石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「安息日の主」マルコ2章から

2011-09-29 13:48:11 | Weblog


 中風の病人を、4人の人たちが担いでイエスさまの所にやって来た。群衆のために近づくことができなかったので、彼らは屋根を破って病人をイエスさまの前に吊り降ろすという、奇想天外な手段でイエスさまに病人の癒しを求めた。
此処でイエスさまは「彼らの信仰を見て」と言われた。彼らとは運んできた人々の信仰であって、中風の人の信仰ではない。彼はただ、なされるままに身を任せていただけである。
私は、「あなたの信仰が癒した。」というような箇所と比べて考えてしまった。

 中風という病人の意識はしっかりしており、イエスさまの癒しを受けるために運ばれることや、他所の家の屋根を剥がすという行為を理解しつつも、止めることはなかった。
普通に考えるなら、少しでも自分の病に妥協しておれば「もう、そんなにしなくても良い。」と言うだろう。
彼は手段を選ばないほど熱心に、癒しを求めていたのだと思う・・。だから、イエスさまがほめられたほどの4人の信仰に賭けたのだろう。彼は「良くなりたかった」のだ。


「あなたの罪は赦された」
とイエスさまが言われたとき、律法学者の「神を汚している」というつぶやきは、日本ではあまり理解出来ない。この国では神々は人によって作られ、それをなんとも思わないのだから・・。この国の神のレベルはそのようなものなのだから・・。
しかし、罪の赦しを宣言する権威は造り主にしかないのである。

イエスに神を見いだすことが出来なかった律法学者は、
「起きて寝床をたたんで歩け」という、イエスさまの証の言葉によって病人が歩いたとき、まことに神にあってつぶやいていたのであれば、ひれ伏しただろう。
イエスさまは、彼らにそのチャンスを与えられたのだ。

イエスさまはご自身を証して下さるお方である。私たちの生活の中の卑近な事柄にみわざを現してくださる。それは私たちが、身近なことを通しても神をあがめるためである。
この病人のイエスさまへの信仰はまったくわからない。でも、主は癒された。イエスさまは小さな信仰をも、「あなたの信仰」とほめて育ててくださるお方だけれど、罪の赦しを受けるに価する何ものも私たちにはない。

それは本人の信仰でもなく、連れてきた人の信仰によるのでもなく、ただ、キリスト・イエスの権威による癒しであった。
私たちの生活の中で働いて下さる主の助けを、「私の信仰」によると勘違いすることは恐ろしい。ただ、神の御名が崇められるために、イエスさまの権威によるのであるから、主の御前に信仰を持ってひれ伏し、造り主なるお方を喜びあがめるのみである。

神の御子イエスさまが来られ、十字架によって救いのみわざを完成してくださった今は、イエスさまを主とする生きた信仰によって、イエスさまの権威を身近に味わい、いよいよ主を知って成長することが赦されている。
何時でもイエスさまのことばを食することが出来るし、いのちの水を飲むことができる。

その人は新しい葡萄酒であり、古い人間の宗教にはとどまれない。もし、留まろうとすると中から破壊し、それを裂く存在となるだろう・・。
新しい革袋であるイエスさまの中に住み、イエスさまにあれば成長することができる。
人はすべてただで受けたことであり、なんの対価も払っては居ない。


「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」箴言8:17
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高齢者講習だよ

2011-09-27 18:11:06 | Weblog


 昨日、運転免許の更新のために高齢者講習を受けてきた。でも、後期ではないので・・念のため。いや五十歩百歩かな・・元気なら次の切り替えは間違いなく後期。

予約では11月だったけれど、先日空きが出来たからと教習所からお電話を頂いた。
とっさのことだったので、ちょっと躊躇したけれど、早く済ませた方が良いだろうとOKをした。でも、その後体調を崩してどうなることやら・・だった。 

直前までどうにも気が乗らなくて、近くの教習所とは言え車で30分ほどかかるから、どうやって行こうか・・とか、あの交差点はちょっと恐いなぁ・・なんて。
きちんと時間に間に合うだろうか・・でも、あまり早く行きすぎてもね・・なんて、どうにでもなるつまらないことに悩んでいた。

 当日いよいよ差し迫って、イエスさまに「すべてをお委ねします。お導き下さい。」とお祈りをした後は、劇的にフッと軽くなった。
こうなることは、初めからわかりきっていることなのに、なんでこうも遠回りするのかと自分の愚かさにあきれる。初めから、イエスさま直線に入ってお祈りすれば楽なのにね。
すっかり気持ちが落ち着いて、風邪も良くなったみたいで、邪魔な咳も鼻も出なくなっていた。もっともこの事実に気が付いたのは、帰りの車の中だったけれど・・。

朝から雨が降っていたので、主人が送って行くと言ってくれた。帰りは駅まで歩くから・・と言ったけれど、「迎えに行ってやるよ。」と言われて正直ホッ。すべてなんてことなかったんだ。

 自動車学校の門に入っていくと、係の人が待っていてくださって、愛想良く車を誘導し「じゃあ、またお迎えですね。」って主人を送り、私にも気さくに話しかけながら入り口を示してくださった。

ドアを開けると、受付とはいわず全体で迎える雰囲気がそこにはあり、「こんにちは!」とてんでに声をかけてくださった。
私も小学生のように「こんにちは!」って大きい声で挨拶を返していた。その時、「今日はこの調子でOKだ」と緊張が解けた。

老人の扱いに慣れているなぁ・・と感心してしまった。何気にいたわりが感じられる。それも変な年寄り扱いではなく、自然であたたか~く「な~んでも言ってね。」そんな雰囲気。

ここに来た人は、自分の老いが曝されるようでみんな緊張しているんだ。誰も喜んで来ている人はいない。
特に男性方のほうが緊張している様子が見える。男のプライドの分だけ余計にしんどいのかな・・。女はなんと言っても小器用だし、いざとなれば居直れる。

 講習は、ずっとやわらかな表情で大切なことは繰り返し、噛んで含めるように教えてくださるので、聞き逃すことが出来ないほど・・。
私は次男に勉強を教えていた時、こんなに丁寧に繰り返して説明したことはなかった。プロだなぁて・・。

質問に丁寧に答えても、再び違う先生を捕まえて同じ事を聞いている人が居られ、それでも柔和な表情は変わらないもの・・。私なんか他人毎なのにちょっと苛立ってしまった。
そうして・・ふっと思った。
「ああ、私と親しく話してくださる若い方達は、今の私が感じているような苛立ちを、きっと感じられることがあるのだろうなぁ・・。忍耐して、なを愛して下さっているのだろうなぁ・・」って、ありがたいことだとジンとしてしまった。

 身体機能も運転適性も問題なく終わり、ゲームの腕がちょっと生かせたりして、少しは楽しくもあった。でも、スピードには気をつけるようにと書かれていたので、肝に銘じようと今は思っている・・。
予定時間を少し早く終わって外に出ると、先生や係の人たちが笑顔で送りだしておられた。

125ccのバイクの周りを「乗ってみたかった・・」って、あの時乗ってみても良いですかと聴けば良かった・・と未練たらしく回っている私に、係の人は主人を目ざとく見つけて、「お迎えですよ」と呼んで下さった。早く帰れってこと。

車の中で私はすっかり安心して、主人に上手く行ったことを散々聞かせた。気の良い主人は一々相づちを打ってくれる。私だったら絶対にうるさがるだろうなぁ・・。
すっかり雨は止み、窓から入る風も陽も気持ちいい。

突然に風邪のことを思い出した。ああ、昨日は病人だったんだ・・。今日はちっとも煩わされることなく、病人から一気に気分転換が出来た。ちょっと野次馬っぽくあったけれど結構楽しかったもの。
秋の雲をフロントグラスごしに眺めながら、夕食のメニューを考えていた。さあ、帰ったら忙しいぞ・・って。
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火曜日のために (証しの特権) マルコ1章より

2011-09-25 13:51:15 | Weblog


人々は、悪霊を追い出し、癒しを行われるイエスさまを「新しい教えだ」と評した。
イエスさまは「唯一」のお方であり、新しい、古いではない。
イエスさまは教えではなく「真理」であって、教えを聞くだけのお方ではなく、従順し仕えるべきお方である。

幾度病を癒されても人は必ず死ぬ。悪霊を追い出して頂いても、主をお迎えしない限り、空き家になった内にはもっと悪い霊がやってきて住み着くだろう。
癒されることだけを求めて集まることは、イエスさまの喜びとはならない。いや、とても悲しいことだと思う。

「お心一つで、私はきよくしていただけます。」と癒しを願う人に、イエスさまは「わたしの心だ。きよくなれ。」と癒され、「誰にも言わないように」と、お言葉に従うことを求められた。
しかし彼の求めていたものは、健康であってイエスさまではなかった。彼はお言葉に従うことなく触れ回った。そんな彼の証はイエスさまの喜びとはならない。彼はみこころではないことを触れ回っただけだから・・。

 シモンのしゅうとめは、癒されて熱病が去ると同時にイエスさまに仕えている。もう自分の体をかばうこともなく、惜しげもなく立ち働き、おもてなししてイエスさまを喜んでいる。
彼女が、体を惜しんで癒しを求めていたのではないことが、イエスさまを喜んでいる姿から見えてくる。

イエスさまが本当にお与えになりたい永遠のいのちには、誰もが無関心で、この世の必要だけを満たそうと、自分勝手な願いを要求する人々の中で、彼女の姿はイエスさまにとって喜びであったろう・・。

 イエスさまはどれほどご自身を正しく知っていようとも、悪霊どもには、ご自身を証する事は許されなかった。

イエスさまを証することは、共に住み、仕え、従順し、まるでイエスさまを目で見、手に触れるように経験をした者に許されている特権である。
その証こそ、それがどんなに稚拙な断片的なものであろうとも、イエスさまの喜びであり、イエスさまの栄光となるのだから。


「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」Ⅰサムエル15:22
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風邪引いてまんねん

2011-09-24 19:48:54 | Weblog


たかが風邪だと常備薬を飲んでは誤魔化していたけれど、ただならぬのどの痛みについに降参して、近所の医院へとしんどい体を引きずって行くと、
お医者さんいわく「今、こんな風邪が流行っていますねん。」ツーカーで薬を処方してくださった。
何にしろ私に流行なんて・・信じられないことだけれど・・

薬を飲んで確かにのどの痛みはあるていど取れたけれど、熱が出て来てついに寝込んでしまった。ウトウトウトウト・・と眠っているのか起きているのか・・
寝返りを打つだけで胸がドキドキしてなんともしんどい。階段を下りてトイレに行くことも一仕事。

ハッと思い当たって血圧を計ってみると、案の定上が85、下が55、脈は90。
日和見な体で、少し体調を崩すといつも血圧が下がってしまう。
入院をしていたときには、一日中血圧ばかり測られていた。計ったってどうしようもないのだけれど・・。

それからは、次から次へとあちらが良くなればこちらが痛いとか・・まあ、病気というものはそういうものなのだろう・・。
薬を飲むとそのことには楽になっても、胃の不調が加わったり、のどの痛みが消えたら、ぜんそくのような咳や切れない痰で眠れなかったり、楽になりたかったらその度に薬が増えて行く・・。

ほんの2、3日のことで、今日はちょっと無理をしつつも、買い物に連れて行ってもらえるほどに良くなったけれど、今回の経験は病気というものの恐ろしさを改めて認識することになった。
病気と戦っておられる方のことを思い浮かべて、「本当に大変だろうな・・」ってぼんやりした頭で何度も思った。確かに、病まなければ分からないことがあるんだ。

私は弱虫で、病気になるとみことばを読むことも、聞くことも、祈ることも出来なくなって、本当にな~んにも出来なくなって、時々御名を呼ぶだけ・・。
ただ、ただ常日頃の主との関係による平安がすべてとなる。

今日はほとんど元気になったのだけれど、洗濯ものを干した後は力がはいらなくて、ふっと手にした「みことばフォトブック」にそのまま引き込まれて、ゆっくりとみことばと写真を見ていた。
時に、みことばにアーメン、アーメンと相づちを打ちながら、微笑ましい写真や幻想的な風景写真を見てほのぼのとしていた。

主の造られた作品の美しさ、楽しさ、変化、私たちの与えられているものの豊かさが胸に迫る。
みことばは真実の約束。甘い蜜のように広がる。

この一枚一枚の写真を撮られた人の信仰は、きっと、それぞれ違っていて同じではないだろう・・。でも、みんなイエス・キリストを愛している。
みことばと写真を通して主を語っておられる・・。写真を通して造り主をほめたたえている。

「鉄は鉄によってとがれ、人は友によってとがれる」箴言27:17
「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」マタイ10:27


心に残ったみことばをメモしていたのだけれど、研がれる友の大切さと、その友との関係は、主に聴いたことを大きな声で伝え合うものなのだと・・。
おもねることなく、聞いたことをストレートに伝えあえる関係、主を真ん中にして誰にでも開かれている関係を守って下さいと祈る。

この前、カオリンさんから聞いたみことば
「もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、
祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。
しかし生肉が彼に現われるときは、彼は汚れる。」 (レビ記13:12~14)


全身病んでいる者はきよく、生肉が現れると汚れる。とっても分かり易いと思った。病んだ者には医者であるイエスさまがいてくださる。でも、肉の生きている間は、医者は必要ないもの。いえ、医者が近づくことさえできないもの。

イエスさまが居て下さる身にとっては、病気が不幸なことなのではなくて、肉が元気なことが滅びをもたらす不幸せなんだ・・。
秋の陽差しが心地よく、洗濯物もすっかり乾いて息子の優しい手助けが嬉しい一日だった
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キリストの弟子とされるために (火曜日のために)

2011-09-19 11:12:19 | Weblog


イエスさまに救われた私たちは、主のために働きます。何処で?主が居られる所でです。主を離れては何も出来ないからです。
救われた者は皆キリストの弟子となるべきです。すべての救われた者には弟子として働く責任があります。

まず、私たちは家庭や会社や地域においてイエスさまを伝えます。その方法はイエスさまが教えられます。
イエスさまに従って居れば、私たちの中からキリストの香りが立ちます。それが主の方法です。そうして救いが広がって行くのです。

イエスさまがご自分の天での支配を捨てて、地に下って十字架で死んで下さったそのいのちを受けたのですから、私たちもイエスさまのように自分の権利を捨てて、身近な人のために命(自分の計画や方法、頭の中にある手段など)を捨てます。身近に居られる方の救いの為です。

イエスさまがお弟子を集められる時、
「すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」とあります。

網も舟も父さえも置いて、すぐにイエスさまに従って行ったのです。この世で食べて行くための仕事も、肉親も即座に捨ててイエスさまに従いました。
でも、父、残された家族は、イエスさまにちゃんと覚えられていることを知っています。
なぜそう言えるのかというと、私が家族を捨ててひとりイエスさまに従った時、家族がイエスさまから見捨てられることは無かったからです。

これが、神の御子の救いに応答する態度です。この時は永遠のいのちを得るためのチャンスです。このチャンスを逃がしては、人は永遠に滅びるのです。
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」このみことばは真実です。

でも、ひとつの条件は、「あなたが、その時すぐにイエスさまについて行くなら・・」です。
イエスさまは、すべての人が救われることを望んで居られますが、人が救いに漏れるのは、「また何時か・・」「今はまだ・・」という軽い気持ちで、イエスさまを後回しにするからです。

奇跡を見ると、人々はイエスさまに神の権威を見て驚きました。その噂は広がりました。でも、その人達は弟子ではありません。
驚いたり、噂をしている傍観者です。最後には「十字架につけろ」と叫ぶ群衆です。

弟子は働く者です。信じてたイエスさまのお言葉に犠牲を払って従います。すべてを捨ててすぐに従います。このことがイエスさまの喜びです。
イエスさまは「わたしは、彼らによって栄光を受けました。」と最後に父に祈られました。
実は失敗ばかりの弟子だったのですが、彼らがイエスさまを唯一従うべきお方、第一の方にしたことを喜ばれたのです。

イエスさまを救い主と知っても人の反応を様々です。
イエスさまは傍観者になったからと言って、罰することはなさいません。十字架の上で、「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです。」と取りなしをしておられます。

しかし、彼らが自から従順しない限り、彼らの救いは実現しないし、イエスさまの喜びにもならないのです。
厳しいことは、そのことが私たちひとり一人の、選択に任されていると言うことです。

従って行くときの、私たちの弱さからの失敗を責められることはありません。イエスさまは私たちが何を願っているのかを初めからご存じで、必要はすでに準備していてくださいます。でも、失敗の願いをしても、忍耐を持って覆って下さるお方です。

私たちの生まれながらに持っているすべての強さは、イエスさまを知ったことで弱くされ、ただ、ただイエスさまの助けによって生きるようになるのです。
このことがイエスさまの喜びです。
なぜなら、そうするときイエスさまは、永遠のいのちという最上のプレゼントを私たちに渡すことが出来るからです。


しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。Ⅰコリント1:27

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。Ⅱコリント12:10
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主イエスの愛される みっこさんへ

2011-09-18 09:56:32 | Weblog


「繊細で純粋で社会に適応できない人が自殺に追い込まれるような気がしました。」
でもね、その一方でプライドが高くて、強情で、くずおれることが出来ない人・・そんな気がします。
よく言うでしょう「命まで取られることはない」って・・そんなことに対して、命まで差しだしているのではないかと思うのです。

私も大切な人をそういう死に方で亡くしました。悔しくて残念で、悲しみよりも怒りを覚えます。
死ぬ直前まで良いことばかり言って、泣きつくことなく死んでしまったのです。

それでも、神様の許しなしには死ぬことはないのですが・・その死には神様の許可が下りたのでしょう。人の強情さにお手上げという形だと思いますが・・。
死ぬほどのことがあっても、その人は救い主を求めようとはしなかったのです。
私の本当の悔しさ、悲しさはそこにあります。

でも、神様は人を造られたときに、救い主を否定して、勝手に死ぬ自由さえもお与えになったのです。
だからこそ、その自由の中でイエスさまを選び取ることの価値は大きいのです。

このことはとても厳粛なことなので、彼の死を受け入れ、私は神様の前に伏しました。すべての死を受け入れるのは、神の御前にひれ伏すことによると思います。命の造り主である真の神様の前にひれ伏す時に、残された者に平安が与えられます。これは事実です。

私たちクリスチャンの故郷は天にあります。だからこの世では旅人です。
この旅には様々な出来事があり、家族を愛し、育て、友と喜びや悲しみを共にしながら、懸命に旅をするのですが、一番大切なことは故郷にちゃんと戻ることです。

それはこの世でのすべてに優先します。だから、この世のできごとのすべてに私は一定の距離を置いています。決してこの世がすべてのようには生きません。

そのとき、何処までこの世に順応するのかという中で、自分の中にある大切なものを揺れることなく優先しますから、旅路は自ずと真っ直ぐになり、侮られ、非難され、傷を受けるようなことがあっても、決していのちを脅かすようなことはありません。

その痛みを雄々しく受けてくださって、神様のみこころどおりに生き、そうして死なれたイエスさまというモデルがあるからですが・・。
すべての人の罪を負って、侮られ嘲られて理不尽な無実の罪で死んで下さったイエスさまは、私たちのすべての苦痛を誰よりもよく知っていて下さるのですもの。

生きることは大切ですが、命をどのように生かすかということはもっと大切です。
今のこの命は、イエスさまが十字架でいのちをかけて準備して下さった、永遠を選び取ることができる、唯一かけがえのないチャンスなのです。
死んでからできる事は何もありません。その人は造り主に反抗して永遠に滅びたのです。


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」聖書
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イエスの死

2011-09-16 11:43:28 | Weblog


イエスさまの十字架の死は、父なる神様のご計画に従って死なれたのであって、私たちの罪によって死なれただけではありません。イエスさまは自ら進んで十字架に御父のご計画を成就されたのです。

造り主なる神の御名が崇められ、イエスさまの喜びのために死なれたのです。私たちのいのちを救うためだけなら虚しいことです。

この世で、人の身代わりに死ぬ人は居られるかもしれません。尊いことだと思いますが、イエスさまとはまるで違うと思います。

なぜなら、イエスさまは父なる神様のために死なれたからです。
まして、巻き添えのように死ぬことと、イエスさまの死は同じではありません。


私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:6~8)

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。(コリント8:6)

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、
父なる神がほめたたえられるためです。ピリピ2:10~11
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わざわいの時には

2011-09-13 18:35:32 | Weblog


 今がどのような時代であるのか・・それをヒシヒシと感じていても、この国にも主が憐れまれる人々、私たちの愛する人が一日一日を懸命に生きているのであり、苦しくても未来に夢をつないでいるのであれば、どうしてあきらめろなどと言えるだろう・・。

だから、望み得ないときも望み。主の忍耐を、憐れみを懇願しつつ一縷の望みもち続け、そっと祈り、憐れみを求めて哀願した。
いや、なを、終わりの日まで願い続けずには居られない。
アブラハムはソドムのために取りなし、主に懇願して受け入れられた。

彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。(創世記18:32~33)


しかし、終わりの時はある。アブラハムはもう口出しすることはない。
主の裁きは正しく私はそれを喜ぶべきである。主は御子の購いの血潮を流して救いの道を開き、裁かれたことなのだから・・。

ダビデは我が子の命を哀願して断食をし、眠ることさえないほどに主の憐れみを願っても、彼は主の裁きの後は異議を唱えることをしなかった。
食事をして元気を取り戻し主に従順した。そうして、彼は主のご計画を成す子ソロモンを生んだ。

 まことに私たちに何が出来得よう・・。たとえこの命を差し出したとしてもそれが何になろう。自分の罪のために滅びるだけである。
人の命を、その罪を身代わりに負うことが出来るお方は、ただおひとりイエスさまだけではないか。
しかし、主よ。共に泣く涙を賜りますように。心が冷たく冷えていかないように助けて下さい。

「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」詩篇19:9

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。 」イザヤ49:15

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ゆっくりと時間をかけて、共にみことばに思い巡らせ・・

2011-09-12 16:21:54 | Weblog


電話にて
A 「私はお酒なんて飲んでいないのに、交わりの後とかに酔っ払ったようになることがあって、以前教会の床に酔っ払いのようにへたり込んでしまって、ひんしゅく?を買ったことがあったよ。」

k 「それは良い霊、悪い霊?」

A 「それが私にははっきりしないから、身を任せる事はしないようにしている。『主よ。今は困ります』って言うと解放されるから、悪い霊ではないと思うけれど・・、この現象の意味がわからないので警戒することにしている。主が意味のないことをされるとも思えないので・・」

k 「主の訓練かも知れないわ。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創世記1:26)と書かれているでしょう。
魚はより分けられるもの、鳥は良いものではないとあるし、はうものは良くないもの。
それらを支配せよと言われていますよね。だから、支配するための訓練かもしれないわね。」


A メールにて
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。


先ほどはありがとうございました。ねえ、ねえ、重大なことがわかりました。
「神のかたち」が、もう一つよく分からなかったのですが、25節から26節への流れの中で、「神のかたち」とは神の権威という意味じゃないかと思いました。


k メールにて
黙示録2-26 
勝利を得る者に、私の業を終わりまで守り続ける者に、私は、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。


28節で、主は父からその権威を受けたと仰っています。
同じように私達にもその権威が与えられている?・・としても、それを本当に自分のものとして得るには信仰が必要だし、行使するには主に似た者とされる必要がありますよね。
(主が成し遂げてくださいます)

あれ?主に似た者?
そうだ!そのように神様は私達をお造りになったんだ!
権威の事ですよ!!
後に、清算の時が必ず来る事をわきまえて謙遜に生きていきたいですね。

年齢や格好や性格や好み背景など、見えるものには全く影響されず
御霊による交わりが出来ることを感謝しています。
いつもありがとうございます。


A メールにて
救われた者は、祭司としてどのような権威を持たされているのか、すべての働きはそれを知ることから始まるのではないかと思います。
知る時、つまらない世のことに囚われて、未信者のような生き方はしないでしょう。

なんだか、そのことを語ることは、高ぶりや思い上がりのように、思わせるもの、それは悪いものの働きではないかと思います。
主の祭司が変な謙遜をするのは、主を貶めていることになるのではないかと思います。

それでも、この世でごくごく普通な、世の人が見てもまっとうな生き方をするのですが、内に居られる方は聖霊です。ただの人とは全然違うのです!

ただ、おっしゃるとおりに、その権威を用いるお方は内に居られる主です。
絶対に私ではありませんが・・。
でも、主はいつでも私のためにも用いて下さいます。・・。ハレルヤ!!


k メールにて
謙遜とは、この世的な謙遜見せかけの謙遜ではなく主の権威に服する謙遜であり、主イエスのくびきを負わせて頂き主と共に生きること。

謙遜について
コロサイ2-18
あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。

コロサイ2-23
そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

コロサイ3-12
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。


権威について
詩編68-36(新共同訳)
神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。神をたたえよ。

ダニエル7-27(新共同訳)
天下の全王国の王権、権威、支配の力は/いと高き方の聖なる民に与えられ/その国はとこしえに続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」

を読んでみました。ふむふむ って・・。

先のメールに書こうと思って書かなかった事。
テトス2-15
「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはなりません。」(新改訳)


「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」(新共同訳)

主に委ねられたことを語るのは高慢でもなんでもなく主に対する謙遜だと思います。
サタンの惑わしに乗らず、雄々しくありたいものです。
今日は、主イエスの下で 御言葉を思い巡らせたりしながら一日中いい日でした。
一緒に、ありがとうございました。おやすみなさい。


電話にて
k 「アダムはその権威をもっていたのかな・・」
A 「もう少し思い巡らせてみます。」


A メールにて
 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。


このことばの流れから、やはり治める権威を持っていたのではないかと思います。
アダムもその権威を持っていたのです。だから、神の怒りをかったのです。

治める権威を持っていなかったら、叱られることはなかったではないでしょうか。
だってしかたないといえるでしょう。

私たち救われた者は、治めるべき神の権威を持っているのですが、それを用いることもなく、みすみすサタンの手に落ちるとは、いったいどういうことだと叱られるのだと思うのですが・・。


k メールにて
ええ ええ そうですとも!私もそう思っていました。

人。神様がお造りになった「人」。人って何だ?と考えていたんです。
そして今、メールをしようとPCを開いたところです。

詩編8編4~10節を見て下さい。やはり治める権威が関係しています。
あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
なんかスッキリしました。
羊も牛も、野の獣も
空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。



ハレルヤ!ハレルヤ!御名が崇められますように。
主にある姉妹と共に、互いの言葉を反芻し吟味しつつ、みことばを思い巡らせることはなんと楽しいことでしょう!

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7~8)

「だれであれ」このみことばの箇所は素晴らしい希望です!
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火曜日のために (神の手で造られた者)

2011-09-07 19:20:05 | Weblog


 救い主、イエス・キリストのことは旧約聖書に預言されていた。そうして、イエスさまが来られる前にバプテスマのヨハネが遣わされた。ユダヤ人は旧約聖書を通して、造り主である真の神様を知っていので、彼らは誰もが救い主であるイエスさまが来られる時を待ち望んでいた。

ユダヤ全土から、ヨハネの所にバプテスマを受けにやって来たほどに、人々はイエスさまを待ち望んでいた。そうして、彼らにバプテスマのヨハネはイエスさまのことをこのように紹介している。

「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ1:7~8)


 だからユダヤの人々には、イエスさまのことはちゃんと知らされていた。それなのに、なぜ拒んで十字架で殺すことになってしまったのだろうか、
それは、イエスさまが彼らの思ったとおりのお方ではなく、彼らの計画を行うために来られたのではなかったから。

 人は、自分の思いのままに神々を作る。願いをかなえるために偶像を作る。
偶像の造り主である人は「祈る」と言う言葉をもって「私の計画を成功させよ」と神々に命じ、思い通りにならないと次々と新しい偶像を作って来た。
彼らは自分の計画、思いから一歩も引き下がらない。

イエスさまを十字架で殺したのは、結局このような人間の頑なさからだと思う。人は、天地の造り主である真の神様を知ることができず、
人は造られた者であり、命令をする立場にはなく、仕える者であることがわからない。いや、知りたくもないだけかも知れない。

 陶器師は自分の必要のために陶器を造る。造られた器をどのように使うかは陶器師の思いのままである。気に入らなければ砕く権利を持っている。

陶器が陶器師に向かって、「丈夫に造れ」とか「美しく造れ」と命令することがあろうか・・「大切に使われて幸せになるように造れ」と言おうか・・、造られたものは何も言わずに、陶器師の目的を果たすべきである。

 それでは人間は、なぐさみのために造られた人形のようなものだろうか・・、
誰が人形にいのちを与えるために、大切な一人息子を十字架にて殺されることを計画するだろう・・。
でも、神様はそのように計画された。それほどに、ご自分の形に造ってくださった私たちを、愛してくださっているということ。

 人は造り主である神様に仕え、従順するときに本当の幸せや平安を味わうことが出来るように造られている。
それを逆して、神様を自分の思うように支配しようとしても、人は決して幸せにはなれない。

なぜなら、人間には何が一番大切で、今何が必要であるかがわかっていないのだから。それを知っておられるお方は造り主だけだから。
救い主イエスさまに信頼して、聖霊によって教えられるみことばを生きるなら、永遠を見通しておられる方がすべてを益にして下さる。

 しかし此処で問題は、イエスさまのお言葉は人間の罪の心に逆らうということ。
それゆえ、ユダヤ人はイエスさまを十字架で殺してしまったのだと思う。
みことばに従順することは易しいことではないから、「助けて下さい」と祈らなければならない。

イエスさまを知っている身には感謝のない日などあり得ず、いつも祈りの中には感謝がある。願わなくても祝福は後から追ってくるものだから・・。

 何を祈ってもそれは赦されているけれど、祈る前からすべてを知っていて下さり、すでに備えて居て下さる方に、実は一々願う必要はないのだけれど、イエスさまは私たちと話すことを喜んでくださり、私たちもイエスさまにお会いするために祈る。

イエスさまを信頼することもなく、こちらの願いだけを押しつける祈りをしていては通い合うものは何もない。だからイエスさまのお言葉を待つ祈りが必要でそれは応答するということ。

口は一つ、耳は二つあるということは、主にはひとつ申し上げたら、二つのみことばを聴くこと。そうしてそのお言葉を生きようとする時私たちは完全になる。
造り主の神様を恐れることは知識のはじめである。

来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。
主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、
メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(詩編95:6~8)

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