石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

モノローグ (マタイ5章)

2012-01-28 11:34:46 | Weblog


このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

マタイ5章で最近立ち止まっている。
「あなた方の光り」とは何だろう・・「良い行い」とは何だろう・・って、思い巡らせていた。「それによって人々が、天の父をあがめる」ようなこととは・・。
そして今朝、私たちの光りとは、そりゃあ救いの喜びではないか・・って、やっと気づいた。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5:3~10)


どうにもならない自分と言う者の悲しみ、世にあるもろもろの悲しみも、わかり合えない人の悲しみも、主の十字架を見上げるときに慰めを受けることができる。主はあがなってくださったんだって・・。
みことばは生きて働き、暮らしの中でとりなし、和解し、助け合うことを導いて下さっているから。神からも人からも慰めを受けることが出来る喜びに変えて下さった。

柔和が地を相続するなんて驚きだけれど、そこにある主の約束は確かな望み。地の塩は柔和でよいのだよとの慰めを受ける。

自分の中にない義への渇きもイエスさまにあって満たされ、十字架を見る時に安息することが出来る。
その神の義ゆえに迫害されるほどの生き方が出来るならなんという喜びだろう。

イエスさまは「目には目を・・」という生き方を否定された。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」って・・。
でも、「目には目を・・」それが人というものであり、自分を愛する者を愛するのが人である。敵のために祈る・・それは十字架のイエスさまの祈りではないか。

律法をまっとうすることが出来るのはイエスさまだけ。だから、イエスさまにこの身を避けることによってのみ完全であることが出来る。そう、イエスさまにあって完全であるとされたのだ。

輝かせる光はひとつだけ。イエスさまにあることの喜び、解放の喜びなんだ。
輝け!花婿の財産によって生かされる永遠のシンデレラ!
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賛美 (水仙)

2012-01-27 15:03:39 | Weblog


冬枯れの野に 水仙が咲いていた。
雪を被っても 可憐な花はシャキッと元気、

「頑張っている?」
いいえ! 甘い香りが漂っていますよ。

神様が備えてくださった分を生きているものは、 
何時だって幸せそうです。

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「もう、他に何も要らないのです。」

2012-01-26 13:43:54 | Weblog


主人や息子が仕事に出かける姿を見送って、そっと主を見上げる。「ありがとうございます。」って・・それは毎日毎日であっても同じように感動している。

私たちには祝福を受けるべき何の理由もない。何の権利も持たない。ただ、ただ主の一方的な憐れみに拠ることだと、一切の宗教的な行いを捨てて、身に染みるように分かったこと。


 山のような洗濯物を、うっとおしい空を見上げながら干しているとき、「主よ。私には願うべき何の資格もないことを知っています。でも・・晴れたらどんなに嬉しいことでしょう。」そんなふうにつぶやいていて、太陽の光りを見たときの嬉しさは心を振るわせる。


 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)
最近はいよいよ、このみことばの慰めを深く感じる。
自分の中には何もなく、文字通りの心の貧しい者であると認めざるを得ない日々だから・・

霊は、主の憐れみの豊かさにある。生活の必要も主の恵みにあって、何一つ不自由する事もなく将来への心配もしてはいない。
ただ、世に対して、また自分自身に対しては最近はとみに「貧しいもの」だと意識することが多い。


 かっては楽しんでいた編み物や、下手ながらも作ってきたパンにも心が動くことなく・・。買い物にも仕方なしに行くくらいで、遠くまで出かけて行く気はしない。

先日、春物のジャケットの新しいものを買おうとしたのだけれど、選んでいる間にだんだん面倒臭くなってしまって・・、「寒さをしのぐためには今持っているもので用は足りるし・・かっこの良い物と思っても、それは単に人目に拠ることで・・」なんて、「それを言っちゃお仕舞いよ。」と一人で笑って止めてしまった。そして、それっきり・・。

 心の狭い私には、豊かな心で人を受け入れるなんてとても無理で、人間関係が広がっては行くこともない。
豊かな感性も興味もない。小説類を読んでみても、聖書を読んで得られるほどに感動するものなんかないもの・・。一冊のみことばだけですべての用は足りてしまう。
「それだけで良いのか。」
「そうです。主よ。もう充分です。」
主は初めからそんな老人を知っていて下さったのだろう。後はみことばの成就を見るだけ。いや、すでに見ているようにも思う・・。
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日常 (掃除機のこと)

2012-01-23 11:52:52 | Weblog
 掃除機がヒューヒューと高い音を立てて、あまりのうるささに我慢出来なくなった。11月に修理に出したばかりなのに・・、やはりこれを買ったことは失敗だったのかとメーカーへの不信感が募っていた。

ふっと、この音は笛みたいではないか・・と、笛なら何かが塞いでいるから?ホースの先を電池の明かりで照らし、水平に置いて片方から中を覗いて見ると、ゴミが詰まっているようだった。

よく見るとホースの外にも突起が出来ていて、何かが突き刺さっているらしい。苦心惨憺して取り出してみるとそれは爪楊枝だった。すべての原因はこの一本の爪楊枝の仕業であることがわかった。取り除いた後はすべての問題が解決していたから・・。

 主人は爪楊枝が落ちていると、とても五月蠅く注意する。「刺さるといけない」って・・でも、床の爪楊枝が刺さるわけ無いでしょうって・・、私は心の中でいつも反論していた。ああ・・でも、刺さっていた!
修理にさえも出す必要はなかったのだろう・・。サイクロン式では吸い込む空気の量によってゴミが上手く落ちるようになっているのだから・・主人とメーカーにごめんなさい。
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老いた日の選択

2012-01-20 16:01:39 | Weblog


 高血圧などの持病のある主人は通院して7年ほどになる。初めは月に2回ほどだったけれど、1年ほど前からは、ある数値が悪くて週に2~3回の点滴を受けている。

医院は車で3、40分ほどかかり、通院が心配で近くの医院を紹介して下さいと先生に話したこともあったのだけれど、主人は慣れた医院を変わることに気乗りしない様子だったので、祈りつつ時を待とうと思っていたのだった。

それでも昨年末に「もう1年も経つから、近くだったら負担も少なく、運転の危険も違うよ。」と勧めてみたのだけれど、「来年になったら・・」なんて主人は承知しなかった。


 今年になると検査の結果の電話が入る日に「もし、まだ数値が悪くて通院が続くようなら、先生に移ることを相談してもいい?」と聞くと「そうしてくれるか」と以外にすんなりと受け入れてくれた。

医師からの電話に、そのことをお話しすると「そちらに私の親しくしている先生がおられるから、そこだったらどうですか」と言ってくださった。
こんなにすんなりと事が運ぶのかと驚き、すべてを備えていて下さった主に心から感謝した。


 新しく尋ねた医院ではとても親切にして下さった。
ただ、ある治療法についてちょっと厳しく思える口調で、「どうして治療を受けないのですか」という質問を受けた。

「一年前に先生からお聞きしたとき、主人はとても元気でいますし、年のことも考えて私がお断りしたのです。」と、首を洗って差し出すような気持ちで答えた。
そう、確かに私は勝手に断ったことを、「本当にそれで良かったのか・・」と内心気にしていた。主人に話すことは、彼を不安にさせるだけのように思えたから・・。

でも、年を取っての心身の元気はとても脆いもので、今までと違う僅かなことが原因でガラッと様子が変ってしまうものである。
まして、副作用が予想されるような治療は極力避けたい。一日でも多く普通の生活、今まで通りを守ってあげたいと思っている。それが年寄りにはどれほど大切なことか・・。


 今日、機嫌良く医院から帰ってきた主人が話すには、点滴の後で先生に呼ばれ、
「先日の治療法について、大学に行って友人とも相談をしましたが、年から考えて、今元気にしておられるのでやはりこのままが良いでしょう。」と言われたとのことだった。
主人もそのことに納得して来たのだった。

そのように覚えていて下さった医師に感謝もし、私が一人で負ってきた重荷を取り除かれて心からほっとした。これで良かったんだ・・。

 主は本当にすべてをご存じ!温かい心遣いに感謝でいっぱいになった。
そう、いのちは主のもの。今日の普通な時間も主のもの。
この世にあっても主の守り、赦しに包まれて何気に刻まれる時・・この今が嬉しいなぁ・・。
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交わりの中で (主のつわもの)

2012-01-19 10:44:04 | Weblog


昨日カオリンさんとお話して居て、「手や足を切り捨てて従うことも素晴らしいことじゃない。」って言われて、「ああ、そうだ!」ってとても感動した。捨てた数は主への告白・・
五体満足で従う以上に満身創痍になるほどにすべてを捨てて従うことも、主の強者なんだろうって・・
その後、ペテロの言葉を思い出した。

ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。(マルコ10:28~30)


でも、彼は次は失敗をしている。

ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネ13:37~38)


捨てさせて下さるのも主であって、主の赦しと守りの中でこそできること。すべての良い行いには、その源が主からであることが不可欠なんだと思う。
主から出た事には、その時には幾ばくかの痛みを覚えるけれど、切り捨てた後に痛みが続くことは一度もなかった。主は癒し主なのだから・・。

また、本当に失われたままで終わったこともない。主にあって家族を捨てたこともあったけれど取り戻して下さった。主は捨てる喜びをも経験させてくださっている。
ペテロのようにちょっと得意げに「御覧ください!」って話せることはどんなに嬉しいことだろう。
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おわび

2012-01-18 10:57:25 | Weblog


先日「自分の十字架を負うこと」にコメントをくださって、聖書箇所の間違いを指摘して頂いたのですが、私の思い込みでその指摘に気づきませんでした。
指摘されてもなお、マルコと書いたはずだと思い込んでいたのです。

ご指摘下さった方に心からお詫びします。今日親しい方からもう一度ご指摘頂いて、やっと自分のあやまりに気づきました。
どうぞ、未熟でちょっともうろくしているような者ですがこれからもよろしくお願いします。

今回のように、なかなか気づかないかも知れませんが、見捨てないで監視し導いて下さいますようお願いします。
私が誰の目にもふれるようにと、こんな形でブログにすべての気づきを書き込んでいるのは、出来るだけ多くの方に見張って頂きたいからでもあります。

きっと、主がその方の背後にいてくださるのだと思って、安心してお願いしているのです。このように指摘して下さる方を主が置いていて下さいますから、これからも主が気づかせて下さったことを、安心してどんどん書いていきたいと思っております。

よく失敗をしますのに、懲りずに石ころを覚えて下さってとても感謝しております。
また、勝手に親しみを覚えさせて頂いています。支えていて下さってありがとうございます。
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モノローグ (ゲヘナのこと塩のこと)マルコ9章から

2012-01-17 18:31:46 | Weblog


 イエスさまさまがお弟子たちにゲヘナの話をされた。とても厳しいお言葉だったので思いを巡らせていた。ゲヘナの話なんてほとんど聞かないけれど・・。

もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。

もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。(マルコ9:43~48)


 イエスさまを知っており、救いの中に居る者がゲヘナに落ちることがあると言われているのだ。こんなにはっきりとイエスさまが語って居られる・・
イエスさまに出会っても、なをつまずいてしまうことがあるのだ。十字架でもあがなえないことがあるということ。

すでにあがなわれている者、主に在る者をつまずかせるものとは何なんだろう・・って考えていた。
けれど、それは自ら選択しているのだろう。主の愛に居る者を主から引き離すことなど、なにものにもできないのだから。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:49~50)


 火によって塩けをつけるって・・火って聞くと神様の裁きを思う、最大の裁きは十字架。私は十字架を通ってすべてを新しく造り変えられた・・そう、塩気を付けられたのだ。
罪の重荷の中で朽ち果てて行く生き方から、救い出されて聖くされたのは主の十字架。

私は魂に生きる者から、霊によって生きる者へと変えられた。塩気を保つとは、生かされた霊の内に留まりなさいと言うことだと思う・・。
霊の内に在るならどんな環境ででも、伸びやかに生きることが出来るのだ。

また私が意識をしてもしなくても、内にある塩分は回りに浸みて行くだろう・・キリストの香りが・・だってそれは、人の努力などで取り繕うことが出来ないものなのだから。
不信仰の世にあっても、そこに主の意図を感じて和合して暮らすこともできるだろう。


 恐れるべきものは、外ではなく自分自身の内にあった。
世に向かって伸びる手、それは切り落とさなければならない。世を慕ってふらつく足、それは切り落とさなければならない。世に目を奪われる時えぐり出さなければならないと主は言われる。いのちを守るために。

でも、これらの誘惑に対する主の守りはちゃんとある。
絶えずみことばのパンを食し反芻を繰り返している時は、思いも静かに主に向かっている。
そんな時は世の誉め言葉も、目の欲も、私の興味を引くことはない。
この守りは堅固な砦であり、主の羽ぶとんにほかほかと温もっているようなもので、虚しく移りゆく世のものよりも、このほうが良いに決まっているもの。

こんなふうに主に身を避けていることが塩気を保つってことなら、なんとまあ幸いなこと。
御父の愛が、イエスさまの愛が、私たちに満ちているではないか・・
いつまでも、いつまでも永久までも主に居らせて頂こう。


世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。(Ⅰヨハネ2:15)

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(Ⅱペテロ1:4)
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忙殺?いいえ、生きている!

2012-01-13 21:23:44 | Weblog


 お正月が開けてから、この世のことでなんとまぁ忙しいこと・・。けれど大丈夫、イエスさまはその日その日の必要を満たしていてくださり、私は一日分ずつこなして行けばよいのだということを体験していた。

ある時は丁々発止とやりあったり、ある時は懇々と説明させていただいたり、また多くの人の中で結構自由に楽しくふるまったり・・、今日は命令口調にこき使われたけれど、この世のどんな場面ででも、私らしくそこに居ることができた。

この数日は、その中の一つのことだけでも神経も使うし、うんざりする内容なのだけれど、なぜか思い煩うことはなかった。
だた、主に信頼して臆せず前進するだけ・・。
私はイエスさまの中に居り、私の中にイエスさまが居て下さるということをずっと味わっている。

罠に嵌ったと感じたり、愚かさや失敗を突かれる場面もあるけれど、そんなことは主の備えの前には、毛ほどの支障もないのだと私は信じている。
本当に、主よ。感謝します!
でも、そろそろ、ぼぉっとしていたい・・。


イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。(マルコ9:19)

このような日々にあって、イエスさまのおことばに思いを巡らせていた。
そう、世に信仰はない。からし種ほどの信仰もない。たとえイエスさまにお出会いしたとしても、私たちの内に信仰はない。弟子の中にもない。
では、イエスさまは今もこのように言っておられるのだろうか・・と。

いいえ、今はそうはおっしゃらない。
今はイエスさまの信仰を頂いて、ある時小さくても嬉しい実を見せて頂くことがあるではないか、だから・・

「いつまで・・」とおっしゃったその日は、十字架までなのではないか・・。
イエスさまは不信仰をも十字架であがなってくださり、今、主により頼む者は聖霊の助けによって、主の信仰を頂いてそれを生きることができるのだから・・、

イエスさまが十字架を満足なさった一つのことは、ご自身がすべてを成し遂げ、完成してくださったことによって、もう、人の不信仰を嘆きなさることはなくなったからではないか・・そんなことを思い巡らせている。


しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
(イザヤ53:10~12)
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「彼の言うことを聞きなさい。」

2012-01-09 14:41:56 | Weblog


「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」父なる神様の、痛みを伴った愛のお言葉が切ないほどに心に染みる。

ひとり子イエスさまを賜った私たちは、「イエスさまに聞き従います。」と告白し続けたい、本当にそう思う。
そうして、備えられた御救いを受けさせて頂きますと・・。

たとえ失敗だらけであっても、誰かを通してではなく自分の目で聖書を読み、自分の足でみことばを生きて行きたい。
みことばには、個人に対して直接にささやきかける言葉がある。そのことばは自分で聞かない限り聞き取ることはできないのだから..それはそれはとっても勿体ないことなんだ。

御子の犠牲をもって与えられたみことばは親しむほどに甘く、関節と骨髄の分かれ目を刺し通される時でさえも、主のハラハラとするほどの近しい気遣いを感じることができるのは、なんと素晴らしいことだろう・・。

いのちを育てすべての必要を満たすみことばは、リアルに生きて力があることを、弱い者ほど暮らしの中で経験するチャンスは多い。それも主が備えられた助け。
どれほど暗い世にあっても、みことばはいよいよ光りを保ち近づく者の目を守ってくださるイエスさま!

みことばは神の愛を流す血管のよう・・どうして人任せにすることができるだろう。
私に向かって語ってくださる主との交わりをダイレクトに味わいたいから、私は自分の聖書を自分の目で読む。
このことが主によって赦され、守られていると言うことはなんという幸いだろう!なんという憐れみだろう!
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