石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

間違い

2011-08-31 10:27:31 | Weblog

 
 息子の作品が載った本が贈られて来た。ワクワクと一緒に開いたときに、彼の作品には間違った名が記されていることを発見した。
一瞬息を呑んだ。できるだけ冷静に「あら」という程度の反応にとどめたけれど、内心私はとてもショックだった。

「なぜ」とはいいたくない、どのようなことが起ころうとも。
イエスさまのご存知ないことが起こることはないのだから・・。すべては主の赦しの中で起こっていること。
私は十字架を知っている。すべての理不尽を負って死んで下さった方を知っているから、だから「なぜ」とは言えない。

「なぜ」と問うことが出来るお方はイエスさまだけ。なぜ、このような者のためにも死ななければならないのかと・・何処にその価値があるのかと・・。
だから私は「アーメン」としか言えない。時々「いいえ」と言うけれど、それは主とのコミュニケーションの始めなの、「私を説得して下さい」という意味。

 最近許さなければならないことが次々と起こる。まるで試されているみたいに・・。
でも、もし試されているのなら、「アーメン」とそのまま受け入れて、主の御足跡に従ったときには、信仰を告白するチャンスとなることに気が付いた。

それは、自身の中でしばらく格闘することにもなるけれど、主の慰めは絶えることなく、主の甘い言葉は蜜の様に滴ってくるからこそ出来ること。
元気があればなんでもできる、なんてテレビで言っていたけれど、主の愛があれば赦せるのだ!なぜなら、理不尽の悲しみを最も良く知って居て下さるお方が、心配していてくださるのだから・・。

 今回のことを息子と祈るうちに、「許す」側であることの幸いを教わった。「許される」側に立つことも、私たちにとっては紙一重ほどの違いだと思うから・・。
人は間違う者であり、ミスを犯す者である。
息子は、その会社からのメールに「もう、気にしないでいいです。」と書いていた。

許したり、許されたりする中で、いよいよ主を知る者でありますように。
また事前の祈りについても示された。
すべてのことを主に祈ることから始めていたかと・・そうして、その会社が主に聴くようにと祈っていたのかと・・。

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)
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言葉の力

2011-08-29 09:30:20 | Weblog


 使徒行伝を読んでいてまず、聖霊に満たされたペテロやパウロの伝え方、謙遜な態度で丁寧に言葉を選んで話して居ることに気づいた。
しかし、それは決して妥協したり、相手におもねることではなく、事実を真っ直ぐに、正確に説明をしていることに心を刺された。
そのような伝え方からは、真実さ、神の愛がヒシヒシと感じられるから。

私は心を尽くして説得する。ということが苦手で、すぐにかんしゃくを起こしてしまう。独りよがりになりがちだと、常々心してはいるのだけれど・・。
日常でも息子に「落ち着け。」って一喝されて、順序をただして話直しす・・そんなことが時々ある。

 しかし、いかに彼らが心を尽くして話しても、たとえ人が耳をそばだてる言語を選んで話しても、感情的な「除いてしまえ」(使徒22:22)というひとことで、すべてが徒労に終わってしまうこともあるではないか・・

言葉なんか虚しいと・・バベルの塔以来、人の言葉なんか虚しいのだと、一瞬そんなふうに心が萎えてしまう・・。
しょせん真実が言葉によって伝わることなんか無いのだと、人は自分の信じたいことを信じ、感情によっててんでに動いているだけなのだと、そんなふうに心が揺らいだとき、

 ふっと我に返るように気づかされた。
でも、私が今読んでいるこの聖書のことばが真実であると思うのは、それはなぜなのだろう・・、私は何処からこのことばを信じることを知ったのだろうと・・、
それはパウロ以来、人から人へと語り続けてくださった方々の言葉によるのだ。

聖霊と共に働いて、愛し、忍耐を持って伝え続けてくださった人々によるのだと・・、言葉は確かに届いていることを自分の中に見ているではないか。
その言葉によって、私は新しいいのちを得、訴える者から解放されて、「見よ。すべてが新しくなりました。」と、深い安息、永遠の希望を頂いたのではないかと・・。

どれほど、「除いてしまえ」という感情的な言葉に力があるとしても、ここ自分自身の中に、救いのみことばはちゃんと残って居るではないかと、それこそが事実なのだと、救いの言葉の力を知り、感謝に浸された今朝だった。


しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
(ローマ10:14~15)
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虹色の蜘蛛の巣

2011-08-28 15:15:26 | Weblog


 まるで、一日の内に季節が激しく巡るような・・そんな蝉の声。
朝のさわやかな空気の中で「カナカナ・・」とヒグラシが鳴き、強い陽差しの中で、「ミーン ミンミンミン」とミンミンゼミやアブラゼミが鳴く・・、夕立前の陰りの中では「ツクツクホーシ ツクツクホーシ」が鳴いている。
時には、総出で・・とにかく賑やかな山里の8月もいよいよ終わる。蝉の声を聞けなくなる日もそう遠くはないだろう・・。

 大川の川岸には多くの人々が集まり、色彩豊かに群れて水遊び。夏休みが終われば人の姿を見ることは、グンと少なくなるけれど・・。
ただ、毎年のように水難事故が発生していることは悲しいこと。川はプールなどと違って、突然に深くなったり、突然流れが急になったりと、地形に慣れていないと危険なことも多いから・・。

 
 使徒21章では、パウロは2度にわたって、人を介して「エルサレムにはのぼらないように」という忠告を受ける。それが御霊からの忠告であると教えるけれど、パウロの答えはいつもきっぱりとしていて、なんの躊躇もみられない。
パウロには、自身の歩みの全体像が明確であった。それはすでに彼自身が、聖霊によって聞いていたことであったからである。

「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:22~24)


 イエスさまが、十字架をご自身で選び取られ、死に向かってエルサレムに上られたことを思い出す。イエスさまでさえ御使いの励ましを受けて進まれた。
パウロもまた、聖霊によって導かれ、自らその縄目に立ち向かうことができたのだろう。

 そこは誰であれ人の関わることの出来ないところ。ひとり神と向き合うところだから・・。だから、そのときイエスさまは恐ろしくひとりぽっちだったろう・・。
パウロも多く人に囲まれていても、おそろしく孤独だっただろう・・。人にはただ、彼の頑固さだけしか見えなかっただろうから・・。
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あなたは何を運んでいるのか

2011-08-25 09:37:49 | Weblog


 ウザは不敬の罪で打たれて死んだ。
神の箱が、揺れる牛の背から落ちそうになったとき、触れてはならない箱に触れたことで打たれて死んだ。

「あっ、落ちる。」彼は、いつも荷物を運んでいたときのようにとっさに手で押さた。彼にとってはそれだけのこと。
彼には自分の立場がよく分かっていなかった。自分に託されているものの聖さにまったく無頓着だった。そんな気がする。なぜなら、彼の行動には恐れがまったく感じられないから。

「彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。」(Ⅱサムエル6:3)

ウザは車を御していたとある、彼はその揺れる牛車を止める権利を持っていたということ。彼の仕事はこの行列を止めることであった。
もし、神のことばに対るす恐れ、今揺れる車で運んでいる箱に対する敬虔があったなら、彼はその恐れから動けなくなっていたはずである。
「汝ら、静まりて、我の神たるを知れ。」(詩編46:10)

 創造主である真の神を知ることを赦された私たちにとって、イエスさまの十字架の血で洗われたという自身の価値をわきまえていたい。
本当に、今日という赦しの中にある日をどのように歩むのか、真にみことばを恐れ、それを生きることを教えてくださいと祈る。


「あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」申命記31:13
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ちりあくた

2011-08-23 15:47:03 | Weblog


アテネの人々は偶像を集めて、その教えを楽しんでいた。彼らは自分たちの知性を誇りとしていたのだろう。どんな教えであっても、彼らの知的好奇心を満足させるものなら大歓迎だったのだろう。議論を繰り返して、互いに己の賢さに酔っていたのだろう・・。
彼らは寛大で、まだ知られぬ神さえも迎えていた。

しかし、死んでよみがえった者の教えは荒唐無稽であり、その愚かさゆえに彼らの知性は受け付けなかった。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

パウロはすべてを捨てて用いられた。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)


人の賢さによって主を伝えることはできない。みことばは人にとっては愚かな言葉なのだから。人の賢さと神の力を混ぜて用いることはできない。それは善悪知識の木の実を食して以来の汚れたものなのだから。
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アルバム

2011-08-22 09:52:35 | Weblog


 孫が、「父ちゃんの子供の頃の写真が見たい」と言うことで、古いアルバムを引っ張り出してきた。
私にとっても、めずらしいほど長い間開いていないなぁ・・。
孫は父ちゃんの小さい頃、じいちゃんばあちゃんの若い頃の写真をめずらしそうに見ていて、幼稚園や小学校の父ちゃん探しが始まった。

嫁さんにとってもそれはめずらしい写真で、「この人は、さくらの大じいちゃんと大ばあちゃんですね。」「えーっと、そうそう・・。曾孫やね。」「じゃ、この人は・・」「ひ曾孫?、いや・・」後で思い出した、やしゃごということ。

「え~っ、大ばあちゃんは日本髪を結っていたのですか・・、自分の毛ですよね。すご~い。」
母の丸髷姿のモノクロ写真に興味津々の嫁さん。
彼女は、小さい頃お父さんのお仕事でイギリスに住んでいたこともあって、着物姿は見ていなかったのだろうなぁ・・。
結婚式に留め袖を着なかったことが、今になって悔やまれる。本当にゴメンね。

「お母ちゃんも着物着ていたんですか・・あっ、着物を着ている人が此処にも居る・・。」
スナップ写真の背景にも着物姿を見つけて驚いている。
そう言われて、私も改めて着物姿が急速に消えたのがいつ頃だったかしらと・・思い返していた。

子供を産んで退院するときは、新しいピンクの着物を着て帰った。子供の入学、卒業式も着物だった。
里帰りをするときもほとんど着物姿だった。あの頃の着物はごく日常にあった。
夏でさえ、絽の単衣物に麻の長襦袢、博多の帯を締めて出かけた。あの、しゃっきりとした日々は懐かしいけれど・・後始末も大変だった。

 アルバムの中で家族が脈々とつながっていることに、主の深い憐れみを覚えた。朝にあってはすぐに消える草の露のような命にも、神様の憐れみの備えはちゃんとあるのだと・・。
早くに両親を亡くし、肉親の交わりに縁の薄かった私には、その感慨は深い。
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わたしを呼び求めれば、わたしは彼に答えよう

2011-08-20 10:15:18 | Weblog


ペテロが、ヘロデに捕らえられ殺されようとしていたときに、弟子たちは集まって祈っていた。
ペテロが無事に帰って来た事を女中から知らされても、信じなかった彼らだけれど、彼らの祈りは主に届いていたのだ。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。 Ⅱテモテ:13

例え不信仰の中での祈りでも・・、「主のご真実」ただ、そのことによって祈りは聞かれている。そのことにより祈りに応えて下さる。もともと、私たちの何かによるのではないのだから。

主は私たちの祈りを無視することがお出来にならない。
主は、「あなたの信仰・・」と、追い詰められた者の欠片のような信仰を拾い上げて下さるお方なのだから・・。

「祈っています。」と言われることが私は嬉しい。たとえトンチンカンな祈りであったとしても、それは主の元に届くなら、最善が答えであると知っているから・・。

自分の中にある不信仰に絶望しないで、主と語りあおう・・、イエスさまが開いて下さった部屋に入って聞いて頂こう。私の人生に、私の知人の人生に関与して頂こう・・この絶望のような国にも・・。

では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。 ローマ3:3~4
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ちょっと疲れてしまったけれど・・

2011-08-19 20:21:27 | Weblog


 何かと重苦しいことが続いていて、ストレスが激しかった。気分転換をすることが必要だと思いつつも、生来の不器用さから、抜け出せないでもがいていた・・。

今日は朝一番行きつけの美容院に電話を入れると、ちょっとした躊躇の後に「予約の方が遅れているので、いいですよ。どうぞ。」と割り込ませて下さった。
でも、洗髪の後どんどん混んでくるので申し訳なくなってきて、
「私は急がないので、後に回して下さっても良いですよ。」と申し出ると、では・・ということで少々待たされることになった。

結局三時間ほどかかって、三人の老女の賑やかなおしゃべりを聞くことになってしまった。初めは、そうでなくても疲れているのに、うるさいなぁ・・なんて、イライラしてしまったけれど・・だんだんその話題に聞き入ってしまった。

週刊誌を読みながら聞いている程度だったけれど、私の知らない世界の話しだったので、「ふーん、みんなそうなのか・・」ってそんな発見。
何しろ私はほどんど一人で閉じこもっているから・・。

 初めはお墓の話し。
「親戚の人たちがみんな町に出て行って、誰も墓の世話をしなくなった。だから草引きにしてもとても大変なのに、墓参りに帰って来た人たちはお礼も言わない・・。」
なるほど・・

「なんとか学会の人は、墓参りに行かない。あれは死んだ人が可哀想、あんなことをしていたらろくな事にならない。」「いえいえ、あの人は学会の集まりには来ていないよ。ちゃんとした組織に加わって居ないから駄目なんだよ。いい加減なことをしているのよ。」「あそこの家もろくなこと無いよ。」
組織に加わって居ないと駄目なのか・・何処かの話しと似ているなぁ・・。

 病気の話し
「○○さんは大変やで・・」「病院を出されて、両足が不自由なのに家に連れて帰る嫁さんも大変や」「あそこの家の前の石段はどうやったんやろう・・」「あの、病院は止めた方がええでひどい病院や。私も酷い目に合ったよ。もの凄う、えこひいきするから・・。」「そら酷いなぁ」「でも、今、町立の○○園にはいるには、何年も待たされるって言っていたよ。」「そら、今から予約しておかんと・・」

 カラオケの話し
「カラオケ大会が楽しみだね。」「沢山の人に歌ってもらうために二番までだって・・。」「二番までだったらせっかく調子が出てきた所で終わりだね。」「でも、沢山の人の歌が聴けるからね。」「そらまあね、下手な歌を長々聞かされるのは嫌でしょうよ。」「別そんなことは言ってないよ、ただ沢山の人の歌が聞けるって言っているだけよ。」

 グランドゴルフの話し
「この間のグランドゴルフご苦労さん」「私はぜんぜん、あかんかった、うちの在所は後ろから数えた方が早い。」「練習の時はホールワン(ホールインワンのこと?)出すのになあ・・」「どんな時もあるよ」「○○さんは上手やなぁ・・」「ああ、あの人は昔ソフトボールとかしてたから・・」「私もしていたけれど・・」

なんとまあ、元気やなぁ。趣味が多いなぁ・・これが今時の山間部の老女の日常なのか・・って、そうしたらおしゃべりには参加していなかったけれど、まあ、私には参加して話すことが何も無いんだけれど・・、唯一の共通点同年代の元気が少し移ったのか、自分の頭を仕上げてもらう頃には、心も頭のようにすっきりとしていた。気分転換になったのかなぁ・・。

 家に帰ると、息子と主人が昼食の準備をしていてくれた。美容院が混んでいて良かった!コンビニで買ってきたものばかりだけれど、ずっと食事の準備に追われていた身には新鮮で、息子の作ってくれたカップラーメンは美味しかった。主人の買ってくれた赤飯のおにぎりは美味しかった。
あ~ぁ、調子に乗って食べ過ぎてしまった・・。


写真はアオノリュウゼツラン60年?に一回の開花だそうです。
花が咲くと枯れるそうです。

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ペテロの眠り

2011-08-15 10:46:33 | Weblog

すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
御使が「帯をしめ、くつをはきなさい」と言ったので、彼はそのとおりにした。それから「上着を着て、ついてきなさい」と言われたので、
ペテロはついて出て行った。彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた。(使徒12:7~9)


 この直前に、ヘロデ王は見せしめとしてヤコブを殺している。この時ペテロは自分の死が近いことを知っていたはずである。それでも、牢を照らす御使いの光にも気づかないほどに、熟睡していたなんて・・。眠りの浅い私にはびっくりするような記事である。

ペテロの眠りは、完全に主にいのちを委ねた者の眠りだったのだと思う・・。彼はすでに自身のいのちを捧げていたのだろう・・。
だから、御使いは熟睡している彼のわき腹を叩いて起こされた。なぜわき腹なのだろう・・私は十字架のイエスさまが、わき腹を槍で刺された箇所を思い出した。

「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネ19:34)

 ペテロは立ち上がるように言われ、真理の帯を締め、福音の靴を履き、神が着せて下さったあがないの上着をつけて、御使いの導きに従って牢から出て行った。
ペテロは命じられたら即座に、しかし恐れて逃げるように出るのではなく、命じられたことをみな行ってから出て行った。

御使いが離れていったときペテロは我に返ったとある、そう、ここからはペテロ自身が自分で歩くのだ。
共に主を喜ぶために、弟子たちが集まって祈っていた家の戸を叩いたとき、ペテロの声に驚いた女中は戸を開けもしないで、ペテロが帰って来たことを知らせた。けれども、弟子たちは「あなたは気が狂っている」なんて言う。

弟子たちが信じていたのはペテロの死であろう。どんな祈りをしていたとしても・・。
私たちの古い頭の中では、いつも現実が幅を利かせていて、祈りとの間に大きな乖離がある。
古い脳みそは信仰を罵る。「気が狂っているとしか思えない」と、「あまりにも愚かだ。」と・・。私たちはこのような古き賢さと、新しくされたいのちの確執を常に内に抱えている。

ペテロは戸を叩き続けた。
イエスさまも私たちの戸を叩き続けて下さる。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」「求めなさい。そうすれば与えられます。」と・・。
そうして、「共に食事をしようではないか、主の豊かさをともに味わい喜ぼう」と・・。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)
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帰省

2011-08-13 10:30:45 | Weblog


 息子の家族が、お盆の休みを一週間先取りして帰って来てくれた。毎年のことだけれど、彼らは帰省ラッシュと重ならないように、時期をずらして休暇を取って帰る。そうでないと、小さな子供を連れての長旅は辛いだろう・・。

二人の孫は、一年毎にまるで違う子供かと思うほどに変わっている。成長とは変化なんだと思った。
昨年のさくらは、農家の嫁候補といわれるほどに、畑や山河をじいちゃんと飛び回っていた。今年も・・と手ぐすね引いて待ち構えていたじいちゃんは、見事に肩すかしを食わされた。

 着くなり叔父ちゃんの立体パズルを見つけて、解体したり組み立てたり、夢中になって自分の世界に籠もってしまった。
あかりは、すっかりおしゃまになってその仕草すべてが、嫁さん曰く「色っぽい」・・
小さな手で頬杖をつくしぐさも、足をくねらせるしぐさも、おんな特有の鋭い言葉にも、我が家では嘗て見たこともない魅力的な女性。
私は「そうなんだ・・女は生まれたときから女なのか・・」なんて、この年になって初めて知った。

年に一度、家族が集まってわいわいと暮らすことはとても新鮮であり、若い嫁さんと何気ないおしゃべりをすることは嬉しい。ほとんど関西の乗りで冗談ばかり言っているけれど、互いに払われている犠牲は知っている。
彼らが帰ったあと、部屋には沢山のお小遣いとさくらの手紙が隠すように残されていた。

 嫁さんはひとつ一つに「おかあちゃん、ありがとう」と言ってくれる。彼らはいっぱい手伝ってくれる、帰る日もぎりぎりまで布団をどうするかと聞いてくれた。
けれど、私は帰り際に、「帰ってくれてありがとう」と言ったくらいかなぁ・・。でも、心の中ではいっぱい感謝している。

孫たちは来年はどんな変化をしているのだろう・・。また、息子達にも人生の厚みを感じさせる変化を見ることができて、私にはすべてがイエスさまへの感謝となる。
成長するものには期待がある。成長するものは、その意外性がとても面白い。これも距離をおいているから、鮮やかに見える部分なのかもしれないけれど・・。

 昨年車を買い換えて、「この車に乗るようになって、エコな走りをするようになって良かった。」と、帰り際に嫁さんが言っていた。そう、息子は結構飛ばしていつも嫁さんは心配をしていたから・・。
燃費もずいぶん違うというが、安全運転をするようになったことがなによりも良かった。エコにはこんな効果もあるのだ・・。

出発前に恒例の集合写真を、わいわいと大騒ぎしながら撮って、さくらは車の奥の座席でいつまでも手を振って、あかりはおしゃまにふざけて「バイバ~イ」と言い、嫁さんの細い手が何時までも揺れつつ車は出発して行った。


わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:1~2)
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