、永遠のいのちを賜った者は、イエスさまの御名以外は受け入れることはできないはずである。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13~14)


救いの門は狭いのであり、決して誰でも入れる門ではない。それは神の御子キリストのいのちが支払われた関所であるから・・。此処には「まれ」だと書かれてあり、実際ごくわずかしか救われないのである。その言葉をどのように信じるか・・、差し引いてはならないのがみことばである。

このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マルコ8:38)


 それに引き替え「神さま」と語ることは誰にだって出来る。むしろ美しくさえ聞こえ、その名で賢そうに装うことだって出来る。
それは何を指しているのか明確ではないからであろう・・。神々を指しているのかもしれないから、それを妨げるものが居ないのだ。誰でもその名は受け入れることが出来る。

イエスさまのように語る人はいくらでも居る。いや、彼らはもっと賢く語っている。この世には宗教はあふれている。また、普通の人にもそれぞれの宗教のようなものはある。それらはたいがいとても賢い言葉、美しい言葉である。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、(Ⅰコリント1:23)

 サタンも光の御使いを装って、それはそれは美しい言葉や優しい言葉をもって、人をほめたたえてくれる。そこに救いのすべてがあると誘ってくれる。
しかしたとえ言葉は同じでも、それは何の実もない幻想である。彼は騙すものだから・・。

人はそこで死ぬまでほめられ、騙されていたいと願うのである。たとえその先にある滅びを聞いたとしても信じることはない。だから大方は此処で死ぬことになる。

イエスさまについて行く者は明確にイエス・キリストとその名を語り続ける。イエスの名を語ることこそ人の十字架である。

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)
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信じきった人

2012-10-29 10:42:33 | Weblog

ルカ1章から
 ザカリヤは御使いガブリエルから、年老いた妻エリサベツに男の子を授かったことを聞いたとき、すぐには信じることが出来ずにしるしを求めた。
その不信仰によりしるしは彼の体に表れ、口が不自由になりものが言えなくなった。

「これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」(ルカ1:20)

しかし、彼の不信仰にもかかわらず、主の約束は実現するのである。なんと感謝なことだろう。そのとき彼の不信仰も癒されるのである。
すべての基礎にあるものは、人の信仰ではなく主の良い計画であった。神さまはどこまでも、人に良きものを準備していてくださるお方なのだ。


 私たちがイエスさまを自由に語れないのは不信仰からなんだって、今日ここの箇所から学んだ。
それは考えてみれば当然で信じ切ってもいないことを、詐欺師でもない者がどの様に語ることができるのか・・ということ。

此処でふっと思い出したみことば、
「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり・・」(Ⅱコリント6:8)
信じて話すときにも、だましているように見えるんだ。う~ん・・ただ、主の保証によって語るんだ。どの様に見えようとも・・。


 マリヤは御使いの言葉にひとつの疑問を表した。
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)

この言葉は不信仰とは違う、単に知識として知っていたことと違うので「?」を言い表しただけである。

「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)

マリヤはこのひとことに「アーメン」と言った。彼女はいいなずけのヨセフに相談をすることを選ばなかった。神さまと自分の間に彼を入れなかった。
神さまが語られるときには、決してそこに人を入れてはならない。それは、神より人の言葉に信頼することを現しているから・・。
彼女は神さまを信じ切ったのだ。

信じ切るということは、「大丈夫。守ってくださるからすべてがうまくいくだろう」と思うことではない。
この主の計画によって、今後自分の身に起こるであろうことのすべてを任せるということである。それは、何も心配しない。何も計画しない。何も責任を持たないということ・・そういう形の死。


主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。
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不信仰な者

2012-10-27 23:07:29 | Weblog


 よみがえられたイエスさまは、11人の弟子の食卓に現れて彼らの不信仰を責められた。主に責められることには希望がある。
その欠けを主が知っていてくださるということは、私の安心でもある。主は、私たちの欠けを満たしてくださる真実なお方であるから・・。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5b~6)

叱責ののちに、全世界への宣教命令を彼らに託されたのであった。このような不信仰の者であることを十分にご存じの主が、この大きな役割を任せ、彼らの働きに必要な主の権威を分け与えられたのであった。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。
すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:15~18)


 今も昔も主は不信仰な者を選び、ご自身でそのことを成し遂げてくださる。此処に遣わされる者の平安がある。
主が命じられる時「アーメン」と答える。その働きをさせてくださるのは主である。成し遂げるために必要な信仰はキリストの信仰に拠る。私たちは終始この方により頼むだけである。

「その後、イエスご自身、彼らによって、きよく、朽ちることのない、永遠の救いのおとずれを、東の果てから、西の果てまで送り届けられた。」(マルコ16:21)
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愛の表現

2012-10-26 19:00:16 | Weblog
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 マリヤたちは、とても動かせないような大きな石が墓をふさいでいることを知っていたのに、香料を準備しておいて朝早くに墓に出かけて行った。
この頃の、弟子たちと彼女たちの信仰にはずいぶん違いがある。

今、自分の出来ることをする。その先のことは神さまのご計画に委ねて・・、それが無駄かも知れかもしれないけれど、そうしないではいられないのはイエスさまへの愛であったろう。

そう、その先のことは神さまが準備しておいてくださる。きっとイエスさまにお会いすることができる。ハレルヤ!


彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。(使徒1:14)口語訳
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愛された者

2012-10-25 20:42:24 | Weblog
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そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:24~25)

群衆はこう答えた。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(マタイ27:42~43)

祭司長や律法学者、長老たちもこう言った。

人には、この罪深さをわきまえることはできない。善悪知識の木の実を食べた人類は、真に悔い改めることなんか出来ない・・。悔いることがあっても改める力がないのである。それらしい妥協の産物ならあるけれど・・。

「私は言っていない」って言うことができるだろうか。「神なら私を救え」って、心の底で叫んだ日はなかっただろうか・・「私に見せよ」と・・

屈辱の十字架から降りなかった神の御子により、今、救いを頂いている私たち。人はイエスさまのを殺した返り血によって罪を洗われたのだ。神の御前に出ることを赦された私たちは、そのようにして救われた者である。

至聖所で神と人を隔てていた幕は、十字架を経て上から切り落とされたように、一方的な神の備えによってのみ、私たちは「アバ父」と創造主を呼ぶ者としてくださった。今、すべての罪を覆って神の家族に迎え入れてくださっている。

何のわきまえもなく、実になんのわきまえもない者が、十字架の完璧なあがないによって赦された。アガペーの愛は受けるだけである。愛されるとはこういうことであった。
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命乞い

2012-10-24 16:26:14 | Weblog
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 礼拝後、気が緩んだとたんにしんどくなって、頭の痛みと体のだるさに参っていたのだけれど、帰宅後飲んだルル3錠ですっかり楽になった。昔々から風邪気味の時はこれで直している。

宵になって、外の涼しい風に誘われて久しぶりに散歩に出た。誰も見えない道の向こうには、まだ夕焼け雲が光っていた。
久しぶりに歩くのでどうかな・・って思っていたけれど、案外スタスタと気持ちよく歩けた。
静かな道を主と並んで歩いているような・・そんな心持ちで歩を進めつつ・・みことばに思いを巡らせた。

 外に出たのには理由がある。ひとりになって主に静まりたかったから・・。
今日のメッセージ箇所はⅡ列王記20:1からだった。ヒゼキヤ王の命が15年伸ばされた箇所。

私たちはなんでも主に願うことが出来る。もちろんなんでも叶えられるというほど主は意地悪ではないけれど・・。しかし、ねだったものがすべて益になるとは限らず、罠になることがあるってことを今日は学んだ。

 病気のヒゼキヤに、神さまは「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」と言われたとき、彼はそれまでのすべての良い行いを述べたてて命乞いをした。確かに彼は主の前に良い行いをしてきた王であったのだけれど・・。

ヒゼキヤのすべての良い行いも、主が彼と共に居て守られたことであった。(19:31~33)に書かれている。
だから、それは彼の力に拠るのではないことがわかる。人は良いことをすると考え違いをする。「私が、私のこの力でがんばったのだ」と・・。

しかし、良いことはすべて主から出ているのであって、主の忍耐と憐れみ拠って、共に居て導き、それを成させてくださったに過ぎない。
深い感謝があるのみ何一つ誇るべきではない。まして、そのことをとって神さまと取引しようなどとは恐るべきことだと私は思う。

「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。
わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。」(Ⅱ列王記20:5)

神のことばをダビデを通して聞いたとき、彼はみ言葉をそのまま信じることなく、いやしのしるしを求めた。主は忍耐をもって彼にしるしを与え癒された。

 此処まで彼は神さまのことばによって誤りのない生き方をしてきたのだけれど、此処でその絆は切れてしまったように思う。
しるしによらなければ信じないなら、ことばは力を失ってしまうから・・。

人は、神さまのことばがなるくなると、必ず人の言葉により頼むようになる。ヒゼキヤもバビロンの王のお見舞いに飛びついてしまい、心を許して先祖たちが蓄えてきた国の宝のすべてを見せびらかしてしまった。

 彼が、主に懇願して得た15年の間にしたことは、家を将来に向けて整理することではなく、家を滅ぼす備えをすることとなってしまった。
息子が宦官として連れ去られるという預言にも、自分の身にひとときが与えられたことを喜び、どこまでも自分のいのち、世に対する執着があって悲しい。

本当に、人は必ず死ぬものである、「何時死ぬか」よりも「どのように死ぬか」の方が遙かに大切である。
死の淵には、その人の信じてきたものが何であるかが露わになるのだろう。
「主は与え、主はとられる。主の御名はほむべきかな」キリスト者はこのように御国に帰る者である。その信仰を主に願おう・・。
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亜麻布の青年

2012-10-23 19:57:07 | Weblog
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ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。
すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(マルコ14:51~52)


この箇所がずっと「?」だった。聖書にどうでもよい記事があるわけがなく・・それで、主に教えてくださいって願った。
その直後、息子と聖書を読み交わしているとき閃いた。「それは帯だよ」って・・、主が教えてくださる時はいつもこんなふう・・。

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。(エペソ6:14~15)


イエスさまについて行く者は、しっかりと神の武具を身につけて、真理(イエス・キリスト)の帯を締めていなければならない。そうでないと裸の恥を世にさらすことになる。
どんなに良いことをイエスさまの名によって行っていても、必ず途中で力尽きて恥をさらすことになってしまう。

十字架を前にして、人がイエスさまの姿を目で見ることが出来なくなる時に語られた記事である。どのようにして主に付いて行けばよいのか・・そのことに繋がっていった。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:10~13)


そしてまた、
これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3:14)

愛であるイエス・キリストを着なさいということ。私の中にない愛だから、ただイエスさまにより頼んでキリストの愛を生きさせていただけるようにと・・。
神の武具と神の愛を身に着けて、聖霊の導きによってイエスさまに付いて行くなら、世に裸の恥をさらして逃げることにはならないだろう。

なんて嬉しいこと!わからないことに出会ったときは、新しく主にお会いするチャンス。ハレルヤ!主よ感謝します。

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名もなき者

2012-10-22 14:34:11 | Weblog
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 イエスさまの過ぎ越しの食事をするために部屋を用意した人、以前からなんだか気になっていた。
ロバを貸した人のように、その人も名前もないただの市井のひとり。だから気になった。

私も彼らのように、主のひとことによってふっと自分の手を離して、当たり前に明け渡すものを準備していたい、そう願った。普通に日々備えていることが出来るようにと・・。

 イエスさまは奴隷の値段、銀貨30枚でユダに売られたという。そうして強盗と共に十字架に付けられた。そこには王としても、まして神の子としての特別は何にもない。ただの罪人としてすべての屈辱を黙って受けてくださった。

イエスさまは神の子としてのすべての栄光を捨てて来てくださった。そうしてご自分を「人の子」と呼ばれた。死の際までも普通の人の子であろうとされた。

 サムソンの母にも名前はなかった。名前は無くても主は彼女をよくご存じであった。
そうして彼らの備えもよく知っておられた。
私たちの名前は主が覚えてくださっている。そうして、主に呼ばれた(必要とされた)とき彼らが即座に従ったように、私たちも備えがあれば主の御声を聞き分けることができる。ハレルヤ!
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ヨブ記まとめ

2012-10-21 18:17:55 | Weblog
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 ヨブ記を通して、神さまはなにを私たちに教えて居られるのだろう・・って、今朝も次男と読み返していて考えた。
ヨブは潔白で正しかった。それは神さまもサタンも認めている。でも、神さまにとってこれで完全ではなかったんだ・・。そこから始まったのがヨブ記のように思う。

 私は、
「ああ、ヨブのようでなくて良かった。神さまがサタンに自慢されるほどになったら恐ろしいなぁ」なんて思ったことがあった。
でも、神さまがいたずらにサタンを煽ることがあろうか・・そこには何か良いご計画があるに決まっている。

それは、やはりヨブのこの言葉にあると思う。
「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ記42:5)

 実際にヨブは神さまを見たのか・・いや、嵐の中からの神さまのことばだった。
そのうえ、神さまはヨブの問いに直接に答えられたのではない。ご自身を語られただけ。

イエスさまもそうだったけれど、人の言葉に対して直接その問いに答えることが、神さまを理解することになるとは思えない。そもそも人は、何を問えばよいのかわかっていないから・・。

 人は理不尽に出会ったとき「なぜですか!」と、それも多分の怒りや恨みを込めて質問をするけれど・・。
それには、神さまは決して個々に答えてはくださらない。

でも、みことばによって理不尽の極限を経験してくださった御子イエスさまの十字架を知るとき、そこにすべての答えと深い感謝がある。
深く大きな愛のご計画に出会って、私たちはヨブのように口を閉ざし、御名をあがめるのである。

その中で私たちの霊も魂も聖められ、恨みも怒りも洗われて、新しくされ祝福をゆっくりと経験してゆく。

 ヨブが言ったように、誰かから聞いて知っていた神ではなく、この現実の中で働くみことばを通して知ること、味わうこと、信頼を真に深めることを神さまは待っていてくださる。

弱い者は絶えず叫ぶことができるけれど、正しい人、強い人はどのようなときに神さまに叫ぶことが出来るのだろう・・、でも、大丈夫。神さまはそのチャンスを準備してくださるから・・。それはちっとも恐くはない。初めからそれは良い計画なのだから。

そう、神さまは待っていてくださる。潔白で正しいという生き方よりは、もっと神さまが私たちに求めて居られることは、日々「私にも見せてください!」とばかりに真理に渇いて求めること、捜すこと、たたくこと・・。


こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
また、愛(イエス・キリスト)に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:17~19)
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