石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

火曜日のために (何を見ているのか)

2012-02-28 11:19:53 | Weblog


マタイ14:22~34、マルコ6:45~53から

 イエスさまはいつも、人が弱いことを心に掛けていて下さいますから、先にお弟子たちを休ませようと、強いて向こう岸に向かわせなさいました。

そうして、ひとり山に登って祈っておられました。イエスさまの心が安まる時は、祈りの中で父なる神さまとおられる時だけでした。
人は誰もイエスさまを理解することは出来ませんでした。弟子たちや家族でさえ、イエスさまを理解しては居ませんでした。

この地上に居られた間イエスさまはとても孤独でした。だから淋しさをよく知っていてくださるお方です。私たちが誤解や失敗で人に捨てられた時にも、イエスさまは赦しと慰めを持って近づいて下さるお方です。
そのようなイエスさまを知っているからこそ、私たちは他人や、自分のことを恐れることなく、「はい」は「はい」と、「いいえ」は「いいえ」と、はっきりと言うことが出来るのです。


 弟子たちが、夜中の湖で風や波によって舟を漕ぎあぐねているのを見て、イエスさまが来てくださいました。
初めの計画は弟子の所へ行くのではなく、姿を見せて力づけようと思っておられたようですが・・
しかし弟子たちはこともあろうに、イエスさまを幽霊と見間違えて恐れました。彼らのような屈強な漁師であっても、枯れ木さえ幽霊に見えるほどに人とは弱い者です。

心おびえてしまうと、正しい判断力を失ってしまいますし、見えると思っている目も、実はとても不確かなものです。
目の錯覚や見間違いは日常茶飯事です。目は心の窓、心にあるものを見ているのでしょう。不安な心は怪しいものを見るのです。
イエスさまは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけてくださいました。

今、私たちの困難な時にも、静まるならみことばを思い起こさせてくださり、元気づけてくださいます。
「平安があるように。」とお声をかけてくださるのです。私たちはイエスさまによって、落ち着きを取り戻すことが出来ます。
イエスさまのお言葉である聖書によって、誤りのない正しい判断に生きることが出来るのです。

 風も雨もイエスさまが父なる神様とお造りになったものですから、それらは造り主であるイエスさまを知っており、主の命令に聞き従うのは当然なのです。
しかし、人が自分の造り主を悟ることがないのは罪によるのです。イエスさまのあがないがなければ、造り主を知らぬままに滅びて行くものです。これは本当になんと憐れなことかと思います。


 この時のお弟子の心は鈍いものでした。パンの奇跡を経験していても、なを平安を得ることはなく簡単にイエスさまを見失ってしまうような者だったからです。
イエスさまに出会うと私たちには、生まれてから今まで、かって見たことも聞いたこともないないような事が起こるようになります。
でも、その時に霊の目や心が開かれていないと、パリサイ人のように、今見たこと、目の前で起こったことなども、色々な理屈を並べて打ち消してしまい、信仰には結びつかず救いを頂くことができないのです。

 イエスさまは最高の教師ですから、私たちの必要をご存じです。いつもイエスさまと一緒に居たお弟子たちには、助け主である聖霊をおくって下さり、彼らは世にイエスさまを伝える人となり、殉教するまでの良い働きをすることができました。
私たちがイエスさまといつも共に居て、みことばに信頼するとき、私たちには思ってもみないことが出来るようになるのです。
世の風や波を見ていると恐れが心を占めます。
イエスさまの「来なさい」というみことばによって歩むなら、水の上を歩くように主の備えの中を歩むことができます。

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こわ~い出来事(顛末)

2012-02-25 14:17:10 | Weblog


 自分の籠に、いつの間にか他人の財布が入っていたということは、時間と共にだんだん気味悪くなってきて、昨夜は1時を過ぎても寝付けなかった。
平安を祈っても、みことばを探っても寝付けなかったのだけれど、「無実の罪を着せられかねないこと・・」って言葉が浮かんだとたん、「ああ、それはイエスさまだ」って気づいた。
主を知る者にとって、無実の罪はそれほど恐れるべき事ではないんだって・・それはイエスさまが一番よくご存じのこと、イエスさまほどの濡れ衣を着せられる者は誰もいない。


 沢山の人と楽しく過ごしている時よりも、在らぬ疑いの中で困惑している時の方が、イエスさまに近しくいるのかも知れないと思い至ったとき、なんだか嬉しくなって・・心から安息することができた。

それでも朝になって、心騒ぐことはないけれど主人の忠告もあって、お店に電話を入れて、「防犯カメラを見せて貰えないでしょうか・・」とお願いをしてみた。
電話に出られた方は同情して下さって「わかりました。調べてお返事します。」といって下さった。

 お店の説明では、「子供連れのお母さんの財布でした。どうも子供さんが間違えてお母さんの財布を入れたようです。」ということだった。
どうにも妙な話で、「子供に財布を持たせていたのですか・・」と突っ込んでみたものの、説明は曖昧だったけれどそういうことで治めたい空気が読めて、お店に謝られるもの本意ではなく、「わかりました。これで結構です。」ということにした。
というのも、私自身の中ではとっくに解決しており平安の中にあるのだから・・。

 思えばお店にも迷惑な話だろう・・。近くのお店は私にとっても大切である。どんどん近くのお店がなくなって遠くまで出かけないとちょっとした買い物も出来なくなるということは、年寄りには大変な不自由であるから・・。
それでも、とうぶんは行きたくないなぁ・・って気分だけれど・・。


 たとえ、私たちの回りに悪しきものの罠が仕掛けられてあっても、悪しきものが十字架に勝利することがないように、そのすべての企みの向こうにある神の力に、どんなときでも安息することが出来るのだって・・そんな結論を得た。



神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます。(詩篇108:13)
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こわ~い出来事

2012-02-24 17:19:02 | Weblog


今日は、午前も午後も主にある姉妹方と、とても楽しく嬉しい時間を過ごして、うららかな日和・・ブラブラと気持ちよく近くのスーパーまで歩いて行った。出会う人毎に「良いお天気ですね~」なんて言いながら・・


ところがスーパーをグルグル回りつつ籠の中に商品を放り込んで居たとき、目の端に見慣れない黒い物体が映った。「エッ」と籠を見ると、真っ黒な財布がデーンと入っている。

一体何が起こったのか・・訳が分からないけれどすごく気分が悪くなり慌てレジに行って、「なぜ?私の籠にこんなものが入っていた。いやー気持ちが悪い」って訴えて財布を渡したけれど、どうにも意味もわからず恐ろしい。
レジの人は「あったって言ってあげて」と駆けて行ってしまった。

帰りに、レジでその時の人を探したけれど居ないし、店長も、見知っている人も居なかったので、その後の事は聞けなかったけれど悪意を感じ、とても気味の悪い思いをした。

「この世では、あまり脳天気であってはいけないなぁー」ってそういう意味の反省を少しばかりしている。
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服従

2012-02-21 19:16:48 | Weblog
 

 もう、委ねきっていてもなかなか寝付けなくて・・、それでもいつの間にか眠りに落ちていた。
日曜日、朝食をすませ家族の昼食の準備をして表に出ると凍てつく雪景色!

昨夜の悪天候という予報には平安はあった。主が命じられたのだからきっと行くことが出来るはず・・。
ただ、気遣ってくれる主人に「大丈夫、大丈夫」と言いながらも、足元の滑りやすさに少し怯えながら歩き出した。

足元から目を上げて、真っ白な山々や梢を見たとき、主がこの雪景色の意味に気づかせてくださった。この雪は、主が私に準備してくださった一つのしるしだってことに・・。
その時、車が音もなく近づいて来て御近所の方が「何処に行くの」と、駅まで運んで下さった。ああ、主の備え・・。

 私の生まれた日、雪が降っていて母は「雪子」という名を付けたいと言った・・
結婚の荷物が出る日も3月の雪が降った・・
洗礼を受けた日も雪が降っていた・・
そうして、今日を雪で覆ってくださった主。
主がご自身を現してくださったことを悟って、これから始まることに勇気が沸き、緊張が解けていった。



 主に服することができるのは、忍耐強い主のお導きがあってのこと。
疑い深い私の問いにすべてに答えてくださって、もう何も言えなくなっての服従だったから・・綿密なご計画で導き、すべてを備えて私を運んでくださる主。

事はニーの「権威と服従」を読んだときから始まった。それも、色々な経緯の中で貸し与えられた本だった。初めは飛びつき、自分でも買おうと注文したけれど手に入らなかった。
しかし、「代理権威」という言葉に対して、私の中で激しい反発が起こり本を放り出してしまった。

しかし、バレンタインデーに、長らく借りっぱなしになっている本をお返しすると共に、チョコレートを贈ろうと思い至って、いや、そうせずにはいられなくなって、取りあえず流し読みでもしておこうと再び手に取った。

読み出しすとやはり流し読みなどできなくなって、結局キリストの従順には言い逆らう言葉を失ってしまった。もし、あの時同じ本を手に入れていたら読まないままに返し、それで終わりだっただろうと思う・・。

「あなたも服従を学びなさい。」と迫られたとき、今の自分に何が欠けているのかはっきりと知らされた。服従する場を持っていないことは祝福の大きな欠けであること。謙る対象を持たないままの自分の危うさを・・。


 それでも、内に恐れや言い訳もあり、激しい戸惑いの中にあったとき、右の太腿が痛み動くことが辛くて困っていた。それで椅子に座って簡単なお祈りをした。
「そのことがみこころでしたら、この痛みを癒してください。」
立ち上がったとき、痛みはなくなっていた。まあ、初めから、内心こうなるだろうことに気づいていたのだけれど・・。

次に「では主よ。一体何処に行くのですか、もしAなら明日の朝体重を減らして下さい。」と祈って眠った。それは思いつきのような事だったのだけれど・・。
朝、体重計で見て驚いた。前日よりもきっちりと500gも増えていたから・・。
この時は笑ってしまった。そうして翌日量ると元に戻り、500g減っていたのだから念の入ったことである。

ギデオンのように用心深くみこころを確かめても、打てば響くように回答が与えられると、もう逃げる道はふさがれてしまった。


 しかし憐れみ深い主は、そのようなネガティブな面からだけではなく、死んで満たすことが出来る祝福をも黙示録から示してくださったことによって、とても前向きな気構えを与えてもくださった。

いざ具体的に従うに当たって、やはり私は「一度出た所に、どの面下げて行けるのか・・」そう思った。しかし、主が命じられたことを無視することの恐ろしさも、今までの信仰生活の中で身に染みて知っているのだ。

だから、一度電話をして根回しをしてからと思っていたのだけれど、その時電話はなぜかシンと音沙汰なく通じなかった。もう二度と電話はしないと決めた。

「主よ。ではいったいどのようにして行けばよいのですか」ふてくされるように主に聞いたとき、「わたしの教会へ、わたしの命令によって行くのだ。黙って座ればよい。」と知らされた。

「わたしの教会」に打たれた。それは確信を与える言葉だった。受け入れられたなら、そこは主の教会に間違いないということである。
行って黙ってマリヤのように座って聴けと・・それが主が置かれた私の服従の場であることに、やっと納得することができて私は安息した。静かな死のように・・。



教会のドアを開けるときには懐かしさ・・嬉しさがこみ上げてきて、「ただいま~」ってそんな感じで、「おはようございます~」と自然に声が弾んでいた。

すべての説明は、「『わたしの教会へ、わたしの命令によって行くのだ。黙って座ればよい。』と主に命じられました。」それだけだったけれど・・そんな言葉が、そのままですんなりと通じた!
祈りの中で待っていて下さった事を知り、温かい手に包まれたとき、主のお憐れみ、愛深い備え、主に服従することの甘さをまた経験させてくださった。

7年間はまるで昨日のことのようで、自然に交わり、軽口を言い合った。
「主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。」
教会の今年のみことばを知ったときジンと内に浸みて、生きておられる主に向かって私も心を合わせて礼拝した。

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導き

2012-02-17 20:46:03 | Weblog


小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。(黙示6:9~11)



だから、数を満たせと命じられた・・


「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」(ヘブル5:8)

だから、行って学べと命じられた・・


「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)

ハレルヤ ハレルヤ
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火曜日に「バプテスマのヨハネ」

2012-02-14 14:30:16 | Weblog


イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。人々は、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」と言っていた。(マルコ6:14)

彼の奇跡を一度も経験していないのに、なぜか人々はイエスさまの力を見て、こんな事が出来るのはバプテスマのヨハネだと言っている。
人は見ても信じないこともあり、見ていなくてもその力を信じていることがあるのだ。

多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。
そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。(ヨハネ10:41~42)

彼はみごとにイエスさまの道ぞなえをしたのだ。はっきりと書かれていた。


今日、火曜日の人とみことばを一緒に読んでいて次々と気づきがあたえられて行った。あらかじめ備えるのはもちろんだけれど、一緒に学ぶ間に開かれて行くことは多い。
彼女は新しい聖書を繰るのに少々手こずりながらも、四福音書からバプテスマのヨハネの箇所を共に読んだ。

「大変だけれど、こうして使い込んで行くと開きやすくなるから・・」
「いいよ、こうして沢山の所から読むとよくわかるから。一人で読むときも、何度も戻ったりしながら、毎日少しずつ読むことにしているの。創世記の初めは何度読んでもすばらしいね。」

聖書を喜んで居られる姿ほど嬉しいことはない。
「ヘロデはね、とても喜んでみことばを聞いたけれど、聞くだけだったからそのみことばは彼にはなんの助けにもならなかったでしょう。

みことばは聞くだけでは役に立たない。それを行うときにいのちの冠を受ける御国にいたるのよ。素晴らしいね、いのちの冠を頂こうね。」
彼女はとっても嬉しそうに「ほんまやな。」って言われた。
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バプテスマのヨハネを思う

2012-02-13 16:26:17 | Weblog


 曇天を見上げながら洗濯物を干しているとき、「ホーホケキョ」って嬉しいウグイスの初鳴きを聞いた。
「エッ」って、こんなに寒いのに聞き違いかと、耳を澄ましていると再び「ホーホケキョ」はっきりと聞き取ることが出来た。

まだまだその声は遠いけれど、だんだん近づいてきて、やがて裏山でも鳴くだろうと春を感じて胸が躍る・・
毎年のことだけれど、辛い冬を絶えて堅く守りの姿勢で暮らしていた身が、ホッと一声でほころびるような・・心の琴線に触れる声。



 バプテスマのヨハネに最近思い巡らせている。
イエスさまが、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とおっしゃった人。
救い主の前に道を備え、死んでそれを完成した人。

彼はひたすらに主を伝え、不法はあくまで不法だと言い張った。それで殺されたのだけれど、その死は神様のご計画の通りだったのだと思う。
まさにみこころどおりに生きて、みこころ通りに死ぬことは、キリスト者にとってなんとうらやましい生涯だろう・・。

彼のこの世での無残な終わりが、福音書には実に淡々と書かれている。そう、淡々とみこころを歩めることこそ何よりの幸いなんだ。
イエスさまのこの世での終わりも無残だったもの。

ヨハネは、神様の御声を近しく聞いただろう「よくやった。良い忠実なしもべだ」って!
こんなふうに言われたいなぁ・・どうか主の助けによってこの道に導いて下さいますように。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」ピリピ1:21
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日常 (付き添い、寄り添い)

2012-02-11 00:21:47 | Weblog


最近は本当に次々と雑用が多く忙しい。
でも、今日のことは決して雑用ではない。主人の病院の付き添い。朝、主人が真面目に「忙しいのにすまんな。」なんて言うから、「何いうてんの」ってちょっとムカッと来てしまった。「なにをしょうもない芝居がかった台詞を・・」そんなふうに思えて・・。

私は、とことん芝居がかった台詞が嫌いや!
テレビでもそんな臭い台詞はゾッとするほど嫌い。「言わずもがな」って言葉知っている?知らないだろうなぁ・・って思ってしまう。

夫が病めば妻が付き添い、妻が病めば夫が付きそう。当たり前なことであり礼は言わずもがなでしょう。
言ってしまえば関係が変わるのよ、他人行儀って関係に・・。夫婦は一心同体であり誰が自分の体をかばうことに礼を言うか!
まあ、そんなことで腹を立てても主人に通じるはずもなく、車の中ではできるだけ機嫌良く話して誤解を避けた。付き添うことに不機嫌だと思われるかも知れないと気づいたから・・。

そのような事柄も一つのストレスになるのだけれど、昨夜テレビから小耳に挟んだこと、
「イライラも、ウキウキも、喜怒哀楽はエネルギーを消費するからダイエットになるらしい・・」ってこと。
だから、今日はイラッとする度に「ダイエット」って思うと、ちょっとウフッと前向きな気持ちになれて、そんな自分自身が可笑しかった。怒っても良いことがあるんだって・・


そんなことはさて置き、先日から病院はインフルエンザで大変なことになっており、検査の結果をまだ説明して貰えてない。
看護婦さんが「インフルエンザが移るといけないので、先生が『大丈夫だということを取りあえず伝えてあげて』とおっしゃっています。」と教えて下さったけれど、今日は薬も無くなったので、どうしても説明を聞いておきたかった。

だから、車の中でひとり祈った。
医院に着くと次々と人が出てこられて、やはり混んでいる・・と思ったけれど、入れ違いに殆どの方が帰ってしまわれて、待合室はガラガラになった。

すぐに呼ばれ、先生は病気の説明から初めてどのように進行するのかと図に書いて説明され、現在の主人の病状も検査結果から示して、懇切丁寧に「大丈夫」の意味を説明して下さった。「この病気で死ぬときは楽ですよ。」なんて、最後に説明付きで話してくださって、私は思わず笑ってしまったけれど、後で医師の労りがじわりと浸みた。

そう、私たちくらいの年になると「楽に死ねる」ということは、実に目出度いことで笑えるのだ。その先生は若いけれどそのことを知っていて下さる。それは私たちにはひとつの安心となった。

帰りの車の中で「感謝だね。好きなことができるし、何でも美味しく食べられるし、痛くも痒くもなくて・・」ってちょっと二人で感動して、いっぱいの「ありがとう」を心の中でイエスさまに言っていた。




一晩寝て、どうして主人の「悪いな・・」という言葉にあんなに反応したのか・・その理由にやっと気付いた。
最近の主人の弱気がその言葉に出ていて、私の心の中には「どうしてこれくらいで弱気になるのよ~」って、そんな主人の弱さを、そのままに受け入れられない我が儘があったんだ・・ってこと。
皆が自分と同じように考えるわけではないのは当たり前なのに・・それに主人の弱気と、その姿をそのまま受け入れられなかった私は、似ているのだろう・・同じ弱さを持っているってこと。
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聖書を持つこと

2012-02-09 10:55:27 | Weblog


 先週、火曜日のための準備を終えて、これで準備万端相整いまして候・・なんて思っていたところ、いざ火曜日の朝の印刷という段になって、ディスプレーが映らないというアクシデントが起こった。

これでは私にはお手上げ。pcを強制終了するだけで精一杯。
まったく何年使っていても、決まり切った動作以外は何もしないという、ネガティブpcを決め込んでいるんだから・・。そもそも息子のpcなんでね、いくらかの遠慮も・・いや真相は面倒なだけ。

 さて、どうしたものか・・と思案する。「今日は具合が悪くなりまして・・また来週ね。」という理由は出来たけれど、来週がもし来なかったら、どれほど後悔しなければならないだろう・・。年寄りには明日はどうなるかわからないのだから。
以前いろいろな事があって、出かけて行くことに「気が進まな~い」そんな我が儘を主に申し上げていた時、「『御名があがめられるために』せよ。」と言われたことを思い出した。そうして今「礼拝しなさい」と・・。

「ああ、そうだ!」って、それは私自身が主を礼拝させて頂けるチャンスだった。共に聖書を読み、主を賛美して感謝のお祈りをすることにはなんの問題もない。
何時もは、聖書箇所を拡大して印刷をしたものを持って行っていたのだけれど、その日は聖書を2冊持って出かけた。

聖書を渡してみると彼女は眼鏡も掛けずに、不自由なくスラスラと読んで居られた。終わってから聖書を購入されるようにおすすめして、早速注文する。
どうやら私は取り越し苦労をしていたみたいだった。お年なので字が小さくて読めないのではないかと・・。
届いた新品の聖書を持って行くと大変喜ばれて、「縦書きのほうが読みやすくて嬉しい。本を読むのが好きなので、これからは楽しみに読むわ」といわれた。

今まで人に聖書を差し上げたり、勧めて買って頂いたけれど「本当にこれで良かったのか・・」という思いが残ることも多く、彼女には「時」を待っていたのだけれど良いチャンスが与えられて本当に感謝。
最も大切なことは自ら求めて聖書を読むこと。求める者に主が導いてくださらないわけがないと思っているから。

 聖書を紹介した方との交流が一つの節目を迎えるように途切れてしまったり、なんとなく疎遠になって行くことがある。決しておつきあいがなくなるという事ではないけれど・・、もっと曖昧に主の時が消えて行くことがある。

聖書はイエスさまに導く道の光り、それを持っておられるのだけれど今はどうなっているのだろう・・。持っているだけではただの一冊の本に過ぎない。掲げただけで効果のあるアイテムではない。上に手を置くようなギシキに用いるべきものでもない。みことばに人生を賭けて受けるべき、イエスさまのいのちが支払われている救いの御言葉なのだ。


 今日のみことばの箇所では、弟子を受け入れず、弟子が足の塵を払って出て行った地は、「ソドムやゴモラの地よりも・・その裁きは重い」とイエスさまが言っておられるけれど、救いのラインがどこにあるのかは私には量りようもない。

「わたしの弟子・・水の一杯でも飲ませるなら・・報いにもれることはありません。」とも書いてある。確かに私はそのとき、彼らから親切を受けていたのだから・・望みがあるのではないかと期待も残っている。この報いが世的な一時の祝福ではないことを願ってもいる。
きっぱりと語っていても、みことばが腹に苦みを残し続けることがある。

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モノローグ (遣わされる者)

2012-02-06 17:55:08 | Weblog


こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。(マルコ6:12~13)

イエスさまがお弟子を遣わされたことが、なんだか突然な感じがした。彼らの備えはイエスさまと一緒に居たということと、イエスさまがお与えになった霊的な権威だけであった。
全員、着替えや重ね着のための下着も持たず、お金も袋も持ったずに、彼らはほとんど裸一貫で遣わされて行った。

人から出たもの、人が備えたものが何もないということが聖く思えた。宣教は、主にだけ寄り頼むことで成し遂げられる神のわざである。働きのためのすべての必要は行く先々で満たされ、弟子はそれによって養われるべき者なのだ。
そのことは、全責任を主が負って下さっているということでもある。

マタイには「靴も杖も持たず」と書かれているけれどそれは物であり、マルコで言っている「靴は、はきなさい・・杖一本」というのは、主を証するアロンの杖であり福音の靴のことなのだと思う。

「イスラエルの家の、失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイ10:6)と彼らの遣わされるところが書いてある。
その宣教の働きは、まず第一に誰のためのものであるかこの言葉でよくわかる。それは、神様のご計画を成すためである。
神のご計画に人が応答するとき、弟子たちはそこに留まり、イエスさまのわざが行われたのである。

彼らを受け入れない家は、福音の靴跡を残さず塵のように払って去って行った。彼らにもうその地のことで、思い煩う必要はないということだと思う。
弟子には伝える責任の解除であり、救いの計画はそこで絶たれたのである。人には自分の結末を選択する自由が与えられているのだから。

お弟子は12人すべてが遣わされた。その時、弟子の誰かが「私は、そのような役目を果たすには相応しくないのではないか・・」と考えて、ペテロに「あなたはイエスさまを最も良く知っているのだから、この働きのための教育をしてください。」などと依頼し、ペテロがそれを承諾したなら、彼はペテロの弟子となり、ペテロはイエスさまの弟子を盗ったことになるのではないか・・そんなことを考えた。

福音を伝える責任は弟子すべてに有り、弟子としての必要のすべてはイエスさまが直に備え導いてくださる。
私もイエスさまの弟子でありたいと思う。すべてを知っていて下さるイエスさまだからこそ、どんなことでも出来るのだから。

この時のお弟子たちの霊の状態はわからないけれど、すべての必要はイエスさまによって満たされ、働きのための権威が与えられていたことは事実だ。
彼らがイエスさまのわざを行う事が出来たのは一つの事による。イエスさまの道具、通り良き管であったからであり、イエスさまだけに彼らが依存し、人間的なものには頼らなかったからだ。

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