石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「鯛とったど~」って気分

2011-12-31 21:37:47 | Weblog


 大晦日の今日は良く晴れた青い空、ほっかりと暖かくて、大雪の去年とは大違い。
暮れもなんとなくまったりとした心持ちで過ごしていた。それでもお重は早々に出来上がって、後始末の台所の床磨きも終わってホッ。

あまり早くに済んだので、お正月にお酒が全くないのも何だから・・と散歩代わりにスーパーまで歩いて行った。
田舎町の大晦日は、まだ6時頃なのにもうシンと静まりかえっている。

半月が道案内のように前を行く。家々には松飾りが大晦日を演出している。我が家では松飾りも注連飾りも、何時からか絶えてしてはいない。

 お店はすでに閑散として棚の商品もほとんど空になっていた。何かめぼしい物があったら買っても良いかなって思ってきたけれど・・、取りあえずお酒のパックの小さな方を籠に入れて、魚売り場を覗くと何と鯛が色々並んで居た!しかも半額!中でもひときわ目立つ美しい香川産をゲット!ギリギリ目出度く釣り上げた。

息子が好きなので鯛は必ず買うのだけれど、今年は早すぎると思えたり、養殖ではないかと思えたりで買いそびれていた。まあ、いいか・・って思っていたのだけれど。
ああ、嬉しい!ちゃんとお取り置きして下さって居たんだ。私の愛するお方がね、嬉しいのはそのこと。


 今年は何かとのんびりと過ごさせて頂いていた。嵐の中で主の御翼に温々と居らせていただいていた。
それは、本当に申し訳ないことだけれど、それしか私にはできないもの。主に賜るものを良いことも悪いこともそのまんま受けるだけ。母の乳だけで生きる赤ん坊のように・・。

主に話すことはいつものことだけれど、熱心に祈る・・でもなく、聖書は好きだけれど権威有る方に学ぶのでもなく、教会にも通わないので何の働きもなく、ただ、主の温もりの中に居らせて頂いた日々。

みことばは主から口移しのように、世の空気に触れることなくスウッとこの身に浸みてゆく。その恵みの中に身を浸して、私には嵐の世と隔絶したような穏やかな年だった。

主は、箱舟の戸を外から閉ざして下さる。
ノアには、外の阿鼻叫喚は耳に入らなかっただろう。主の備えて下さった動物たちの鳴き声に守られて・・。
今日に続く明日も、明後日も同じこと。楽しい主の備えの中に居らせて頂こう・・。
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モノローグ (私は小犬)

2011-12-26 18:22:57 | Weblog


イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。(マルコ7:24)口語訳

 イエスさまも人に会いたくないと思われたときがあったんだ・・、パリサイ人や悟りのない群衆、なかなか分からない弟子に疲れておられたのかなぁ・・。

「娘から悪霊を追いだして下さい。」異邦人の女が懇願した時、約束の民ではないとは言え、主のお言葉はかってなく冷たかった。

イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。(マルコ7:27)
「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」
「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」(マルコ7:29)口語訳



「じゅうぶん」とは何を満たしたのだろう・・と思った。「充分、粘りました」ではないだろう。自分の願いに固執する者に、主が聞き従わなければならない理由は何もない。
それは、イエスさまのご真実なご性質ゆえに、ご自身に信頼する者を愛せずにはいられないお方だと、主を「知って」ひれ伏す女の礼拝が受け入れられたのだろうと思う・・。

 
 また一方で、この時イエスさまのご機嫌が悪かったのかな・・なんて・・。
イエスさまはいつでもニコニコとして、何でも「ハイ、ハイ」と聞かれる、そんな愛のロボットのような超人ではないんだって・・、

それほどに、完全に人と成ってくださったのだ。体も魂までもそっくり人であられたのだと・・そのことが近しく、嬉しく思う。
疲れや葛藤や悩みも知っていてくださる主。

 
 それにしても小犬とは・・ああ!これは私のことなんだ。
異邦人であって、無駄飯を食うだけ何の役にも立たない小犬。可愛くさえもないからペットとしての役にも立たないだろう・・。

でも私は今、主の食卓にいつも主の家族のように居らせて頂いて居るではないか。
食事をし、団らんの席に居らせて頂いているではないか・・大きな顔をして座って居るではないか!

それは主のなさったこと・・。主は引き上げ、お側に置いて「アバ父」の家族としてくださった。何の資格もない者を・・。


 姉妹と話している時、「メフィボシェテなんだね」と言われた。
そう!そうだね。
仇の子であり、足なえ自分では何処にも行けない者、隠れて生きてきた者を、惜しんで探し出し運んで王の食卓に座らせて下さった。

実は、誰だって主の食卓に座る資格なんかないんだ・・。
でも、主はパンを与えたいと、豊かにあまるほどに与えたいと願って招いて下さっている。
「テーブルの下のパン屑を・・」いや、毎日、毎日豊かな宴会に与っている!
今日も、じわりと味わうみことばのパンはこんなに甘い・・。


「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
・・・
この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。」(ヘブル6:17.19)
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贈りもの

2011-12-25 20:57:31 | Weblog


昨日は、思いも寄らない素晴らしいプレゼントが送られて来てびっくり!
その、小豆島のオリーブ油を一滴指の傷口に落とすと、堅くパックリと割れていた傷口が、たちまち柔らかくなって傷も小さくふさがれていった。

ズキズキとした痛みが止んだとき、長い時を掛けて準備して下さった贈り物に、魂までが柔らかく解かされていくようだった。そう・・痛んでいたんだ。

真っ赤なカードに Merry Christmas!
ピンクのカードに「お誕生日おめでとうございます」って書かれていた。
そうして、オリーブ油が準備された次第も書かれていた。何ヶ月も前から用意してくださっていたんだってことを知った。

すると突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

そう・・朝しみじみと味わったみことばも書かれていた。

「御心に適う人」臆することなくみことばに安息出来るのは、一方的なイエスさまの恵みなんだって・・朝、喜んで感動したのだった。
御子イエスさまという、神様からのプレゼントへの喜びだった。

「姉」じゃなくて、「あねさん」が良いって我が儘言ったから、いちいち「姉(あね)さん」って書いてあった。
そんなつまらない我が儘をそのまんま受け入れてくださる方の愛は、

「イエスさま。あなたが下さったのですね。」
病んだ指に染みこんでいったオリーブ油のように、やわらかな愛を経験させてくださった。
「主よ。私にもあなたの忍耐強い愛を賜りますように・・。」

12月生れが今年は嬉しいと思った。
71回目の誕生日に初めてしみじみ感謝だって思った。

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」
詩篇が静かにあふれてきた。
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イエスさまの怒り

2011-12-22 10:01:17 | Weblog


パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』(マルコ7:5~7)


 手を洗って食事をすることは日本人ではごく当たり前のことである。どうしてそれが悪いのか・・パリサイ人は宗教に熱心で、十分の一を捧げ、絶えず自制して過ごし、それが人生の殆どを占めていた。

それは手を洗うことが悪い事なのではなくて、それを神の言葉に付け加え同格に扱ったことにイエスさまの怒りがあるのだ。
聖なる神の言葉に、次々と人の賢い言葉、良いと思う言葉を重ねていったパリサイ人。

イエスさまは、イザヤの言葉を「そのとおり」と肯定された。
それは、みことばに人の言葉を付け加えた者の礼拝の全否定である。

 「清濁併せ飲む」と言う言葉があるけれど、
聖いものを分ける旧約聖書の「聖絶」は、すべてを殺す凄絶な殺戮である。それを読むとき人は嫌悪感を抱く。
しかし今、「拝んでも無駄である」といわれる主の言葉は、もっと恐ろしい滅びであって、それは永遠の滅びであり、聖絶された人の数よりも遙かに多いことだろう・・。しかし、人はなぜかそのことには思いが至らず恐怖することもない。

聖なる神の言葉に人の言葉を付け加えることは、その言葉の内容とは無関係に汚れであり罪である。
どのような言葉も人より出たものはすべて汚れている。聖いものは神より発したものだけであり、それを人が適切か良いかなどと判断することはできない。
人には神の御思いを知ることは出来ないから、聖霊の導きによって語る他なく人の判断は汚れを持ち込むことでしかない。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20~23)

神の言葉を空文にする、それは今では十字架の完成度を人が量ることだと思える。
「平安があるように」とすべての必要を備えられ、信じるだけで完成された十字架に、次々と言葉を付け加えて「平安」を奪ってゆくことをイエスは怒られる。


ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(Ⅰペテロ2:1~2)
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杖だけ持って

2011-12-17 14:28:24 | Weblog


それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」
また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。(マルコ6:6~10)


 遣わされた弟子たちは、遣わされるための特別な教育も訓練も受けては居なかった。聖霊のバプテスマもまだ受けていなかった。長所も短所もあるままに・・。
けれども彼らはイエスさまと一緒に居た。遣わされるための大切な条件はイエスさまと一緒に居たという事実だけ。

遣わされた者が常に手放せないのは、主に在ることを証しする一本の杖、アブラハムが故郷を出るとき持って出た杖であり、アーモンドの実を結んだアロンの杖である。
福音の靴を履き、あかしの杖一本持っていればいいのだ。いや、それ以外のものを持ってはいけないと言われる。
施すためのお金も、与えるための二枚目の下着もいらない。自分の命を守るための食料さえも持たなくても良い。


 神であるイエスさまは裸で生まれ、人の保護を必要とする赤ちゃんとして来てくださった。
イエスさまがそのように、人の恐れるものを何も持たずに、ひとりの人となってこの地にくだってくださったことで、郷里の人々は勘違いをした。我々が大工の家族を養ったのではないか・・って、彼はその中で育った者ではないかって・・。

イエスさまはすべてを与え、いのちさえも与えてくださったのだけれど・・それを誰が悟ることができるだろう。
遣わされる者もそのように出て行くのだろう・・。


 汚れた霊の追い出しのための学びもテクニックもいらない。主がすべて必要を満たし、そのための権威を与えてくださるから。
禁じられていることは、自分発のものを何一つ持って出てはならないということ。ただ主から出たものだけを携えて行き、それを与える事。それこそが聖なるものだから。

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)


遣わされた者を受け入れる家は、彼を養い、彼に聞いたとおりに主に従順する時、そこは主の踏み行く地、主の領域とされ祝福と約束の地と成る。
けれども聞こうとしないなら、彼らが足に付いたちりを払った時から、そこは主と無関係である。それは弟子の責任ではない。「それはあなたが選ぶこと」である。

 弟子が渡り歩かないことにより、彼らを受け入れた家が聞いたことばに従順するなら、主の祝福を独占することになる。後には、聞いた人々から広がってゆくことになるのだけれど・・。
祝福の独り占め、それは主に選ばれた者の特権であると思う。主が来てくださったことへの喜びを、ただ深い感謝を持って受け取るばかり。
今も主は色々な形で来てくださる。そうして私たちは遣わされもする。すべて聞き従うこともできるし断ることも出来る。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)
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年の瀬

2011-12-16 15:16:58 | Weblog


 年賀状の印刷これ結構大変。宛名だけでもただ去年通りに印刷すれば良いわけではなく、住所が変わっていたり、歳と共に便りが絶えてしまって淋しさを覚えるときでもある。
去年頂いていない人の場合どうすれべきか・・なんてあれこれと考えてしまって中断してしまったり、懐かしくなって思わず電話を取ってしまって、なおさら進まなくなったり・・。それでもある程度は終わった。

年末の掃除は主人に「べつに・・しなくてもええでしょう」なんていい加減なことを言ってしまって反省し、面倒なサッシの溝もリビングなど一部終わった。なぜ一部なのか・・目に付く所、台所回りから済ませる作戦?だから。


 孫にクリスマスのプレゼントも発送した。毎年彼らはツリーの下に置くので早めに送ることにしている。「私だったら待てないだろうなぁ・・」って思いながら。
さくらには本「若草物語」「秘密の花園」「二人のロッテ」を選んだ。年齢的にはちょっと難しいけれど、夏休みに読んでいたものから見て大丈夫だろうと・・。

これらの本は私が幾度も愛読したもの。深く印象に残っている。訳を変えて何度も読み返したことがあり懐かしい。
孫に同じ本を贈ることがしみじみと嬉しい。女の子で良かった・・きっと彼女の心の襞を深く豊かに育ててくれるだろう。

今日は息子の誕生日。
今夜のメニューは何にしよう・・どうせ帰宅が遅いのでお祝いは明日になるのだけれど、何もしないと言うこともちょっと・・、取りあえず好きなハンバーグでも作っておこう。
誕生日を迎えるって事は感謝な事。命が健やかに守られていることへの深い感謝。


 昨夜のテレビで、ホスピスのお医者さんの印象的な言葉を聞いた。
「癌になった患者さんは、『こんな臓器はいらない。』といわれることがあります。でも、その臓器によって生きて来たのです。生きるためのその臓器が、ある時死を突きつけてくるわけです。」このような内容だった。
人は生まれたときから死を抱えて生きている。誰でもない自分自身の中に死を抱えて生きている。

イエスさまを知っているからこそ、この事実をゆったりと受け入れることができる。主に知られている身には平安がある。
雀一羽の命さえもかえりみてくださるイエスさまがいてくださるから、守られている時間の価値を知って、感謝のうちに命の時間を楽しむことができる。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」ピリピ1:21
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「恐れないで、ただ信じていなさい」

2011-12-12 10:38:13 | Weblog
火曜日のために (マルコ5:22~43)

 イエスさまをお連れして、ヤイロは瀕死の娘の待つ家に急ぐ途中で、長血の女が割り込んできました。ヤイロはどんな気持ちだったのでしょう・・
女の打ち明け話を聞いていた時の、ジリジリとする焦燥感は察するにあまりあります。


 信仰を持っていても追い詰められ、漫然と待っていることですべてを失ってしまうのではないかと怯える時があり、みことばにすがりついていても状況が一向に何も動かない時もあります。
イエスさまの「あなたの信仰があなたを直した。」という女へのお言葉の直後に、彼は娘の死を知らされています。

イエスさまの「恐れないで、ただ信じていなさい。」とヤイロにおっしゃったお言葉は、私たちにも言ってくださっているのです。
それはイエスさまへの信頼を刻んでいる時間です。後には甘い思い出に変わる、大切な信仰の経験のための時間です。


そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。(マルコ5:37)

少数の弟子と、父母と共の者だけが少女の癒しの場に居ることが許されました。
そのとき起こっている死という事実に立つ者ではなく、イエスさまのお言葉に立つ者だけがその場に居ることを許されたのです。

 信仰がないところではイエスさまはわざを行う事ができません。信じない者は何を見ても信仰に結びつくことがないからです。信じないための理屈はいくらでもサタンが準備をしてくれます。

イエスさまには遅すぎるということはありません。どのような場合でも手遅れということはないのです。主には信仰によって時を遡ることさえ出来ます。
「死んだ」という事実は「眠っているだけ」に変えられるお方なのです。これ以上のことは他にありません。

 追い詰められて行き場を失った者がすがりついても「信仰があなたを直した」と弁護して下さるイエスさま。
しかし、ご自分のためには一言も弁護されませんでした。
「恐れないで、ただ、信じていなさい。」と、今日も私たちの暮らしの中に御声が聞こえます。
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最後の金ちゃん

2011-12-11 14:25:50 | Weblog


結局金ちゃんは死んでしまった。良くなったり悪くなったりをしばらく繰り返した後、頑張って頑張って生きて、刀折れ矢尽きたようにほどんど動けなくなって、小さな洗面器の中でわずかに揺すっていたヒレもピクリとも動かなくなってしまった。

金魚すくいの小さなビニル袋の中に入れられて、水たまりに捨てられていることを主人から聞いた時、可哀想だから拾ってきてと頼んだら、わざわざ拾いに戻ってくれたものだった。
「私もイエスさまに拾われたんだよ。」とそれから仲良く暮らした4年間。小さかった金ちゃんは十五センチになっていた。

動かなくなった体を手のひらに載せて、鱗を磨くように洗った。とてもしんどそうだったのに、一生懸命に生きようとしてくれたね。頑張ってくれてありがとう、ありがとう・・

どのようにか残したくて魚拓をとろうと、家族でああでもない、こうでもないってそれから大騒ぎ。なにしろみんな初めてのことでなかなか上手くいかない。
主人曰く「もう、金ちゃんは何をされても怒らへんからな」
「そうだね。」金ちゃんは魚なのに、じっと目を合わせて喜怒を表現した。だから喜ばせたり、怒らせたりしてコミュニケーションを楽しんできた。

やっと出来の良いものが取れたので「ご苦労さん」って、綺麗に洗って鉢にポインセチアなどを敷いて寝かせた。
しかし、どんなに工夫をしても、いや工夫をすればするほどどうみても鯛の生け造りのようになって仕舞って、思わずみんなで吹き出してしまった。

今日は朝から、リビングの側の庭に埋めた。魚拓はテレビ横の壁にはってある。これからだって家族と一緒だよ。
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金ちゃん助かったね!

2011-12-08 12:11:28 | Weblog


何気なく金魚鉢に目を移した時、底に横たわっている金ちゃんが目に入った。10センチほどの体にはゴミのようなものが積もっていて死んでいるように見えた。
「金ちゃん!金ちゃん!」
大声で呼ぶと、頭をわずかに立てて目をこちらを向けヒレを動かした。

ああ、生きている!「金ちゃんがんばれ!がんばれ!」呼びかけながら、大急ぎで塩を持って来てパラパラと水槽に振りかけると、水に沈んできた粒を大きな口を開けてパクパクと食べている。体を起こして底に落ちたものまでなめている。

金ちゃんは一生懸命に生きようとしている。でも・・ぷかり漂って沈んでしまった。
「金ちゃんがんばれ!がんばれ」って叫びつつ、また、塩をつまんで放り込むと、口を開けて食べる。

そんな夢中になっている私を、少し冷めて「毎日魚を食べているではないか・・矛盾していないか・・」ってささやく私が居るけれど、金ちゃんが居なくなることは嫌だ。
「金ちゃんしか居ないんだよ。かけがえがないんだよ。」って訴える、誰に・・あの方に少し遠慮しながら・・それでも深い思いで。

そんなことを1~2時間繰り返しつつ金魚鉢に張り付いていた。「金ちゃん」と呼ぶと体を立てて一生懸命にこちらを見る。すこしヒレを揺する。
「金ちゃん大丈夫だよ。もう、大丈夫だよ。」自然に口から出た言葉になぜかほっとして落ち着いた。

少しずつ体を立てていることが多くなって、水槽の中をフラフラしながらも泳ぐようになり、鱗に付いていたゴミも落ちてきたように見える。
「ああ、助かった!」


金ちゃんは玄関におかれている。通りがかる人を見つけて、水槽に顔をつけるようにして目を合わせ、大きな口を開け、全身を揺すってアピールしてくる。
無視していると水面をバシャバシャと叩いたり、ポンプに体当たりをして暴れたりする。
夏休みに来た嫁さんが「こんな金魚見たことがない」って面白がりよく相手になっていた。

金魚は淋しがりで、群れでないと駄目だって聞いたことがあるので、金ちゃんが一匹になり淋しいだろうと相手になっている内に、まるで人間を仲間だと思っているのではないかというふうに、いつも人を待っているようになった。

でもこの間から何かと忙しく、私の心は此処にあらずで、金ちゃんと遊んでいなかった。小さな小さな命だけれど、金ちゃんもかけがえのない家族の一員だって改めて気づいた。
命には繊細な心遣いが必要なんだ。例え1匹の魚であっても・・

今朝は、水槽の水を三分の一ほど変え、ポンプのフィルターも取り替えながらそんなことを考えていた。
がんばった金ちゃんは餌をねだるほどに元気になって、水槽の中をヒラヒラと自在に泳いる。鱗も赤く光っている。
主人と、金ちゃんを憐れんで下さったイエスさまに、ほのぼのと感謝のお祈りをする。
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「わたしの平安をあたえます」

2011-12-07 11:04:30 | Weblog


「平安があなたがたにあるように」とよみがえりの主は言われた。主の平安を与えると約束して下さった。
しかし平安を得るためには差し出さなければならないものがある。それは、この世では主張して当然の権利を、犠牲にして得るものだと思う。

自分で守って来たものを差しだして、イエスさまにお任せするときに得るのが平安。
損害を覚悟して、言い訳をせずに恥を受ける覚悟して、人の口の責めを覚悟して、自らの計画を捨てる時に来るのがイエスの平安。

姉妹は言われた。此処に書かれていることは私のことだと・・この男は私だと・・。争った直後にこのみことばを示されてとても驚いたと。
みことばを備え「悔い改めよ」と教えて下さったのは聖霊、そうし主の平安を得よと・・。

どんなにこの世で正しい主張であっても、自分たちを守るためにどんなに必要な主張であっても、それを言い立てるものは聖いものではない、それは汚れたもの。

イエスさまを宿している者は汚れた者と住んではいけない。それに関わってはいけない。なぜなら、そのときイエスさまの「平安があるように」という命令に背くことになるから・・。
どうぞ賜るべき「平安の価値」を悟ることができますように。


主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。
主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。
わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。(詩編94:11~13)
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