石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

今朝のみことばから (3月30日)

2012-03-30 15:19:14 | Weblog


 ゲッセマネで祈られる時、イエスさまはなぜいつものようにお一人で祈られなかったのだろう・・。あえて弟子たちを連れて行かれた理由には、まだ何かありそうだと思い巡らせていた。

旧約聖書では、神の居られるその山に近づくことは死の覚悟が必要だった。しかし主の十字架で至聖所の幕が裂かれたときから、人にはそこに踏み込む歓喜が与えられた!みことばの光りをかかげて深い森を探検するように・・。

みことばを反芻することは甘いこと、いつも新しくイエスさまの愛に出会うことが出来る。「分かった」って思ったその向こうにもっともっと深い森が広がっている。そこに踏み込むことはとてもワクワクすること。


 弟子たちがいかに頼りない者であり、直後にみな逃げることを知っておられたのに、まるでイエスさまは彼らに頼るように、重大な祈りの場に連れて行かれたのはなぜか・・
「まさか眠るとは思わなかった・・」なんてことはありえない。
イエスさまは人の弱さを知り尽くしておられるのだから。ならば・・、彼らのあの弱さこそが必要だったのではないか・・。
弱い彼らこそが、十字架に進まれるイエスさまの力となったのではないか・・。


 近頃、「何の役にも立たない者が・・なぜ?」と私事に置いても思うことがある。でも、ただ、イエスさまを必要とする者がお側にいることが、イエスさまにとって必要なのではないか・・。そんなふうに思うと納得出来るようになった。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)


 イエスさまは御父のみこころを成し遂げる為にこられたのだけれど、だからってそれを機械的に無感動になさったのではない。
イエスさまは完全に人と成って魂を持っておられ、涙さえも流された・・。人の悲しみを負い、痛みをになわれた方。

その聖いお方が生涯に初めて経験なさったのは、人の累々たるおぞましい罪。主が悲しまれ、血の汗を流し、心を裂くほどの恐怖と苦痛の中で、それらに耐えることがお出来になったのは、彼らへの、また私たちへの愛のゆえであり、私たちはイエスさまにそれほどに愛されたのだ。

「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:40~41)

肉によってはイエスさまと居ることは出来ない。聖霊、賜った助け主によってイエスさまに付いて行こう!

弟子に出来たことはひとつ、「主よ。私たちには何もできないのです。あなたが必要なのです。」と、完全な弱さの中で主の必要をあらわしたこと。
そうして主は、彼らが見て触れた救い主を世に伝えなさいと言われた。その働きはこのように、ゲッセマネでの自分たちの弱さを語るところから始まったのだと思う・・。
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今朝のみことばから・・(3月26日)

2012-03-26 11:09:16 | Weblog


マリヤがイエスさまに香油を注いだことで、彼女は弟子たちから責められたという。良いことをするとほめられるのは当然、でも、それは幼いときの話。
イエスさまも幼い時、「神と人に愛された。」とある。
しかし良いこと、神のみこころによって人を救うための十字架では、彼は神にも人にも捨てられた。このことは歴史上の事実である。

魂の上での良いことは人にほめられるけれど、霊における良いことは迫害を受ける。それは魂にとって理解出来ないことであり、魂は自分の理解出来ない行為を嫌悪するから。魂は賢くて、なんだって自分の支配の下に置こうとするから、理解不能なことがらは排除しようとする。

でも、マリヤは彼女の犠牲を誰からもほめられなくても、いや、人からどんなに責められても満足なのだ。彼女は「あなたの罪は赦されています」(ルカ7:37)というイエスさまの言葉を聞いたからである。

それだけで十分なのである。そのおことばの価値をよく知っているから・・。
そのことばの価値を知っている者だけが、マリヤの捧げ物をイエスさまに捧げることができるのだ。主の必要を満たす働きを成すことができる。
今このように、福音書に彼女の記事があることは、このときの彼女の与り知らないことなのだから。


この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイ26:12~13)
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「長くつ下のピッピ」

2012-03-24 15:12:10 | Weblog


孫の誕生日にと準備した本に夢中になってしまった。
新しい本をプレゼントするべきなのに、読んでからあげる・・そのことに何だか古本にするような気もしたけれど、先に中身を吟味せずにプレゼントしたことで、その無責任がじわりと気になって仕方がなかった。

天衣無縫の少女のお話、彼女はお金持ちでとてつもない力持ち。お父さんもお母さんもいないけれど、たくましくとても幸せに暮らしている。
この世の常識はまるで無いけれど、彼女の理屈は奇想天外・・でも何処か正しい。色々なものを痛快にやっつけるけれど、誰も憎んでいないし嫌うこともなく、何時でも真っ直ぐに相手を見ている。


この本を読んでいると、常識の垢や言い伝えの垢がポロポロと落ちそうな気がする。教育ってなんだろうって・・、プッと吹き出したり微笑んで読みつつも、本を離れたときは考えてしまった。

生きるために必要なことだと、どうでもよいことを一杯詰め込んで来たなぁって気づかせられた。
奇想天外な発想や思いつき、うんと遠回りをして、うんと楽しんだ経験から得る知識などを削いで来たのだろう。味気ない出涸らしのような常識を機械的に入力して来たことに忸怩たる思いがした。
でも、こんなことを考える余裕も相手が孫だからだろうなぁ・・。自分の子育てには、とてもこのような余裕はなかったから。


本は素晴らしい。このような世界も、誰でも読むことによって知ることができるのだから・・。
翻訳物特有の美しい言葉の流れにも、何だか懐かしくて心が洗われるよう・・、年寄りの私も少女になってワクワクと、孫と心を重ねる楽しさ。
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神による働き

2012-03-23 14:19:31 | Weblog


主は無学な普通の、それも漁師に福音書を書かせられた!
知識に富み血統にも律法にも非難されるところのないサウロに、それらを塵のように捨てさせ、迫害と侮りの中で弱さを誇るパウロと変えて用いられた。

預言者を話せなくし、伝道者の目を見えなくする主。
その、エセキエルの口を開くのは主、(エゼキエル3:26)
その、パウロの目を開くのは主、(使徒9:8、9:18)
神によってのみ働くことができるようにと・・それが主の万全の備え。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。(Ⅰサムエル2:8)
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悲しみの先に

2012-03-22 14:33:18 | Weblog
  

ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。(マタイ26:35)

イエスさまはこのように言うペテロを、ゲッセマネの祈りの時も近くに置かれた。悲しみもだえて祈られるイエスさまをペテロたちは見ていたのだろう。

イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。(ルカ22:45)

肉は脆く、共に悲しむことはできるけれど何の役にも立たない。目を覚ましていることさえ出来ない。
大人だって泣き寝入りしてしまうことがある。もう何も考えることが出来なくなるほど絶望するとき、まるで脱出口のように睡魔が襲ってくる。彼らのそんな様子が浮かぶ・・。

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:41)

すべてをご存じのイエスさまはそれでも目を覚ましていなさいと言われる。イエスさまが命じられることにはすべてイエスさまの備えがあるはず・・。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)


イエスさまがお弟子を「立ちなさい。さあ、行くのです。」と導かれたところは十字架、目に見える主を失うこと。まったくそれは敗北のようであった。
イエスさまが彼らに見せられたのは、打たれれば崩れる肉の弱さ。
誓っても何の役にも立たない魂のがんばり。そこにある敗北。

イエスさまは彼らをお側に置いて、成功ではなく敗北を見せられた。
今も、主が共に居て下さる中で敗北することがある。すべての計画が崩れてしまうことがある。
でも私たちがイエスさまを必要としている限り、すべては主の良いご計画の中で起こっていることである。それは間違いのない事実。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネ14:18)

完全な敗北のようであった十字架は、私たちの救いの成就。そこで私たちは救いを得たのだから・・
イエスさまを目で見ることが出来なくなったとき、彼らは霊で見るようになった。その時から、彼ら、また、私たちの関係は永遠となった。

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)

働きのためのすべての必要を満たすのは主。
絶望の時、悲しみの時、みことばの約束に留まり主を待とう。ほら!花婿を待つ灯火の油を豊かに満たしていてくださるのだから。

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デジタル化

2012-03-17 18:40:51 | Weblog


 今日は息子に付き合って補聴器屋さんに行く。先日新調したのだけれど、どうもその補聴器の具合が悪い様子にこれはなんとかしなければ・・と思ったから。
購入するときは付き添っていなかったのだけれど、問題が発生したときにはスムーズに事を進めるためにも通訳を勤めようと思ってのこと。

彼は問題点を書き出していたのですぐに相手に伝えることが出来たのだけれど、事はデジタルとアナログの違いに起因することだった。
彼が今まで使っていた補聴器は、なんと15年以上も使い続けていたものでそれにすっかり慣れていたのだけれど、今回のはデジタルということでトラブっていた。

彼曰く「高度の難聴にはデジタル化なんか要らないので、単純に音を大きくするものが良い。高機能になって電池がアッという間に無くなってしまって困るだけだから・・」ということだけれど、「アナログの機種は過去の物となり、たとえメーカーを変えて問題は同じ」とのことだった。


 二人の息子ともハイテクの世界で働いているので、私にはこんな文句を言うことは許されない立場だけれど・・今日はカッときた。
なんという愚かな話だろう、なんという愚かなテクノロジーだろう・・。それが進歩だというのか・・確かに不必要な技術というものがある。不要な賢さ。

なぜ、せめてアナログも認めるというおおような備えができないのだろう・・。
そりゃ・・まあ、一個買ったら15年も20年も持つような商品を売っていては、商売が成り立たないと剥きつけに言うなら納得するしかないのだけれど・・。
結局、すべて高機能というのは誰のためであるのかということなんだ。

いろいろなやりとりの中で、デジタルの説明を聞き、電池の消費を幾らか抑えられるように補聴器の調整をし直してもらった。
デパートによって、がたついていた眼鏡の調整をしてもらっえたことは良かった。でも、少し買い物をして帰ってきただけなのになんだかとっても疲れてしまった。
これくらいで疲れるなんて・・こんな自分に少しがっかり。
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振り返ったら5年

2012-03-15 18:49:09 | Weblog


 ブログを書き始めてもう5年以上経っていた。
途中でもう書くことが無くなったから止めよう・・と思ったり、何となく嫌になったり・・。そんなことはあったけれど今日まで続いている。

日常を書いたり、私とイエスさまのことを書いたり・・。そう、信仰のことを書くときは、私が触れたイエスさまのことであって、私の気づいたイエスさまを自由に書いていた。心の赴くままに自由に書けるってことは、とてもとても感謝。そこにある主の赦し、忍耐がとても感謝。

「ねえねえ、聞いて!」って感動のあまり呼びかけたり、「どう思う?」って問いかけたり、「教えて」もあるけれど・・。
それに裁きを待つような心持ちで書くことや、自分を追い込むための材料としたことも・・。

 信仰だって時々刻々と変化する。成長するときも、停滞するときも、後退することだってある。
色々な時があっても、すべてはイエスさまの教育によって、私の長所、短所、信仰のすべての材料を織り交ぜて描く御国への道筋。
すでに救いの御約束は完成されていることだから、今どれだけイエスさまを経験しているのか、それだけが私の問題。

ペテロはイエスさまを求めて生きた。そうして、彼は幾度かイエスさまに叱られている。
でも、彼はなんと幸せなことかと思う。なんと多くイエスさまに愛されたことかと・・。彼も誰よりもイエスさまを愛していたことがわかる。

そのことが分かるのは、彼の失敗がそのままに聖書に記されているからで、その部分が削除されていないから・・。
ありのままに記して行くことは、イエスさまが忍耐してくださった愛の日々が、そこに現れることでもある・・。


イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。
「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。
イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19:37~40)
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春はあけぼの

2012-03-13 23:32:25 | Weblog


息子を送り出した玄関で、「ああ、月が綺麗だ!」って声につられて表に出た。
藍色一色に明け初めし空間に、ぽっかりと金色の月が浮かんでいた。

「ああ、もうこんなに明るくなっていたんだ・・」
ついこの間までは、自転車の頼りない明かりが、ゆらゆらと暗い道に消えていったのだが・・。

早起きのうぐいすが遠くの方で鳴いている。
ほのかな明かりにすべてが包まれる中、白い花びらのような雪が、ヒラヒラ、ヒラヒラと落ちてきた。穏やかにフワフワと藍の中を舞いつつ・・寒さも忘れて、夢かうつつかと立ち尽くした早春の朝。



マルコ9章
弟子たちは、イエスさまが十字架のことを話されても理解出来ず、道々誰が一番偉いかと論じ合っていた。彼らはそのことの恥ずかしさを知っていたのだが・・。

「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(マルコ9:37)

今日まで私は、幼子を頭に描いてしまっていたけれど、今、霊の子供のことであることに気づいた。差し迫った問題を抱えていたからか・・。

先日、信仰はタラントだと気づいて、タラントなら主から与えられたものであり、信仰は人によって違うのは当然なのだと納得したのだった。
主は、与えたタラントに応じて働くことを喜ばれるのであって、完全に個人的なことで他と比べることではない。

5タラント与えられた者は、2タラント与えられた者よりも偉いわけでない。ただ主のご計画が違うだけのことなのだから・・。
誇ることは、弟子がイエスさまに言えなかったような恥ずかしいこと。
しかし、信仰によって主をより多く経験出来るのだから、感謝はだれよりも深いだろう。主に深く感謝する者は、誰にもましてイエスさまに似ること、謙ることを学ぶだろう・・。


イエスさまは、「小さい者たちをつまずかせる者は石臼を首に結わえ付けられて、海に投げ込まれた方がまし」だと言われた。
なんと厳しい言い方だろう。
誇る手を切り捨てろと、誇る足を切り捨てろと、目をえぐり出せと・・。
それほどにつまずきを与える者に厳しいことは、小さい者へのイエスさまの愛によるのだ。
また、誇って滅び行く者を惜しまれるからなのだ。

仲間ではなく、好みに合わない者の働きを封じるヨハネに、イエスさまは「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」とおっしゃった。
イエスさまの懐は私たちの思いを超えてはるかに深いのだろう・・イエスさまの愛の深さを私はまだ悟れないでいる。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17~19)

「アーメン。主よ。私を憐れんで下さい。」

「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」
小さな者を受け入れて共に暮らしなさいと言われる。イエスさまが私たちを一方的にあがなって、反対しない者を無条件で受け入れて下さった事実の中にいるのだから・・。

それは、気ままな者に忍耐を要し、わきまえのない者に謙ることを要求され、すべてイエスさまの愛を頂かないと出来ないことだけれど・・。
主は、朝にうっとりと美しいものを見せ、昼に厳しい事実を教えてくださる。そう、これは十字架へ向かう行列なのだから。
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拒否

2012-03-09 14:46:19 | Weblog


すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」(マタイ15:22)
しかし、「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」とある。つまり無視。

今回この箇所を読んでいて、自分の読み方の間違いに気が付いた。イエスさまがこの女にすぐには答えられなかったことは、実に正常なことなのだと・・。
選んだ者をのみ恵もうと、私を無視なさろうと、それは100パーセント主のご自由なのだ。
女はそれを認めて、なお叫びつつ憐れみを乞うてひれ伏したのだった。

すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15:26~27)


女は自分の娘を憐れみイエスさまにすがりついた。私たちの祈りも似たり寄ったり・・。この女の何処が立派なのか・・。母が子を憐れむのは自分の身を愛おしむことと同じ。叫びつつ付いて行くこと、祈り続けることの何が立派なのか・・。他に方法がないだけのこと。

主のご計画だけが成るのは当然で、人がどうしてそれに文句を言うことができよう。そう、すべての人類は何一つとして要求する権利など持っていない。ただ、神の憐れみにすがるだけなのだ。

マタイでは、「ああ、あなたの信仰は立派です。その願い通りになるように。すると、彼女の娘はその時から直った。」とある。
でもマルコにはほめ言葉はない。書かなかったマルコの気持ちがわかる。ほめるられたのは彼女には拠らない。イエスさまの一方的な評価だから・・。

ヘブル11章には多くの信仰が評価され居る。けれども信仰さえも決して人から出たものではない。それは主にタラントとして賜ったものなのだから・・。
ただ、ただ、そのような信仰を人に賜ったことにひれ伏のみ。そのような信仰を手取り足取り育み導いて下さったのだから・・。

霊の目が開かれると、まず自分は何一つとして神に報いられるに価しない者であると知るようになる。
イエスさまの評価は、女がそのことをわきまえていたことによるのだと思う。

宗教をしていると勘違いをしてしまう。祈りはきかれるべきだと何処かで勘違いをしてしまう。
献金、そもそも主のものであると書いてある。奉仕、その健康を守られたのは主、むしろ忍耐していて下さったのではないか・・。
伝道、本当にそれが主から出たものなら、すべて備えられた中で、刈り取りの喜びを味あわせて頂いたのだから感謝あるのみ。

でも人は、それらの行為をどんなに心の底に押し込めようとしても、その思いは根底に存在して、何か事があればその上に立って祈っている。
それくらいなら何もしない方がよい。なにもしなければ、この女のようにひれ伏すことができるから。
主の無視に服して「アーメン」と言える。
主の拒否に服して「アーメン」と言える。

小犬と言われたけれど、時に犬のほうが忠実である。
人の価値は、ただ、一方的な神様の選びにすぎない。
「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」(ローマ9:15)

神様の一方通行の約束によって、救いを受けた者、憐れみ、恵みを受けている者である事を覚えていたい。
どんなに祝福して下さったとしても、そのことをわきまえていなければならない。なに一つとして、私には要求する権利などないことを・・。

この話をしているとき、カオリンさんは「十字架!」って言われた。
ああ、そうだ!
イエスさまが十字架で受けたものは、父の無視。父の拒否。
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「来なさい」

2012-03-08 23:43:15 | Weblog


その時「来なさい。」と言う言葉を聞いたのは、ペテロだけだった。
彼だけが求めたから・・死のような水の上を歩くことを・・。

そこに何があるというのか・・
イエスが居られるだけ、それで充分。
イエスに倣いたい、それだけ。

でも、彼は知っている。
差し出されるイエスの手を知っている。

もっともっと・・百回も千回も触れたいから・・
もっともっと・・知りたいから
主の居られる、死のような水の上に出て行く

「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの・・」
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