石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

今日のみことば ヨハネの福音書7章

2012-04-28 13:44:02 | Weblog


 イエスさまのことを人々はこそこそと噂をしていた。それは彼らにとって大きなことであったけれど、公然と語る者はひとりも居なかったとある。

今、イエスさまを信仰する多くの者が、自由にイエスさまを語っているかと言えば、殆ど語れないでいる。
この現在の日本に置いてなぜ語れないのだろう・・何を恐れるのだろう・・。語ることを押さえつけるサタンの仕組み、人に働く肉の力をそこに感じる。

7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」


学校で正規に学んでも居ない者が・・そのような圧力は、そう、イエスさまの昔から同じである。人由来のものを、人の言い伝えを語るのであれば、サタンはその邪魔をすることはないであろうが・・。

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
7:17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。


主イエスによって、主から出た言葉を語る者はその言葉の出所をよく知っている。イエスさまに拠って語る者はイエスさまの言葉を語る。それはイエスさまが御父によって語るように御父を語っている。

7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

この役人達は、イエスさまのことばを偏見を持つことなく聞いていたのだろう。
この疑問こそが救いをたぐり寄せる糸口であり、イエスさまの導きを受けるための入り口である。
初めてのことばに、「これはなんのことだろう・・」とイエスさまに問い続けるなら、甘い愛の言葉を聞くことになる。

イエスさまは彼らに答えられている。今の私たちにも届けと叫ばれているのだ。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」


そう、これこそが主の完全な備えである。聖霊が豊かに内にみことばを解き明かし、もつれた糸を解きほぐして、目を開いて下さる備えは誰にも平等である。イエスさまが言われるのである「だれでも」と・・。

ひとり一人に日々新しく語りかけるみことばを、人の言い伝えにしてしまってはならない。
人手には拠らない純粋なみことばの乳を、誰でも飲んで成長することができる。
文字を読むだけでは経験出来ない。今、この現実の中でイエスのことばが力を持って働くのである。

その事実を互いに分かち合い、また、公然とそのみことばの力を語ることは、救いを得た者イエスさまを知る者の責任である。御子の肉が裂かれ、血が流され、いのちが支払われたことばなのだから・・。

 聖書は読めば読むほどに、イエスさまのおことばは今の私たちに向かって話されているのではないかと思う。主は永遠を見て居られたのだと・・。
十字架を知っているからこそ理解出来ることばがあり、この当時の人々にはあまりにもハードルが高いのではないかと同情してしまう・・。

当時の彼らの不幸は目が見えて、完全な人と成られたイエスさまのお姿が見えた故に、それが大きな躓きになっている。見ることによって肉は激しく働くから・・。今も人は見えることによって「知っている」と躓く。

ヨハネは深いと思う・・、それは彼が常にイエスさまに近く居て、実に十字架の側にもいて、イエスさまからマリヤを委ねられるほどに愛されていたから・・そう、それこそヨハネ自身が信じていた通りの愛の答。

彼は自分のことを「イエスの愛された弟子」と臆面もなく告白している。
イエスさまの愛は人の愛のように限界も分け隔てもないけれど、その愛をどれほど受けるかは、その人の選択によることである。
彼はイエスさまの豊かな愛を、初めから終わりまで信じて疑うことはなかったのだろう・・。
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楽しきかな 春

2012-04-26 14:47:00 | Weblog


主人の仕事場には、今イソヒヨドリがつかず離れず取り巻いていて、フッと目をやると足元に来ているという・・。
彼らの目的は、主人が剥いている木の皮に住んでいる虫たち。それは彼らが労せずしてありつけるご馳走。

野生の命は実に抜け目なく生きていて、その製材所には逆さに数本の竹箒が並べてある、その一本に巣を作り、毎年のようにセキレイが子育てをしている。

そこは、天敵のカラスが近づくことのない安全地帯であり、働く人たちに悪意がないことを見抜いている。
実際誰もがセキレイの巣を知っていて、その箒を彼らに開け渡し、そっと遠慮がちに見守っていることを心得ている。

激しく行き来する人も機械の轟音も止まることはなく、それは目と鼻の先でのことだけれど、彼らは巧みにその間をぬって子育てを続け、ある日忽然と巣立って行く。
そんな話を、主人から聞くことはとても楽しい。


今日は恒例のトマト苗を買ってきた。
大きなトマトは桃太郎2本だけにして、ミニトマトを2本買ってきた。今までミニトマトには見向きもしなかったのだけれど、最近の多種多様さに興味をそそられて植えてみようって・・。これもはじめての経験。

皮が薄い「サクランボ」ってミニトマトと、「アマッコ」ってミニトマト。どんな実が成るのか楽しみだなぁ・・。
さっそく植木鉢に、買ってきた培養土を入れて丁寧に植え付けた。
毎年なら7~8鉢も作るのだけれど、今年はしんどいので減らして少数精鋭のつもり?

生活の中には、ワクワクすることが一杯準備されている。なんて感謝なんだろう・・。なんて祝福されているのだろう!
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今朝のみことば (姦淫の女)

2012-04-25 13:52:13 | Weblog



 姦淫の現場で捕らえられた女が、イエスさまの前に引きずり出されてきた。捕らえてきたパリサイ人や律法学者は、その罪に対する怒りによってそうしたのではない。
彼らはその罪を利用してイエスさまを試そうと、チャンス到来と喜んで連れてきたのだ。

訴えを聞いても、身をかがめて指で地面に何かを書いておられたイエスさま。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」十字架の言葉が思い浮かぶ・・。

律法通りに石打にしようと迫る彼らは、いよいよイエスさまに裁きを言い立てて止めなかった。
赦しを説かれるイエスさまの愛と、裁きを与える律法は互いに矛盾している。彼らはそこに罠を設けたつもりなのだろう。

でも、養育係としての律法を人に与えられたのは主である。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3:24)


誰も律法によっては救われ得ず、それは裁いて死をもたらせるだけのものであることを、彼らがもし真実であれば悟ることができたであろう。
そうして此処で、イエスさまに罪を指摘されても、こっそりと逃げ去るのみで悔いることはなかった。

救われたのは罪の現場で捕らえられたという、逃げ隠れすることの出来ない罪をさらけ出された女だけであったことは、なんと皮肉なことだろう・・。
裁いていた彼らは、自分自身がすでに裁かれていることに気づくことさえない。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
イエスさまは、このことばを彼らのように得意になって言われたのではない。彼らが悟るのをじっと待っておられたのだから・・。

彼らが去って、イエスさまは裁きの座に残された女にお目を注がれた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
「わたしはだれをもさばきません」とイエスさまはいわれる。裁く方がおられる。イエスさまはその御父に従順されるだけ。

「あなたがたのうちで罪の無い者が・・」そのみことばを聞いた時、そうして、イエスさまの裁きの温かさに出会い、まっすぐに向けられた御顔を見上げたとき、彼女の渇いた心は満たされ深い悔い改めに導かれただろう。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
悔い改めと感謝をもってイエスさまを慕う者が、罪を犯し続ける事はない。主のあがないの中に居て、なを罪を犯し続ける事はありえないのだから・・イエスさまはこの女の保証をしてくださった。

その御真実さのゆえに、十字架刑に死んで律法を全うしてくださったイエスさま。
イエスさま。あなたの前で罪が暴かれることは幸いです!
「あなたの裁きの御座は、あなたの御顔を慕い求める私に甘いのです。」

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はじめての種まき

2012-04-23 14:25:00 | Weblog


先日、種まきをした。主人が捨てる期限切れの種をプランターに蒔いてみた。それもいい加減にパラパラと土の上に落として、パラパラと土をかけておくという雑な蒔き方・・
でもね、蒔いた後とても気になって、それはほんの思いつきであったのに、毎日毎日覗き込んでいた。

4、5日して「まだ、なんにも出てこないよ。やっぱりだめかなあ・・」っていうと、主人に「そんなにすぐにでるか」って笑われたり、あまり毎日覗き込んでいるのであきれられたり・・。

お隣のご主人に「此処に春菊とほうれん草を蒔いたんです。」って訊かれても居ないのに説明をして、「期限切れでも芽が出るかなぁ・・」って訊くと、「そら出るやろう」って言ってくださってちょっとホッとしたり・・。

思えば私は結構意地っ張りで、不安になった時に人に安心を与えてもらおうなんて、そんな可愛い部分がないので、小さな小さな農業体験は、そういう部分で役に立ったかも・・新しいことをする時人は謙遜になるんだ。

小さな小さな緑がちらっと現れたときもすぐに見つけた。種の蒔き方が粗雑だった結果か芽の出かたが均等ではないけれど、沢山の春菊の芽が見えてきた。
ちっちゃなちっやなまぁるい双葉、なんだか心許なくて、雨に打たれたら倒れるのではないかとか、風に吹かれたら飛んでしまわないかとか・・天候が荒れると気になって絶えず見張っていた。

それにしても、ほうれん草はどうなったのか・・一向に芽の出る様子がない。やきもきしながら飛び出した種をつまんで、芽の出る様子があるかないかを調べてみたり・・分かるわけもないけれど。

やっとしてから、ぽっちりと緑の先端を見つけた。アラ、ほうれん草は葱のようにとがった双葉。芽の出るのは遅かったけれど、それは何時までも小さな春菊の双葉を追い越すように、しっかりとした双葉をピン突き立てていた。

暖かい雨の後、春菊からぎざぎざの本葉が出てきた。アララ・・やっと春菊らしくなってきた。
ほうれん草もとがった双葉の間から、丸みを帯びた本葉が出てきて、これは驚き、桃の木、山椒の木。

主人に「ねえ、ねえ、春菊の双葉は丸くて本葉はとがっているし、ほうれん草の双葉が尖っていて本葉は丸いよ。双葉と本葉がまったく違ったよ。面白いね。」というと、「確かに違うなぁ・・」って同意してくれた。
同意することって必要だな・・、私はとかく反論することが多すぎる。嬉しかったのでちょっと反省。

お隣のご主人に「ほら、芽が出てきましたよ」「沢山でたなぁ。」「おつゆに入れようと思って・・」「それくらいなら、充分やなぁ」って、そんなたわいないやりとりもちょっと嬉しい。

気持ちは、もうお味噌汁に浮いた春菊や、ベビーリーフのほうれん草がスモークサーモンと並んで、彩りよく目の中にある。
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御子の愛、聖霊の愛 (三位一体の神)

2012-04-20 14:01:39 | Weblog


ある日、今私は御父の愛、御子の愛、聖霊の愛を受けているのだということに気づいた。
そのことはとっくに知っているはずのことだったけれど、その時深い感動をともなって迫ってきたのだった。

御子の愛
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6=7)

御子は父のみこころにそって人の世に来て下さった。名も無き処女マリヤの胎に下って来てくださり、ご自分で人の子と名乗って下さった。

人と共に生きて労苦の汗を流し、時に人の死に涙を流し、人の母を気遣い、世に生きる苦しみと悲しみを味わってくださった。
この世には枕するところもなく、荒れる舟の中に爆睡されたほど肉体の弱さもご存じであった。

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6)

イエスさまは十字架で、人の罪を負い取り成してくださり、神の御前にすべての罪汚れから信じる者をあがなってくださり、私をも神に受け入れられ「アバ、父」と呼ぶ神の子としてくださった。

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである・・」((マタイ20:28)

その事実を感謝をもって受け入れたときから、私は罪の責めから解放された。忍耐をもって信仰を育ててくださり、祈りに応えてくすしい助けを幾度も幾度も経験させてくださった。

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14:7)

イエスさまによって造り主を知り、私は愛を持って神の手により造られたことを知った。このいのちに神の計画があるという驚きと喜び!

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10~11)

そう、イエスさまは常に父なる神の愛を世に現し、御父の愛に寄り頼んで生きる喜びを教えて下さった。


聖霊の愛
聖霊は、イエスさまが天に帰られた後に、信じる者ひとり一人に送られた助け主なる神。「御父がねたむほど・・」と表現されるほどに近くにいてくださるお方。
聖霊、イエスの霊、人の霊は私には分けられないけれど、ひとつとなって私の良いときも悪いときも、忍耐を持って共に居て下さる。

聖書の新しいことばを教え、日々の選択にも平安と違和感をもって道を示し、困難なとき不安なときはみことばを思い起こさせて、闇を照らす光りを示してくださる。
どう祈って良いのかわからないときには、言葉にならない祈りを導き主との交わりを楽しませても下さる。

イエスさまは聖書の中に居られるけれど、人の世にあって、イエスさまをと共に生きるという感覚を覚えさせてくださるのは、聖霊の助けによるのだ。
聖霊はそのお方を、みことばのとおりに今も共に生きて働いて下さるお方であることを、リアルに実感することを助けてくださっている。

イエスさまは私の罪の完全な赦しの証明となってくださった。それはそのように書かれていることによるのだけれど、その喜びを日々味あうことができるのは聖霊の助け。

良心の責めから解放され、顔を上げて青空を仰ぎ、胸一杯の開放感深い平安を得ることが出来るのは聖霊が導いて下さることによる。
そう、聖霊の助けによってみことばは今を生きるダイレクトな力、いのちとなる。

人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。(詩編8:4)

神は人を何だというのでこれを顧みられるのだろうかと・・その問いが救われて以来ずっと私の内にくすぶっていた。まるで疑いのように・・。
しかし、今、ただそれは神の御名の崇められるためであると、繰り返し語られることばによって、私は平安を得た。

創造主なる神は、ご真実故に造られたものをかくまで愛された。
私たちが御子を通して救われたのは、神の愛を知り、愛に応答して、造り主をほめたたえるものであることを知るため。そうして、そこから始まる永遠に続く愛の応答。

二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示4:10~11)
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造り主の愛 (三位一体の神)

2012-04-16 14:41:01 | Weblog


神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そうして彼らにすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創世記1:26)

神は人を愛の対象として創造されたことがわかる。人に対するワクワクとした期待が伝わって来る。

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16~17)


しかし人は神のこのただひとつの戒めに聞き従わず、罪を犯してしまった結果、

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(黙示録3:9~10)


人は神の光りの中から逃げて物陰に潜むようになり、自身を取り繕う者となり、神を恐れて避けるようになった。
罪が入ったことで愛の関係は壊れ、人はもう神との愛の交わりに安息することはなくなった。
そこで神はそのような不幸な関係が永遠に続くことがないようにと、園から彼らを追い出された。

神の愛は片思いになってしまった。なぜなら、人は神を愛と信頼の対象としてではなく、裁き主として逃げ隠れするようになったからである。
そうして、人は自分勝手な生き方をするようになり、自ら造り主に変わる偶像を作り出し、それらに仕えるようになった。

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神・・、(出エジプト20:5)

これは神の悲痛な愛の叫び。
人は造られた者として神に従順する立場にあるが、愛は対等なものである。だからこそ神は人に執着されるのだと思う。対等な愛を満たすのは人でなければならないから。

しかし神のかたちを持つ人は、自身の中にも割り符のようにぴったりと合う造り主に対する渇きも持っている。決して偶像の神々では満たすことの出来ない渇き・・。

だから、永遠の愛をもつ神は人を取り戻すご計画をもっておられ、罪にまみれて行く人の歴史の中にも、犠牲を伴いつつ関わり続けてこられた。

人への神の愛は今も少しも変わることはない。三位一体の神はそのすべてをもって人をあがなう計画を立て、すでに完成してくださった。
しかし、人は今も造り主なる神を避け続け、どうしてもその愛にどっぷりと浸り安らうことが出来ないで居る。それは造り主の愛というものを知らないでいるからなのだと思う。どれほど愛されているのかを・・。

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ああ、低血圧

2012-04-10 15:21:47 | Weblog

 しんど~い、体がなまりのように重い、元々重いのだけれど・・今はそんなものじゃない。春は盛りの桜やレンギョウや木蓮がなどが爛漫と咲いているのに・・、ウグイスやイソヒヨドリの美しい声を聞いているのに・・、

体はだらりとして、他人のように言うことをきこうとはしない。少しのことに一々頑張らなければならなくて、ついイライラしてしまう。
あれもこれもするべきことは沢山あるのにと・・暖かくなったら家の中でも目につくことも多くなる。

 ひょっとして・・と主人の血圧計を引っ張り出して測ってみると、90と55とやはり下がっていた。毎年のことだけれど、どうにも仕様がない時が解決するのを待つしかない。

先日から疲れやすくてなんだか変だった。それでも、ある姉妹が送って下さったハーブ茶を飲んで眠ると感謝な事によく眠れる。これはすごい脱出への備えを頂いた。

ピリピリとした何かが静まる感じで痙攣性の便秘も改善した。薬では余計に悪化する経験をしているから、これらのことで診察を受けることはできなくて、耐えるしかないと思っていたのだけれど・・。

 交感神経がとか、副交感神経がどうとか言うけれど、たとえ自分自身のものでさえ、体も心も自由になるものではないんだと、こういう時は我が身の御しがたさにまいってしまう。

老いると言うことは、ますます弱さを経験することになるのだろう・・。
これらすべての纏わり付くものを振り切って、主の待つゴール目指して駆け抜けたいと心から願う日にみことばが身に浸みる。


あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)
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今朝のみことばマルコ9章から 「私も連れてって」

2012-04-09 11:20:49 | Weblog


イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。(マルコ9:2)

 せっかくイエスさまに救われたのだから、私も高い山に連れて行って頂きたい。もし、そこまでしなくても・・なんて思うなら、イエスさまの十字架は、私にとってその程度のものってことになるではないか・・。

 お弟子は12人居たのに連れて行かれたのは3人だけだった。連れて行く者をイエスさまは選ばれる。
連れて行かれた者には、大切なものを捨てて来たという実績があった。
ペテロもヨハネもヤコブもそれぞれ親や生活の基礎である舟を捨てて、声をかけられるとすぐに従っていた。

それは、彼らにはイエスさま以外に、もう何もないということである。だからイエスさまも彼らのすべてになってくださった。


 マリヤがイエスさまを受け入れるためには、いいなずけのヨセフも世も捨てなければできないことだった。
アブラハムも故郷を捨てて神に従った。そうして、信頼しきって付いてくるイサクを神に捧げた。そう、あの時確かに彼は、一瞬でもイサクを捨てなければあそこまではできなかった。
パウロも人の栄光をすべて捨てた。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ8:35)

 彼らは捨てていのちを得た。人由来のものをイエスさまに差しだして天の栄光を得た。人生に置いて、神の前にそのように信仰告白の実績を積めるチャンスがあれば、それは実に恵まれた事だと思う。

マルコの一章には「すぐに」という言葉が頻繁に出てくる。
捧げることを求められるときには、間髪を容れずにということが必至である。それは常々心にあることがむき出しになる瞬間であって、その一瞬に十字架を私たちがどのように評価しているのかということが現われる。それは恐ろしくもあり喜びでもある。
私たちも「神の国が力を持って到来しているのを見る」ことができるのではないか・・それを否定する者にはなりたくない。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ)27:46

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はじめてのモニター

2012-04-07 10:01:09 | Weblog


 先だって、以前応募したモニターに選ばれたとの書類が届いてびっくり、無責任なことだけれど応募したことさえ実は忘れていた。 歳と共に閉じこもりがちになってしまうので・・と何気に応募したことを思い出した。それはネットからの簡単な手続きだったので・・。

見知らぬ会社ではなく、20年もお付き合いのあるという安心感もあるけれど、書類が送られてきて契約書なんかに署名捺印となるとちょっと気持ちが怯んだ。私にできるかな・・面倒なことにならないかな・・って。

謝礼もごく僅かなことだしと思いつつも、友人に話して「私ならやるかも・・」の一言に気持ちも楽になって、初めての経験にちょっとワクワクもした。
それでも昨日は寝不足のままに出かけて行った。まあ電車の中で本が読めるほどだったから元気なんだけれど・・。


 目を上げると車窓に桜並木が流れて行った。はんなりと色づいて、ああ、もうずいぶん咲いているんだって・・そうしたら、かってカナンに通って居た頃、姉妹に何時も送って頂いていた桜並木を思い出した。
桜は同じだけれど人は変わる・・人の歩く道も生きていれば変わる。でも、心の中には少しも変わらないあの日が残っている。会いたいなぁ・・。


 私が到着したときにはすでに始まっていたが快く席に案内して下さった。若い方が多かったけれど歳の近そうな方のテーブルだったのでちょっとホッとした。それにしてもど真ん中・・「まあ、いいか、気にしないでおこう・・」ってどんと座る。

商品の説明が続く・・私はほとんど飲まない牛乳が次々と出てきても素直に飲み、その味の違い中身の違いを知る。
資源循環型の説明になるほど何もしらなかった・・とちょっと感心したり・・。
ただ、一部商品について「なぜそれを添加するの?」という疑問もあり、質問したけれどあまり突っ込めなかった。だから疑問はそのまんま。


 正直モニターって良く分からない。問われたことについて答えるだけでよいのか・・。商品を売るためのアイデアを求められているのか、商品の仕様について意見を求められているのか・・。でも、それらはもう出来上がってしまっているように思える。
調子の良い意見を言って居る人におされて、もう・・大人しく?お隣の人とおしゃべりしてた。

私は知らなかったけれど、こう言うのには慣れている人が多いんだ。その人達は戸惑うこともなくこなしているけれど「ど素人を揃えてやったほうが良いですよ。」と私には思えた。
時間がかかるけれどとんちんかんな中からしか、本当に彼らの必要を満たすものは出てこないと思う。 だって彼らの頭に添う者を幾ら集めても金太郎飴。まあ、こんな意見を求める質問は何処にもなかったけれど・・。

お土産とモニターをする商品、今月の謝礼1000円の商品券を頂いて解散。なるほどこれも主婦にはちょっと嬉しいこと。だからプロっぽい人もできるだろうな・・。
帰りには若い人たちとバスの中で結構もりあがったり、初めてのモニターは人と出会う楽しさも味わった一日だった。帰ったら主人が「ご苦労さん」って言ってくれたし・・。
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イソヒヨドリ

2012-04-04 14:14:47 | Weblog


 とっても美しいさえずりに部屋から飛び出して、じっと裏山に目を懲らすと、以外にも近く真上のフエンスに止まって鳴いている。しかもぷっくりとした赤っぽい腹はなじみのある姿だった。
「あら、イソヒヨドリってこんなに美しい声だったの・・」声の主を見つけてびっくり!

だって、以前からこの美しいさえずりの主を探していたのだけれど、声はすれども姿は見えず・・。また、遠く逆光だったりしてよく見分けられなかったから。
イソヒヨドリはめずらしくもなく、以前からよく見かけたんだけれど、今日まで姿と声が一致しなかった。なんだか大発見をしたみたいに嬉しい。

 
 息子は小鳥の写真を沢山撮ってくるし、名前もよく教えてくれるから、イソヒヨドリはその空色の羽と赤っぽい腹で姿はよく知っていた。
しかし、彼は耳が不自由で鳴き声を聞くことができない。それは私にとっても残念ではある。そうでなかったら鳴き声も教えて貰えたのに・・。

時たま彼は、聞こえないことで鳥を探すのに不利だとこぼすことがある。そういうとき私は「それにしては、ずいぶん沢山の写真があるじゃない。」と言う。それは事実で、耳の聞こえない分彼は目ざとい。

駄目なものは人間色々あるさ・・。そんなことを一緒に嘆いてあげるほど私は柔じゃなくなった。
彼と一緒に聴覚障害という壁を乗り越えようとしている間に、「それがどうした!」ってこの母親はすっかり動じなくなってしまった。


 彼が小学校の卒業のときに文集に書いたみことばを私は信じ切っている。主が「十分」と言われる。これ以上に満足するべきことは他にないもの。
ただ、御国に小鳥たちがさえずっていますように・・。彼がその美しい声を聞いて、新たに主をほめたたえることができますように・・。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
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