石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

ヨブ記から

2012-07-31 10:28:58 | Weblog


「ヨブは、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とあるから、彼を訴える友への彼の言い分は間違ってはいない。ただ、ヨブが最も恐れていたものは・・、

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。
私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。(ヨブ記3:25~26)


ヨブが信仰深く歩んでいたその根底にあったのは、創造主なる神を神とする純粋な恐れではなく、自分の身に降りかかる災いではなかったのか・・。常に捧げていた子供たちの罪をあがなうための全焼のいけにえも、そのようであったのだろう・・。
ヨブが真に神を恐れることを学んだのは、試練の末に神と出会って教わったことであった。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ記40:6)


ヨブは降りかかる理不尽な苦痛の中で、イエス・キリストを求めていた。
神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。(ヨブ記9:32~33)


そうして、ついにイエス・キリストを見いだしている。
今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。
私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。(ヨブ記16:19~21)


ただこの事実のためにだけでもヨブの試練は価値がある。そこにはサタンの出る幕はなく、この神と人の交わりの中に彼は存在しない。
語り合ってくださるようにと求めたヨブの願いを神は叶えてくださった。圧倒的な創造主のみことばに、ヨブは真に恐れるべき方を知ることが出来た。


それは、ヨブの身に起こったようなすべての理不尽を超えて、その先に備えられてある造り主の愛。
そう、私たちは歴史の上に、また今は日々近しくその方御子イエスを見ている。彼はすべての人の理不尽をその身に負われ、すべての理不尽をもあがなってくださった。

ヨブの計り知れない幸いは2倍与えられた世のものではない。この交わりこそ、キリスト者にとって、いかなる犠牲を払ってもあまりある究極の価値あることである。
しかし、私たちはその交わりをすでに持っているのである!


ヨブと共に七日七夜地に座っていた友に、神は彼らを「ヨブのようではない」と言われたけれど、ヨブを通して赦しと回復を与えてくださった。彼らはヨブの現状だけを見てとんちんかんに責めたけれど、ヨブの言葉は忍耐をもって聞いていた。

しかし、エリフの言葉にはヨブへの愛の犠牲を伴ってはいない。どんなに神の義を語っても、語るだけのみことばは神をいらだたせるだけである。
むなしい美辞麗句よりは、心のうめきをそのままに語るとき神は近く来てくださりご自身を教えてくださる。そのことをヨブを通して知ることができた。

エリフの台詞通りに神は彼を顧みられることはなかった。
神は心のこざかしい者を決して顧みない。(ヨブ記37:24b)
神はヨブの友については語っておられるけれど、エリフの名は無視された。

私には神に赦されることは喜びであるが、無視されることは死よりも怖いことである。ヨブにご自身を語り聞かせてくださった主はほむべきかな!
父なる神様のお説教なら、いつまでもいつまでも聞いたい。みことばが何時でも身近にある幸に心から感謝。ハレルヤ!

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暑中お見舞い申しあげます

2012-07-26 09:39:07 | Weblog


 実は、日々暑さとの戦いの中で、泥縄的な家事に奮闘している。
洗面所周りが臭いと騒ぎになっていた。あらゆる手段を尽くしてみた結果、結局洗濯機が原因かもと・・、ほとんど一日中その臭いと格闘していた。

お風呂のお湯を汲み出すポンプが原因らしくて、そのスポンジを取り替えて、洗濯機も薬剤を使って消毒をする。洗濯機のまわりも綺麗に拭いて、やっと完全に臭いを取ることができた。

そうして、自分の部屋の大掃除。仕舞ってなかった合い物をタンスに詰め替えて埃のたまっているタンスの上なども掃除。

しかし・・次の日は暑さもあって血圧低下でダウン。


 昨日は、押し入れの中のものを放り出して、湿っぽい床のカビを取り。主人に簀の子を入れてもらって、放り出していた冬ものの電化製品などを仕舞う。

同時進行に風呂場のカビ取り。マスクとローラーなどを買ってきて隅々まで塩素消毒をする。孫か来るまでにできるだけ綺麗にしておきたいのだ。
汗まみれてになったけれど、仕事がはかどって夕にはちゃんと終えることが出来た。

それも主人と仲良く協力しあってできた!
疲れてくるとお互いに不機嫌になってしまうことがあるけれど、最後まで助け合って機嫌良く働くことが出来た。
「お前はようがんばったなぁ」って、夕ご飯の時の主人の言葉でご機嫌になれた。単純なのだ。


 でも、今朝左の膝に痛みを感じた。足首が痛むことはあっても膝は自慢の膝で、今まで痛むことはなかった。この重い体重を支えてスクワットだって平気だったし、正座はむしろ好きだったのだけれど・・。
朝から湿布薬を貼りながらちょっと狼狽・・信じてきたものに裏切られた感じで・・。

 
 世では、信じてきたものがどんどん崩れてゆく・・。新聞を開くたびにそのことを強く感じる。息子たちの会社の株価の崩落は目も当てられない。悲しい現実。息子は私の前ではほとんど何も言わない。私も触れない。
一つの真実がある。そこにおいてくださったのが主であるから・・。

試練のときのみことばは、何よりも確信を与えてくれる避け所、実は、何があっても主にあって、恵みの中にいることになんの変わりもないことを私は知っている。
夜明け前は一番暗いのだ。闇の中に進んで行く主のみこころならば、信頼して待っているだけで良い。それはとても気楽なこと。

真の夜明けはどのようなのか今はまだわからないけれど、私の避け所はイエスさま。
体は忙しく働いていても、霊も魂も静かに主に身を寄せている。そうして、今日は体も主にお委ねして静かにしていよう。

 主が「おはよう」って来てくださって、「平安があなたがたにあるように」と言われる。もうその声を聞いている。ハレルヤ!
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完全な癒し

2012-07-18 11:46:07 | Weblog


 暑~い!さすがに昨夜はダウンだった。血圧が82/46まで下がって胸のドキドキがとまらなかった。
まるで初恋の人に出会ったみたいに胸が躍る・・こんなことを考える余裕があるんだからまだ大丈夫だろう・・
先日から同じ箇所にいる。イエスさまに捧げられたナルドの香油。


 イエスさまはシモンの家におられた。彼は重い皮膚病にかかっていた。それは旧約の時代には人から隔離されるほどの病気である。イエスさまは癒し主だから、シモンを癒すことがお出来になったずで、癒されたならこのような書き方ではないはずだ。

「イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき・・」(マルコ14:3)

それは「汚れている」と言われていた病気である。しかし、まるで普通にそこに弟子たちと交わって居られるイエスさま。
そうなんだって・・シモンは癒されなくても、病気のままでもなんの問題もないのだ。そう、イエスさまと居れば「もう、聖い」ってことに気づいた。病気は彼にとって何の妨げにもならないのだ。


 女はナルドの香油を石膏の壺を砕いてイエスさまの頭に注いだ。砕かなくても注ぎ出すことは出来ただろうけれど・・。
砕いたなら、石膏はイエスさまの前で飛び散ることになる。それは、良いものである香油だけではなく、不要な石膏の破片までイエスさまに届くってことである。

イエスさまにすべてを捧げようとするとき、良いものだけを選んで捧げることは出来ない。どんな行為にも罪が張りついているのが人であるから・・。
だから彼女がしたように、壺ごと御前で割るしかない。イエスさまは香油だけを受け取られたのではなく、石膏の欠片のような罪も受け入れて、十字架ですべてを処理してくださった。

自分のすべての思いや、計画や、自信や、愚かさっていう壺を捧げ物と共に、粉々に砕くことができるのはイエスさまの愛によること。
しかし、彼女の捧げた香油は、純粋で非常に高価な香油だった。私は何も持っていない。

「わたしの目には、あなたは高価で貴い。」(イザヤ43:4)
このみことばにより頼んで自分自身を捧げる他ない・・。みことばの備えに深く感謝するのみ。

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世の終わりのこと (マルコの福音書13章)

2012-07-12 15:14:16 | Weblog


イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。
「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」(マルコ13:3~4)


 ひそかに語られること、親しい者だけの内緒話。
イエスさまを信仰する者、私たちは主にわからないことを質問する特権を頂いている。
昔お弟子がそうしたように、今も、人に向かって聞くことではなく、主に直接聞くことが大切であると思う。

イエスさま以外に誰が御国のこと、みこころのことを知るだろう。それは、助け主である聖霊を通して(実際には、このとき聖霊を意識することはない。彼はイエスさまだけを現されるから)教えられ、新しい知識を与えてくださる。
その時、親しくイエスさまに触れる甘さを味わい、主の御声を覚えるのだ。


だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコ13:24~27)


「その時」はイエスさまも知らないといわれる。だから目を覚ましていなさいと警告された。
「目を覚ましている」ということは、具体的にはどういうことなのだろう・・。私はどのようにしていればよいのだろう。

ペテロはゲッセマネで眠ってしまった。私はペテロ以上になんかなれない。彼は屈強な漁師だったのだ。でも、ペテロと私の違いに気がついた。ペテロは、イエスさまとは石を投げたら届く距離にいた。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)

今、イエスさまは天の御座におられる。しかし、聖霊によって私のうちにおられるという約束があるではないか!私のうちに生きて働いていてくださっている。

見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩編3:3)
主は眠ることもまどろむこともない方なら、私もそのようであると信じることができる。

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:4~5)


絶えず主の御声を聴いている者が、偽キリストに惑わされついて行くことはありえない。苦難の日のための主の備えは、日々のごく普通の時間の中にある主との交わりの中に備えられていた。


災いの時着物を取りに家に戻ってはならないと言われている。私はこの記事を思い出した。
ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。(創世記19:26)
世を振り返らず、主に向かって真っ直ぐに駆けて行くことだけが、キリスト者の身を守る方法である。みことばを通して親しんだ方の元に、御声を慕って駆けて行くことは主の備えられた救いである。

創造の日からこの方、今に至るまでかってない苦難の日が来る。そうして、必ずこの世は終わりを迎える。
しかし、それは「産みの苦しみの初め」それは、イエスさまを信じる人には、災いではなく祝福、御国に招くために来られるイエスさまを迎える喜びである。私はその日を主に身を避けつつ待っている。

しかし、イエスさまはエルサレムを見て泣かれた。滅び行くエルサレムの子らを思って涙と流された。
イエスさまの涙を忘れないでいよう。私には何ができるのだろう・・主が用いてくださいますようにと祈りつつ・・。

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マルコ13:31)

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火曜日のために (いのちの捧げもの)

2012-07-10 11:38:51 | Weblog


 イエスさまは献金箱に向かって座られました。イエスさまは献金をおろそかには扱われないで、捧げる人のすべての事情を知って、その信仰を見つめていてくださるのです。
その時、やもめの女がレプタ銅貨を2枚献金箱に投げ入れました。彼女が生活費のすべてを捧げたことをご存じで、その信仰はイエスさまをとてもお喜ばせしました。それは彼女の全財産でした。貧しい者にとっては生活することだけで精一杯なので、それ以外の財産があるはずもないからです。

 旧約聖書に出てくる貧しいやもめは、
「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」(Ⅰ列王記17:12)と書かれています。


 しかし彼女は、このように死ぬつもりですべての生活費を捧げたのではありません。イエスさまがそのようにはおっしゃっていないからです。彼女は生きるために、レプタ2枚と共に問題のすべてを神様に捧げたのです。
彼女は自分のやりくりを捨てたのです。神様に生活の糧のすべてを差し出しそうして命をお任せしました。

 旧約聖書のやもめも、最後のパンを預言者エリヤに捧げるように導かれ、そのように従順したことで息子とともに救われました。
エリヤが彼女の死の淵で声をかけたことは、一方的な神様の選びです。ここに私たちのすべての望みがあります。
なぜなら、今このように聖書に触れている私たちも神様の選びによるからです。


 もし宮にとって、このやもめのレプタ2枚だけだとしたらどうなのでしょう・・。
それは恐れることではありません。貧しいやもめさえも養ってくださるイエスさまが、どうして宮の必要を満たしてくださらないことがあるでしょう。

豊かに祝福するために必要なものは信仰です。イエスさまには、二匹の魚と五つのパンですべての人を養うことがおできになるからです。
その主は今も生きておられるからです。

 聖書は今、現実の中でそれを生きるためにあります。そうすれば今も生きておられるイエスさまを経験するでしょう。イエスさまは豊かなお方であり、私たちに神様の栄光を見せてくださいます。


人に対しては、
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ6:3)

このように戒められていますが、主の御目の前で捧げることはすばらしいことです。
私たちも、このときのイエスさまのまなざしを思い出すなら、このやもめのように明日のことなど心配しないでしょう。

あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:34)

「明日が心配する」とはどういうことでしょう。
それは、明日という日を私たちにくださるイエスさまが、明日の必要をも備えてくださるということです。
生活も力も知恵もあらゆる助けが備えられています。
このように、全能の神様が心配してくださっているのですから、私たちは思い煩うことなく、今日という日をみことばに賭けて生きることができるのです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

イエスさまは私たちのためにいのちを捧げてくださいました。今、新約聖書の時代に生きる私たちは、キリストの信仰によって、いのちさえも捧げる自由を得ているのです。私の中にキリストが生きておられるからです。
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やもめの献金

2012-07-03 18:08:46 | Weblog


 イエスさまは献金箱に向かって座られた。献金は人のいろいろな思いが露わになることでもあって、祝福ともなり罠ともなる。
イエスさまは人のその行い、その心のすべてを真っ正面からご覧になっておられた。

その時、やもめの女がレプタ銅貨を2枚献金箱に投げ入れた。彼女が生活費のすべてを捧げたことをイエスさまは知っておられた。
それは彼女の全財産だと思う。貧しい者にとっては生活することだけですべてであるから、それ以外の財産があるはずもないのだから。

 旧約聖書のやもめは、
「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」(Ⅰ列王記17:12)とあるけれど、

彼女はこのように死ぬつもりでいたのではない。イエスさまがそのようにはおっしゃっていないのだから。
では、彼女の望みは何処にあったのだろう・・。それは自分のために使うことではなく、すべてを神様に捧げるということに望みがあったのだろう。

彼女は自分のやりくりを捨てて、信仰によって神様に命をゆだねたのだろう・・。生活の糧のすべてを差し出すことは、命を差し出すことでもある。望みのすべては神様にある献金。これほど聖なる捧げ物があるだろうか・・。

 全財産を捧げる彼女の行いは、不信仰な私にはたぶんまねはできないだろう・・。私はむしろ旧約のやもめかもしれない。
でも、彼女も神様に選ばれ、すべてをエリヤに捧げることを導かれて救われたように、ただ、一方的な神様の選びによって救われるという恵みがある。そこに私のすべての望みがある。


 人間的には、金持ちの大金に頼りたくなるのもわかるけれど・・。もし宮にとって、このやもめのレプタ2枚だけだとしたらどうなのだろう・・。
しかし、貧しいやもめさえも養ってくださる主が、どうして宮の必要を満たし給わないことがあろうか・・。イエスさまには、二匹の魚と五つのパンで十分なのだから・・。

イエスさまは彼女を見ていてくださった!彼女のすべてをご存じの方がじっと見ておられた。そのことに感動を覚える。
人に対しては、
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ6:3)
このように戒められているけれど、主の光の中で捧げることは喜びである。
そのまなざしを思い出すなら、それだけで幸せなことである。彼女のように、もう明日のことなど心配しないほどに・・。
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祝 リニューアルpc

2012-07-02 15:44:46 | Weblog


息子がpcをリニューアルしてくれた。一見何も変わってはいないけれど、中身はほとんど新しくなった。
機能は一新してスイッチonで立ち上がる速さと、静かさに感動・・。サクサクとネットを見られるのは気持ちがよいもの。

部品を全部取り出した時、びっしりと張り付いている埃の量にまず驚いた。これがあのウィーンウィーンという重低音の正体だったのだろう。
部品に張りついた埃を取る作業を手伝おうとして断られた。「それはまだ使うから、止めてくれ。丁寧にしないと外れるから・・それに静電気で壊れから。」

「今日は雨で良かったね。」「確かに」
紫陽花を濡らしてシトシトと降る梅雨も、網戸ごしの湿った空気も、この作業には良い天気。前日までのカラカラ天気だったら静電気がもっと心配だったろう・・。
また、サイクロン掃除機のゴミを何度も何度も捨てに行くほどだったので、その埃っぽさも全然違う。

空っぽになって、新のようになった箱に、丁寧に包装を解かれて収まってゆく精密機器。
「これは何?」「電源、これは良い物を使っているんだ。これが悪いとすべてを駄目にすることがあるから・・」

「これは何?人間にたとえたら何にあたるの」「これは小脳」
「これは計算をするんでしょう」「そう。」やった!当たり。
「これは何」「人間でいったら脳幹」「ノウカン?ああ、脳幹か・・」でもそれってどんな働きかなぁ、後で調べよう・・。
面倒くさそうだけれど、張り付いている私に一応返事をしてくれる。

「以前のpcと比べたら、ずいぶんコード類がすっきりしているね。」「確かに・・」
進歩しているんだ・・これはきっと冷ますときの効率が良いだろうな。彼がpcをいじる時は、以前から私が張りついて見ているから違いはわかる。

やっと定位置に収まってコンセントも繋がった!
「電源が動いたね。」「うん」
「今何してるの?ドスっていうあれ?」「それとは違う、ハードディスクの・・」「ああ、小脳が動いているの」「そう、それ」

ちょっと手間取っている・・マニュアルを見ている。こんな時は口出しをすると機嫌が悪い・・でも・・「大丈夫?」
「うん、新しいハードディスクだから・・ちょっと調べている。」

夕食の準備をしていても私の気持ちはほとんど上の空。
息子のpcだけれど実質はほとんど私が占領しているから・・ワクワクしつつ、気が気でない。
今回は私も多少投資したから・・幾らかは私ものでもある。これはちょっと嬉しいこと。

そんなこんなで、息子にとって今週はあまり休みになっていない。気遣っているのだけれど、「疲れているから早く寝なさい・・」とか、「しんどそうな顔をしている」とか、グダグダと要らぬ世話をやいて苛立たせてしまうことになる・・。
でも、でも本当に感謝しているよ。私のpcライフはとてもとても恵まれていると・・。

さん見つけた?
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