石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

火曜日のために  (礎の石)

2012-06-28 15:45:23 | Weblog
 

 パリサイ人や律法学者は、イエスさまの宮の行いについて「何の権威によってこれらのことをしておられるのですか、」と、また「誰がその権威を授けたのですか。」と尋ねました。

イエスさまは彼ら自身に気づかせようとされましたが、彼らは愚かで気づくことはありませんでした。彼らは人を恐れ群衆の顔色を常に伺っています。人からの権威によるものは、人を恐れなければならないからです。
そのことによって、イエスさまの権威が天からであることを示しています。


 ぶどう園のたとえを、イエスさまはパリサイ人や律法学者たちに話されました。彼らは専門家として振る舞っていましたが、彼らには神のことばを聞く力がないので、たとえで話されたのです。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。(マルコ4:12)

イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。
(マルコ4:33)


イエスさまはたとえをもってパリサイ人や律法学者にも、悟りを与えようと忍耐を持って彼らの相手をしておられます。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(マタイ23:37)

ところが彼らは最後まで悟ることなく、イエスさまのたとえ通りに主人の息子である御子を殺してしまったのです。


 人は自分の嵌る罠を相手に設ける者です。イエスさまを褒めて持ち上げ、そうして罠にはめようとパリサイ人たちがやってきました。
神の御子をほめることばを口で語っても、その心は言葉とは裏腹であるとはなんと憐れなことでしょう。心から神をほめたたえることが出来ない者は、なんと憐れなことでしょう。

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)
神のぶどう園を、神の宮を神に返しなさい。世の支配を御子に返しなさい。とイエスさまは言われます。
今、私たちにも神のものを神の支配下に置きなさい。握りしめているものを手放して、神に委ねなさいと言われます。
それは神の豊かさの中に信じる者を置いて、神の栄光を現す者となさるためです。


 パリサイ人の指導者であるニコデモという人は、夜こっそりとイエスさまを尋ねて教えを乞いました。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:2~3)


肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(ヨハネ3:6)

人の言い伝えの中でいるなら、神の国には入れないと教えられました。人は必ず、新しい生まれ変わりを経験しなければならないのです。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

新しく生まれ変わることは、上からの聖霊の働きによるのですが、それを求めることは私たちの選択によるのです。
新しいいのちを得るためには、古いいのちは死ななければならないからです。
救いのための礎の石はイエス.キリストだけです。すべてはイエスさまの十字架の上に築かれるのです。それ以外のいかなる手段も私たちにはありません。

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パリサイ人の義 (マタイの福音書から)

2012-06-25 08:53:53 | Weblog

イエス・キリストによる評価 

23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
23:4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。

23:13 しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。

23:14 〔忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。〕

23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。

23:16 忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
23:17 愚かで、目の見えぬ人たち。

23:23 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。

23:24 目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。
23:25 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。

23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。

23:27 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
23:28 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

23:29 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
23:30 『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。
23:31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
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火曜日のために 祈りの家 

2012-06-23 07:45:45 | Weblog
 子ロバに乗ってエルサレムに入られたイエスさまは、真っ直ぐ宮に入って行かれました。12歳で過ぎ越の祭りに来られた時、「わたしは必ず自分の父の家にいます。」といわれた宮です。

しかしそこで主がごらんになったのは、葉ばかりで実を結ばないいちじくのような宮のありさまでした。そこは父なる神様を礼拝するところではなく、人の便利のためだけに用いられる抜け殻のような宮でした。

罪をあがなう生け贄のための動物の売り買い、献金のための両替を商売とする者、しかもそのやりかたも強盗のような手段だったのでしょう。
もっともイエスさまが強盗の巣といわれたのは、神のために実を結ぶべき宮を、人が奪っているということを言われたのですが・・。

宮の中を商品を担いで通り抜ける人々、動物の鳴き声や臭い、その喧噪の様子がイエスさまの怒りから伺えます。
生け贄のための動物を追い払われたのは、ご自身がただ一度の真の捧げ物として、完全なあがないをなしてくださることを現して居ました。勿論、誰もそのことに気づくことはありませんでしたが・・。


 聖なるものを聖なるものとしない所に人の堕落が見えるのです。
「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」{マルコ11:17)

 イエスさまの怒りを聞いて、律法学者やパリサイ人たちはイエスさまを殺そうと相談をしました。彼らは宮を強盗の巣にした張本人なのですが、イエスさまにそのあやまちを指摘されても、心を痛めて悔い改めることもなく、むしろ邪魔者を殺してしまおうとしたのです。

つまり彼らには神様を恐れるということはもとより無かったのでしょう。律法学者やパリサイ人たちも宮の商売人のように、神様のものを自分たちの地位や生活のために強奪していたのです。
人の目に、彼らは神様の最も近くに居るように振る舞っていたのですが、すべては偽りであることがイエスさまによって暴露されました。だから殺そうとするのです。

 イエスさまは父の家である宮をきよめるために大暴れされます。それは、そのような環境にどっぷり浸かって聖さに鈍くなってしまったエルサレムの人々に、聖なるものへの恐れを思い出させるためでした。

イエスさまは夕方にはエルサレムを出て行かれました。イエスさまは世の光りです。イエスさまが居られない所は闇です。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。(ヨハネ9:4)

この記述の後にいちじくの木が根まで枯れたと書かれていますが、彼らの末路が暗示されています。時間は決して止まっていてはくれません。悔い改めることができない夜が来るのです。
イエスさまのお言葉にハッとする時、私たちは慣れ親しんだ環境から出て、静まって主に聴き、すぐに従わなければ何も出来ない夜が襲ってくるのです。

「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11:25)

 人を赦すことによって私たちは世から解き放たれ、魂は自由を得ます。聖霊の宮にきよさを保つことが出来ます。
でも、そのことは祈りから始まります。私たちは祈りの家です。主と私の関係においてこそ人を赦すことができるからです。それは人との関係によるのではないので、相手がどのような人であるかは関係のないことだからです。

イエスさまの救いを受けた者は、すべてのことを主と私の関係において処理するようになります。主が「愛しなさい」といわれるから愛するのです。「赦しなさい」と言われれば赦すのです。すべてのことはひとえに私と主の問題であり、私の従順、私の信仰の問題です。

それは私の感情や、相手の行動によって左右されるいことはありません。主は、聞き従うための祈りに応えて助けて下さいます。日々のそうした応答によって、神の愛を知り、赦しを味わうことで、信仰を成長させてくださいます。主の必要を満たし実を結ぶ力を備えてくださいます。
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生きるためのことば

2012-06-21 11:44:00 | Weblog


そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。
また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」(マルコ12:32~34)


律法学者は正しくみことばを理解していた。しかし、「神の国から遠くない。」というイエスさまのお言葉が空しく感じらる。どんなに正確に知っていても、それはショーウインドーの中のケーキ、その旨味を味わうこともなく、その栄養によって生きることもない。
隙間風が吹き込むようだろうイエスさまのお心が想われ、対照的なゲッセマネの強盗の救いを思い出した。


ふたりの強盗もイエスさまと一緒に十字架にかけられた。ふたりともイエスさまの事を知っていたけれど、一人は御国の約束を得て救われ一人は滅びた。世の終わりもこのようだと書かれている。

「神の国から遠くない。」
「あなたは今日わたしとともにパラダイスにいます。」

この言葉の差はなんと大きい事かと・・、遠くない所にいても救われない。イエスさまと共に居ないとアウトなのだから・・。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」に照らしたとき、もうひとりの強盗はこのみことばを、とっても短い時間ではあったが生きたのだと思う。

イエスさまを罵る者ををたしなめ、自分の罪を悔いて十字架刑を受け入れ、心と思いを尽くして神を恐れている。
また、自分たちの罪を知り、イエスさまが何も悪い事はしていない方であるということに希望を見いだし、彼は知性においてキリストを知ったのだ。

そうして彼はキリストに救いを求めることに力を尽くした。「私を思い出して下さい。」救われるために必要な力とは、我を忘れてイエスさまに叫ぶ力である。賢い答えを準備することではない。
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台風一過

2012-06-20 19:42:34 | Weblog


 台風が来るということで主人がおばあさんを迎えに行った。今までは幾ら誘ってもなかなか動かなかったけれど、先日、目眩がしたと聞いたので血圧計を買って行って計り、高血圧であることをくわしく説明して上げたことで、少しは気が弱くなったのか今回は御神輿を上げてくれた。

めったに行ったことのない病院に、タイミング良く村の検診があったので行ってくれた。「こんなことを言ったら悪いけれどムベちゃん、病院も悪くないよ。いろんな人が親切にしてくれて、知っている人に出会ったら尋ねてくれるし、みんなとしゃべっていたらええ気晴らしになるよ。」彼女の病院デビューは新しい生き甲斐となった様子。まずは目出度し目出度し。

「この間はお医者さんが、お薬がばっちり効いて『ok』って言ってくれたよ。」と病んでなを非常に元気な御年87才。
私がゲームをしていると、どんなことをしているのかとのぞき込みに来る。その好奇心が素晴らしい。「私のお昼寝代わり」って説明をすると、「うん、そら良い。暇を見て休まんとな」って理解も早い。

 おしゃべりをしていると偉いなぁと思うところ、見習いたいと思うところ、また深く同情して「良くやったね。」って背中を撫でてしまったこともあるが、「それは絶対違うよ!」って怒鳴りたいこともある。

お風呂を勧めても今日は入らないと言ってきかない頑固さも・・。家では温水器を付けたばかりの新しいお風呂があるから、今夜は入らないときっぱりと断られた。アハハ・・我が家はどうせ古いですよ。


 主人が迎えに行ったとき家の中に姿が見えなくて、探しまわっていると大雨の中を裏庭に出て、溝の掃除をしていたと言うから彼女はただ者ではない。「詰まってあふれると困るがな」と説明してくれた。

「昔は、台風が来たからって一々何処かに逃げたりなんかせんよ。ちゃんと戸締まりをしてじっと家に居たもんや。この頃は回りがいちいち騒いで五月蠅い」という。
「でも、やっぱり一人やったら心細いやろう、みんなで居た方が賑やかで楽しいよ。」って言うと、まんざらでもなさそうに「まあ、私はええけど・・」だって・・。

彼女にとって最上のもてなしは、話し相手になることらしい。とっても熱心に繰り返し話してくれる。私の知らない親戚の端々のことから、近所の曾孫の話。テレビを見ながらのオリンピックの選手の話まであってその幅の広さに驚いた。私は彼女に比べてなんと世間狭いことかと反省。

 しっかりしているけれど、やはり同じ話を繰り返すのは、まるで幼児のようでもあるけれど・・ただ、幼児のように他愛のない話だったら良いのだけれど、そこは歳という垢も匂いもあって子供の相手よりは忍耐が要る。
何しろ敵には87年間の生き方が詰まっている。でも、毒気もあるけれど私は彼女のしゃっきりとしたところ、自分の気持ちをはっきりと言う所が好き。嫌いな所はすぐにお金を出そうとするところ、貧乏人?が札びら切るなって思う。主人にも叱られていたけれど・・。

 すっかり台風の去った今日、私の手を握りしめ満面の笑みで「また、頼むな」と言って主人の車に乗って帰って行った。「何時でもおいで、」そう、また丁々発止とやろうね。スーパーに立ち寄って買い物をして帰ると嬉しそうだった。
「帰って玉葱を干さんとあかん。土間に広げたままになっている。」と、午後のスケジュールも詰まっているらしい。「ほどほどにね」と言っておいたけれど・・。
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詫びる

2012-06-18 15:02:09 | Weblog


 単車で雨上がりの国道を走った。雨上がり・・6月の真っ青な風が突き抜ける。大川には豊かな水が流れていた。
その時ハッと、この大好きな道を走って教会に行けることの幸いに気づいた。「ああ、そうだったのか!」って・・とっても素直な喜びが内に広がっていった。
「主よ。感謝します。すべての事の中で働く、あなたのお導きに感謝します。」


 この教会に戻っていつの間にか3ヶ月以上経っていた。突然帰って来て何の挨拶もない、その無礼に気づかないわけではない。何かひとこと詫びるべきではないか・・けれど正直、言葉が見つからなかった。
世にあっては適当に挨拶をすることができるだろうけれど・・、そんな躊躇の中に居た。

 しかし、礼拝が進むにつれて、今日がそのときであると感じていた。礼拝後、勇気をふるって前に立ち
「私は今、主が『わたしの教会』と言われた此処に居ることがとっても嬉しいのです。私をそのままで受け入れ、今日まで忍耐して下さって感謝します。」言葉は少し違ったとしても、今日伝えたかった思いはこのこと。

牧師さんが「役員会で、何かひとこと挨拶をしてもらおうかと話がでましたが、そっとしておくことに決まったのです。」と言われたとき、そうだろうと・・私もその事を察していた。そのように迎え入れられたことはどのようにか感謝なことだった。

 「ムベさんらしい挨拶だ。」と帰り際に牧師さんに言われた。ちょっととまどったけれど確かに私らしい・・のだろうと納得した。
でも時間と共に、私らしく居られる場所の幸いとはどれほどのことかと・・主のお取りなし、主の備えが身に染みていった。

私のたまものは弱さ、5タラント分の弱さを賜っていると思った。自分の中に何も良いものを持っていない。だから自分で守らなければならないものもない。
そんな空っぽな私に、その弱さの中に、主の憐れみがぎっしりと詰まっている。
「主よ。私はあなたに感謝をして恐ろしいほどです。」
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火曜日のために (エルサレム入城)

2012-06-14 17:28:30 | Weblog


 イエスさまはロバの子に乗ってエルサレムに入城されます。そこは十字架が待っている戦いの場です。罪によって滅び行く人類を救うための戦場です。
しかし、そのエルサレムに乗って入って行かれたのは、百戦錬磨の馬ではなくロバの子でした。それは人には滑稽な風景だったでしょう・・。
でも、このことは旧約聖書に預言されていたことでした。

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ9:9)


 ロバは、そこでじっとイエスさまのお役に立つ時を待っていました。お役に立つためには、主の時を待つことが必要です。そうして、呼ばれた時にはすぐに従います。
どんなに重大な役割であっても、どんなに些細な事柄であっても、主にあってする事はすべて同じです。そのことが主から出た事であるなら、成し遂げるのは主だからです。

戦の経験もなく、人を乗せたことさえない子ロバに乗って来られるキリスト、それこそ神のご計画に相応しいことでした。
主は弱さの中に完全に働く力です。経験の無さ、力の足りなさ、少人数の弱さ。それは主の御名だけがほめたたえられるための備えです。

主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。(士師記7:5)


 私たちもイエスさまに呼ばれたときには、自分で自分を計ることなく即座に従ってよいのです。お弟子達もそうしました。
造り主は私たちのすべてをご存じですから、すべての必要は備えて下さいます。主は御真実なお方だからです。


 ロバの持ち主はイエスさまに聞き従って、繋いでいたロバに時を与えました。ロバは主によって綱から解かれ、用いられるチャンスを得たのです。
主に従おうとする時、世の綱から解かれるチャンスが与えられます。でもその時、人には少しばかりの勇気が必要です。イエスさまに一歩踏み出す勇気、それが祝福です。

世は出来ない事を要求するものですが、主はそうではありません。力が必要なときには主が強めてくださいます。知恵が必要なら神からの知恵を与え、時には環境に働いて用意して下さいます。すべて上から頂くのです。
だから、私たちは決して思い上がることも、卑屈になることも無いのです。そこで私たちは日々信仰の深みを経験して、ただ主の御名をほめたたえるだけです。


 イエスさまのエルサレム入城を、人々は「ホサナ、ホサナ」(救い給え、救い給え)と喜び迎えました。しかし彼らの思い描く救いは、イエスさまのご計画とはまったく違っていました。

彼らは植民地状態から解放というこの世での勝利を期待しましたが、イエスさまが成し遂げてくださる救いは、永遠の滅びに至る、罪の奴隷状態から解放することでした。
それは、神の御子が人の罪の精算のために、過去、現在、未来のすべての罪を負って罰せられ、十字架で死刑になって死ぬことでした。


 イエスさまの十字架のによって、主を信じる者はすべての罪の咎めから解放されました。今、すべてを成し遂げて下さったイエス・キリストを通して「アバ、父」(とうちゃん)と万物の創造主に向かって、私たちは日々話すのです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅰコリント5:17)


 大切なことは私たちの願いの通りに成ることではなく、イエスさまのみこころの通りに成ることです。
なぜなら、人には何が必要であるのかが分かっていないからです。人には永遠の事は思いも及ばないからです。

しかし、神様が私たちに与えようとしておられるものは、神の子とされた永遠のいのちです。
その救いを見いだすのは、力によってでもなく、人の知恵によってでもありません。私たちの弱さの中に完全に働く神の力によってです。

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馬の厄日

2012-06-12 15:23:37 | Weblog


教会から帰って何気に新聞のチラシを見ていたとき、目に飛び込んできたのが無料乗馬レッスンの案内だった。

以前、馬を伴ってその乗馬クラブの案内を配っておられるのを見かけたことがあった。私はすごく馬に触りたかったのだけれど、息子と一緒だったし知らぬ顔をして通り過ぎたことがあった。でも、その時のチラシは長い間家に置いておいていた。「面白そう・・、馬に乗れるなんて素敵だなぁ。」とず~っと興味津々だったのだ。

だから今日はチャンスだと電話を取った。自分の年齢と体重とお金持ちではないことを伝えて、様子を見ようと思って・・
電話に出られた方は、ちょっと笑いながら「大丈夫ですよ。体験してみて下さい。空いている日を調べましょう。」とすぐに受け付けてくださった。
空いている日は翌日、すかさず「ok」した。だって時は梅雨だし、お天気はすぐに変わるだろうから・・。折角のチャンスを逃がしたくなかったから。

すべてはなんと言うこともなくスムーズに進んで、ちょっと獣の匂いの漂うクラブにやって来た。出迎えてくださったのは、電話で始めにお話ししたインストラクターの方だったので、初めから自然体で居ることができた。

「緊張しておられますか。」「それがね、昨日からコワイほど、緊張感がないのです。」「それだったら大丈夫です。」
長いブーツを履いて、ベストを付けて、帽子を被って、鏡を見るとなんだかそれらしく勇ましく見えてウフフ・・

準備を整えて馬とご対面、「ワオ、大きいなぁ・・」踏み台を準備して下さって、いざ馬に乗ることから教わる。
鐙に左足をかけて、鞍のこの部分を持って体を馬に添わせて右足を回して乗り込む。このときが一番私の躊躇した瞬間。
それは、以前柵を乗り越えることに失敗をしたことがあって、上手く足を上げられるかしら・・という恐れ。

でも、やってみたらすんなりと乗り込むことが出来た。けれどいざ乗ってみると、聞いてはいたけれど「高ッ」って・・、揺れるんだ・・って、生き物に乗っている実感に遅ればせながら少し慌てた。

言われるままに深呼吸をしてして、「緊張をするとよけいに揺れますから・・」ということで、徐々にリラックスすることに慣れてくると、揺れることも高さも嬉しくなってきた。
手綱を締めると止まってくれる。少し方向も変えられるようになり、お腹を蹴って少し速く歩くことも出来たワ~イ

後ろを見て左右のおしりを撫で撫で・・たてがみを撫で撫で・・腕をぐるぐる。
「では、お尻を上げてリズムを取って見ましょうか」と言われた。とにかく楽しくて、インストラクターの指示が実はワクワク・・。

お尻を上げたり下ろしたり・・でも、彼女いわく「上がっていません」そうかな?次は走りながらお尻を上げたり下ろしたり、自分ではできたつもりでも、「ぜんぜんリズムが合っていません」だろうなぁ・・「お尻が馬にぶつかっていましたね」と、これは自分で納得。
「初めてで、此処まで出来たのはとてもいいですよ。もう他の人と行進することができますよ。」って言って下さった。

最後は馬から下りること。手の持って行き方、右足を回して、体を馬に保たせて左足も鐙から外して滑り下りる。あらら・・高ッ、でもちゃんと着地出来て喜び全開!
出迎えて下さってから帰るまで、ずっとインストラクターの方が側にいてくださったので、少しの不安も無く、ただただ馬に乗る?乗っけて頂く?ということを本当に子供のように喜び楽しむことが出来た。

家を出るとき主人は「今日は馬の厄日やなぁ」なんて冷やかしていたけれど、どんなに楽しかったかと話すと「それは、良かった。良かった。」って、「また行って来たらええやん」って言ってくれた。

そう。私はきっと行くよ~。「誰でも初めは体験からです。正会員になろうなって思ってくる人はいません。」「きっと、やみつきになるよ。」そんなコワイ言葉も聞いたけれど・・。
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今日のみことば (春のいちじく)

2012-06-08 12:45:06 | Weblog


 イエスさまは空腹を覚え、豊かに葉を茂らせているいちじくの木に実を探されたけれど、それは葉ばかりだった。

「いちじくのなる季節ではなかったからである。」(マルコ11:13)とある。だったら、実がないのは当たり前ではないか・・と、この言葉は不思議だった。

だから疑問な時はいつもそうするように、「なぜですか」と主に訊いてみた。近頃は間髪容れずに教えて下さることが多いので、わからないことにであう時は、新しく主に出会うワクワクとした一瞬でもある。

  
 自然に実をならせるのは世である。それは習わし通りになるようなもの。
主の必要のために、どんなときでも実をつけることができる。それがキリスト者の祈り。山をも動かすことができると約束されているではないか。

緑濃く茂る葉は、人目に触れぬようにそっと主の実を守る働き。
主の教会なら必ずそのようである。どうぞ教会をそのようにお守りくださいますように!

イエスさまをお乗せしたのは、一度も人を乗せたことのないロバ、「経験がない」それがイエスさまのご用をするための大切な条件。知らないことを主によって成してゆく。

人の手垢の付かない部分で、今日初めて出会うイエスさま。それが主に在る日々。その中で結ぶ実はあり得ないという新鮮な実。ただ、主の為にのみそっと結ぶ。

「神を信じなさい」と主は言われる。期待しなさい。願いなさい。求めなさいと命じられている。何を・・主の必要を満たすことを!

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)
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晴れのち曇り 

2012-06-07 16:58:22 | Weblog

 
 午前中は、家の中を心地よい薫風が駆け抜けるように吹いていた。だから、冷蔵庫の前に立ったとき、中の食品を全部放り出していた。
棚もすべて外して流しに放り出し、洗剤をつけてジャブジャブと洗った。立てかけて水を切り、冷蔵庫の中にはアルコールを吹き付けて消毒をする。丁寧にでもできるだけ素早く。

野菜室の汚れに先日から気づいていた。その時はすぐにやる気になれなくて・・でも、今日は考えるより先に動いていた。


 午後から、梅を氷砂糖で漬ける梅ジュース作り。今年の梅は買ったものなので形も綺麗にそろっていて、手間がかからずとても楽だった。選り抜きの梅はヘタも指先でこするだけでコロリと取れて何もすることがないほど・・。

消毒が気になるけれど・・、消毒をしなければ絶対にこういうものは取れない。午前中水に晒しておいたので大丈夫だろう。
家で取ったものはあばただらけで、ヘタを取るのも選ぶのも一苦労だった。


 夕食の準備をして洗濯物を取り込んだら、ぐったりとしてしまった。心地よい風はぱったりと止んでいた。
畑から帰った主人に「しんどいない?」って訊くと「蒸せだしたなぁ・・」って言ったので、ああ・・そうか、だからしんどくなったんだって納得。聞いてから納得もへんだけれど気づかなかった。

歳を取ると突然体調が変わることがある。体がお天気屋なんだ・・そうして気分もお天気屋になってしまう。
敏感な息子に「どうかしたのか」って訊かれることがある。そんな時、ぶっきらぼうに「しんどいんだよ」って答えてしまう。これは・・甘え、ゴメンね。でも慣れてね。
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